六
大教室に入ると、新入生達が集まり、喋り声があちこちで反響してざらざらした空気に包まれていた。
一緒に来た輪廻と空席を探して、当然のように並んで座ると斜め前の席に、昨日輪廻に怯えて離れていった女生徒たちが居るのが見えた。
俺たちが席についたのに気づいた女子生徒が、こちらを振り返る。
「あ、輪廻〜!おはよう!」
「輪廻来るの早いじゃん、意外〜」
「美咲ちゃん、七海ちゃん、おはよぉ」
昨日の様子とはうってかわって、やけに親しげに手を振ってくる彼女に面食らっていると、挨拶をした輪廻が俺を手で示しながら勝手に紹介を始める。
「あ、2人とも、こちら雅楽代君やで〜」
「よろしく」
軽く会釈すると、2人ともちょっと顔を見合わせてから笑いかけてくる。
「私、情報学部の長谷川美咲。キミ、昨日輪廻に絡まれてた人だよね!ウタシロくんって言うんだ」
「あ、私は法学部の小野寺七海。ウタシロってどんな字書くの?」
それから、お喋り好きな彼女たちに苗字の漢字やら、どうして輪廻に絡まれたのか、出身地などさまざまな事を聞かれているうちに、予鈴が鳴る。
「なんか、蓮水くんって顔面と中身ギャップあんね!」
「そうかな」
どういう意味かと首を傾げると、どうやら幼馴染同士らしい小野寺さんが、発言の主である長谷川さんをギョッとした様子で止めにかかる。
「ちょっと、やめなよ美咲。失礼だよ」
「良い意味だよ〜、すごいクールそうなのに、案外喋りやすいなって」
焦った様子の小野寺さんとは対照的に、女性に対して失礼かもしれないが、にっとしたやや豪快な笑みを浮かべた長谷川さんが首を傾げると、大きめの三角形の金色のピアスが照明を反射した。
「そうかな、ありがとう?」
「えぇ?そこ疑問系なの〜?」
笑った長谷川さんに釣られて笑っていると、階段下の入り口から昨日の事務員がのそりと入ってくる。
ふと、何気ないことなのだが、昨日とは様子が違うのが気にかかった。神経質そうな顔立ちはそのままだが、遠目にもわかるほどその顔色は青白い。
しかしすぐに、覇気の無いその背中を追うように、続けて教室に入ってきたモノの所為だと言うことがわかった。
湾曲したガラス同士をすりあわせたときのような音を発しているそれは、人間のような形をしてはいた。ただ、人間の頭部に該当する場所、その上半分の上頬から額までの間の面に、蓮の実を思わせるような穴がいくつも開いており、その空洞のいくつかには、いくつかの眼球が収まっている。肌は人間のものとは思えないねずみ色をしていて、痩せ細った腕がだらりと地面に垂れ下がって地面についていた。
「えー、それでは。昨日に引き続きガイダンスを始めます。皆さんに割り当てロッカーの説明を……」
マイクをとって、昨日よりはやや弱った声で説明を始めた事務員の背後から、無数にある眼球がバラバラに動いて、忙しなく辺りを見ているようだ。それが身につけている着物の合わせ目が大きく開いていて異様に膨れ上がった腹が露出している。露出した丸い腹は、下腹に行くにつれて紫色に変色していた。
「そして、学部ごと1班8名の小さいグループを作り、ゼミの前身として授業時間を……」
ガイダンスの内容が全く頭に入ってこない。ぎょろぎょろと辺りを見回しているそれと目が合わないように、ピントをずらしてなるべく自然に輪廻の方を見ると、輪廻は閉じていた瞼を開けて、俺の方に視線を向けてうっすらと笑みを浮かべる。
りりり、と鈴の音が聞こえて、またその細い首に紅い紐が絡まっている姿が、フラッシュバックするようにチカチカと脳裏に焼き付いた。
(大丈夫やで)
軽い目眩に眼を瞬かさせられていると、輪廻がこちらに体を寄せて内緒話をする子供のように小声でささやいた。
一体なにが大丈夫なのか問いたかったが、それもすぐ事務員の後ろに立っているモノが動いたせいで言葉に出来なかった。
『ひとぉつ』
しわがれた声でそう言ったそれは、やけに短く太い足を一歩一歩動かして、事務員から離れていく。どこへ行くのかと思っていると、それはずりずりと腕を引きずりながら階段を上り始めた。
『ふたぁつ』
一段、一段、ゆっくりとこちらに向かって上ってくるそれは、穴しか無いがおそらくは鼻であろうそれをひくつかせて、辺りの匂いを嗅いでいるようだ。
ゆっくりだが確実に近づいてくるそれに、思わず視線を下に向ける。ひやりとしたモノが背中を伝って、周りの音が遠のいていった。
『とお あまり やつ』
ノイズがかったしわがれた声が降ってきて、机に落としていた視線を少しだけずらすと、それは俺たちの座っている真横には来ていない。前の席の、長谷川さん達の真横で彼女たちを凝視していた。
『ふたぁつ、しかり、しかぁり』
口の端がとんでもない角度につり上がる。それが大口を開けた拍子に、ガラス同士を擦ったような音の正体は、口の中にびっちりと並んだ黒い歯がこすれた音だと言うことに気がついてしまった。
そこで、何を喜んでいたのかのにも気がついた。目の前でいま行われるのは印付け、彼女たちに目印をつけておいて、これは、長谷川さんと小野寺さんを喰う気なのだと。
目の前であんぐりと開けられるそれの口から、透明な滴が糸を引いてぼたりと落ち、彼女たちの座っている机の上にシミを作っていく。焦りでじっとりと湿っている掌を握りしめ、早く大きく拍動する心臓の音が、鼓膜を直接叩いているように感じて煩わしい。
これから目の前のソイツによって行われようとしている行為を、見て見ぬ振りをするなんていうことは、どうにも出来そうに無い。
『ありもしないモノ』が、『ある』と知っていて、それによってもたらされる理不尽に対抗する、目の前にあるこの『ありもしないモノ』を退ける手段を知っているのだから尚更だ。
チラリと隣に居る輪廻の事が一瞬思考の端を過ぎったが、この力のお陰で起こってしまった過去の事を思い返している場合では無い。
今は兎に角、やるしか無いんだ。
息を吸って、集中するために眼を閉じる。眼の奥がじわりと熱くなって、そして瞼の裏の明るい闇に熱が広がり蒼色が伝播していく。小さく息を吸って、覚悟を決める。
瞼を開いて、それを見た。
それも、俺を見ていた。
『あなや そは はまの……』
そこから先はしわがれた叫び声になって聞き取れなかった。
鼠色の肌が裂け、みるみるうちに爛れて赤い肉を露出させていく。赤黒い雫を滴らせた醜く膨れ上がった腹が、急に空気を入れられた風船のように膨張していった。
『ああ あああ くちおしい』
後ろに反り返ったそれの頭部から、憎々しげな声が響いてくる。
『ひと ひと ひと あ あ ああ あああ』
最後はしわがれた声で、力なく声を上げて動かなくなった。
しかし視線を外すわけにはいかない。目の前のそれが消えて無くなるまで、視線を外してはいけないのだから。目の奥が炙られるように、ジリジリと熱くなっていく。
「あ」
隣から、小さく輪廻の声が聞こえてハッとしたが、時すでに遅し。
大きく膨らんだそれの丸い腹から、死んだ魚の胃袋の中身ような、黄ばんだ白色の液体が破れた箇所から溢れ出し、前の席の2人が着いている机の上一面を汚し、弾けた雫が彼女たちの横顔を汚した。
俺の方に飛んできた雫は、俺にかかることはなく辺りでじゅっと音を立てて掻き消える。
しかし彼女たちはそれに気付かない。視えていないのだから、気づけない。
目の前で繰り広げられた、そんな消え方をしなくても良いじゃないか、なんて口に出しそうになるほどの惨劇を、脱皮したあとのようになってしまったそれと、腹の内溶液がかかってぐちゃぐちゃになってしまった彼女たちから、滴る液が煙を上げて消えていくまで見つめていく。
彼女たちから液が完全に消えて、じりじりと炙られるようだった目の奥の熱がふっと消え、自然とため息がこぼれる。息を吐き出すのと同時に、ふと気付いた。
隣に座っていた輪廻も、同じようにあれの腹の内容液の被害を被ったのではないかと。
慌てて隣をみると、咄嗟に手のひらでうけとめたのだろう。そこから内容液を滴らせた輪廻が、滴るそれを見つめている。嫌な予感がした。
「り……」
最悪な事は立て続けに、思いもがけず起こってしまう。
俺が声をかける前よりも早く、輪廻はそれを舌で掬った。嫌そうにするでもなく、感情の抜け落ちたような瞳で、その液体を見つめてから、文字通り舐め取った。
声をかけることなんて、できるだろうか。
慌てて前を向き、なんのことはなく続いているガイダンスへと意識を向けようとする。
うまくは行かなかったが。
声を、かけるべきだったんだろうか。
そんな、後悔のような何かが胸の内にモヤとなって残ってしまった。