雨の中で
夢は…不吉なもの。
幼いころから時折見る夢は不吉な、不吉な、現実の出来事を教える。
「お母さん、あそこの家に泥棒入るの夢で見たよ。教えてあげて」
翌日の夜に泥棒が入りその家に住んでいた老夫婦が襲われた。
「お母さん、あそこの家が燃える夢見たよ。本当だよ。火事になるよ」
その夜、放火がありその家が燃えた。
小学生になる頃には母親は自分を連れて出歩くことは無くなった。
リバースプロキシ
短い初夏が過ぎ去り曇りがちの梅雨が訪れようとしていた。
部屋の窓から見上げる空は一面鉛色。
重たそうな雲からは今にも雨が降り出そうとしていた。
夏月春彦は驚いたように肩越しに振り向くとベッドの縁に腰を下ろしている松野宮伽羅を見た。
「え?女性が首を?」
言われ、伽羅はコクコク頷くと
「うん、すんごい雨が降ってて小さな川だったんだけど溢れそうになってて」
そこに架かってた橋の上で
「起き上がろうとしてた少年を女性が馬乗りになって首を絞めてた」
と顔をしかめた。
春彦は溜息を零し
「…伽羅、俺は探偵じゃないしその予定もない」
というよりも
「俺にはSEになって安定した生活を送る予定がある」
分かってるよな
とビシッと指を差した。
伽羅はコクコクと頷き
「分かってるけど…」
俺にはお前しかいないから
「愛してるぜ、春彦!」
とビシッと指を差し返した。
春彦は座っていた椅子をクルリと回し
「まったく、探偵や警察が動ける状態だったらいいんだけどなぁ」
とぼやきつつ
「今回は特別だからな」
と今度こそ伽羅の正面に向いた。
伽羅は「サンキュ」と返しつつ、この無二の親友が何時も特別と言いながら自分のこの夢の解決に乗り出してくれることを信じて疑わなかった。
幼いころから時折こういう夢を見た。
何故見るのか。
何故自分だけなのか。
全く分からなかった。
いや、今も分からない。
ただ、初めはずっと母親に言っていた。
「お母さん、あそこの家に泥棒入るの夢で見たよ。教えてあげて」とか。
「お母さん、あそこの家が燃える夢見たよ。本当だよ。火事になるよ」とか。
母親は「そんなこと言ってはいけません」と怒り続け、何時の頃からか一緒に出歩いてくれなくなっていた。
小学生の友達も『気味が悪い』と相手にしてくれなかった。
唯一、中学に入って同じクラスになった彼だけが
「…本当に、本当になるんだな?」
しょうがないから今回だけは調べてやる
と動いてくれたのだ。
そして、初めて夢が現実にならなかった。
伽羅は、「しょうがないなぁ」と言いつつも協力してくれる春彦を見て静かに笑みを浮かべた。
春彦は伽羅を見ると
「先ずは小さな川とか橋とか周辺で…何か気にかかるものはなかったか?」
何か特徴的な
「目印だな」
と告げた。
川や橋や道路と言われてもそんなもの何処にでもある。
春彦は考える伽羅に
「何でも良いんだ」
小さなことで良いんだ
と告げた。
伽羅は記憶を辿りつつ
「橋は…短くて…本当に三歩くらいで渡れそうで…欄干が踝くらいの低いやつで…幾つもあって」
と言い、う~んう~んと唸り不意に
「…あ、橋と橋の間に石柱みたいなのがあった」
何か、彫ってあった
と告げた。
春彦は「石柱か…道標かもしれないな」と呟くと携帯を伽羅に渡し
「それを描け」
それから
「少年と女性の顔も」
川の様子や橋も描けよ
と告げた。
これまで伽羅が夢を見たと言ってきたことは幾度となくあった。
ただの夢ではない。
調べていくとその夢が起こるだろう原因が現在にあることが何時も確認できた。
放置すれば…起きる。
対処すれば…回避できる。
その事が春彦には分かっていた。
だから無視はできなかったのだ。
ただ事件の唯一の手掛かりは伽羅の夢だけなのだ。
それ以外には何もない。
夢の光景から出来るだけ多くの情報を取り出してそこから現実を探し出すしかない。
春彦は渡した携帯の画面に懸命に夢を思い出しながら指を動かす伽羅を見つめた。
30分程して伽羅は息を吐きだすと携帯を春彦に差し出し
「描いたー」
とベッドに大の字になって身体を倒した。
春彦は受け取りフォトアプリで描かれた画像を見ると
「…伽羅さぁ、相変わらず絵上手いな」
と呟いた。
「へたくそだったら…それこそお手上げだけどな」
伽羅はニッと笑うと
「そりゃぁ、美人を描くために日夜練習を重ねてきたんだからな」
とスィングと人差し指を右から左へと動かした。
…。
…。
あ、いや…そういう事は聞いてない。
と、ハハッと春彦は乾いた笑いを零し最初の絵を見た。
大きな手掛かりの一つである石柱である。
春彦の想像していた通りの道標であったが、春彦は目を細めた。
絵を見ると細い川の流れに沿って短い橋が架かり道側ではなく建物側に石柱があった。
この感じ。
春彦は
「もしかして川じゃなくて用水路じゃないのか?」
と呟いた。
川と言うほどの広さでもないが溝と言うほどの狭さでもない。
有名なところでは金沢県の大野庄用水路などは有名である。
春彦は伽羅を見ると
「描かれている文字…一文字でも良いから思い出せないか?」
と問いかけた。
用水路というのは大きな手掛かりだが全国で考えると少なくはない。
伽羅は目を閉じてう~んう~んと唸りつつ
「…辰…水?…」
そうそう
「辰っていう字と一番下の文字が水?間が月というか朋と言うか、だったら用かなぁ?」
とフゥと息を吐きだして答えた。
春彦は机に向くとパソコンを開けて電源を入れた。
『辰』と『用水』と入れて検索をかけた。
もしヒットしなければ用水を抜けばいいのだ。
春彦は出てきた結果に
「なるほどな」
と呟くと
「金沢の辰巳用水路…かもしれないな」
と立ち上がった。
伽羅は春彦が立つのと同時に顔を上げて
「春彦?」
と問いかけた。
春彦は笑みを浮かべると
「金沢へいこうぜ」
と告げた。
六月初めの土曜日。
現在の時刻は…午後2時であった。
伽羅は驚きつつ
「今から?今から?」
と聞くと春彦はあっさり
「ああ、今から」
直兄に連絡しておく
と携帯を手に彼の兄である夏月直彦に電話を入れた。
伽羅はハッと腰を浮かして
「そう言えば、直彦さんの気配がなかった!!」
と思わず叫んだ。
春彦は「何をいまさら」と内心突っ込みつつ電話口に出た声に
「直兄、今日さぁ金沢で泊まってきて良い?」
と告げた。
電話口で応答に出た彼の兄の直彦は一瞬目を見開いたものの
「…別に俺は帰らないから良いが」
少し待て
と答え、彼の隣で立っている人物に視線を向けた。
津村隆である。
彼は直彦が小説家になると一切を取り仕切る専属敏腕編集者となって今はほぼ行動を共にしている。
直彦は隆が視線を向けると
「金沢にホテルあったか?」
と聞いた。
隆は頷くと
「金沢駅の近くの金沢New東都ホテルがあるな」
と答えた。
直彦は頷くと
「あー、金沢駅前の金沢New東都ホテルを使え」
連絡は入れておく
「隆が、な」
伽羅君には親御さんに連絡入れておくように言っておくように
と告げた。
隆はその言葉を合図に金沢New東都ホテルのフロントに電話を入れた。
春彦もまた直彦の言ったホテル名をメモすると携帯を切り、驚いたまま自分を見つめる伽羅に
「良いって」
但しホテルは金沢New東都ホテルでないとダメだってさ
「隆さんが連絡入れてくれてるって」
と告げた。
伽羅は脱力したように笑うと
「さすが直彦さんと隆さんだな」
と答えた。
春彦は「まあ、隆さんの実家の息が掛かったホテルだろうな」と言い
「直兄が親には連絡入れておくように言ってた」
と付け加えた。
伽羅は頷き自分の携帯を手にすると家に電話を入れて
「あ、お母さん?俺、今日は帰らないから春彦と金沢行ってくる」
と告げた。
彼の母親も二つ返事で承諾し春彦と伽羅は一番近い東都電鉄の高砂駅へと向かった。
伽羅の母親は彼自身と少し距離があり、宿泊や夜中に家を出ることに何かを言う事はなかった。
というよりも、ほぼほぼ会話というものが亡くなっていたのである。
二人はそこから5つ目のJRと連絡している鶯谷駅で乗り換えて上野駅から北陸新幹線で金沢へと向かった。
所要時間2時間半。
つまり、片道3時間近くかかる。
日帰りも出来るが時間も旅費も勿体ないだけであった。
春彦と伽羅は金沢駅で降り立つと改札から続く駅のおもてなしドームを抜けて、鼓門の前に立った。
両側が巨大な鼓の形になっており上に屋根がある。
圧倒されるオブジェである。
春彦はそれを見上げ
「凄い」
と呟き
「確かにランドマークの一つになるよな」
と笑って告げた。
伽羅も頷き
「凄いな」
と呟いた。
二人はそこを抜けるとホテル街の中でも正面に見える金沢New東都ホテルへと足を向けた。
時刻は既に5時半。
陽はまだ明るいが夕刻である。
ホテルのフロントに行くと直ぐにチェックインが出来た。
隆から連絡があり手配は済んでいたようである。
通された部屋はラグジュアリースイートで風呂付の広々とした部屋であった。
食事も手配されており客室係の男性が
「お食事は部屋の方でご用意させていただきます」
お時間は何時が宜しいでしょうか?
と告げた。
春彦は伽羅を一瞥し
「6時半ごろで良い?」
と聞いた。
伽羅は頷き
「いいよ」
と答えた。
そして、春彦は男性に
「俺達、明日朝早くから辰巳用水を見て歩きたいんだけど…地図とかありますか?」
と聞いた。
男性は丁寧に
「少々お待ちください」
と部屋を出ると少しして印刷しただろう地図を手に戻り室内テーブルの上に置いた。
「金沢には21ほど用水路がございます」
有名な大野庄用水はこのラインで
「犀川桜橋を元として長町武家屋敷周辺を流れております」
辰巳用水は
「犀川上流を元として兼六園の曲水の水源として利用されております」
この辺りですね
黄色の蛍光マーカーで線を引きながら春彦たちに説明をした。
春彦はそれを見ながら
「ということは、ここからだと兼六園から上がっていく方がいいな」
と呟いた。
地理に疎いので、分かりやすい所から沿って歩いていく方が良いと判断したのである。
伽羅はとにかく春彦についていこうと決めると
「OK」
と答えた。
男性からその地図を貰いその日は夕食を取り、翌朝早くからホテルを出て兼六園へと向かった。
駅から兼六園は約2~3Kmくらいあり、歩くと40分ほどかかる。
二人は駅からまちバスという市が運行する周遊バスに乗り兼六園に着くと、昨夜受け取った地図を頼りに辰巳用水から兼六園へと流れ込む沈砂池へとたどり着いた。
既に新緑の頃は過ぎており、色味を深めた緑の木々が池に影を落としている。
そこには辰巳用水の説明の瓦版のような看板が立てられていた。
全長で11Km。
春彦と伽羅はそれを見ると
「…11キロか」
と小さくつぶやいた。
意外と長い。
春彦は冷静に
「これは今日だけでは終わらないな」
…学校が問題だよな
と呟いた。
学生なのだ。
授業がある。
伽羅はへへっと笑い
「それな」
と返した。
春彦はふぅと息を吐きだすと
「まあ、ホテルの宿泊のこともあるから…取り敢えずはいけるところまで歩こうか」
と言い、ふと池の側の竹の柵のところに置かれていた花束に目を向けた。
「これ、きっとお供えの花だよな」
伽羅は頷き
「だと思う」
何かったんだよな、きっと
と答えた。
春彦は近くで園内の掃除をしていた男性を見ると駆け寄り
「すみません」
と声をかけた。
「この花、何かあったのですか?」
呼びかけに男性は「ああ」というと
「3年くらい前に女の人が亡くなってな」
水路から流れて来たんじゃないかって話で
「可哀想だったなぁ、子供はあの時はまだ小学生だったし…旦那も号泣してなぁ」
と答えた。
「毎年、花を供えに来ているな」
他の用水路でも落ちて流される人は一年に何人かはいてな
「豪雨の時なんかは外を見に行ってそのままっていうのも少なくはないからなぁ」
春彦は「そうなんだ」と心で呟き
「ありがとうございました」
と頭を下げた。
昨日とうって変わって梅雨の晴れ間だが気温も穏やかで枝葉の間からは青い空が覗いている。
こういう時に川や用水路などの散策は気持ちいいが豪雨などで水が溢れている時は危険な場所に変わってしまう。
深みにはまってそのまま…というのがあるのだろう。
だとすれば、伽羅の見た夢は。
春彦は木漏れ日に目を細めながら空を仰ぐと
「取り合えず、問題の場所を探そうか」
と呟いた。
伽羅は頷くと
「ああ」
と答えた。
二人は地図を見ながら兼六園を出ると用水路を遡り始めた。
全長11Km。
決して短い距離ではなかった。
■■■
兼六園を出ると百万石通りを進み、小立野通りを進んでいく。
つまり辰巳用水は国道10号線に沿うようにある。
春彦と伽羅は兼六坂上のT路を、兼六園を背に歩いた。
左側に用水路があり、その向こうに土塀があった。
江戸時代の旧家の塀のようである。
歩いていくとその説明が書かれた看板も置かれていた。
春彦はそれを見ると
「奥村宗家屋敷跡か」
それが今は
「医療センターになっているのか」
と呟いた。
一寸した史跡散歩の様相である。
太陽はゆっくりと南天を目指して登り、梅雨の合間の強い日差しが照り付け始めていた。
地図によると用水路はこの先の北陸学院の前を通り、くらし館と紫錦台中学を抜けたところで道路下へと潜るようである。
そして、石引三丁目などを抜けた先の天徳院の手前で再び姿を見せるらしい。
更に再び道路下へと潜り小立野錦町で姿を見せてダムへと続いていくようであるが、その辺りには遊歩道などが整備されているらしいのだ。
が、かなり長い距離があるようである。
春彦は地図を見ながら時間的に人々の活気があふれ出した通りを用水路の流れに沿って歩き、ところどころにある石碑に目を向けた。
「結構、石碑や看板があるんだな」
それに伽羅も頷きながら不意に足を止めると
「あれ」
似てる気がする
と指差した。
そこは医療センターを抜けて、北陸学院を抜けた先のくらし館の手前辺りであった。
紫錦台中学の前である。
春彦は伽羅の絵と見比べて
「確かに石碑は似ているけど…お前の絵にはあの看板は書かれていないな」
それに
「こんな独特な土塀でもないみたいだけど」
と顔をしかめた。
伽羅は頷き
「うん、ちょっと時を感じる住宅街だった気がする」
と呟いた。
…。
…。
春彦は冷静に
「似た石碑を探しているんじゃなくて」
俺達はその石碑を探しているんだからな
「記憶を持ってるお前が見つけないと見つからないことは理解しておけよ」
と告げた。
確かに。
伽羅は頷き
「了解」
と答え、足を進めた。
石引三町目からは暫く用水は姿を見せない。
二人は町中を一〇号線に沿って歩き続けた。
やがて住宅街の中に小さな川が姿を見せた。
川というか辰巳用水である。
住宅街を縫うように曲がりくねりながら上流へと続いている。
用水路に架かる橋は家々の戸口にそのままつながったものもあり、小さな橋がいくつもかかっていた。
瞬間に伽羅は目を見開くと
「あそこ!」
と駆け出すと一軒の家の前の橋の袂に立って
「ここ、ここで女の人が青年の首絞めてた!」
と告げた。
通りにはパラパラとだが人が行き交っており、声と同時に全員の足が止まった。
というか、止まるだろ!と春彦はその一瞬広がった静寂の中で心内に叫んだ。
…。
…。
人々が凝視する中を春彦はツカツカと伽羅に近寄り襟を掴んで引き寄せると
「声が大きいって」
と小声で注意し、状況を把握して
「俺達不審者だよな」
と困ったように笑う伽羅から手を放すと
「不審者だな」
と答え、周囲を見回した。
背向かいの家と家の間に石碑が立っており、そこには確かに『辰巳用水』と書かれていた。
架かる橋の欄干は踝くらいで橋の上に煉瓦を乗せただけのような簡素なものであった。
春彦は携帯を取り出し伽羅の描いた絵と見比べて
「多分、ここだな」
と呟いた。
その時、一人の少年が不思議そうに少し離れた場所から見ていたのである。
少年は戸惑いながらも春彦と伽羅に近付くと
「あの、俺の家に何か用ですか?」
と問いかけた。
春彦と伽羅は同時に声の方を見て目を見開いた。
伽羅が描いた首を絞められていた少年…その人物であった。
伽羅は「ああ!!」と声を上げて
「く…」
び絞められてた子!と言いかけて、春彦に口を塞がれた。
「もがもがもがが」
春彦―、俺が窒息する!
と伽羅はゼーハーゼーバーと顔をしかめて両手を付いた。
春彦は慌てて
「ああ、悪い悪い」
と答え、驚きながら立っている少年に目を向けた。
確かに伽羅が描いた絵の少年である。
春彦は彼に
「あ、悪い」
俺達ちょっと辰巳用水を散策してて
「石碑があるなぁって見てたんだ」
と言い
「ここの家の子?」
と問いかけた。
少年は頷き
「そうだけど」
と答えた。
春彦は少し考えたものの携帯を取り出すと
「この女性に見覚えあるかな?」
と聞いた。
少年は携帯を覗き込み
「ん、おばあちゃんだ」
どうして貴方が?
と不思議そうに見た。
春彦は視線を彷徨わせつつ
「あ、いや…ちょっと」
それで君はそのおばあちゃんと仲が悪いとかある?
と聞いた。
少年は怪訝そうに見たものの
「仲は悪くないよ」
というか
「3年前にお母さんが事故で死ぬまでは可愛がってくれてたけど」
うん、優しい人だよ
と告げた。
伽羅は自分たちの真の目的がばれないかとどぎまぎしながら春彦と少年を交互に見た。
まさか、君がその祖母に殺されるのを見てやってきたとは言えない。
言ったところで益々警戒心を持たれてしまうだけである。
春彦は三年前という言葉を聞いて
「君のお母さんの事故は兼六園の沈砂池で亡くなった…あの?」
と聞いた。
少年はハッと目を見開くと
「まさか、お母さんの事故を調べに?」
お父さんはあの日俺と家でお母さんを待ってた
「絶対だし間違いないし警察も雨で水嵩が増えて誤って落ちたって言っていたんだ」
と顔をしかめた。
春彦は慌てて
「あー、いやいや」
そう言うのじゃなくて
「俺たちは辰巳用水って普段は穏やかだけど雨が降ると危ないんじゃないかなぁってことで経路を調べていたんだ」
と言い繕った。
「そうか、あの女性の…ええと、名前が確か」
少年は「香坂史子です」と答えた。
春彦は頷きながら
「そうだ、香坂史子さんだった」
雨の日に用水に誤って落ちたんだよな
と相槌を打った。
少年は少し考えたものの
「そうだよ」
と答えた。
春彦は「その事故からお父さんとおばあさんは仲が悪くなったってことは」と呟き
「もしかして、おばあさんはお父さんを疑って仲が悪くなったとか?」
娘さんの死は旦那のせいだとか、そういうのかな?
と聞いた。
少年は息を吐きだすと
「違うよ」
と言い
「おばあちゃんはお父さんのお母さんでおばあちゃんはお父さんを心配しているみたいだけど…お父さんが何か怒ってておばあちゃんの家を出てここで暮らし出したんだ」
と呟いた。
「おばあちゃんが変わったのは俺に対してだけだったと思う」
俺のこと見向きもしなくなったっていうか
「お母さんがいなくなって世話しなくいけなくなったから俺のことを嫌いになったんだと思う」
春彦も伽羅も「それであの夢と繋がる意味がわからないな」と思いつつ、春彦は
「そうか」
と答えると
「だけど、君は雨の日は家を出ないように気を付けないとな」
俺達が調べた中でもやっぱり用水路の事故は少なくないからな
と優しく告げた。
少年は頷き
「わかりました」
と答えた。
殺されるかもしれないから雨の日は出ないように。とは言えない。
春彦はそう思い、三年前の事故に関してと、祖母と父親に関しても調べる必要があると感じた。
梅雨の合間の空は青く明るいが…問題の雨の刻がいつ訪れるかは全く分からないのだ。
そう、この気候だといつ雨が降ってもおかしくはないからである。
時間はないという事である。
春彦は少年に
「じゃあ、俺達は上流の方に向かうから」
と言い、不意に
「ああ、じゃあ今お父さんと二人暮らし?」
と聞いた。
少年は頷き
「ああ、って昼ごはん食べて夕飯の買出しにもいかないと」
と呟いた。
春彦は小さく笑って
「お父さんと仲いいんだな」
と告げた。
少年は笑顔を見せると
「お父さんは優しいから」
お母さんにも優しかったし…だからおばあちゃんとも仲直りしてほしいんだけどな
と呟いた。
春彦は「そっか、そうなると良いな」と答えて、伽羅を見ると小さく頷いた。
戻って直ぐに調べるぞ、という事である。
二人は少年と別れて上流へ向かう振りをしてすぐさまバスの乗り場を探すと金沢駅へと戻った。
バスから降りると携帯を取り出し兄の直彦に連絡を入れた。
コール音が三度なる前に直彦が応答に出た。
掛かってくるのを見越していたようである。
「で、どうしたいんだ?」
…。
…。
直兄、何処まで想定してるんだ?と春彦は内心突っ込みを入れつつ
「あ、のさ」
色々調べたいし多分時間も無いと思うから
「もう一泊してもいいかな?」
と告げた。
直彦はあっさりと
「いいぞ」
と返し
「フロントに行けば昨日の部屋をそのまま使える」
宿泊の必要がなくなったら連絡してこい
と告げた。
想定済みだったのだ。
予約を入れたのは兄の専属編集者の津村隆。
チェックアウトは不定のままにしたのだろう。
春彦ははっともう一つ言う事を思い出すと
「あ、学校だけど」
と告げた。
直彦は「休め、事件解決したら行け」と答えた。
「伽羅君に関しては親御さんの許可次第だな」
春彦は「了解」と答え、携帯を切った。
伽羅は春彦を凝視し
「直彦さんは何て?」
と聞いた。
春彦は軽くため息を零しつつ
「ホテルは必要なくなったら直兄に連絡したらいいってそれまで泊って良いって」
学校も休んで良いって
と答えた。
「あ、けど。伽羅は親御さんの許可次第って言ってた」
伽羅は携帯を手に
「相変わらず直彦さんだよな」
と言い家に掛けると電話に出た母親に
「あ、俺暫く春彦と泊まるから」
と告げた。
母親は短く「わかったわ」と答えると通話を切った。
その直後に小さくため息を零したものの、伽羅にはその溜息の音は聞こえなかった。
彼女はその時ちょうど部屋の戸を開けた伽羅の兄の友嵩を見て
「暫く泊まるそうよ」
と呟いた。
友嵩はそれに
「あの、春彦って友達の家?」
と聞いた。
彼女は「ええ」と短く返した。
友嵩は息を吐きだし
「大丈夫なのかよ、その春彦って友達は」
とぼやき
「オヤジは仕事仕事で気付きもしてないんだろうけどな」
と踵を返すと自室へと戻った。
母親でありながら…次男の伽羅とどう向き合って良いのか分からなくなっていたのである。
幼い頃から予知夢というかそういう変な夢を見て口に出す息子。
怖いのだが、かといって手を全く放すことはできない。
だが。
だが。
彼女は再度溜息を零した。
伽羅は通話が切れると
「わかったってさ」
と答え、春彦と共にホテルへと戻った。
母親が他の兄弟と違って自分と距離を置きがっているのは感じていた。
恐らく母親は自分が泊ると言ってほっとしているのだろう。
伽羅はそう思っていたのである。
二人はホテルのフロントに戻るとホテル内のレストランから漂う食欲をそそる匂いに時間が既に午後1時になっていることに気付いた。
同時にお腹を鳴らすと春彦が
「お昼食べようか」
と告げた。
伽羅は頷いて
「賛成」
と答えた。
フロントにレストランでの食事に予約がいるかを聞いた。
フロントの男性は
「ご昼食ですか?」
お部屋のキーを見せていただきましたら大丈夫です
と答え
「それから今日のお夜食は何時からご用意させていただきましたらよろしいでしょうか?」
と聞いた。
春彦は「あー、昨日と同じ6時半で」と答え
「それから、午後から図書館とか調べ物をできる場所ってありますか?」
あとインターネットカフェとか
と聞いた。
「パソコンの貸し出しとかはしていないですよね」
それにフロントは
「パソコンの貸し出しはしておりますが」
一日100円でご利用いただけます
「紛失等されますと全額保証していただきます」
と答えた。
「お部屋にはWi-Fiとインターネットの回線があるので好きな方をご利用ください」
図書館の場所はお食事の後にお寄りいただきましたら地図をご用意しておきます
春彦は礼を言うと部屋の鍵を受け取りレストランへと向かった。
レストランのランチはAセットとBセットの二種類と単品であった。
二人はそれぞれ別のセットを頼み食べ終えるとフロントで図書館の場所を教えてもらい早速向かった。
もちろん、パソコンの貸し出しも利用することにしたのである。
図書館は兼六園の近くにあり再びまちバスに乗って兼六園で降りると今度は外周を歩いて図書館へと着いた。
本の貸し出しなどは利用できないが本を読んだり、雑誌や新聞のバックナンバーを見たりすることはできる。
春彦と伽羅は手分けして香坂史子の事故について載っている記事を探した。
今日、花が枯れずに残っていたという事は日にち的には少し前となる。
つまり、三年前の5月終わりから6月初めだ。
二人は図書館の職員に三年前5月6月7月の各新聞と雑誌などのバックナンバーを出してもらい、捲り始めた。
読売。
朝日。
毎日。
日経。
そして、地方紙の金沢新報と北陸。
全部で6社。
三年前の6月初めに金沢市内で豪雨があり用水路の氾濫が相次いでいたようである。
春彦はその記事を読み
「床上とけっこう被害が大きかったんだな」
と呟き、三面の小さな記事に目を向けた。
「これだ」
そこには豪雨で女性が用水路に嵌り死亡という記事が載っていた。
だが。
「別段事件的な記述じゃないな」
という事であった。
用事があると出ていき翌日に沈砂池で発見された。
市内では各地の用水路が氾濫し足元が見えない状態だったので深みにはまって流されたのではないかという記事であった。
なのに。
春彦は他の新聞を見ている伽羅の方を見ると
「伽羅の方には何か書いているか?」
と聞いた。
伽羅は頷き
「ん、用水路に嵌った女性が沈砂池で発見って内容だけど」
と答えた。
春彦は指先を唇に触れ目を細めた。
伽羅は春彦の顔を覗くと
「何か、気になっているのか?」
と聞いた。
考え事があるとこうするのが春彦の癖なのである。
何か引っかかっていることがあるのだ。
春彦は考えながら
「いや、彼女が用水路に嵌って流された内容なら彼の父親が警察の取り調べを受けるっていうのがな」
それに
「その後に彼の父親と祖母の関係が悪くなったとか…祖母が彼を疎んじるようになったとか」
凄くちぐはぐというか
と呟いた。
伽羅はそれに
「いや、祖母があの子を無視するようになったのは面倒見たくないからだって言ってただろ?」
そうじゃないのか?
と聞いた。
春彦はう~んと唸ると
「けどさぁ、当時は小学生で母親を亡くしたばかりだろ?しかも、それまでは優しかったって言っていたし」
暫く経ってからなら分かるけどさぁ
「まあ、百歩譲ってそうだとして…父親と父親の実の母親が仲違いって言うのは変だろ?」
彼女の母親なら分かるけど
と告げた。
しかし、糸口は意外な場所から見つかったのである。
新聞を見た後に流し見た週刊誌に疑惑事故として載っていたのである。
『沈砂池で発見の女性に多数の打撲痕 豪雨のサスペンス』
というものであった。
春彦は「これか」というと内容を詳しく読んだ。
時期的には彼女が見つかってから二週間ほど後の週刊誌であった。
記事によれば香坂史子の首筋から胸元辺りに強い打撲痕が幾つかあったという事であった。
しかも、彼女と夫である香坂厚男との間の子供である厚史には血液型での繋がりがなくそれが事故の数か月前にあった交通事故で分ったという内容であった。
恐らく、先ほど出会った少年は香坂厚史なのだろう。
春彦は目を細めると
「もしこれが…厚史君が父親の子供でなく他の男性の子供だったとしてずっと秘密にしていたとしたら」
今回の夢の根もここにある可能性はあるな
と呟いた。
伽羅は記事を読みながら
「でも、俺が見たのは父親じゃなくておばあさんだったけど」
と返した。
春彦はそれに
「この記事が出たことで父親の母親なら息子を騙した女性が産んだ子供でその子をずっと息子に育てさせていたってなるんじゃないのか?」
ただ彼は父親を慕っていたし
「父親は彼と一緒に暮らしているし…その辺りが分からないけど」
と呟いた。
「けど、この記事を書いた記者の人に話を聞けば何か分かるかも」
と言い、春彦は雑誌の表紙と記事をコピーすると雑誌社へと向かった。
記事の真実も分かるし一石二鳥であった。
雑誌社は一〇号線の通りにある地方雑誌で母体が金沢新報社で週刊金沢と言う名の雑誌であった。
子会社であったので金沢新報社ビルの四階にあり広くはなかった。
が、急に訪ねていっても相手にされるわけもなく
「申し訳ありませんが予約のない方は」
とあっさりと門前払いをくらわされたのである。
確かにそうだろう。
だが、時間はないのだ。
恐らく今回止められても根本から解決しないと…香坂厚史は何れ祖母に殺されることになるかもしれない。
春彦は新聞社ビルの前に伽羅と立ち
「どうするかなぁ」
とぼやいた。
伝手がないというか、学生なのだから伝手があるわけがない。
伽羅はハッと顔を上げると
「先と同じ手はどうかな、春彦」
と告げた。
「学生の発表で使うとか」
春彦は考えたものの
「よし」
と言い再び受付に行くと
「あの、俺達学校での発表で用水路で起きる事故とかの注意を呼び掛けるとか…そういう…発表で、この記事のことを詳しく知りたいなぁと思ってきたんです」
と告げた。
受付の女性はにこやかに
「そうですか、でしたら学校の方からご連絡を入れていただき先に予約をお願いいたします」
と返した。
一部の隙も無し!
春彦は「いや、その」と何とか記事を書いた記者に会うための口上を言いかけた。
本当は「近い未来に殺人事件が起こるかもしれないんです!」と言いたかった。
が、言えるわけがないというか言ったらますます取り次いでもらえないだろう。
伽羅も「この方法でもだめかぁ」と思い
「春彦…直彦さんの小説の題材の方が良かったかもしれない」
と焦りながら告げた。
春彦は慌てて
「はぁ!?いや、直兄を知っているかどうかわからないし」
と告げた。
受付の女性は微笑みを作っていたが明らかに怪訝そうな視線を二人に向け
「申し訳ありませんが、でしたら直彦という方からご連絡をお願いいたします」
と告げた。
春彦は大きく脱力すると
「あの、分りました」
というと携帯を手に直彦に電話を入れた。
通話は直ぐに繋がり
「どうした?」
と短く返った。
春彦は小声で事情を説明すると
「それで、直兄から連絡を入れればあわせてくれるらしいんだけど」
と告げた。
直彦はハァと溜息を零すと
「それは受付の断り文句だろ」
と言ったものの
「わかった、少し受付で待ってろ」
というと携帯を切った。
それに運転中の隆が
「どうした、春彦君上手くいってないのか?」
と聞いた。
直彦は「まあ、学生だから色々と障害はあるだろ」と答え
「金沢新報社の電話番号知ってるか?」
と聞いた。
隆は車を路肩に止めると
「金沢新報社に直接の伝手はないが、東都新聞の黒瀬さんに頼めば新聞社同士のつながりで何とかなるんじゃないのか?」
あそこお前に連載小説書いて欲しがってたからな
と告げた。
直彦は嫌そうに顔をしかめると
「仕事増やす気か!」
と言いつつも
「…わかったから連絡入れろ」
と告げた。
隆はハハッと笑い
「了解」
というと電子名刺アプリから東都新聞の黒瀬達雄に電話を入れた。
黒瀬達雄は隆の話を聞き二言返事で承諾すると
「では、近いうちに夏月先生にお会いさせてくださいね」
と押しを忘れずに切った。
五分後には金沢新報社の鳴無昭男から連絡が入った。
「東都新聞の黒瀬さんからご紹介があってお電話させていただいたのですが、夏月先生が金沢を題材に小説をお書きくださるとか」
隆は携帯を直彦に渡した。
直彦は携帯を受け取ると
「突然のご連絡で申し訳ないのですが、今、俺は他の方の小説の取材中で弟の春彦にそちらでの取材を頼んでおりまして御社の受付にいるので申し訳ないのですが弟の取材に応えていただけないでしょうか?」
と告げた。
鳴無は「おお」と感嘆の声を上げると
「もちろんです」
出来ましたらこれを機会に先生に寄稿してただけたら
と告げた。
直彦は「ええ、もちろん。これを機会によろしくお願いいたします」と告げると携帯を切った。
隆はハハハと笑い
「ちゃんと調節はしてやるから、頑張れ」
春彦君からちゃんとネタ貰えよ
と付け加えた。
直彦は携帯を返しながら
「当然だな」
と返した。
そして、春彦に電話を入れると
「連絡したから待ってろ」
金沢新報社の鳴無って人だ
「後は上手くやれ」
と告げた。
春彦は「ごめん、直兄」と答え、携帯を切った直後に上の階から慌てて降りてきた人物に目を向けた。
金沢新報社の常務取締役・編集担当の鳴無昭男であった。
鳴無は春彦を見ると名刺を取り出し
「夏月先生の弟さんですね」
私は金沢新報社の常務取締役の鳴無と申します
「よろしくお願いいたします」
と頭を下げた。
…常務取締役って。
と春彦と伽羅は思ったものの
「「あ、こちらこそ突然申し訳ありません」」
と頭を下げた。
受付の女性も驚いた表情で立ち上がると
「先程は失礼いたしました」
と頭を下げた。
鳴無は二人を丁寧に応接室に案内すると
「それで今回、先生の小説の取材と言う事ですが」
と聞いた。
春彦は「そう言う内容か」と思いつつコピーを見せると
「この記事なのですが記者の方に詳しくお話をお聞きしたいと思いまして」
と告げた。
鳴無は雑誌の表紙と記事を見ると
「週刊金沢…雑誌社の方ですね」
記者は相庭亜夫というとデスクですね
「お待ちください」
と言い応接室の内線で本人を呼び出した。
相庭亜夫は姿を見せると
「話というのは」
と春彦と伽羅を見た。
春彦はコピーを見せて
「この記事の詳細をお聞きしたくて」
と告げた。
鳴無は立ち上がり
「飲み物を用意しますのでごゆっくりお話しください」
先生の小説を楽しみにしておりますとお伝えください
と告げて部屋を出た。
気付かいなく話ができるようにという気遣いなのだろう。
春彦と伽羅は会釈をして見送った。
相庭はコピーを手に
「三年前の沈砂池の事件ですね」
と言い
「資料を持ってくるので待っていてください」
と部屋を出て一〇分程で戻ってきた。
その手には警察での調書などが含まれており憶測だけで書いてるわけではないことがはっきりとした。
春彦はそれを一つ一つ丁寧に読み、不意に手を止め
「おかしいよな」
と呟いた。
それに伽羅が顔を向けると
「何が?」
と問いかけた。
春彦は頷き
「厚史君に関しては母子手帳の方が婚姻届けより早く出されているんだ」
と答え
「つまり、できちゃった婚ってことなんだけど」
と告げた。
伽羅は苦く笑って
「いやいや、まあ、あることだとは思うぜ」
と答えた。
相庭も頷き
「それは特段問題ないと思うけどね」
と答えた。
春彦は目を細めると
「確かにそうだけど、この手帳には血液型のところに丸があるだ」
と呟いた。
「最近は血液型を調べないところも多いらしいけど」
生まれてすぐに一応調べたんだ
相庭はコピーを見て
「ああ、そうだな」
ただ四歳くらいまでは不確定要素が多いから絶対ではないらしいが
と告げた。
春彦は血液型の欄に目を細め
「だけど、厚史君の母子手帳の血液型のところにはABに丸してある」
ってことは
「貴方が書いた記事の父親の厚男さんはO型だから厚史君は厚男さんの子供じゃないってことだよ」
と告げた。
相庭は指を差して
「そう、それがあの豪雨の一か月前に事故ではっきりしたんだ」
それで俺は彼女の不明な打撲痕を考えてその記事を書いたんだ
と告げた。
「俺は、彼女は用水路に嵌ったのではなくて血液の件で育てていた子供が他の男の子供だと知り叩かれて落とされたんだと思っている」
春彦は相庭を見ると
「厚男さんは、その事を結婚する前に知っていたのではないでしょうか?」
と告げた。
そう、結婚する前に母子手帳は作られていて不確定ながらABに丸がしているのだ。
もしも、その一か月前の事故で初めて子供の血液型を知った人物が…厚男の母親である祖母だったとしたら。
春彦は顔を上げると伽羅を見て
「だったら、全ての線が繋がる」
と告げた。
伽羅は驚いて
「は?何が?」
と問いかけた。
春彦は携帯を取り出し厚史の絵を出すと
「元々、厚史君が史子さんと違う男性の子供であることを厚男さんは知っていた」
妊娠を理由に結婚するとすれば
「妊娠届を出すだろうし、万が一、その時に既に母子手帳があっとしても、その時に作ったとしてもこの手帳を見れば自分の子供でないことは分かる」
と告げた。
「既成事実がなかったとしたら、余計分かっていると思う」
伽羅も相庭もごくりと固唾を飲みこんだ。
春彦は更に指を一か月前の事故のところに写すと
「恐らくこの事故までそれを知らなかった人物がいるとすれば厚男さんのお母さんだと思う」
この事故で初めて厚史さんが厚男さんの子供でないことを知ったのは祖母の厚美さんで
「それが厚男さんとの仲違いの原因になり…厚史さんへの憎しみに変わったとしてもおかしくはない」
今の奇妙な状況を説明できる
と告げた。
「そして、それが原因で事件が起きる」
静寂が広がった。
外では暗雲が広がり始め、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
春彦は立ち上がると相庭に
「厚男さんの勤務先も調べたんですよね?」
どこですか?
と聞いた。
相庭は虚を突かれたように驚きながら慌てて資料を探すと
「あ、ああ…金沢重工業で香坂厚男が勤める工場がこのビルと同じ一〇号線を小立野の方へむかったところにあります」
と告げた。
春彦は二人を見て
「行きましょう」
真実を確かめないと
と告げた。
伽羅は大きく頷き
「時間もなさそうだし」
と答え、春彦に続いた。
相庭は「何が?どうなって」と思いつつも、放置するわけにもいかず二人の後について金沢新報社のビルを後にしたのである。
雨はしとしとと降り出し、天気予報では雨脚が強くなることを知らせていた。
香坂厚男はちょうど仕事を終えて工場を出たところであった。
体格は良く少し厳つい顔立ちをした男であった。
最初に彼を見つけたのは相庭であった。
相庭は工場の門を出たところの厚男を見つけると
「彼が香坂厚男です」
と指差した。
春彦は駆け出して彼の前に立ち
「香坂、厚男さんですね」
と告げた。
厚男は「は?」と声を漏らしたものの後ろから相庭が現れたことで
「…記者の仲間か」
と呟いた。
「俺は史子を殺してはいない」
あいつを殺すわけがない
春彦は頷き
「ええ、貴方は殺していない」
というか殺す理由がないですよね?
と返した。
「貴方は結婚する前から厚史君が貴方の子供でないことを知っていた」
恐らく相手の男性のことも知っているのではないのですか?
厚男は春彦を見つめ
「なにを」
と呟いた。
春彦は彼を真っ直ぐ見つめ
「俺は誰かを断罪に来たわけではないです」
そう言う権利もないし
「そんな力もない」
と言い
「ただ、これから起こるだろう二回目の悲劇を止めたいだけです」
貴方のお母さんが今度は厚史君を手にかけてしまうということを
と告げた。
厚男は大きく目を見開くと息を飲みこんだ。
春彦は固唾を飲みこみ
「貴方は史子さんを愛していた」
だから史子さんが子供を宿していることを知りながらも
「その子供事愛して家族になった」
と言い
「けれど、史子さんの事件の一か月前に厚史さんが事故にあって輸血の関係で血液型がABであることが貴方だけでなく貴方のお母さん…厚子さんにも分かった」
つまり
「厚史君が貴方の子供でないことを知った」
違いますか?
と告げた。
厚男は戸惑いながらも
「ああ、そうだ」
母はそのことで俺が騙されていると言ってきた
「俺は口下手で…違う関係ないと母に言ったんだが」
と返した。
春彦は息を吐きだし
「恐らく貴方のお母さんは史子さんにも話をしたと思います」
事件の雨の日に
「貴方は薄々気付いていたのではないのですか?」
だから
「厚史さんを連れて家を出た」
今度は厚史さんまで同じ目に合うのではないかと
「心配して」
と告げた。
厚男は息を吐きだし
「信じたくはなかった」
いや
「そんな気がしていたが…言い出すことができなかった」
と顔を伏せた。
「俺は史子を愛していたし、史子は始め断ってきたが…俺は厚史の父親のあいつの事も親友だと思っていて…育てたいと…」
厚史は…俺の大切な子供だと
春彦は笑むと
「それをちゃんと言ってください」
厚史君にも貴方のお母さんにも
「二度目の悲劇が起こらない内に」
と告げた。
その時、伽羅が空を見上げ
「春彦、似てる…俺の夢の雨の感じと…」
この感じが
と両手を広げて告げた。
春彦は頷き厚男の手を引くと
「家へ急いで」
と駆け出した。
雨は激しさを増し、誰もがずぶぬれになっていた。
用水路の水嵩も瞬く間に高さを増して、四人はその中を香坂家へと向かった。
その時、厚史は外の様子を窓から見て
「結構降っているよな」
オヤジ傘持って行ってたっけ
と呟き、玄関へと向かった。
水が染むように玄関口を濡らし始め、厚史は傘を手に一本を差して外へ出た。
その雨の中を一つの影が姿を見せていた。
豪雨のために人通りはなく雨音だけが激しく響いている。
厚史は目を見開くと
「おばあちゃん?」
と唇を開いた。
祖母の厚子は厚史を見つめ
「…ずっと、あんたの母親は私たちを騙していたんだね」
と告げた。
「可愛い孫だと思っていたのに…あんたの母親は他の男の子供を…厚男の子供だと嘘をついて育てさせていた」
厚史は目を見開くと
「え?」
と息を飲みこんだ。
厚子は傘を握ったまま足を踏み出し振り上げかけた。
瞬間であった。
「やめてくれ!!おふくろ!!」
やめてくれ!
「もう、やめてくれ!」
厚男が間に飛び込むと母親を見た。
「俺は始めから厚史が俺の子供でないことを知っていた」
史子はなぁ
「最初から全部話してくれていたんだ!!」
厚史も厚子も二人とも驚きに目を見開いた。
厚男は雨に濡れながら
「…俺は口下手でお袋にちゃんと話さなかったのが悪かった」
厚史の父親はなぁ
「俺の高校時代の親友で…交通事故で死んじまったんだ」
その時には史子は妊娠していて
「俺はそれでも良いと…大切な親友の子供ごと愛していると…結婚をしたんだ」
と告げた。
「わかってくれ!」
俺は騙されていないし
「俺の子供でなくても厚史が可愛いんだ」
俺の子供を望んでいたお袋には悪いが…分かってくれ
厚子はそのまま座り込むと
「なんで!なんであんたの子供を見せてくれないの!」
私は貴方の子供をどんなに望んでいたか
と叫んだ。
厚史は彼女の前に進むと
「ごめん、おばあちゃん」
俺、俺
「でも、おばあちゃんのこと好きだった」
小さい頃から可愛がってくれて
「お父さんもおかあさんもおばあちゃんも」
俺のせいでバラバラにしてごめん
と頭を下げた。
厚男は首を振ると
「そうじゃない」
お前は何も悪くないし史子も悪くない
「始めからお袋に話しておくべきだったんだ」
と厚史を抱きしめた。
春彦は厚子の前に進むと
「貴方がその憎しみを抱いたまま生き続けると…貴方は貴方の息子を更に不幸へと陥れることになります」
貴方は貴方の血を残すことと
「貴方の息子さんが幸せになることと」
どちらが大切なんですか?
と見つめた。
「貴方と血が繋がっていなくても厚史君は貴方を慕っているし…貴方の息子さんのように素直で誠実に育っていると俺は思います」
雨の音は更に激しさを増し、その音の中に紛れるように嗚咽が静かに響き渡っていた。
結局、厚子は息子の厚男と孫の厚史に付き添われて警察へと向かった。
三年前の史子さんの件で全てを話すと彼女が告げたからである。
話しを聞こうと呼び出し、口論の末にかっとなって傘で叩いた時に避けようと用水路に落ちたのが真実であった。
慌てて助けようと手を掴んだが離れてしまったのだと…。
その日から良心の呵責が負い目となって余計に孫への憎しみを駆り立てたという事であった。
春彦と伽羅は相庭と共に金沢新報社へと濡れネズミの状態で戻り、泊り用のシャワーを借りて着替えるとホテルへと戻った。
翌日、金沢を離れる際に一度金沢新報社に立ちよりお礼と挨拶をした。
鳴無はにこやかに
「いえいえ、お力になれたのであれば」
と言い
「ぜひ、夏月先生によろしくと」
と告げた。
相庭もまた通り一遍の挨拶をした後で別れ際ににやりと笑うと
「夏月先生のミステリー小説の原点を見たよ」
なるほどねぇ
と言い、名刺を春彦に渡すと
「君が名探偵なった時には是非連絡をしてくれ」
こちらの情報なら力になれるからね
と耳打ちした。
春彦は「おれ、探偵にはなりませんから」答えつつ、金沢を後にした。
昨日の豪雨は何処へ行ったのか、空には一面の青が広がっていた。
春彦は伽羅と共に自宅に帰ると隆が作った夕食と共に待っていた兄の直彦に事と次第を告げた。
直彦はそれを聞き
「そうか」
と答え
「本能的な種の保存かもしれないな」
と呟いた。
そして、食事を終えて立ち上がると窓の外の夜景を見つめ
「だが、それに家系や家名が加わると…跡を継がせなければならない人間はもっと恐ろしいものに変わる」
我が子の幸せよりも血脈を重んじるようになるからな
と目を細めた。
春彦は直彦を見て
「そう、かもしれないね。もっと根深いものになるかも知れないけど…でも…」
俺は厚男さんと厚史君がこれからも乗り越えて仲良くあってほしいと思ってる
と答えた。
直彦は静かに笑むと
「そうだな、そうあってほしいな」
と言い
「そう望んでいても…どうにもならないこともあるからな」
彼らにはそうあってほしいな
とリビングを後にした。
直彦は自室に戻ってパソコンのキーボードの上で指先を動かし
「自分の子供でないことを最も受け入れられないのは…本人よりも母親か」
と呟いた。
昼間止んでいた雨は再び静かに降り始めた。
春彦と伽羅はベッドで身体を横にするとその雨音を子守歌代わりに目を閉じた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があります。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。