1-2:紫の長い髪の女(1)
彼は立ち上がると本を物書き机に置き、部屋の明かりを絞ってから引き戸になっている扉の前に立つ。分厚い遮光カーテンが閉まっていることもあり、個室の中は相当暗くなった。寝台の布団が盛り上がっていても、気付きにくい……と思う。
転がっていた私の旅行鞄を壁際に寄せると、彼は少しだけ引き戸を開き、不機嫌そうな声を廊下に向けて発する。
「切符ならこれ」
「ありがとうございます。……はい、確かに確認しました」
「部屋の中を随分と暗くしてるんですね。中を確認させて頂くことは可能でしょうか」
追手の男の声が聞こえる。布団の隙間から見えるのは、扉の前に立つ彼の背中だ。彼はできるだけ中を覗かれないように立ってくれていた。
彼の身体の隙間から廊下にいる相手の服がほんの少し見えて、私は身を固くする。
もしも無理に入ってきたら、開いている窓から飛び出して逃げられるだろうか?
「暗くしてたら悪い? 何を疑われてるのか知らないけど、いきなり失礼だな」
「いえ、そんなつもりは……。お変わりはないですか? 不届き者がこの列車に紛れ込んでいると通報があったもので、私達が確認しているんですよ」
「変わりはないよ。不届き者とは怖いな、早く捕まえてくれ。あと部屋が暗いのは僕の趣味。僕の精霊は暗いところが好きだから、その影響かな」
廊下にいる者達が、はっとしたような空気を感じた。
「そうか、その服はセイレン精霊研究学校の制服――」
「しかも名誉島民候補生……これは失礼しました」
急に追手の男達が丁寧になる。
「そう畏まらなくていい。ただ珍しいだけの存在だよ」
自嘲気味に彼が笑うと、「いえいえ!」とあののんびり声の車掌が否定した。
「精霊と人間が良好な関係にあるために、必要な存在です。大事な役目ですよ! この特別列車だって、精霊のおかげで通常の倍の速さと長時間の運転が可能なんですから。もし精霊が人間嫌いになったら困ります」
他が一瞬黙ってしまい、熱くなり過ぎたのに気付いたのだろう。車掌はややトーンダウンして「まあ、十日に一度しか運行してませんけどね」と付け加えた。
「はは、ありがとう。……じゃあもういいかな」
引っ込もうとすると、追手の男の片方が待ったをかける。
「すみません、失礼ついでに一つご確認させてください。お一人での旅ですか? 誰か、同乗を頼んできた者はいませんでしたか」
「まだ疑ってるの? しつこいな。僕は帰省が終わって学校に戻るところなんだ。付き人に当たる者が二等車にいる。キタシラカワ伯爵家の使用人だ」
「伯爵家!? ではあなたはキタシラカワ伯爵の」
「不肖の息子。もしそれも疑うなら……ああ、身元を疑われるなんてされたことないから、どうすればいいかわからないな。父に問い合わせてもらおうか?」
「い、いえ。本当に失礼しました」
最後に車掌が「良い旅を」と声をかける。扉が閉められる寸前、車掌が「この車両の予約は、この部屋だけですね」と言っているのが聞こえた。
扉を閉めた彼は当然のように鍵をかけた。
そしてそのまま扉に耳を当てて、通路の様子を窺う。私も黙って布団の中に丸まったままだ。
予約はこの部屋だけって本当に? 情報が間違っていたの?
『乗るなら、二両目の後ろから二番目』
トウカを目指すのなら、この列車のこの部屋だと聞いた。てっきり、空室に忍び込めるのだと思っていたけど。まさか客がいる唯一の部屋に乗り込んでしまうとは。
でも逆に人がいたからこそ、こうして脅して匿ってもらえたともいえる。
私のもらっていた唯一の情報――占い結果は、そういう意味だったのだろうか。
にしても、脅すことになった相手がキタシラカワ伯爵家のご令息だなんて……。
あまりに想定外のこと過ぎて、現状を整理しているだけでも軽いパニックになりそう。
そのうち、外の気配を窺っていた彼が扉から離れた。開いていた窓を閉めて、そちらにも鍵をかける。
そうして完全な密室になって――たぶん外に音がほとんど聞こえない状態になってから、ようやく話しかけてきた。
「ここは防音もしっかりしてる。小声なら話しても大丈夫だ。あいつらは車両を移動したみたいだしね」
部屋の明るさを最初と同じくらいに戻して、彼が近くに戻ってくる。
寝台の向かいには物書き机と椅子がある。噂の一等客室は余裕のある立派な作りだ。彼は椅子を横向きにずらすと、背もたれに体の右側を預けるようにしてこちらを向いて座った。
私も布団から出て、寝台に座って彼と向き合う。
「紫の、長い髪の女」
私を見て、彼が男達の言っていた言葉を口にする。
布団にくるまったときにつけていたスカーフがずれてしまい、アップにまとめた長い濃い紫色の髪が見えてしまっていた。
「たしかコラク公国の第二王女も、長くて綺麗な紫の髪が印象的なんだって一部ではよく知られてるね?」
膝に置いた手に力が入る。彼はどこまで察しているのだろう。
「つい先日、特区だったコラク公国は完全に僕達の国――このティシュア帝国に併合されると発表された。ここのところ、新聞を賑わせている話題だ」
険しい顔のまま、私は黙り込んで自分の手元を見つめていた。彼も話すのを止めて黙る。
そのうちに汽笛の音と共に列車が動き出した。彼が立ち上がってカーテンの隙間から外を覗いてすぐに戻る。
「君を探してたやつらはホームにいたよ。この列車は違うと判断したんだろう。よかったね」
「ありがとう、助かったわ」
私はようやくほっとして、体の力を抜く。これでなんとか目的地に向かえる。
「ねえ、君はトウカに行きたいんだよね?」
「え、ええ、そうだけど」
妙に馴れ馴れしく楽しげな空気が私を警戒させた。
「ということは、この列車が目的地に着くまで君をこの部屋に匿えば僕の仕事は終わっちゃうな。簡単すぎて面白くない。君、他にしてほしいことはない?」
「急に何……」
一体どういうつもりだ。
怪訝な顔をしても、目の前の相手は気にしなかった。
子供みたいなキラキラした目で、楽しみな旅行の話でもするように、私の逃亡先について聞いてくる。
「トウカに着いたあとはどうする予定なの? その後の予定にもぜひ僕を噛ませてほしいな」
「状況わかってる? あなたは脅されて私を匿ったのよ。それだけなの」
「ああ、そういうポーズが必要? なら脅されてることにしとくから安心して」
「いや、ポーズというか……」
なんなのだろう、この人。まさか私の協力者になるよう誰かが手を回した?
いやあり得ない。それならさすがに連絡がある。彼だって、私が誰なのかもっと確信を持って接してくるはずだ。
急に乗り込んできてナイフを突きつけてきた相手に、どうして彼がこんな態度をとれるのか、私には理解不可能だった。
「聞こえていたかもしれないけど、僕はこれでも伯爵家の息子だ。いろいろと便宜を図ってあげられることも多いと思うけど」
「…………」
「見る限り、君の旅路はだいぶ前途多難そうだ。僕の協力が得られれば、だいぶ楽になるだろうね」