夏の始まりに
8月に入り3日が経った。
春彦は紅茶を入れて一口飲むと目の前で面目なさそうに項垂れている松野宮伽羅を見た。
「…別に気にしなくて良いって言っているだろ」
赤点が一つで済んで良かったじゃないか
「友嵩さんのお陰だな」
言われて、ハハッと伽羅は力なく笑い
「…兄に『ま、2つじゃなくて良かったな。俺は3つくらいとってくるかとひやひやしてた』って言われた」
と呟き
「けど、直彦さんにどう思われているかと思うと…俺の成績のせいで津洗の旅行に春彦だけ四日も遅れさせるなんて」
出禁になりそう
とテーブルの上に額をつけて涙を流した。
春彦はパンを食べながら
「直兄が伽羅と一緒に来いって言ったんだから別に気にしてないと思うけど」
と言い
「補習が終わって帰ってきたら津洗だからな」
一緒に楽しもうぜ
と笑顔で告げた。
伽羅は腕で涙を拭い
「ありがとう…ごめんなぁ」
と言い、鞄を持つと
「じゃあ、行ってくる」
と夏月家の戸を開けて学校へと向かった。
松野宮家の面々はそれぞれをそれぞれの予定で夏を過ごしている。
三男の美広はバスケの強化合宿で家には帰っていない。
父親は会社の付き合いでゴルフなどへと接待の毎日らしい。
母親は家でいつもと同じ生活を送り、長兄の友嵩は大学の夏季講義に参加する為に家から毎日大学へと通っている。
ただ最近は友嵩が連泊の際には挨拶に来るようになった。
今回も彼が直彦に
「弟の伽羅から聞きました。ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いします」
と挨拶をして伽羅を連れてきたのだ。
少しずつ松野宮家も変わりつつあった。
直彦もまた
「俺は予定があるので先に津洗に行きますが、春彦には補習が終わってから二人で津洗に来るように言っているので安心してください」
と宿泊先のホテルのパンフレットを渡しながら答えていた。
そんな訳で直彦と津村隆は昨日のうちに津洗へ向かい、春彦は伽羅を学校へ送り出した後の時間を一人のんびりと過ごしていた。
セミが騒がしく時雨れる夏の午前。
そこに…思わぬ来客が姿を見せたのである。
リバースプロキシ
彼女の名前は嶋野宮子と言い、春彦が全く知らない女性ではなかった。
ショートボブにスレンダーな肢体をした闊達そうな女性で彼女はマンションの下のインターフォンを押すと応答に出た春彦にこう唇を開いた。
「春彦君ね、お久しぶりです」
春彦はモニターに映った女性の顔を見て目を見開くと
「…こ、んにちは…あの、もしかして…嶋野、先生?」
と途切れ途切れに応えた。
嶋野先生というのは直彦と春彦が幼少の頃に数年間を過ごした等々力にある愛彩養護施設の園長の娘の呼び名であった。
直彦が18歳の時に春彦が事故に合い、その退院と共に園を出たのである。
ちょうど直彦も高校卒業だったので『区切りとしてそうした』と直彦は春彦に説明をしていた。
春彦は慌てて下の自動ドアを解除すると彼女を出迎えた。
宮子は袋を持って最上階の春彦たちが住んでいる部屋に訪れると
「母が亡くなって遺品を整理していたらこの封筒が出てきたの」
中を見たら春彦君宛ての手紙も入っていたし
「ちょうど良かったわ」
と告げた。
春彦は袋を受け取りながら紅茶を彼女に出すと
「すみません、ありがとうございます」
それから
「園長先生亡くなったんですね」
その…ご愁傷様です
と頭を下げた。
彼女は静かに笑むと
「春彦君も大きくになったわね」
と言い
「高校2年生だったかしら」
と聞いた。
春彦は頷き
「はい」
と答えた。
そして
「直兄は…いま津洗に行っていて」
と告げた。
彼女は紅茶を一口飲んで
「そうなの」
直彦君にはお礼も言わなければと思っていたんだけど
と呟いた。
「園を出てからもずっと寄付してくれていたから」
母が病気になって園を締めるまで毎年ね
春彦は驚きながら
「直兄が…そうだったんだ」
と呟いた。
全く知らなかったことである。
というか、よくよく考えれば直彦の事は知っているというほど知っている訳ではないことに気が付いた。
先日の赤阪瑠貴の言葉通りなのだろう。
『家で話してくれること以外は私余り分からないし』
特に自分たちの場合は両親がいない分だけ兄の直彦が心に秘めた部分に関しては全く春彦には分からなかったのだ。
彼女は春彦の様子に少し考えた様子を見せると
「春彦君と直彦君は…上手くいっている?」
大丈夫?
と問いかけた。
春彦は慌てて頷くと
「はい、大丈夫です」
と笑顔で答えた。
彼女は微笑むと
「だったら良かったわ」
色々あっても直彦君は貴方を弟として可愛がっていたものね
と言い、立ち上がると
「じゃあ、身体に気を付けて直彦君と仲良くね」
と告げた。
春彦は頷いて
「は、はい」
と答えた。
思わぬ来客であった彼女は夏月家を後に立ち去った。
じりじりと気温が上がり始めた正午手前の事であった。
春彦は彼女を見送り家に戻ると渡された封筒を手にした。
自分宛ての手紙があったと言っていたのだ。
「園長先生から俺宛て?」
何だろ?
春彦は封筒の中身を出して目を見開いた。
園長である嶋野悦子が書いただろう宛名のない封筒と春彦宛ての封筒と春彦名義の通帳が入っていたのである。
「?俺の通帳?」
全く意味が解らなかった。
春彦は自分の名前の書かれた封筒から手紙を取り出しかけた時、インターフォンが響いた。
補習を終えた伽羅が返ってきたのである。
「終わったー!」
泣きながら手を挙げての帰還であった。
春彦は伽羅を出迎えるとテーブルの上に置いていた手紙と通帳を見せ
「前にいた愛彩養護施設の先生が持ってきてくれたんだ」
と告げた。
「少し緊張してた」
それが正直な気持ちである。
伽羅は春彦のあまり見ない表情に
「そうなんだ」
俺、明日の準備するからその後で見る?
と聞いた。
春彦は頷くと
「あ、俺もだ」
後で付き合ってくれるか?
と返した。
伽羅は頷いて
「いいよ」
と応え、二人で明日の出発の準備を整えた。
津洗と言えば高級リゾート地である。
真夏の海でのバカンス。
春彦も伽羅もやはり楽しみで仕方なかったのである。
二人は準備を整え昼食を食べ終えると置いていた問題の封筒に手を伸ばした。
春彦は園長からの宛名のない封筒は横に置いて
「これは俺か直兄宛かわからないから…確実に俺宛ての手紙と通帳だけ見るな」
と隣に座って緊張しながら頷く伽羅に告げた。
伽羅は深刻な表情で
「そうだよな」
確実に春彦宛てのモノだけ見た方がいいよな
と答えた。
春彦は息を吸い込み
「じゃ、開封!」
と封筒から手紙を取り出しテーブルの上に広げた。
そこには、園長からの手紙ではなく直彦から春彦に宛てた手紙が入っていたのである。
『春彦へ』
そう最初の行に書かれていた。
『この手紙を読む頃には全て園長先生から聞いていると思うが俺はお前の側にいない。
俺には小学生の頃からずっと愛し続けてきた人がいる。
彼女と彼女との間に出来た子供と生きていくために一年だけお前の兄ではなく夏月直彦という人間として生きていくことに決めた。
一年経ったら必ず迎えに行くから待っていてほしい。本当にごめんな。一年だけで良い夏月直彦として生きることを許してくれ。
必ず必ず迎えに行くから待っていてくれ。
園長先生に通帳を渡しているのでお前が必要になったものは言って買ってもらってくれ。
不自由をさせるけど一年経ったら一緒に4人で暮らそう。それまで我慢してくれ。』
最後の行に9年前の7月24日の日付けと
『直彦より』
と書かれていた。
春彦も伽羅も手紙を見つめ身動き一つできなかった。
息を吸う事すら忘れていたかもしれない。
外のせみ時雨は相変わらずうるさく響いているがそんな音すら気にならないほどの衝撃を春彦は受けていたのである。
『家で話してくれること以外は私余り分からないし』
正にその通りだ。
時計の針がゆっくりと右に回り一時間ほど経ったときに突然携帯が震えた。
直彦からの電話である。
春彦は暫く見つめていたが伽羅が心配そうに
「春彦、直彦さんから」
と呼びかけると小さく頷いて携帯を手にした。
「もし、もし…直兄?」
…。
…。
直彦はいつもと違う様子の弟の声に
「?どうかしたのか?春彦」
と呼びかけた。
春彦は暫く沈黙を守り
「わからない」
と返した。
いや、それどころか涙が溢れてきて止まらなかったのだ。
「俺、どうしたらいいのか分からない」
直彦は暫く考えると
「わかった、待ってろ。家で」
というと携帯を切り隣で座っていた隆を見た。
「家に春彦を迎えに行く」
「は!?」
隆は驚いて直彦を凝視すると
「…どうした?何があった?」
と慌てて立ち上がった。
直彦も腕を組み
「俺もわからん」
と言い
「だが、何かあったんだろうな」
と応え
「車出してくれるだろ?」
と隆を見た。
隆は大きく息を吐きだすと
「わかった」
と応え
「2Kmで原稿一枚追加な」
と付けくわえた。
直彦は顔をしかめると
「どんな料金設定だ」
と返した。
伽羅は通話の切れた携帯の終了ボタンを押し、黙って春彦の肩を抱き締めた。
春彦の涙を見たのは初めてである。
相当ショックだったのだ。
いや、それは当たり前と言えば当たり前だろう。
春彦にとって直彦は兄であるだけでなく親でもあったのだ。
春彦は暫くしてから思い出したように
「俺、事故にあって死にかけたの…ちょうどこの手紙の翌日だった」
何時も直兄が小学校まで迎えに来てくれてたんだけどその日は来なかったから
「一人で帰ってたんだ…途中で嶋野先生が来てくれて思わず飛び出してはねられたんだ」
と呟いた。
「もしかして…直兄がその好きな人とどこか行こうとして行けなかったの…俺のせいかも」
伽羅は春彦の頭を撫でながら
「ごめん、俺は分からない」
でも直彦さんが春彦のこと本当に大切に思ってるのだけは俺でも分る
と告げた。
「上手く言えなくてごめん」
春彦は首を振って
「いや、俺の方がごめん」
と返した。
太陽は南天を越えてゆっくりと傾きその分だけ部屋に浮かぶ影も伸びた。
せみ時雨が収まりかけたときガチャガチャと鍵が回る音が響き、扉が開いた。
「春彦!」
伽羅は顔を上げてリビングに入ってきた直彦と隆を見た。
春彦も直彦を見て
「ごめん、俺…直兄…どうしよう」
とそのままテーブルに突っ伏して号泣し始めた。
隆は伽羅をぎこちなく見ると
「伽羅君、何かしたのか?」
と低い声で問いかけた。
濡れ衣である。
殺気すら感じる視線だ。
伽羅は慌てて
「いや、俺じゃないです」
マジで
と答えた。
身の危険を感じる伽羅であった。
が、直彦は見覚えのある通帳に目を向けテーブルの上の手紙を手にした。
9年前に自分が書いた手紙である。
「これか」
言い、それを隆に渡した。
隆はそれを受け取ると目を見開き
「これ、あの時の手紙か」
と呟いた。
直彦は小さく頷いた。
隆は大きく息を吐きだすと椅子に座り
「どうして今頃」
と手紙を見た。
春彦は顔を上げると
「嶋野先生が…園長先生…の…遺品の中で見つけて…届けてくれたんだ」
と告げた。
「もう一つ手紙があって」
直彦は開けられていない封筒を手に中を見た。
それは園長自身から直彦に宛てた手紙と二枚の写真が入っていた。
主には9年前の事でずっと悔やんできたことが書かれていた。
直彦が駆け落ちをしようとしていた時に春彦の事故で呼び戻したことだ。
直彦は手紙写真を戻した封筒を隆に渡し、椅子に座ると春彦を見た。
9年前の真実を言うしかないと判断したのである。
「9年前、俺は隆の妹の清美と駆け落ちしようとした」
直彦はそう切り出した。
「清美のお腹には俺の子供がいたし白露との縁談が強引に進められていたから一緒にどこかで清美と子供とお前と4人で暮らそうと思っていた」
ただ
「その頃はまだ小説家としても駆け出しだったし三人でも生活していけるか分からなかった。そんな状態でお前を連れて行くわけにはいなかった」
でも
「清美もお前と一緒に暮らすことを望んでくれていたし一年経って生活が落ち着いたら迎えに行こうと決めていた」
ただどんなことを言おうと一年でもお前を見捨てようとしたことは本当だ
「ごめんな、春彦」
春彦は首を振ると
「違う…そんなの仕方ない」
そんな事より俺、ずっとずっと俺が思う以上に直兄に負担かけていたんだ
「ごめん…本当にごめん」
俺が事故にあわなかったらその人と一緒になっていたのに
「俺、俺…どうしたらいいのか」
と顔を伏せた。
自分が知らないところでどれほど兄に負担を背負わせていたか。
直彦は息を吐きだすと
「清美は…来れなかったんだ」
俺達の乗る列車はお前のことがあっても無くても…永遠に俺たちを乗せることはなかった
と言い、春彦の頭を撫でた。
「津洗でお前に合わせたかったのは俺の娘だ」
春彦は目を見開いて直彦を見た。
直彦は笑むと
「隆の父親…つまり清美の父親が育てている」
と告げた。
「全てが落ち着いたら全て話す」
9年前に何があったのかも
「その後に何があったのかも」
…それまで待っていてくれ…
「ただ一つ言えることは」
俺にお前という弟がいたことが救いだった
「ありがとうな、春彦」
伽羅が隣で豪泣きを始めると直彦も隆も春彦ですらも
「「「は!?何故、ここで伽羅が豪泣き?」」」
と同時に考えた。
春彦は涙を拭い
「俺も、直兄が俺の兄さんとして存在してくれたことが凄い幸せだと思ってる」
と笑みを見せた。
「一つだけ約束させてくれ」
俺に絶対に絶対に直兄の人生を取り戻す手伝いをする
「頑張るからな」
…ありがとう、直兄…
直彦は笑むと
「じゃあ、これから一緒に津洗へ行って…俺の娘と会ってほしい」
と返した。
春彦は笑顔で大きく頷いた。
伽羅は春彦に抱きつき
「良かったな、春彦」
と泣きながら抱きついた。
春彦は涙を滲ませながら微笑み
「ごめんな、伽羅」
心配かけて
と抱きしめ返した。
隆は立ち上がると
「さて、着くのが夜中になる前に出発だな」
春彦君に伽羅君、荷物を忘れるなよ
と告げた。
4人は家を出ると津洗へと向かった。
そこで春彦は直彦の親友たちと出会うことになるのである。
伽羅は津洗へ向かって走る車の中で春彦と共にウツラウツラと眠りに入り夢を見た。
それは、春彦が深い深い海の底へと落ちていく夢であった。
そして、春彦が見つめる視線の先に犯人の姿が写っていた。
波の輪に揺れ歪む直彦の姿が。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があります。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。