五
隣の住人は喧しそうな見た目に反して、夜は静かなタイプらしい。
このボロアパートの薄い壁なら、生活音くらい聞こえてきそうなものだったが、夜の間本当にそこにいるのか疑うほど静かだった。
「あ」
おかげさまでと言うべきか、今日1日で体験した諸々のせいか、どっと疲れが出て夜はぐっすり寝入ったのだが。
「おはよぉ」
朝から、人懐こい笑みでそう言った九十九輪廻。
待ち伏せされていたわけではないが、全く同じタイミングでドアを開けてしまったのだからこうなるのは当然の流れなのだろうか。
そう思いながらも、改めて九十九輪廻を見る。
スーツオーバーサイズの黄色っぽいペイズリー柄のシャツに、ロングカーディガンを羽織っている。そして、ぴったりした暗いブラウンのパンツ。
昨日はスーツで気が付かなかったが、個性的なオーバーサイズの衣服からも、一瞬目を疑うような異常な程の痩躯が見て取れた。
「……おはよう」
「方向も一緒なんやし、一緒にいこや」
挨拶を返して横を通り抜けようとしたが、当然のように横をついてくるので、小さくため息を漏らしてしまった。
春先の朝は、割と冷える。ため息は白くなって、口から出ていった。
「あんま夜寝られへんかったん?」
ため息をついて俯いた俺を、心配そうな顔をした九十九輪廻が覗き込んでくる。丸い眼鏡の奥でぱちぱちと上下する金の睫毛に少しくらりとして、「大丈夫」と一言答えるので精一杯だった。
「雅楽代くんて、一人暮らしって事は地方出身なん?」
何が嬉しいのか、にこにこしているのを横目に見ながら、俺は腹を括った。
「いや、T京だよ」
そういうと、少しの間をもって、九十九輪廻が口を開く。
「そうなんや、でもそんな感じやな。雅楽代くんシュッとしてるし」
「しゅっ……?」
首を傾げてやや高いところにある頭を見上げると、やはり何が嬉しいのかわからないが、にこっと笑う。
「イケメンさんやなぁて」
「……出身関係あるか?」
軽い言葉に、眉を顰めてしまった自覚がある。でもそう言った俺に、九十九輪廻はんふふと妙な笑い方をする。
「そうやね、大都会と雅楽代くんのイケメンは関係ないな」
そこにきて、揶揄われているのだと分かった。
「……なんでやねん、って言うとこか?」
片眉を上げてそういうと、んふんふ笑っている九十九輪廻はキョトンと目を丸くしてから、また笑う。よく笑う奴で、厳つい見た目ほど、悪いやつじゃなさそうだ。なんて、ついつい思ってしまうような人懐こい笑みだった。
「案外ノリええんやね、雅楽代くんて」
「九十九くん程じゃないけど」
俺がそう言うと、笑顔だった顔がにんまりとした、ちょっと意地の悪いものに変わる。
「輪廻でええよ」
大して身長も変わらないのに、少し屈んで俺の顔を覗き込んでくるのを、歩きながら見つめる。
「じゃあ、俺も蓮水でいいよ……輪廻」
俺がそう言うと、九十九輪廻、改め輪廻は口をあんぐりとあけた間抜け面で足を止めた。半ば冗談というか、嫌味のようなつもりで言ったのだが、間抜けなそれにつられて俺も足を止める。少しの間、ぽかんとした顔を見ていたが、がしりと腕を掴まれて面食らう。
「ええの!?」
頬を赤らめて、目を輝かせているように見える輪廻の手は、勢い良く俺の腕を掴んだにしては、全く力は入っていない。
「お前が先に名前で良いって言ったんだろ...?」
考えてみれば、相手を名前で呼ぶのなんて、中学生の時以来な気がして、少し小っ恥ずかしい気持ちが湧いてくる。
「へへ、嬉しいなぁ」
照れながらも無邪気に笑った輪廻を見てなんとなく、昨日見たあんなモノなんて、見間違いじゃないだろうかと、そんな気がしてきていた。
「蓮水くん、聞きたいんやけど」
「何だよ」
なんだか恥ずかしくて、視線を外して歩き始めたところで、追いかけてきた輪廻が俺の方を指差す。
「やっぱその子、蓮水くんとこの子なん?」
俺が背負った鞄の方を指差すので、首をそちらへ回すとふわふわのボールのようなものが、鞄の上に乗っていた。俺の方の方へにゅっと伸びてくるその毛玉は、俺が振り返ったのを見て、ωに似た形の口を大きく開けたまま、黄色い半円形の目玉をぱちくりさせる。
「うわ」
昨日も見た、三毛猫柄のすねこすりだった。俺と目が合った途端、ぼわっとひと回り大きくなって、その場からかき消えた。
と。
「ひっ、ぅわ!」
隣から情けない声が聞こえたと思うと、輪廻が大きくバランスを崩す。こちらに向かって倒れてくる体へ咄嗟に手を伸ばすと、輪廻の体は難なく俺の腕の中に収まった。
「ご、ごめんやで蓮水くん」
慌てて離れる輪廻だが、咄嗟に掴んだ腕は、俺の手がゆうに回ってしまうほどで、異様に細い。
「お前」
「え?」
ついぽろっと溢れてしまった言葉に、輪廻が首を傾げた。
手を掴むと、二の腕でも手が回りそうな程の太さしかない。体全体が異様に薄く、そこに内臓が入っているとは思えないほどの細さに、思わずどんどん心配になってくる。
「ぅえ、なん?え??」
「今日の朝はちゃんと食べたのか?それとも運動してないとか……」
見上げると、頬を真っ赤にした輪廻が、眼鏡の奥で目を見開いて、口元はわなわなと震えていた。
「っふふ、蓮水くん、擽ったい」
口元を押さえているので気がつかなかったが、腰やら脇の下側やら、無遠慮に撫で回してしまったのが擽ったかったのを我慢していたのだと気がついた。
急に自分がしたことがあまりに恥ずかしくなった俺は慌てて手を引き、輪廻に謝り倒しながら一緒に駅へと向かった。
◇
「ごめんな……」
「もー、そんな気にせんでええって、俺と蓮水くんの仲やん」
「お前……」
電車に乗ってからも、なんだか申し訳なくなって謝ると、輪廻はころころと笑って冗談を言うばかりだ。
定期的な揺れが起こる車内で、目的地までは12駅。朝の電車内はそれなりに混んでいるので立ったままで話を続ける。
「輪廻って、やっぱりO阪から来たのか?」
「うん、そやで。O阪産のガリガリくんや」
口調から出身は関西圏だとは思っていたが、何となく気になって聞いてみると、冗談を言いながら頷くのに「なんだよそれ」と笑って返す。すると、ビル群が外を流れていく車窓に目を向けながら、今度は輪廻がにやりと笑う。
「でも、まさか学部学科まで全く一緒やと思わんかったな」
「オマケに家まで隣って」
周りに気を使った音量で耳元に話しかけてくるのに、そう言って苦笑いすると、さっきまで揶揄うような笑みを浮かべていた輪廻はころころと笑う。
「……本当に偶然か?」
冗談めかしてそういうと、ガタン、ガタンと定期的な揺れだった電車が、急に一際大きく揺れてバランスを崩した。
バランスを崩した先、片腕をついた壁に、背を預けていた輪廻が、少し高いところから目を細めていた。
「……どうやと思う?」
こそっと囁かれた言葉に、小っ恥ずかしくなった俺は咳払いをして姿勢を元の場所へ戻しておく。
派手な見た目と関西弁に似合わず、穏やかな聞き上手な輪廻と小さな声喋っていると、何だか初めの俺の警戒心は一体なんだったのだろうかとそんなふうに感じる。なんだか、昔から仲の良かった友人だったかのようにすら感じた。
他愛もない話を続けていると、あっという間に目的の駅で、そのまま、2人並んで大学へと向かったのだった。