夏休みの手前で
7月も後半になると夏休みが近付き突入準備に心がソワソワし始める。
いや、ワクワクソワソワだろうか。
だが、しかし。
その前には最大の試練が待っている。
所謂、学期末テストというものである。
そのテストは一般学生でも。
例え芸能界で頑張る学生でも。
時期はずれても同じように行われ実行される。
春彦の学校は7月の終わりの週に行われるのだが。
「いわば、登竜門だな」
と冷静に夏月直彦は告げた。
春彦は朝食のパンを食べながら
「登竜門…か」
まあ赤点取れば補習だからある意味そうかもなぁ
とぼやいた。
直彦は朝食を終えて本に目を通しながら
「というほどでもないが」
と春彦がガクッとくるような言葉を付け加えつつ
「伽羅君のお兄さんが心配して連れ帰って勉強させるのは仕方がないし、ある意味良い傾向だと俺は思っている」
と弟に目を向けてふっと笑みを浮かべた。
「彼の家は家族の距離感がおかしかったからな」
春彦は目を瞬かせて
「?どういう意味?」
と聞いた。
直彦は本を閉じて
「俺はお前と伽羅君が逆の立場なら伽羅君の家に電話かもしくは挨拶に行く」
どんな家か見ておきたいからな
と告げた。
「伽羅君が夜中に駆け込んできても」
彼とお前が何日もホテルで泊まっても
「彼の家族からアクションを受けたことは一度もない」
春彦は「なるほど」と小さくつぶやいた。
「確かに俺、初めて伽羅の家族見た気がするな」
中学で会ってから
「5年経つけど…考えたらそうだよな」
直彦は今更ながら考える春彦を横目に小さな笑みを浮かべた。
そして、窓の向こうに広がる青い空を見つめた。
リバースプロキシ
「はぁ!?」
冗談はやめてよ!
「何で夏月先生のところに怒鳴り込みにいくのよ!!」
お門違いも良い所だわ!!
そう叫んだのはTGU10のメンバーの一人北条ルキこと赤阪瑠貴であった。
彼女の三歳年上の兄である貴美ははぁ~と長い溜息を零して頭を振り
「妹の心配をするのは兄の役目だろう」
あんな顔が良いだけの女たらしの作家野郎にお前は騙されているんだ!
「目を覚ませ!」
とビシッと指を差した。
瑠貴はワナワナ震えると
「お兄ちゃんなんか大っ嫌い!!」
夏月先生はお兄ちゃんみたいにノンデリじゃないわよ!!
「家出する!!」
と鞄を手にすると兄の貴美をドーンと押し倒して家を飛び出した。
ちょうど買い物から帰ってきた母親の瑠美子は家を飛び出して走っていく娘の姿に呆然と立ち尽くし、続いて扉を開けて崩れ落ちる長男に目を向けた。
「貴美、貴方…何をしたの?」
貴美は母親に顔を向けると
「瑠貴がまた夏月という作家野郎の家に行くと言ったから怒ってた」
絶対に騙されてる
と告げた。
母親はハァと溜息を零すと
「少しは妹離れしたら?」
夏月先生はちゃんとした方よ
「ここのところ時々お邪魔してるって聞いたからお電話したら『ご心配をおかけして申し訳ありません。弟たちと遊んでいるので心配はいらないと思います』ってきっちりお話してくださったんですもの」
まだ若そうなのにちゃんとした方ね
と告げた。
「それにあの子が会いに行っているのはお友達の勇ちゃんと夏月先生の弟さんの春彦さんとそのお友達の伽羅さんよ」
集まる家が夏月先生のお宅なだけどよ
「いつもお邪魔して、今度お土産持って行かさないと」
貴美は両手で顔を塞ぎ
「まじかー!」
というと立ち上がって
「瑠貴を探しに行ってくる」
と靴を履いて出ていきかけた。
が、母親はクスクス笑いながら
「どうせ、あの子の行くところなんて勇ちゃん家かシュリちゃん家よ」
貴方は貴方の友達と遊んで来たら?
と告げた。
貴美はむーんと考え母親の荷物を持つと
「美和子に声をかけてみるかなぁ」
直ぐTOTで買い物とか面倒くさいんだけどなぁ
と台所まで運んで、自室へと戻った。
母親は苦笑を零しつつ
「泉谷さんも本当に良くあの子に愛想をつかさないわね」
とぼやき、冷蔵庫に食料品を入れ始めた。
太陽は東から昇りゆっくりと南天へ向かっていた。
今朝、長兄の友嵩に夏月家から連れ戻され勉強を叩き込まれていた伽羅はウトウトと机に額をつけて仮眠状態に入っていた。
午前10時…所謂、おやつタイムの休憩時間である。
友嵩は隣で高2の参考書を開きながら
「こんな問題も分からないなんて…弟の美広はバスケしながらでも勉強もきっちりしているのに伽羅は大丈夫か?」
とぼやいた。
松野宮家は三兄弟で…次男の伽羅は勉強がダメだということが今わかったのである。
父親の友広は昭田電機の営業部長で毎日毎日仕事仕事で家を顧みない人物で、母親の美加子は極々普通の専業主婦だが…伽羅の幼い頃からの変な夢にどう対処して良いのかわからずどちらかというと見て見ぬふりをしている部分があった。
末弟の美広もまたゴーイングマイウェイなところがあり、その家族感覚がこれまでずっと続いていたのである。
自分自身も弟に対して距離を置いていたが友人の赤阪貴美の言葉を聞いてこのままではダメだと思い直したのである。
『大切な妹を守るのは当り前だろ?妹が夏月とかいう女ったらしの毒牙にかかったらと思うと胸が…張り裂けそうだ』
夏月という名前は弟の口から何度か出てきた。
もしも。
もしも。
弟がそんな大人に騙されていて何か問題を起こしたらと始めて友人だという夏月春彦の家へと弟を連れ戻しに行ったのだ。
友嵩はその時のことを思い出し
「…やっぱり赤阪がシスコンなだけだったな」
とぼやいた。
「あれは泉谷も苦労する」
ハハッと笑った瞬間にがばぁと伽羅が起き上がると立ち上がった。
「俺、春彦のところ行ってくる」
…。
…。
友嵩は唐突な動きに腰を抜かしつつ「はぁ!?」と声を上げると
「落ち着け、何があった」
と聞いた。
伽羅はぜーはーぜーはーと息を吐きだしながら
「TOTで人が刺されて倒れてる夢見た」
足元に血が広がってて…
と告げた。
「あそこの絡繰り時計が6時を指して踊ってたから多分夕方の6時だと思う」
今日の6時かもしれないし
「明日かも知れないし…わからないけど…人が死ぬ」
友嵩は慌てて
「いや、待て…そんな話を誰が信じる」
いい加減にしないか
「恥ずかしいだけだろ、放っておけ」
と引き留めた。
伽羅は携帯と鞄を持つと
「…直彦さんがさぁ、前に『俺は信じるが他の誰も信じないだろう。その人たちは犠牲になるか』って言ったことがあったんだけど」
それって昔そうだった
「春彦と出会うまで強盗で襲われた近所の人や放火で家を焼け出された人がいた」
夢で見てたのに何もしなくて
「春彦と出会ってから夢が夢のまま終わってくれる」
一緒に解決しようと動いてくれる
「俺は夢が現実になるよりさぁ夢のままでやっぱり夢じゃんってバカにされる方が良いんだ」
帰ったらまた勉強するから
「行ってくる」
と部屋を飛び出した。
友嵩は大きく息を吸い込んで大きく吐きだした。
「…兄ってさぁ損な役割だよなぁ」
弟の心配しているのにさぁ
「何だよ、負けた気がするのって」
伽羅の方が正しい気がするじゃないか
友嵩は天井を仰ぐともう一度息を吐きだして携帯を手にした。
「この前話聞いてやったから、今度は赤阪に愚痴聞いてもらおう」
と、ボタンを押した。
そこで彼自身驚くことになるのである。
伽羅は家を飛び出すと太陽が南天に差し掛かる中を春彦の家へと向かって駆けた。
住宅街には人々のざわめきと活気がそここに広がっている。
その中を伽羅は懸命に走り抜けた。
その住宅街を抜けて駅を超えると直ぐに大きなマンションが姿を見せる。
マンションの最上階に夏月家があった。
伽羅は呼び出しのインターフォンを押し、驚いた声で
「伽羅!どうしたんだ!?」
お兄さんは?
と立て続けに聞く春彦に唇を開いた。
「夢見た!人が刺される夢見た!」
声に慌てて扉が開き
「落ち着いて上がってこい」
と声が返った。
伽羅は中に入るとエレベータに飛び乗り春彦の家へと駆けこんだのである。
時計の針は10時30分を示していた。
春彦の家の中には他の来客がちょこんと椅子に座っていた。
神守勇と赤阪瑠貴である。
春彦は伽羅を出迎えると
「取り合えず、紅茶入れるから落ち着いて話してくれ」
と告げた。
伽羅は頷いて椅子に座りキョロキョロと周囲を見回した。
「直彦さんは?」
気配が薄い
春彦は紅茶を伽羅の前に置いて
「朝食終えて隆さんが迎えに来て出かけた」
と告げた。
「人に会いに行くとか」
伽羅は「そうか」と言いクィと紅茶を一口飲むと
「夕方の6時にTOTのからくり時計の近くで人が刺される」
と告げた。
瑠貴も勇も同時に驚いて伽羅を見つめた。
春彦は携帯を取りに部屋へ戻ると
「それで、刺された人と刺した人の顔は見たのか?」
と聞いた。
伽羅は頷き
「見た」
と頷いた。
春彦は携帯を渡すと
「じゃあ、それを描け」
TOTの絡繰り時計の場所は分かっているから
「その人たちの顔をまず描け」
と告げた。
そして窓の外を見ると
「夕方の6時が何時の6時かだな」
と険しい表情を浮かべた。
一か月後か。
一週間後か。
もしくは、今日か。
急がなければならない。
勇も瑠貴も懸命に描いている伽羅を覗き込んだ。
勇は目をパチパチ瞬かせながら
「やっぱり、チャラ男君、絵が上手だね」
と告げた。
瑠貴も頷き
「ほんと、上手」
と言い、不意に目を見開くと口元を手で塞いだ。
それに春彦が不思議そうに見た。
「瑠貴ちゃん、どうかした?」
瑠貴は戸惑いつつ
「お兄ちゃんに似てる」
その人
と告げた。
「まさか、もう一人って夏月先生なんじゃ」
春彦も勇も伽羅ですら驚いて
「「「えぇ!?」」」
と叫んだ。
瑠貴は伽羅が驚いたことに驚き
「違うの?」
と聞いた。
伽羅は思わず噴き出した汗をぬぐい
「この人が刺される人で」
刺す人が違う
と告げた。
瑠貴は「え?!お兄ちゃんが刺されるの!?」と叫んだ。
春彦は息をついて自分を落ち着かせると
「瑠貴ちゃんのお兄さんなら連絡とってもらえる?」
直ぐに
と告げた。
瑠貴は頷き
「わかった」
と携帯を手にボタンを押した。
とぅるるる。
Turururur。
…。
瑠貴は携帯を握りしめると
「お兄ちゃん、携帯無視してる!」
とプリプリ怒った。
勇は慌てて瑠貴の肩を撫でると
「そうじゃないよ~」
瑠貴ちゃんのお兄さんきっと今出れない状態なだけだよ
と宥めた。
春彦は瑠貴に
「じゃあ、家の人に連絡して取り合えず行方聞くってできないかな?」
と告げた。
瑠貴はハッとすると
「お母さんあの時帰って来てたからわかるかも」
と言い、自宅へとかけた。
母親の留美子は穏やかに
「あらあら、貴美と仲直りね」
とノンビリ言い
「あの子、あの後に泉谷さんとデートに行ったわ」
TOTじゃないかしら
「面倒くさいなんてぼやいてたけど」
と告げた。
瑠貴は蒼褪めると
「美和子さんとTOTにデート行ったって」
と春彦たちに目を向けた。
伽羅は携帯を同時に差し出すと
「これ!刺す人!」
と見せた。
春彦は受け取り瑠貴に見せた。
「瑠貴ちゃんは、この人に見覚えない?」
お兄さんの知り合いかも知れないし
瑠貴は伽羅の描いた絵を暫くジッと見て首を振った。
「私は見たことない」
うん
「似た人にも覚えない」
そう答えた。
春彦は顔を顰め
「デートでTOTにいるってことは今日の6時にいる可能性は高い」
と言い、立ち上がると
「とにかく行って瑠貴ちゃんのお兄さんを掴まえるしかない」
と告げた。
伽羅は頷いて
「わかった」
と立ち上がった。
そして春彦に
「ごめん」
試験前に
と告げた。
春彦は少し驚いて小さく笑みを浮かべると
「気にしなくていいけど…」
今回も特別な
と告げた。
4人は家を出るとTOTへと向かった。
TOTは東京都心にある東都電鉄のファッションブランドが多く入ったビルで流行発信基地ともなっている。
場所的には銀座に近く扇形をした20階建ての建物であった。
春彦たちは東都電鉄の高砂から大手町行きの列車に乗り、そのまま終点の大手町で降りた。
大手町はJRの東京駅と隣接しており東都ハイタワーホテルを筆頭に多くのビルが立ち並んでいる正に都会であった。
TOTはそのビル群と東京駅を抜けて銀座一丁目近くまで歩くと見えてくる。
特にビルの前の巨大な十字路では多くの人々が何時もせわしく行き交っていたのである。
春彦はビルの前に立つとそれを見上げ
「早く掴まえられるといいんだけど」
と呟いた。
伽羅も頷き
「人が多いから難しいけどやるしかないよな」
と告げた。
ビルの中は吹き抜けではなく一階ごとに仕切られていた。
ただ、一階の天井は高く作られ中央にある広いフリースペースの端に問題の絡繰り時計があるのだ。
そこを待ち合わせ場所にする人も多い。
春彦たちがちょうどTOTに入った時に絡繰り時計の人形が飛び出し踊り出した。
正午…である。
春彦は携帯を見ると
「もし今日だったら6時間しかない」
と言い
「同時進行で行くか」
と呟くと瑠貴を見て
「瑠貴ちゃんが思い当たることだけでいいんだけど」
お兄さんが何かトラブルとか何かあったって聞いたことない?
と聞いた。
瑠貴は顔をしかめると
「おにいちゃん、あれで結構優しいし」
余り聞いたことはないけど
「でも家で話してくれること以外は私余り分からないし」
と答えた。
「でも、そんなに大きなことはなかったと思うよ」
あったらお父さんかお母さんには言ってるし
春彦は腕を組み
「そうか」
と呟き
「お兄さんの名前貴美でいいんだよな」
と念を押した。
瑠貴は頷いて
「うん」
たかよし、だよ
と答えた。
春彦は不意に
「そう言えば今デート中なんだよな」
と言い
「ついでにデート相手の人の名前も聞いていい?」
と聞いた。
瑠貴は頷いて
「泉谷美和子さんだよ」
と告げた。
春彦は頷くと
「了解」
と言って少し離れて兄の直彦へと携帯を入れた。
情報収集に長けた津村隆に頼むためである。
直彦は携帯のバイブレーションに席を立ちあがると
「悪いな、ちょっと誰か見てくる」
と前の席に座ってた人物に言いその場を離れた。
隣に座っていた隆は直彦の背中を見送り正面を向くと
「最後にあったのが清美ちゃんを迎えに行ったときだから…7年か」
允華君には何も言ってなかったんだな
と告げた。
「白露」
言われ白露元は静かに笑むと
「まさか、允華が朧を訪ねようと思っていたとは考えもしなかった」
と呟いた。
「俺はお前たちに会う資格がないと今も思っている」
朧があんなことになったのは俺のせいだ
隆は視線を伏せると
「お前のせいじゃない」
清美ちゃんはそう思っていた
「ずっとずっと最後の瞬間までそう思っていた」
まして、お前との結婚は俺のオヤジとお前の両親が押し切ったものだ
と言い
「清美ちゃんは俺の妹だ」
だから
「お前も直彦も…俺の義弟になるな」
と淡く笑った。
「だけど、俺はあの日から直彦と太陽だけを守ることに決めた」
お前の苦しみも分かりながら放置していた
「融通の利かない義兄でお前には悪いと思っている」
元は首を振ると
「今日、お前と夏月が来てくれたことで俺がどれほど救われたか」
まして
「月と允華のことをお前たちに頼めただけでも俺は」
来てくれなかったら俺は月を犠牲にしていたかもしれない
と笑みを浮かべた。
「元々、8月に入って月を退院させたら家には戻さずにそのまま津洗の別荘で夏を過ごさせようと思っていた」
允華も別荘で夏を過ごさせる
「俺ももちろん行くつもりだ」
今日の話し合いで多少遅れるかもしれないが必ず行く
隆は頷くと
「わかった、直彦は津洗で原稿をさせるけどな」
と苦笑を零しつつ
「春彦君も一緒だ」
允華君と話が合うかもな
「ああ、それから東雲の弟君とも話が合うかもしれないな」
と笑った。
元は頷いた。
直彦は二人が穏やかに話しをしているのを少し離れた携帯電話専用ルームで見ながら
「で?赤阪貴美が事件を起こしていないかを調べろと?」
と告げた。
春彦は頷いて
「時間がないかもしれなくて」
今日の6時に刺されるかもしれないんだけど
「今、デートでTOTの中を移動しているらしいんだけど捕まらなくて」
と告げた。
直彦は大体の話を聞き
「なるほど、大至急調べさせるが」
そのデートの相手というのは?
と聞いた。
春彦は少し考え
「…泉谷美和子」
とあっさり答えた。
直彦はそれで弟の春彦もまたその可能性を考えていたのだと理解し
「わかった二人に関して調べておく」
と言い
「後、気になるのは…もし今日だとしたら…何故今日なのかだな」
と付け加えて
「じゃあ、隆には伝えておく」
と携帯を切った。
春彦も携帯を切り少し考えるとLINEに伽羅の描いた絵を投げておいた。
赤阪貴美を刺しに来る人物の顔である。
直彦はそれを見て
「…なるほど」
と呟き、白露元と隆のところへと戻った。
元は話を聞き小さく笑うと
「兄というのは…面倒くさいものだな」
と呟いた。
「ただ先に生まれただけなのに」
兄弟を背負っている気持ちになる
…小さい頃はそれが嫌だったな…
隆は腕を組みながら
「俺と清美ちゃんは特別だったからな」
同じ年だったし出会ったのもお互いが小学生後半だ
「妹として可愛く思っていたが背負う気持ちはなかったな」
と呟いた。
直彦は苦く笑うと
「俺は…一度だけ…ただの夏月直彦として生きたいと思ったことがあるな」
と呟き目を細めた。
9年前にそう手紙に書いたことがある。
『一年で良い夏月直彦という人生を歩かせて欲しい』
一年経ったら迎えに行く
だが、その一年は永遠に消えてしまった。
春彦も知らない春彦に宛てた手紙だ。
元も隆もその理由に思い当たると静かに直彦を見つめた。
隆は軽く直彦の肩を叩くと
「ま、お前たちの弟軍団は末枯野の話じゃないが出来た弟たちだと俺は思うぜ」
兄思いで
「しかもお前達よりもしなやかで強い」
と笑った。
そして立ち上がると
「時間がないらしいから調べに動かないとな」
と告げた。
直彦も立ち上がると
「悪いな」
と元に目を向けた。
元は笑みを見せると
「来てくれて感謝している」
夏月に津村
「ありがとうな」
津洗ではみんなで会おう
と返した。
直彦と隆は病院を出ると車の中から携帯を掛けた。
時間がないのだ。
早急に調べる必要があった。
時計の針は刻々と進み、太陽もまたゆっくりと南天を過ぎようとしていたのである。
『至急』と付けたので連絡は早く返ってきた。
隆は携帯に出ると隣に座っていた直彦を見た。
直彦は頷いて携帯の録音アプリを起動した。
隆はそれに唇を開いた。
「急かせて悪いな、それで?」
そう告げた。
「赤阪貴美の名前はなかったんだな」
了解了解
「それで…泉谷美和子の方の名前があった?」
けど
「は?…わかった」
直彦も話を聞きながら首を傾げた。
「それが犯罪につながるのが分からないが」
とにかくその相手のところへ行ってみた方が良いな
「日にちも今日のようだからな」
隆は頷くと
「後でちゃんと春彦君からネタ貰えよ」
とハンドルを切ってアクセルを踏んだ。
直彦は呆れたように
「ホテルで書かせようと思っているんだろ」
でも恋愛だからな
とドきっぱりと返した。
同じ時。
春彦も伽羅も驚きながら絡繰り時計の前に立っていた。
赤阪貴美と泉谷美和子は良いとして…伽羅はその隣にいた兄の友嵩を見た。
「なんで、兄がいるんだ?」
…。
…。
友嵩は罰が悪そうに貴美を見た。
貴美は友嵩と伽羅を交互に見て
「…似ていないが…兄弟なんだな…」
と呟いた。
そして
「兄同士の真剣な語らいだな」
と告げた。
瑠貴はふぅ!と怒ったように息を吐きだし
「それで、お兄ちゃんは身に覚えないの!?」
と腕を組んだ。
貴美は顔をしかめながら
「俺に二言はない」
と腕を組んだ。
兄妹である。
春彦は「似た者兄妹だなぁ」と内心突っ込みつつ泉谷美和子を見ると
「泉谷さんは、ないですか?」
と聞いた。
美和子は少し考え
「う~ん、恨まれることはないけど…去年の今日だったかな…今頃だけど」
ひき逃げに出くわしたことはあるわ
と告げた。
「でも、私がひき逃げたわけじゃないわよ」
倒れているのを発見して救急車呼んで
「警察に連絡してあげたんだから」
友嵩は小さく息をついて
「だけど、それが切っ掛けでそう言う事態になる可能性は皆無じゃない」
でいいんだろ?
「伽羅」
と複雑な笑みで弟の伽羅を見た。
「本当に起きるんだろ?」
放っておけば
伽羅は目を見開く
「兄…」
と呟き、大きく頷いた。
その時、春彦の携帯が震えた。
春彦は携帯を手にすると
「直兄からだ」
と携帯に出た。
直彦は一軒の家から出て隆の車に乗り込みながら
「時間がかかって悪かったな」
と言い
「泉谷美和子が去年の今日にひき逃げ事故の通報をしている」
と告げた。
春彦は頷いて
「今彼女たちを掴まえてその話を聞いた」
けど彼女は助けた方だろ?
と返した。
直彦は助手席に座り
「ああ、確かにそうだ」
だが
「お前が送った顔写真の人物はその被害者の子供の二つ上の兄だ」
あの事故の日に一緒に散歩に行ったらしいが
「遅れて姿を見せたらしい…その話は家族間では禁止になっていてひき逃げ犯が捕まった話も何もしなかったそうだ」
つまり勘違いという可能性はある
「被害者の子は菊屋秀二で、お前が送ってきた絵の人物は兄の菊屋秀一だ」
と告げた。
「ただ…春彦」
今回回避しただけじゃ
「その兄は同じことを今度は捕まったひき逃げ犯に対してする可能性がある」
…それでお前は良いと思うかだな…
春彦は直彦が言わんとしたことを理解すると
「俺は良いと思わない」
それじゃダメだ
と答えた。
直彦はふっと笑うと
「だったら、その気持ちも断ち切ってやれ」
と告げた。
春彦は頷いて携帯を切ると赤阪貴美に泉谷美和子、そして、松野宮友嵩を見た。
「やはり、そのひき逃げが原因の可能性が高いです」
ひき逃げにあった弟さんと散歩に出ていて何かがあって離れた時に事故にあい
「その後に駆けつけたのだとしたら通報している姿の貴方がただけしか見ていない可能性がある」
それに勇が
「それって、事故を起こして通報したと思ったってことなのかな?」
と呟いた。
春彦は頷き
「直兄がその家を訪ねて伽羅の描いた顔と確認しているから恐らく」
と答えた。
その時。
彼らの背後で時計の針が5時50分を示した。
そして、勇と瑠貴が人込みに向かって指を差した。
「「あそこ、チャラ男君の描いた人」」
ここでチャラ男って。
と伽羅と春彦は同時に思ったが、それ何処ではなかった。
春彦は固唾を飲みこむとその青年に向かい、彼がポケットに手を入れかけるのを見て足を早めた。
そして、青年のその手を掴むと
「…菊屋秀一君、だよな」
と小さな声で告げた。
菊屋秀一は春彦を睨んだ。
春彦は強い力で手を押さえ
「ここでそれを出したら、君は後戻りできなくなる」
と言い
「今なら、間に合う」
と付け加えた。
赤阪貴美も春彦の後ろについて彼を見つめ
「そうだ、君を犯罪者にしないために彼らは動いてくれたんだ」
と言い
「何故、こんなことをしようと思ったんだ、君は」
と聞いた。
行き交う人たちが不思議そうに彼らを見つめて通り過ぎていく。
友嵩は勇と瑠貴を見ると
「俺が三人を移動させるから、泉谷を頼む」
他の人の視線を逸らせてくれると助かるけど
と困ったように笑みを見せた。
勇と瑠貴は頷くと美和子を連れて時計の裏へと移動しながら
「TGU10のルキちゃん!撮影?おひっさー!」
と勇が大きな声で告げた。
瑠貴もまた
「違うよ、お姉さんとお買い物だよ!勇ちゃんは?撮影?」
と大きな声で返した。
TGU10も勇も一般の人に知られている芸能人である。
人々は春彦たちに向けていた視線を二人に向けた。
流石である。
友嵩は安堵の息を吐きだすと伽羅の顔を見て春彦たちの元へと移動した。
友嵩は膠着状態の彼らの横に立ち冷静に
「菊屋秀一君」
君が今襲うとしている相手は引いた人ではなく
君の弟さんを助けようと救急車を呼んでくれた人だ
「疑うなら警察に聞けばいいしご両親に確認すればいい」
と告げた。
「何より君が一緒に散歩していたとご両親が言っていたのが本当なら」
君は本当に引いた車を見ていたはずだろうし
「彼女が反対に助けようと動いてくれていたと知っているはずだ」
…人の目がある、移動して話をしよう…
貴美も頷き
「そうだ、その後で彼女を刺そうと思うなら俺がその刃を甘んじて受けてやる」
と告げた。
春彦は彼の力が弱まるのを確認するとそっと閉じたままナイフを取り出して、それを伽羅に渡した。
「ちゃんと話を俺はしたいと思う」
貴方が知らないこと
「俺が聞いたことも」
菊屋秀一は唇を噛みしめながらゆっくりと足を踏み出した。
彼らの後ろでは絡繰り時計が鐘を鳴らしながら明るく踊りを披露していたのである。
勇と瑠貴は彼らが移動し人々と軽い握手など交わして騒ぎが落ち着くと、絡繰り時計の裏へと回り美和子を見た。
瑠貴は不思議そうに
「お兄ちゃん暑苦しいでしょ?」
何でお兄ちゃんが良いの?
と聞いた。
美和子は微笑むと
「だって貴美、優しいもん」
と言い
「私の兄はプラモデルとゲームに夢中で挙句に幼馴染の子が心配だーって家に殆どいないの」
小さい頃から余り一緒に遊んだ記憶もないし
「前なんか買い物に付き合ってくれたと思ったら途中で姿消してゲームしてるの!最悪だったんだ」
でも、貴美は私の買い物にも『面倒くさい』って言いながらも振り返ってみてくれるの
「凄く守られてるっていうか嬉しいし…だから好きなの」
と告げた。
瑠貴は反省しながら
「うん、確かにお兄ちゃんそうだよね」
私が小さい頃も他の子とワーって走っててもちゃんと振り返ってみてくれてた
「暑苦しい時もあるけど」
とぼやいた。
勇はニコニコ笑い
「私は一人っ子だから羨ましいなぁ」
春彦さんや直彦さんもそうだけど
「兄弟の仲が良いっていいなぁ」
と告げた。
同じ時。
春彦は秀一を見つめた。
秀一は俯き
「俺は…弟をはねた奴をやらないといけない」
弟があんなことになったのは俺のせいだ
「俺が、ちゃんとついていれば事故になんて合わなかった」
だから
と顔を伏せた。
それに貴美が
「二人で散歩に出て弟から目を離したんだな」
その時に事故が起きてそれで駆けつけるのが遅くて勘違いをしたんだな
と息を吐きだした。
「ひき逃げは許せない。俺も許せない」
だがな
「俺も妹がいるからわかるんだが」
本当に許せないのはあんた自身じゃないのか?
それをひき逃げ犯へ復讐しないといけないと置き換えているだけじゃないのか?
秀一は大きく目を見開いた。
春彦は昔のことを思い出して
「それこそ、もっと弟さんを悲しませるだけだと思う」
弟さんは貴方が離れて歩いたから事故にあったなんて思ってないと思うし
「自分の事故のせいで貴方が人を殺したと知れば自分のせいで貴方を不幸にした、それこそ自分のせいだと苦しむと思う」
と告げた。
「きっと、貴方と一緒に散歩に行くくらい貴方が好きなら」
反対に事故にあってごめんって思ってる
「もし、弟さんのことを思うなら」
復讐じゃなくて
「貴方が幸せに生きていってくれた方が喜ぶと思う」
…貴方が弟さんを大事に思ってること弟さんはきっとわかってる…
だから
…弟さんも貴方を大切に思っていると思う…
秀一は大きく息を吐きだすと涙を落とした。
「あの時、何時も弟の面倒を見ているのがしんどかったんだ」
嫌いじゃなくて
「俺の時間がないような気がして」
だから少しだけ
「俺の時間が欲しかった」
その時にあの事故が…
伽羅はそっと兄の友嵩を横目で見た。
友嵩はそれに気付くとおどけたように少し笑って肩を上げた。
その後、菊屋秀一の両親が迎えに来て彼を連れて帰った。
ちゃんと事実を話すと春彦たちに告げて。
直彦は春彦が帰るとことと次第を聞き
「そうか」
と短く応えた。
春彦は隆が用意した夕飯を食べながら
「直兄、ごめんな」
と告げた。
直彦は不思議そうに春彦を見ると
「?何がだ?」
と返した。
春彦は静かに笑むと
「俺さ、直兄の人生の時間を凄く使わせてるよな」
9年前にさ
「事故にあった後に直兄が懸命に小説書いてさ…俺の身体を治してくれるために色々病院で手術受けさせてくれたの」
話し聞きながら思い出してた
と言い
「事故はさぁ、俺のせいなんだ」
だから
「ごめんな」
ありがとう
と告げた。
直彦は目を見開いて春彦を見たが笑みを浮かべると
「本当に…しなやかで強いな」
弟軍団は
とぽそっと呟いた。
春彦は首をかしげると
「ん?」
何?
と聞き返した。
直彦は「別に大した内容じゃない」と言い
「8月になったら津洗のホテルに行くからな」
ルフランリゾート津洗で連泊する
と告げた。
春彦は驚くと
「え!?あの高級ホテル?」
大丈夫なのか?
と呟いた。
直彦はあっさりと
「俺は原稿だ」
支払いは隆がする
と返した。
春彦は震えながら
「…隆さん、さすが」
と呟いた。
直彦は少しすっきりした表情で
「それと、その時に大切な話がある」
とだけ告げた。
同じ頃、伽羅は勉強を友嵩に叩き込まれながら
「…夏…登竜門…」
と呟いていた。
友嵩はそれに困ったように顔を顰め
「ははっ…テストという滝を越えたら遊びに行けば良いだろ?」
春彦君とな
「そのために補習は避けないとな」
と堪えきれずに笑いを零した。
「本当に兄っていうのは良くも悪くも厄介だけど悪くないモノだな」
貴美もまた
「俺が間違っていた」
付き合ってもいいぞ
「春彦君と」
彼はしっかりしたいい子だ
「夏月先生の弟さんだけある」
と腕を組んで告げていた。
瑠貴は「はぁ!?」と叫ぶと
「夏月先生の誤解が解けたのは良いけど…春彦君は勇ちゃんの恋人だよ!」
何言ってるの!!
「それより伽羅君は?伽羅君はどうなのよ!?」
と告げた。
貴美は「ん?」と考えると
「…あ、ああ」
あの子か
「変な夢を見る子だな」
と返した。
…。
…。
瑠貴は鞄を持つと
「家出する」
と駆け出した。
貴美は驚くと
「何故だー!?」
と叫んだ。
勇は家出してきた瑠貴に笑いを零しながら春彦に事と次第をLINEに送った。
「でね、瑠貴ちゃんと勉強しているんだよ☆」
「お兄さんって大変だよね」
「でも羨ましいかな」
春彦はそれを部屋にどもって見ながら笑い窓の外を見つめた。
「直兄もすごく大変だったよな」
ずっとずっと今も
「今度は俺が背負っていくからな」
…失わせてきた直兄の人生の時間を…
窓の外では夏の夜空に一等星がきらりと瞬いていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があります。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。




