1-1:特別寝台列車
「まもなく、五番線からトウカ行き特別寝台列車が発車しまーす。ご利用のお客様は、お早めにお乗りくださーい」
どこか間の抜けたような声の、背の高い車掌がのんびりと、でも慣れた調子で歩いていく。
客でごった返すホームを、私はその車掌の後に着いて進んでいた。人混みの中を歩くのに彼の後ろはちょうどよい。できるだけ顔を上げずにいたい場合には、特に。
わがままを言えば、もう少し歩くのが早いと嬉しいけど。
「おい! 女を見なかったか? 濃い紫の長い髪の女だ。背はこのくらいで二十歳くらいの――」
背後で気になる声が聞こえた。私は頭を覆うように被っているスカーフの結び目を、片方の手でぎゅっと握る。小さな旅行鞄を持つ、もう片方の手にも力が入った。
振り向いて確認したい。でも妙な動きをすれば目立つ。
蒸気機関車を始めて見てはしゃぐ小さな子供が、足元をすり抜けるように走って行く。一瞬びくりとした。
私は車掌の後をつけるのをやめて立ち止まる。焦ってしまうのを堪えながら、ポケットから少し前に買った切符を取り出す。手のひらに握りこむようにしながら確認した。
――ホークス行き特急列車、三等車。
切符にはそう書いてある。白い紙の中ほどには、三等車の印である赤い線も入っている。
ホームでごった返しているのは、向かいに止まっているマッサ行き列車の客と見送りの者達だ。のんびり声の車掌は一両目のほうへ向かっており、こちらには背を向けていた。
誰にも注目されてない。乗ってしまえばこちらのものだ。
私は手元の切符と目の前の列車の表示を見比べ、「ああ、ここね」みたいな顔で乗り込んだ。
トウカ行き特別寝台列車一等車に。
一等車の利用客は少ない。価格のせいでほとんど乗る者がいないという噂だ。潜りこめさえすれば、ほぼ人に会わずに済む。
まだ捕まるわけにはいかないのだ。なんとしても目的地には辿り着きたい。その先に何が待っていても。
車両の後ろから乗り込んだ私は、神経を研ぎ澄ませながら通路を前方へと進む。全部で三つある個室のドア。目的の場所は決まっている。
『二両目の後ろから二番目』
そこならば、空室で誰も乗ってこないはずだ。
この情報は確かな筋からの――
「え、どうして?」
個室の扉には鍵がかかっていなかった。人の気配も感じなかった。だから完全にその先の光景は想定外だった。
「……何か?」
そこにいたのは、少し変わったデザインの黒いロングコートを着た綺麗な男だ。寝台に腰掛けており、膝には読みかけらしい本が開かれている。
窓には厚いカーテンが引かれ、柔らかな色の照明がつけられている。昼過ぎなのにもう夜のようだった。
予想していなかった事態に、私は固まって彼を凝視する。彼はこてんと首を傾げた。
「紫の、長い髪の女だ。ホークス行き特急列車の切符を買っている」
外からそんな声が聞こえてびくっとする。カーテンの向こうからだ。彼は窓を少し開けていたらしい。閉めててほしかった。
「ホークス行き特急列車? お客さん、この列車はトウカ行きですよ。ホークス行きは二番線です。ここは五番線」
答えたのはのんびり声の車掌だ。追手の男達に呼ばれて戻ってきたのか。
彼らはよりによって窓のすぐ近くで話している。
「わかっている。だが探している女はトウカを目指す可能性がある。この列車に潜り込んだかもしれない。俺達と一緒に一等車にいる者の切符を確認しろ」
「一等に乗れるような客の機嫌は損ねると面倒だからな。二等と三等はこっちで勝手に見て回るから問題ない」
追手の男は少なくとも二人だ。車掌は「そんなあ」と言いながらも渋々ながら承諾した。おそらく私と同じく二両目後方から乗り込んでくる。
硬直したまま窓のほうを見ていた私に、同じく窓に視線を移していた彼が振り向く。
ここに留まるか、今すぐ隣の部屋に駆け込むか、それとも窓からホームへ逃げ出すか?
迷ってる場合でなかった。この部屋に潜む予定を続行する。となれば――
私は滑りこむように部屋に入って扉を閉めると、座ったままの彼へ距離を詰める。落とした旅行鞄が扉の前に転がった。
「喋らないで」
隠し持っていたナイフを首に触れるギリギリまで寄せる。
「私を匿って。そうすればあなたに危害は加えない。もちろんタダでとは言わない。それなりの謝礼はするわ」
「君は――」
見上げてくる彼は驚いているけど、怯えてはいなかった。
「断るならここで死ぬことになる。死にたいの?」
二の腕を掴んでいる左手に力を込める。彼は目を見開いたあと――なぜか、にやりと笑った。
「それはそれで悪くない気もする」
「は?」
「でもやっぱり、死にたくはないな。だから君の望みを聞こう」
彼はやけに好意的な顔をこちらに向ける。脅されてるのに。
あれ? これ、正しい選択? ここから出て別の個室を狙ったほうが正解だったんじゃない?
不安がよぎったところで、コンコンとノック音がした。
「すみませーん、ちょっと早いんですが切符の確認よろしいでしょうか?」
来た。ばっと扉のほうを向くと、とんとんと腕を叩かれる。彼もまた真剣な顔をしていて、無言のまま座っていた寝台の布団をちょっとめくった。
私は彼を睨んだまま体を離すと、すっと場所を入れ替える。
信じるしかない。
私はベッドに入って布団を頭まで被った。ちょっとだけ隙間を作って、彼の様子を窺う。