都会の狭間で
そこは地獄だった。
燃え盛る炎が足元の絨毯や高い天井との間を竜のようにうねりながら駆け巡り、その狭間を人々が出口を求めて逃げ惑っていた。
助けて。
助けてと、阿鼻叫喚の声を上げながら。
呆然と立ち尽くす足元には巻き込まれた誰かのパスケースとはみ出た写真が散らばり、再三の爆発音で視線を移せばそこに…。
「ぎゃぁ――――マジか―――!!」
と、松野宮伽羅は叫んで飛び起きると汗を拭い布団の端を握りしめた。
「俺、死んだ…よな…今の…」
と呟くと、彼は取る物も取り敢えず家を飛び出し深夜の町を駆け抜けた。
初夏の始めの少し湿気を含んだ蒸し暑い夜。
住宅街には静寂と暗闇が広がり、街灯の明かりが無言でぽつりぽつりと丸い光の輪を通り道に描いていた。
リバースプロキシ(ドリームリアクター)
「春彦――――!!」
ビボビボビボビボ
「起きてくれ!!」
ビボビボビボビボ
けたたましいマンション入り口のインターフォンからの呼び出し音に夏月春彦は飛び起きると
「マジか!」
と夢現にふらつきながらベッドから降りてリビングへと向かった。
リビングを挟んだ向こう側の部屋には2日前から修羅場を続け漸く今日の夕方に睡眠タイムに入った兄の直彦が眠っている。
寝起きが悪いというわけではないが、漸く得た安眠を邪魔されるときっと恐ろしいことになる。
春彦はインターフォンの応答ボタンに手を伸ばし
「伽羅ぁ、今何時だと思ってんだよ」
と心で兄が起きないことを祈りながら、マンションの自動ドアを開けるボタンも押した。
「とにかく落ち着いて、できるだけ静かに入ってこい」
煩くしたら出入り禁止になるぞ
と、春彦は小さな声でモニターに映った伽羅に言いしゃがみ込んだ。
時計を見ると午前1時。
普通の家庭でもこんな時間に押しかけてきたら確実に出入り禁止である。
だが、彼がこんな風に押しかけてくるには理由がある。
その事情が大体わかるので追い返すことが出来ないのである。
春彦は玄関へ向かうとそっと鍵を開けて彼が来るのを待った。
マンションの一角だがやはりこの時間に人の気配は殆どない。
足音も人の話し声も聞こえてくることはない。
正に夜の静寂である。
春彦はエレベータを降りた伽羅の姿を見ると
「静かにな」
と小声で呼びかけて中へと入れた。
伽羅は走ってきたのだろう肩で息をしながら
「…悪い、めっちゃくちゃ怖くて」
と言い、玄関で靴を脱いで上がった瞬間に目を見開いた。
「うひっ」
声に春彦は肩越しに振り返るとサーと血の気が引くのを自分で感じた。
「な、お…兄…起きたんだ」
春彦の兄で小説家の夏月直彦はリビングの入口に腕を組んで仁王立ちになり
「…ああ」
と短く応えると
「松野宮君、夜中に他所の家に来るときは静かに来なさい」
と言うとそのままクルリと踵を返して自室へと入っていた。
…。
…。
伽羅は春彦を見ると小さな声で
「直彦さん、もしかして寝ぼけてる?」
と問いかけた。
春彦は大きく頷くと
「多分。ここ2日間徹夜の修羅場して夕方に漸く寝たとこだったから寝ぼけてると思う」
と小声で返した。
伽羅は「あわわ」と震えながら
「…直彦さんに苗字で呼ばれたら俺もう出禁になった気分」
と俯いた。
普段の直彦は『伽羅くん』と呼ぶのだ。
春彦は薄く笑って
「ははは…まあ、大丈夫だと思う」
直兄が出禁にしたらその場で蹴り出されるから
と何かを思い出したように遠い目をして呟き、鍵を閉めると彼を自室へと誘った。
春彦の部屋は広くベッドが窓際にある。
そこからカーテンを開けると住宅街が見下ろせるのだ。
マンションが少ない場所のメリットである。
春彦は伽羅を見ると
「紅茶入れてくるから取り敢えず座ってろ」
それで夢の内容を整理して話せるようにしておいてくれ
と言い、部屋を出ると冷蔵庫からペットボトルの紅茶をカップに入れて戻り、一つを彼に手渡した。
伽羅はクィと飲み干すとハァと息を吐きだし机の椅子に座って自分の方を見る春彦を見返した。
「あのさ、長い通路を火が囂々燃え広がって人が逃げ惑ってんの」
春彦はふむっと考え
「火事ってことか?」
と聞いた。
伽羅は首を傾げながら
「いや、そんな感じじゃなくて…ドンドンって音がして爆発!マジ爆発だった」
と眉間に皺を寄せて告げた。
春彦は腕を組むと
「爆発、か」
と呟いた。
伽羅は頷き
「それで、吹き抜けの広い空間に俺立ってて…足元にパスケースと可愛い女の子の写真が落ちてるなぁって思って前見たら扉が吹っ飛んできて」
とヒィと頭を押さえた。
…。
…。
なるほど、言わなくても分かった。
と、春彦は腕を組むと
「…可愛い女の子の写真の後に地獄を見たんだな」
と呟いた。
伽羅は頷きながら
「そう!もう!可愛い写真見てたら直後に地獄!!」
ってちが―――う!
「問題は爆発があるってこと!!」
と叫んだ。
春彦ははぁと息を吐きだすと
「…もう何回言ったか分からないけどさ」
俺は探偵でも探偵志願者でもないから
「堅実にSEとして生きるから」
とジッと伽羅を見た。
そう、探偵なんてものはそういうのが好きな人間がすればいい。
詮索好きの好奇心旺盛な探偵思考の人間がすればいいのだ。
春彦はそう心で呟き
「わかってるよな、伽羅」
俺は堅実に生きるんだからな
とビシッと指を差して付け加えた。
伽羅は頷き
「うん、うん」
分かってる
「けど、俺には春彦しかいないから」
愛してる!
と指をスィングした。
事件にもなっていない夢だけで探偵や警察は動いてはくれない。
それに。と、伽羅は心で呟いた。
『春彦は十二分に探偵の素養はあるよな』と思ったのである。
春彦は一つ息をついて思考を整えると
「とにかくその爆発を止めないと、だな」
と告げた。
伽羅は頷くと
「うん」
と答えた。
春彦は頷き返すと
「今回は特別だからな」
と言い
「先ず場所と時間だ」
と告げた。
伽羅は「…」と少しの沈黙を置いて
「…うん」
と再び短く応えた。
毎回特別なのだ。
そう言って力になってくれるのだ。
こんな夢を見る自分を忌み嫌って寄り付かない家族よりも伽羅はずっと春彦を信頼していたし頼りにもしていたのである。
春彦は伽羅の言葉を反芻しながら
「先ず、長い通路って言ってたけど…どんな感じだ?」
ここのようなマンションの屋外の通路か?
「それともホテルのような密閉された通路…と言うか廊下とか?」
と問いかけた。
伽羅は視線を少し彷徨わせて
「廊下だった」
赤色の絨毯の床で天井もあったし
「俺の立ってた場所は吹き抜けの広い空間になってた」
と答えた。
春彦は机の方を向くと
「赤色の絨毯に吹き抜けか」
だったら多分…ホテルだよな
「赤い絨毯を敷いた場所なんてホテル以外ではあまりないだろうな」
と呟き
「廊下の広さとかは…人一人歩ける程度の狭い廊下か地下街みたいに広い廊下だったか」
どんなだった?
と聞いた。
伽羅は視線を彷徨わせながら
「かなり広かった」
地下街くらいあったかなぁ
と答えた。
広い廊下に吹き抜けの空間と言うとホテルでも客室よりはフロントのような場所ではないかと春彦は考えた。
通常、ホテルの客室の廊下の幅は人が一人か二人歩けるくらいが普通である。
吹き抜けの空間も余りない。
春彦は目を閉じて考えると
「とすると、もしかしたら式場とか複合的な設備のある大きなホテルじゃないかな」
と言い
「赤い絨毯の敷かれた複合的な設備のあるホテルか」
それでも候補は多いよな
と呟いた。
探せばそんなところは五万とある。
伽羅は不意に
「そう言えば、飛んできた扉に…何かマークがあった」
と告げた。
春彦は携帯を出すと
「そのマークをここに書いてくれ」
とお絵かき用のアプリを起動した。
伽羅は頷くと携帯を手に指先を走らせ
「絵で描いているって言うよりも、なんていうか、扉に掘ってた」
と鳥とライオンをモチーフにしたエンブレムのようなマークを描いた。
春彦は受け取るとパソコンを立ち上げて検索を掛けた。
そして、一件のホテルがヒットすると
「…東都ハイタワーホテルだ」
と呟いた。
東京都心にある高層ホテルで3階までが宴会など催しができる大広間があり、5階以上が客室になっている。
春彦はそのホームページを見ながら
「恐らくお前が見た場所は3階までのどこかだな」
と呟いた。
「5階以上の廊下は人が一人か二人くらいしか通れない通路の幅になってるから大広間のどこかと考えた方がいいな」
そう春彦は付け加えて立ち上がると
「今から少し寝て、明日の朝に東都ハイタワーホテルへいこう」
と告げた。
伽羅は頷くとバタンと身体を倒し
「さんきゅ、春彦」
と言い、布団の中へと潜った。
春彦も一つ欠伸を零すと
「今回は本当に特別だからな」
と応え、一緒に布団に入り眠りについた。
翌朝、春彦は三人分の朝食を作り直彦の分だけ冷蔵庫に入れて書き置きをすると家を後にした。
春彦と直彦は現在二人暮らしである。
春彦が一歳になる前に10歳を迎えたばかりの直彦と共に世田谷にある愛彩養護施設に引き取られた。
春彦には当時の記憶が全くない。
生まれたばかりなのだから当たり前と言えば当たり前である。
兄の直彦はもう十二分に記憶がある年齢だったが彼の口から語られたことはあっさりしていた。
『母親は事故の時に死んだ。お前の父親がどうなったかはわからない。それだけだ』
母親は死んだ。
父親は生きている可能性があるが事故で安否は分からず自分たちは引養護施設に引き取られたということだ。
それ以上を直彦が語ることをしなかった。
それからずっと直彦が兄となり、親となり、春彦をここまで育てて来たのだ。
そういう経緯もあり春彦は施設を出て二人で暮らしを始めてから食事当番を引き受けている。
というか、暮らしだして直ぐに文武両道の兄の才能の中に料理がないことに気付いたのである。
電子レンジでボヤを起こしかけてから春彦が料理を担当するようになった。
ただ、良く家に来る兄の親友である津村隆の料理の腕も一流で二人で料理を作っている状態であった。
春彦が家を出てから二時間後に直彦がリビングに姿を見せると丁度インターフォンの呼出音が鳴り、料理の腕が一流の津村隆が姿を見せた。
彼は家に上がると寝ぼけながら春彦の置手紙を読んでいる直彦を見て
「もうレンジでチンくらいはできるだろ」
と苦笑を零し
「春彦くんは良くできた弟だな」
と冷蔵庫から春彦の作った朝食を取り出してレンジへと入れた。
直彦はハァと息を吐きだすと
「確かにそうだな」
と答え
「それで?締め切りが迫っているのはないはずだが」
と付け加えた。
隆は頷くと
「ああ、二本とも間に合わせてくれたからな」
と言い
「今日来たのはそれじゃなくて…桃源出版の恋愛小説大賞の審査員してただろ?」
それの発表会の連絡があった
と手帳を広げると
「二週間後の5月26日の午後2時から東都ハイタワーホテルの2階の第一ホールでするので出席お願いしますだってさ」
と告げた。
直彦はうんざりした様子で
「了解」
と答え、隆が前に置いた朝食を口に運んだ。
春彦と伽羅は日差しが強くなった初夏の陽気の中を東都電鉄の列車から降り立つと同時に
「「暑っ」」
とぼやいてホームに設置されている周辺地図へと足を向けた。
二人の住む江戸川区から四辻橋、鶯谷とJRとの交差駅を越えて東都電鉄の終点まで乗るとJRの東京駅の近くにたどり着く。
場所で言えば大手町である。
東都ハイタワーホテルはその終点大手町と東京駅との間にあり、どちらかと言うと東京駅寄りの場所に建っていた。
春彦はホテルの前に来るとスーと空へと延びるハイタワーホテルを見上げ
「さすが40階建てだな」
と呟いた。
東京周辺でも電鉄会社が経営する高級ホテルである。
旅行会社でもAランクのホテルで3階までの大広間では多くの式典などが行われている。
二人がボゥと見ている間でもタクシーや自家用車が入口で止まりホテルのベルマンが忙しそうに客の出迎えをしている。
人気があるのだ。
春彦は伽羅を見ると
「取り合えず行こうか」
と呼びかけ、印刷したホテルの概要を見ると
「客室のある5階以上は宿泊客しか入れないらしいけど3階までは一般でも入れるらしい」まあ、宴会や式典は宿泊客以外が使う事が多いし
「ホテルのレストランは一般開放されているからな」
と足を踏み出した。
伽羅は頷きながら重厚感あふれるホテルの入口へと春彦の後を追いながら向かった。
自動ドアを抜けると三階まで吹き抜けのロビーがあり奥はホテルのフロントであった。
その手前に左右から二階へあがるエスカレーターとエレベータがあり二階の中央には待合室代わりのオープン型の喫茶ルームがあった。
春彦は構内図を広げながら
「一階から見て回るか」
と言うと伽羅の方を見て
「見覚えのある空間に来たら声をかけてくれ」
と告げた。
伽羅はキョロキョロしながら
「わかった」
と答えた。
何となく…おのぼりさんか挙動不審者と言う感じである。
春彦は「まあいいか」と妥協すると足を進めた。
一階はフロントの他には一般向けのレストランが左右両側にあり、中央のフロントの奥側は土産物屋になっていた。
と言っても東京土産ではなくホテルオリジナルの紅茶やティーカップやソーサーなどが売られていた。
それを歩きながら見て春彦は伽羅の反応がないのでそのまま一周すると左側のエスカレーターから二階へと上がった。
二階は吹き抜けから一階を見下ろせる場所にある喫茶ルームと両側の端に洋食レストランと和食レストランが一つずつあり、他は全て大広間になっていた。
壁には画家が描いただろう有名な大きな絵が飾られ床は確かに赤い絨毯風になっている。
喫茶ルームから廊下を挟んで直ぐに一番大きな第一ホールがあり左右の通路を挟んで第二ホールと第三ホールがあった。
どの部屋もかなり大きな広間で天井も通常よりは高く作られている。
式典によく使われる理由が春彦には何となく理解できた。
そして、その第二第三ホールの奥にそこを利用する主催者等の待合室があった。
二人がうろついていたこの日も第一ホールではバイオ科学シンポジウムがあり、腰や胸に勲章風のリボンを付けた人々が行き交っていた。
春彦は入口の前に立てかけられていた垂れ幕を見て
「バイオ科学シンポジウムか…凄いな」
と呟き、出てきた人物を避けるように後ろに下がると軽く会釈した。
それに視線を向けた人物が僅かに目を見開くと
「…かげ…」
と言いかけて直ぐに視線を逸らせると春彦の前を通り抜けた。
「かげ?」
春彦は顔を上げて首を傾げ
「?もしかして俺のこと…知ってる人?」
と呟いた。
その時、隣にいた伽羅がふらふらと受付の方に向かい第三ホールの方に向いて歩き、不意に立ち止まるとクルリと振り返って春彦に手を振った。
「ここ!ここ!爆発の時に立ってたのここだ!!」
…。
…。
…。
周囲を行き交っていた人々が一斉に伽羅に目を向けた。
春彦は慌てて駆け寄ると伽羅の頭にチョップを食らわせ
「伽羅…声が大きい」
と注意し、騒めく人々を見回して
「…完全な不審者だな、俺達」
とガックシと脱力した。
案の定、警備服を着た一人の男性が二人に近付き
「君たち」
と声をかけた。
ホテルの従業員は全て名札を付けており彼も『茂由 警備員』となっているので間違いなく警備員なのだろう。
春彦は慌てて
「あ、あの。俺たちは少しその…見学を…」
と言いかけた。
が、あの言葉の後にそんな言い訳が通るわけがない。
警備員は険しい表情で二人を睨みつけた。
『爆発の時』なんて言葉は確かに不審者そのものである。
春彦が思わず内心大きな溜息を零したとき一人の男性が近付き警備員に声をかけた。
「彼らは私の知り合いだ」
私がシンポジウムに来るのでお誘いした
入口で『かげ』と春彦に言いかけた人物である。
警備員は驚いたように慌てて深く頭を下げると
「白露様のお知り合いでしたか、失礼いたしました」
と言い、何度か振り返りながら立ち去った。
春彦は頭を下げると
「ありがとうございます」
と言い
「あの、俺、どこかで会いましたか?」
と問いかけた。
白露と呼ばれた男性は薄く笑んで
「知っていると言えば知っているが…君は夏月によく似ているな」
と言い
「ただ…夏月には俺と会ったことは言わない方が良いだろうな」
と呟くと踵を返して立ち去った。
伽羅は春彦を見ると
「夏月って…春彦じゃなくて直彦さんのことだよな、きっと」
と聞いた。
春彦は頷き
「ああ、多分」
と答えて白露という人物の背を見送った。
スタッフか受付の人に聞けば白露何という名前か分かるだろうが…取り敢えずは伽羅の話が先である。
春彦は伽羅を見ると
「伽羅、夢の場所はここだったんだな」
間違いないな
と念を押すように問いかけた。
伽羅は頷き第一ホールの一番手前側の扉を指差すと
「あそこの扉がドンっって音の後に飛んできた」
と言い
「火はその奥からも」
と指を差しながら言い、反対側を指差して
「向こうも燃えてた」
と告げた。
春彦は指の方に視線を向けながら
「確かにここ以外はある程度の広さのある廊下だな」
ただ、ここだけが吹き抜けになってるからまだ空間があって奥の人は逃げてきたのかもしれないな
と言い、不意に
「伽羅」
と呼ぶと
「扉が飛んできたって言ったな」
中に飛んだんじゃなくてこっちに飛んできたんだな
と聞いた。
伽羅は「そうそう、こう…こっちの吹き抜けの方に」と指で中から外へと動かした。
春彦は目を細めると
「…爆発が事故か事件か迷っていたけど」
多分爆破事件だ
と呟いた。
伽羅は「え?」と春彦の顔を見た。
春彦は左右の両側のレストランを見ると
「もし、事故だとすれば両側のレストランか一階のレストランが火元になる」
ガスが爆発しても
「この扉がこっち側に飛ぶのはおかしい」
と告げた。
「あの重厚な扉がこっちの廊下側に飛ぶとしたら中からの衝撃だ」
部屋の中に爆発物があって爆発したと考えるのが妥当だと思う
伽羅はコクリと固唾を飲みこんだ。
「それってこのホテルの爆破事件ってこと…になるのかな」
と呟いた。
春彦は厳しい表情で
「なるな」
違和感はあるけど
と呟いた。
そして、口角を上げて不敵に笑むと
「けど事件なら…食い止める手段はある」
犯人を見つけて止めればいい
と告げた。
伽羅は春彦の顔を見つめ小さく頷いた。
春彦は息を吐きだすと先ほどの警備員が未だに自分たちを怪しそうに見ているのに気付き
「…取り敢えず、三階と四階を見て」
後はここ一か月の催し物を調べて帰るか
と少し早歩きに一歩を踏み出した。
白露という人物が口添えしてくれたとはいえ、確かに自分たちは不審者そのものである。
あんな堂々と『爆発』と言えば誰もが警戒するだろう。
春彦は内心「ハハッ」と苦く笑い三階へと向かった。
三階は貸会議室で部屋が6ほどあった。
部屋の前にプレートがあり借主の名前や社名が書かれていた。
四階は駐車場で他には何もない状態であった。
勿論、各階にはバックヤードがあるのだろうがそこまで春彦と伽羅が足を踏み入れることは出来なかった。
当然と言えば当然である。
手に入る情報だけで解決するしかない。
事件にもなっていない話をホテルや警察に言うわけにもいかないし、言ったところで反対に爆破犯に勘違いされるのがオチである。
春彦はホテルの公開されている一般的な催しものの一覧が印刷されているチラシとそれぞれの配布用のチラシを数枚ホテルのフロントに置かれているモノを取ると自宅へと帰宅することにした。
「他はネットと…事情を話して隆さんにお願いするしかないか」
そう呟き、東都電鉄の大手町駅へと向かった。
多くの人々が今もホテルを出入りしている。
明日か。
それとも数日後か。
分からないがこのホテルで爆破事件が起きる。
春彦はすっと前を見ると
「それだけは止めないと」
その為に伽羅は夢を見ているんだ
必ず止めてみせると心に言い聞かせて足を進めた。
この時、太陽は南天を越えてゆっくりと西へと傾き始めていた。
二人が春彦のマンションに着いたのは午後3時過ぎ。
直彦は再び眠っていたがリビングでは津村隆が夕食の準備をしている最中であった。
和食洋食中華とレストランのシェフ並みの腕前を持つ彼は夏月家の台所に置いている専用のエプロンをしてBBQパエリアを作っていた。
食欲をそそる匂いが戸を開けた途端に流れ出し、春彦と伽羅の鼻を擽った。
伽羅はくんっと鼻を鳴らすと
「匂いだけで涎が出る」
と言い
「津村さんが台所にいるのが速攻分かるよな」
とフフンっとまるで探偵が推理するかのように告げた。
春彦は「いや、それ火を見るよりも明らかだし」と言い
「けど、ちょうど良かった」
と玄関で靴を脱ぐとリビングへと入った。
「隆さん、来ていたんですね」
呼びかけ、隆が火を緩めながら
「ああ、直彦に話があったからな」
直彦はまたすぐ寝たから料理作って帰ろうと思ってた
とケタケタ笑った。
春彦は直彦の部屋を一瞥し
「直兄、二日間徹夜していたから」
と苦笑を零しながら答え
「あの、調べてほしいことがあるんですが」
と告げた。
隆は冷蔵庫からお茶のペットボトルを出しながら
「ほぅ、なんだ?」
また伽羅君の夢の調べものか?
と笑った。
春彦は頷き
「実は」
と昨夜から今までの話をした。
隆は頷きながら
「…東都ハイタワーホテルの向こう一か月の催事か…」
そういえば
と呟いた。
「二週間後の5月26日に俺と直彦も東都ハイタワーホテルへいくけどな」
それに春彦と伽羅は同時に目を見開いた。
「「え?」」
マジで?
春彦は腰を浮かして
「な、なんで」
と問いかけた。
隆はパエリアの火を止めると
「桃源出版の小説大賞の発表会がある」
直彦が審査員してたからな
「と言っても、まあ、直彦は客寄せパンダだな」
と苦く笑った。
今、売れっ子の小説家で、しかも、美形である。
所謂、映え小説家である。
『美しすぎる小説家』なんて見出しで一度雑誌に載って以来その雑誌の人間が来るたびに蹴り出している直彦の姿を春彦は思いだしてハハッと乾いた笑いを零した。
春彦はふぅと息を吐きだすと
「そう言えば」
とぼやいた。
隆は不思議そうに
「ん?なんだ?」
と返した。
春彦は考えながら
「今日、東都ハイタワーホテルへ行って警備員に注意を受けかけたんですけど、その時助けてくれた人が直兄の知り合いみたいで」
と告げた。
「白露って男の人で」
俺のこと知ってるみたいだったんだけど
「直兄には言わない方が良いって言われた」
『ただ…夏月には俺と会ったことは言わない方が良いだろうな』って。
隆はそれを聞くと小さくため息を零して
「そうか、白露がな」
と呟いた。
春彦はじーと隆を見つめ
「やっぱり、隆さんも知ってる人なんだ」
と告げた。
津村隆と兄の直彦は中学時代からの友人で付き合いが長い。
兄弟である自分よりももしかすると彼の方が良く兄を知っているのかもしれないと春彦は常日頃思っていた。
隆は春彦の視線を受けて
「ま、どうするかは自分で決めた方がいいな」
直彦は『そうか』っていうだけだろうがな
と答えた。
そして、手帳を手にすると
「とにかく、東都ハイタワーホテルの向こう一か月のスケジュールは調べておく」
と付け加えた。
「もちろん、爆破事件を止めるんだろ?」
春彦は頷くと
「必ず」
と答えた。
多くの人が行き交うホテルで爆破事件が起きればどれほどの被害が出るか。
絶対に食い止めなければならない。
春彦は意を決すると伽羅と共に自室へと入った。
集めた情報の整理と収集をするためである。
隆が夕食を作って帰宅してから3時間後。
夕方の6時ごろに直彦がもそもそと起き上がって姿を見せた。
春彦は部屋から出てきた直彦を見ると
「直兄、おはよう」
と呼びかけた。
伽羅も「おはようございます」と挨拶した。
直彦は春彦と伽羅を見ると
「ああ、おはよう」
と答え
「伽羅君、夜中の騒がしい来訪は近所迷惑だから静かに来なさい」
と言い
「次はないからな」
と付け加えた。
…。
…。
次はないって。
春彦も伽羅が「「ひっ」」と背筋を凍らせるのを哀れな目で一瞥し洗面所へ向かった直彦を見送った。
伽羅は震えながら
「おれ、出禁になる」
次やったらマジやばい
と呟いた。
春彦は「そうだな」と苦笑しつつ
「けど、確かに静かに来てくれないと俺たちが追い出される」
と付け加えた。
伽羅はしんみりと
「だよな…悪い」
と答えた。
それから春彦はパエリアを温めながら直彦がテーブルの椅子に座るのを見ると
「あのさ」
と声をかけた。
直彦は春彦を見て
「どうした?」
と問いかけた。
春彦は一つ息をついて
「白露って人…知ってる?よな」
と小さな声で聴いた。
直彦は椅子に深く腰掛けると
「ああ」
と短く応えた。
春彦はその態度だけで直彦と彼との間に何かあったのだと悟り
「…その人、直兄には言わない方が言っていったんだけど」
ホテルで警備員に注意されそうになった時に助けてもらった
と告げた。
直彦は視線を僅かに伏せると
「そうか」
と短く応えた。
「白露財閥の長男だ」
白露元といって俺と隆と中学時代の…親友…だな
春彦はポツリポツリと告げる直彦の言葉に
「そっか」
と頷き
「それで、東都ハイタワーホテルで発表会あるんだろ?欠席とかできない?」
と聞いた。
直彦はちらりと彼を見ると
「…伽羅君の夢で俺が死ぬとかあったのか?」
と冷静に聞いた。
春彦は首を振ると
「いや、違うけど」
ホテルで爆破事件が起きる
と答えた。
「まだ、何時かも誰が起こすかもわからないけど」
直彦は春彦が温まったパエリアを前に置くとそれを口に運び
「…なるほど」
と言い
「俺は信じるが他の誰も信じないだろう」
その人たちは犠牲になるか
と呟くと
「…爆破する人間がいるとすればそれを望んでいるんだろう」
ホテルか
人か
「消えることを望んでいる奴が起こす」
と春彦を見た。
春彦は直彦の言わんとするところに気付くと
「…ホテルと催しの周辺でトラブルがないかを調べるか」
と呟いた。
直彦はパエリアを食べながら
「隆には頼んでいるんだろ?」
と言い
「推理は三流だが料理と情報収集は一流だからな」
と苦笑を零した。
春彦も苦笑を零しつつ
「サンキュ、直兄」
と言うと伽羅と自身のパエリアを温めると食べて自室へと籠った。
春彦はネットで一番調べやすい東都ハイタワーホテルの噂を伽羅と共に調べた。
ホテルでのトラブルは真偽を別としても口コミで流れている時がある。
春彦はそこで幾つかのトラブル情報を入手した。
幾つかのホテル予約のブッキング。
従業員同士のいざこざ。
と爆破騒ぎを起こすほどのモノとは思えないトラブルであった。
他にもホテルの雇止めによる愚痴のような書き込みはあるが犯罪に走るような雰囲気では書かれていない。
だが、春彦はその内容をハンドルネームと共に紙に書き写した。
何がきっかけでそういう行動に走るのかについては感覚の違いと言うのがある。
春彦や伽羅にとっては『それでもそんなこと思いつきもしない』と思っても、そうでない人もいる。
情報の取捨選択は追々すればいいのだ。
翌朝、早々に隆から一覧の紙を渡された。
「これが一か月のスケジュールだ」
相変わらずの情報網であり、収集力である。
春彦はそれを受け取ると
「隆さんありがとうございます」
と言い
「一つ一つ潰していくしかないか」
とベッドからもそもそと起き出した伽羅を見た。
伽羅は欠伸をしながら
「ごめん、春彦。もう起きてたんだ」
と目をこすりながら告げた。
春彦は頷き
「爆破事件がいつ起きるか分からないからな」
行動は早い方がいいと思う
と告げた。
伽羅は頷きベッドから降りると
「顔洗ってくる」
と部屋を出た。
隆はそれを入口で避けながら見送り
「さて、じゃあ俺は朝食の準備をするか」
今日は直彦もいつも通り起きるだろうからな
とダイニングへと戻った。
そこに自室から出てきた直彦が立っており
「悪いな、隆」
流石に爆破事件が起きるのはな
と椅子に座った。
春彦も一覧を手に部屋を出ると
「直兄、おはよう」
俺、今日も色々行くから
「でも、夕飯までには戻る」
と告げた。
隆はそれに
「あー、いい、いい。夕飯は俺が用意しておいてやるよ」
オフだから
「ゆっくり直彦と次の作品の打ち合わせでもするさ」
と笑った。
直彦は嫌そうに隆を見て
「……飯」
と短く告げた。
春彦は一覧とネットで調べた情報のメモ書きをテーブルに置き
「ホールを利用した催しは大小合わせて20」
ネットで調べたトラブル情報は30件ほどだから的を絞らないとだよな
と呟いた。
直彦はその二枚の紙を手にすると
「…トラブル情報の9割は捨てていいだろうな」
と呟いた。
「ブッキングでトラブルだったとしてもちゃんと返金とランク上げての部屋替えだったら爆破事件起こす気にはならんだろう」
確かにである。
「警備員の態度が悪いって言うのもな」
確かに。
春彦はトラブル情報の幾つかを消し
「けど、雇止めって言うのとホテル側からの一方的な仕入れ変更については調べようと思ってる」
と告げた。
直彦はそれに関しては非を答えなかった。
隆はそれを軽く聞き流しながらベーコンエッグを作って皿に乗せると直彦の前に置き
「サスペンスなら犯人は最初に登場している場合が多いから春彦君ともう会っているのかもしれないな」
と笑った。
直彦はベーコンエッグを口に運びながら
「どんな根拠だ」
推理ですらないな
と言い
「パン」
と短く催促した。
春彦も「伽羅の言いそうな内容だ」と笑いながらサラリと流し、隆が置いたベーコンエッグに箸を伸ばした。
伽羅は顔を洗ってダイニングに戻ると
「おはようございます」
と挨拶し
「…今回は扉とパスケースと写真くらいしか手掛かりが無くて」
と溜息を零した。
春彦は隆から焼いたパンを受け取りながら
「扉のマークを覚えていただけでも良かったと思ってる」
と告げた。
それすら分からなければ、本当の手詰まりだったのである。
そして、催し一覧を見て
「先ずはこの連絡先が分かっている催しの団体から調べていく」
と告げた。
隆はそれに
「じゃあ、ホテルの雇止めトラブルについては俺が調べておいてやるか」
と自分のベーコンエッグとパンを置いて座った。
とにかく何時起きるか分からないのだ。
春彦は頷くと
「ありがとうございます、隆さん」
と応え、食事を終えると伽羅と共に家を出た。
直彦はゆっくり朝食を取り乍ら二人を見送りフムッと小さく息を付いた。
隆は彼を見ると
「何だ?直彦」
と呼びかけた。
直彦は少し考えながら
「…伽羅君の夢がおかしいと思ってな」
火の手の上がり方がな
と呟いた。
隆は真剣そうな直彦に
「いや、一応、夢だからな」
と笑った。
直彦は「…隆」と呟くに止め、立ち上がると
「取り合えず、雇止めの情報を調べておいてやってくれ」
どうせ打ち合わせは焦ってないんだろ?
と告げた。
隆は「わかった」と応えると
「じゃあ、昼前にまた来る」
と言うとマンションを後にしたのである。
陽光は東から登り、徐々に高度を上げながら南天へと向かっていた。
春彦と伽羅は20の団体に順に電話を入れて代表者を訪ねる確約を取った。
もちろん、日付の近い順である。
東京中心に展開する天丼屋の若松の社員大会に東宮学院高等部の謝恩会、などなど会社から学校、社団法人のシンポジウムなど利用する団体は多岐にわたっていた。
ただ救いなのは東京駅近くのホテルだったので本社や本部がそれほどかけ離れている訳ではなかったことである。
春彦と伽羅は一つ一つ訪ねて話を聞いた。
同時に伽羅が見た写真の女の子がいないかも調べたのである。
もっともトラブルを容易に話してくれる団体などなく、何処も軽くあしらう程度の話であった。
午前中に3団体の事務所を訪ねて話をして、午後に3団体回ってへとへとになりながら帰宅の途についた。
春彦は会話を全てICレコーダーにとっており、帰宅すると聞きながらパソコンでその団体について調べた。
一日。
二日。
と、成果はそれほどなかった。
それぞれの団体や会社の愚痴はあってもそれほど大きな話もなく、ネットでもヒットしなかったのである。
もちろん、少女の姿を見ることもなかった。
三日目の夜に隆が一枚の紙を春彦に渡した。
「これが今まで雇止めでもめた人物の名前と時期」
それと
「この下の段は今月末で雇止めされる人の名前だ」
春彦はヘロヘロになりながらダイニングの椅子に座って一覧を受け取り、目を見開いた。
「…あ、この人…」
覚えのある名前である。
伽羅は目を見開くと
「あの警備員の人と同じ名前だ」
と指差した。
そこには確かに『茂由健一郎 57歳 警備員』と書かれていた。
直彦も椅子に座りながら覗き込み
「茂由…というと」
と呟いた。
「確か桃源出版の今回の小説大賞の担当してた」
言って、ちらりと隆を見た。
隆はそれぞれの前に夕食を置きながら
「…ああ、途中で変わって…その後、事故起こしたんじゃなかったか…」
と言い
「茂由加奈子って名前だったな」
同じ茂由ってことか?
とぼやいた。
直彦は考えながら
「いや、本当にそうかどうかは分からないが…珍しい苗字だからな」
と呟いた。
春彦は二人を見つめ
「実は俺、伽羅の夢に違和感を覚えていたんだけど」
もしこの茂由という警備員が犯人なら
「説明はつく」
と告げた。
伽羅は驚きながら
「春彦、何?」
俺の夢疑ってたのか!?
と叫んだ。
春彦は肩を竦めると
「違うって」
伽羅、お前の夢であの第一ホールの中で爆発があった事が想像できた
「だが、廊下も燃えていた」
火の手は…一か所でなくて何か所もあったと思ったら
「良くそれだけ爆弾を仕掛けられたってことと、誰にも見つからなかったなってこと」
と説明した。
隆はちらりと直彦を見た。
直彦は黙って春彦を見つめた。
同じことを考えていたのである。
春彦は雇止めの一覧を見つめ
「けど、もしも警備員が犯人なら…可能だ」
と呟いた。
春彦は隆を見ると
「その茂由加奈子って子のことを調べてもらえますか?」
と告げた。
隆は頷いた。
「桃源出版の人間なら分かるからな」
春彦は東都ハイタワーホテルの催事一覧も並べて見比べながら
「なら、恐らく事件は直兄が出席する5月26日の大賞受賞式典で起きる」
と告げた。
直彦は隆が出した料理を食べ終え
「爆破犯が茂由ならば…どう止めるかだな」
春彦
「警戒心を起こさせるだけになったら見えないところで行動するようになる」
気をつけろ
と告げ立ち上がると自室へと足を向けた。
「ま、顛末は教えてくれ」
次の話にする
そうニッと笑った。
隆は苦笑を零しながら
「今回は、春彦君も自分の身の安全第一で動いた方がいいかもしれないな」
くれぐれも無茶は禁物だからな
と言い含めるように告げ、直彦と共に部屋へと向かった。
春彦は困ったように笑み
「…はい、気を付けます」
と答え、パクリパクリと料理を口に運んだ。
伽羅もまた隣で料理を食べながら
「けど、どうしたらいいんだ」
とぼやいた。
そう、こうしようとしているだろう、と追及するだけでは逃げるだろう。
そして、もっとわからないところで隠れて行動するだろう。
それではだめなのだ。
春彦は目を細め
「とにかく、あの警備員が伽羅の夢の犯人かどうかを調べて…時を待つしかないか」
と呟いた。
伽羅は春彦の言わんとするところが分からず首を傾げた。
外は既に闇に落ち、所々で街頭の明かりが瞬いていた。
翌日、春彦は伽羅に今日の夜には一度家に帰るように言い、その足で東都ハイタワーホテルへと向かった。
茂由の今後の行動を把握するためである。
5月26日が彼の勤務日であるかどうかの確認もあった。
この日、茂由は休みで春彦は良いチャンスだと捉え勤務日を聞いたのである。
『先日、ホテルの催事に来た時に親切にしてもらったので礼を言いたいのですが』
何時出勤されますか?と。
インフォメーションの女性はにこやかに
「そうね」
とパソコンを立ち上げて勤務表を見た。
春彦は慌てて
「あ、俺達、大学の記念日が26日なので25日の夜か26日くらいしか来れないですけどどちらか出勤されていますでしょうか?」
と問いかけた。
女性は頷くと
「ええ、25日から深夜勤務入っているので25日の夜から26日の午前中ならいますよ」
と告げた。
春彦は「そうですか、ありがとうございます」というにとどめ、親切に答えた女性に会釈してその場を後にした。
そして、ホテルを出たところで伽羅を見ると
「25日ホテルに宿泊する」
と告げた。
伽羅は目を見開くと
「え!?」
と声を上げた。
春彦は携帯を手に
「爆発物を仕掛けるとしたら25日の深夜の巡回のときしかチャンスはないだろうから、恐らくそこで実行すると思う」
その時に止めるしかない
と告げた。
ただ、と春彦は思うと
「今回は情報量が少ないから…半々くらいの自信だけどな」
と小さく笑った。
「伽羅の見たパスケースと『可愛い』女の子の写真の持ち主が分れば完璧なんだけど」
伽羅は頷きながら
「うんうん、すんげー可愛い子だった…けど!」
春彦、そこ強調し過ぎ!
と腕を組んで訴えた。
「俺は爆破を止めたいってことだからな!」
春彦は小さく笑って
「了解!」
と答え、前に書いておいてもらった少女の絵を見た。
何時の夢なら…核心的な何かを見ているのだが、今回は珍しくそれがない。
結局のところこの少女も分からないままだった。
伽羅が見た夢の光景が本当に5月26日のモノなのかどうか。
春彦は一抹の不安を感じつつも
「ホテルとの雇止めトラブルに桃源出版とのトラブル…そして、犯行が行える状況のそれぞれの点が交差しているのは5月26日と彼だけだ」
と呟き、伽羅から携帯を受け取るとホテルに宿泊予約を入れた。
二人は帰宅するとそのことを直彦に話した。
伽羅はここ数日のあいだ家に帰っていなかったので帰宅するように直彦にも勧められて家へと戻った。
春彦はその後にやってきた隆から茂由加奈子について聞いた。
隆は手帳を開け
「桃源出版の知り合いに聞いたんだが、茂由加奈子は今回の小説大賞のプロジェクトの一員だったんだが従来の審査員と出版社で決める方針に異を唱えていたらしい」
元々彼女は作家志望で出版社の道を選んだらしいから思いがあるんだろうな
「それで出版社の上と揉めて交代することになったってことだ」
と説明した。
春彦はそれに
「もしかして…それが原因で自殺したとか?」
と小さな声で問いかけた。
隆は首を振ると
「いや、帰宅途中に対向車のはみ出しを避けようとして電柱にぶつかったので本当の事故だ」
それに
と言葉を続けた。
春彦はその続けられた言葉に驚いたものの、もしもボタンの掛け違いがあったならば十二分に動機にはなると考えたのである。
夜の帳は静かに街を包み、刻一刻とその時に向かって時間を刻んでいた。
翌々日の午後。
5月25日の午後のことである。
春彦は昼食を終えると直彦と隆を見て
「必ず止めてくる」
と言うと伽羅がやってくるのを待って家を出た。
隆も流石に心配になって来ていたのである。
彼は春彦が出ていくのを見送り窓から外を見ると後ろでお茶を飲んでいる直彦を見た。
直彦は一息つくと
「春彦と白露が偶然でも会うってこと自体が…因縁めいてるな」
と苦く笑った。
隆は短く
「ハハッ、そうだな」
夢で言っていたパスケースの女の子も
「…かもな…」
と返した。
直彦は「そうだな」と答え、携帯を手にすると
「念のために末枯野に連絡しておくか」
警察の人間なら何とかするだろう
とダイヤルボタンを押した。
春彦と伽羅は予定通りにホテルにチェックインしてホテルの部屋へと入った。
室内は清潔で人気のホテルが分かるくらいに広く高層階だけに眺めも良かった。
だが、それを純粋に楽しむことはできなかった。
春彦も伽羅も携帯でアラームをセットすると早々に睡眠をとった。
今回は夜が勝負なのだ。
夜中が勝負なのだ。
ホテルでは相変わらず人々が多く集まり彼らの部屋から遥か下の階では賑やかな笑い声が響いていた。
陽が傾き、早々に西の空に落ちると夜の帳が東京の町に広がった。
賑やかだったホテルも夜の11時を超えると静寂が広がり人の姿も殆どなかった。
春彦と伽羅は携帯と懐中電灯を手に部屋を出ると泊っている15階の非常階段の扉前に立った。
構内図は頭の中に入っている。
問題は巡回時間と経路である。
ホテルの中でもフロント周辺と客室階以外は闇が広がっている。
その中で警備員を探さなければならないのだ。
彼が爆発物を設置する前に見つける必要がある。
春彦は扉前に立ち尽くした。
伽羅は彼の顔を覗き込み
「春彦、見つからないように行くんだろ?」
と問いかけた。
そう、警備員なのだから巡回に出る前に防犯カメラの画像はチェックしているだろう。
それに引っ掛かっては反対に警戒されてしまうかもしれない。
そう考えたのだが…春彦は、いや、と考えると
「その方がいいのか?」
と呟いた。
春彦は伽羅を見ると
「エレベータで移動しよう」
と言うとエレベータの方へと移動した。
伽羅は首を傾げつつ春彦についてエレベータへと移動した。
15階から1階へと移動した。
1階2階は店舗や催事ホールなので既に消灯され非常用明かり以外はなかった。
あとはフロントだけである。
フロントには一人の男性が立っており、二人を視界に入れると一礼した。
春彦は足を進めると男性の前に進み
「すみません」
と呼びかけると
「今日の深夜勤務の警備員は茂由さんですよね」
と告げた。
フロントの男性は
「はい、お客様は茂由のお知り合いでしょうか?」
と聞いた。
春彦は頷くと
「はい、知り合いと言うほどではないですが…先日、このホテルに来た時に声をかけてもらって」
と答えた。
伽羅はそれに
「…警戒心丸出しの声掛けだったけどな」
と心でぼやいた。
フロントの男性は「そうでしたか」と言い
「呼びましょうか?」
と聞いた。
春彦は首を振ると
「いえ、仕事の邪魔をしては迷惑になるので…良かったら警備室はどの辺りに」
と聞いた。
男性は「ああ」と言うと構内図を出して
「警備室の中には入れませんが警備室はこちらで扉の前に呼び出し用のインターフォンがあります」
と告げた。
春彦は覗き込んでみると
「わかりました」
ありがとうございます
「明日の朝にでも訪ねてみます」
と踵を返した。
爆発物を設置する場所で一番確実に分かっているのは第一ホールである。
後は予測でしかないが二階の吹き抜けでない廊下の奥からも火の手が上がっていたというのだから両側の奥にも爆発物を設置する可能性がある。
こういう場合、巡回時間と経路が分ればその後追いができる。
いや、上手くいけば爆発物を持ち出したところを掴まえることができる。
今度こそ春彦と伽羅はエレベータに戻る振りをして二階で降りて一階にある警備室へと向かった。
巡回前に捕まえるができればベストなのだ。
間に合え。
と春彦は思いながら警備室の前の通路にたどり着いたとき、ちょうど部屋から一人の男が姿を見せた。
巡回には不似合いの大きめの紙袋を持って姿を見せたのである。
春彦は足を進めると男が先日ホテルで見た茂由健一郎だと理解すると
「こんばんは、茂由さん」
と声をかけた。
茂由健一郎は警戒するように春彦と伽羅に目を向けた。
「…君たちは…あの時の爆発とか言っていた」
春彦は紙袋に目を向けると
「やはり、その言葉に反応したんですね」
と言い
「その袋の中身…見せてもらえますか?」
と聞いた。
茂由健一郎はスッと動くと春彦の懐に飛び込み鳩尾に一発食らわせた。
不意打ちである。
伽羅は慌てて
「春彦!!」
と駆け寄りかけて警備坊で殴り倒された。
茂由は鳩尾を押さえながら蹲る春彦を見下ろし
「お前に何が分かる」
娘はあの桃源出版に裏切られて…今もまだ意識不明だ
「運転に人一倍気を遣う娘が事故に合うはずはない」
あの日の朝に家を出る時から落ち込んでいた
「会社を首になるかもしれないと」
俺もだ
「57歳で20年も務めたここを行き成り雇止めだ」
しかも元々その契約での契約更新をしなかったなんて
と拳を握りしめた。
春彦は咳込みながら
「ちが、加奈子さんが…この大賞の役員を降りたのは」
彼女の提案で動き出したWEB小説大賞の…プロジェクトに加わったからで
と言い、ふらりと立ち上がった。
「確かに貴方の悔しい気持ちは分かります」
でも、だからと言って
「多くの関係のない人を巻き込んで死なせれば…ただの人殺しになります」
今ならまだ間に合う!!
今なら!
茂由は袋を持って
「嘘をいうな!」
騙されるか!
と春彦に警棒を振り上げた。
伽羅は傷みを押さえて
「春彦!!」
と立ち上がりかけた。
瞬間に横から影が飛び出しその警棒を掴んだ。
「彼の言う通りだ」
今ならまだ間に合う
「だがそれを設置して人を殺せば…あんただけじゃなく娘さんの心にも深い傷を作ることになる」
犯罪するのに娘さんを理由にするな!
「それは娘さんにもこれから犠牲にする命を背負わすことになるんだぞ」
茂由は目を見開くとふらりと警棒から手を放して座り込んだ。
警棒を止めた男は袋を手にすると
「茂由加奈子さんは本当に事故だ」
彼女はそんな弱い人間ではないはずだ
「対向車線からはみ出した車を避けようとしてハンドルを切り電柱にぶつかったんだ」
それは警察の調書でも確認できる
と告げた。
春彦は咳込みながら男を見た。
男は春彦を見ると
「本当に夏月に似ているな、君は」
と笑みを浮かべた。
そして、茂由を見ると
「警察に自首して話せばそれほどの罪にはならない」
設置すらしていないのだからな
と告げた。
その時、後ろからスタッフの一人が駆け寄り
「あの…何か?」
と聞いた。
男は笑み
「いえ、別に」
と言い
「何か?」
と聞いた。
スタッフは茂由を見ると
「ああ、茂由さん。娘さんの意識が戻ったそうです」
今病院から電話があって
「取り合えず行ってあげてください」
と告げた。
茂由は大きな声で号泣すると男に
「すみませんでした」
と言い、彼の車で病院へと向かった。
春彦と伽羅も男が勧めるまま車へと乗り込み同行した。
茂由は彼の娘である茂由加奈子に話を聞き、その足で警察へと向かった。
男はそれを付き添って警察の前で待っていた春彦と伽羅の元に戻ると
「俺の名前は末枯野剛士だ」
春彦君、君のお兄さんに頼まれてな
「様子を見に行った」
と胸元から警察手帳を見せた。
…。
…。
呆然とする春彦に末枯野は笑いながら
「夏月とは中学からの親友でな」
君のことは津村からも聞いていた
と告げた。
「事件を夢で見る友人と探偵しているってな」
春彦は「え!?いや俺は」と思ったものの溜息一つで流した。
しかし。
今回のことは余り自信がなかった。
春彦は携帯を取り出し
「この女の子の知り合いが分ればな」
とぼやいた。
末枯野はそれを見ると静かに笑み
「…太陽ちゃんだな」
と言い
「朧と…いや、津村の姪だ」
と告げた。
春彦と伽羅は顔を見合わせると
「「じゃあ、あのパスケースは隆さんの」」
と同時に呟いた。
二人は末枯野の車で帰宅し、直彦と隆の出迎えを受けて家の中へと入った。
直彦は末枯野を見ると
「悪かったな」
と言い
「東雲は元気か?」
白露には春彦が会ってな
と告げた。
末枯野は笑むと
「ああ、東雲も白露も元気にはしているな」
と返した。
「もし、会えるようになったら…会ってやってくれ」
あいつらを救えるのはお前だけだからな
直彦は彼をじっとみて
「…そうだな、お前に誤魔化しはきかないからな」
隆もだが
と返した。
末枯野はハハと笑って
「まあ春彦君のことは警察官として事件を未然に防いでくれるのは助かる」
ありがとうな
「津村も夏月のことを頼む」
と言い車に乗り込むと立ち去った。
隆は「またな」と手を振って見送った。
夢は幻となり事件は解決したのだ。
この時、深い闇の夜の明け、明るい陽光が東から射し込み始めていた。
茂由健一郎は事情聴取をされたが、それほどの罪にはならず釈放された。
また、東都ハイタワーホテルの雇止めに関しても大きくテレビで取り上げられ、不当に自主退職させられた人々の声も届き、経営陣に責任追及の声が上がったのである。
二日後、春彦は恋人の神守勇と穏やかな午後を部屋で送っていた。
そこには伽羅と、また勇と仲の良いTGU10というアイドルグループの一人北城ルキこと赤坂留貴の姿もあり、春彦と伽羅は今回の話の顛末を彼女たちに話した。
勇はそれに
「そうなんだ、チャラ男くん。良かったね、出禁にならなくて」
と笑い、春彦から見せられた少女の姿を見ると
「本当に可愛いね」
でも
と呟いた。
同じように留貴もまた「そうだよね」と言い
「何となく目の色が直彦さんに似ていたりして」
としょんぼりと小さくつぶやいた。
それに春彦と伽羅は笑いながら
「「いやいや、隆さんの姪だから、関係ない」」
と言い、不意に春彦は「あ」と声を上げると唇を開いた。
「そう言えば、今回は隆さんの推理があってたんだ」
犯人は最初に登場している場合が多いから春彦君ともう会っているのかもしれないな…て
伽羅はそれに
「けど、直彦さんが『根拠もなければ推理もない』っていうな」
と笑った。
彼らの笑い声は窓の向こうの青い晴れ笑った空に吸い込まれていった。
END
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があります。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。