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護さんとしらたまさんにお礼を言い、暗くなったことで空気が一層ひやりとした神社を出ると、外はもう茜色が遠くの空にかかり始めていた。
遠くからカラスの声が聞こえて腕時計を見ると、既に時計の針は15時を回っていて、ずいぶん長く話し込んでしまったなと、少し反省した。
帰宅するために駅へ向かう道すがら、渡ろうとした踏切が、真ん中辺りのまったく渡りきる前の場所でカンカンとけたたましい音を立てはじめる。
警告音に急かされて、走りだそうと足を踏み出した時だった。
足首を何かにさらわれて、足が縺れた。
ぐらりと大きく体が傾いて、バランスを崩す。なんとか反対の足で踏ん張り、足を前に出そうとしてはみるが何かにつかまれたかのように動かない。
「くそっ……!」
然程大きくないはずの踏切の対岸が、ずいぶん遠く感じる。カンカンとけたたましい警告音が頭の中で大きく響いて、焦りも大きくなっていく。まずい、このままでは。
そう思った時だった。
パシンと何かに亀裂の入るような音が、辺りを打った。あんなにけたたましかった遮断機の音すら、かき消すような音が辺りに響いたかと思うと、足がするりと前へ出たかと思うと、もう踏切の対岸に着いていて、俺の背中をかするように遮断機が降りた。
慌てて後ろを振り返ろうとした俺の耳に、
「シねばよかったのに」
そう、はっきり聞こえて、背中に冷たいものが走る。
慌てて振り返ると、踏切の中央に、女が腕を押さえて立っていた。女を見てしまってから、足がそこから動かない。その女から視線を逸らす事が出来なくなった。
濡れたような黒髪の隙間から覗いた肌は異常な程白く、眼は血走り、口元からは黄色い歯がのぞき、ごぼごぼとあわが弾けるような音をたてていた。金縛りに遭ったかのように、そこから動けず目も背けられずにいると、ガタンガタンと音を立ててやってくるのに気がついた。
あ、と思った瞬間には遮断機が遮る内側に、長く連なった電車がごうとうなりを立てて滑り込んできて。女の体は電車の下へと引き込まれた。
女は、最後血走った目を見開いて、俺を見ながら、笑っていた。
やがて電車が通過しきって、静かになった遮断機がわずかな駆動音を立てながら動く。通行可能になった踏切の向こう側には、見たことのある白いむく犬が座っている。
まったりと赤い舌を出して、笑っている様にも見える表情の、しらたまさんだった。
しらたまさんは、俺の顔を見るとすくっと立ち上がりくるりと踵を返して神社の方へと戻って行った。
「……帰ろう」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、俺は家路を急いだ。
□
なんとか最寄り駅に到着すると、夕飯に何か買っていかなければならないことを思い出して、帰り道にある商店街に足を向けた。
人通りもまばらな寂れた商店街だが、開いている店は割と多い。店からあふれそうな程ぎっしりと商品が陳列された服屋、英会話教室、整体、かごに入った野菜を元気な店主が売る八百屋に、そのとなりにあるおばあちゃんが切り盛りする漬物屋、小さめの和菓子店に、居酒屋なんてものもある。
この割と充実した商店街があるからこそ、この周辺のアパートへの入居を決めたところもあるのだが。この商店街の中に小さなスーパーマーケット『伊弉諾』があることも、魅力の一つだった。
今日の夕飯を買うべくスーパー伊弉諾の、照明で照らされてはいるもののわりと暗い店内で買い物を済ませて、外に出る。外はもう、茜色になってしまっていた。ポツポツと設置された街灯の下、買い物袋を手に提げて家路を急いだ。
5分ほど歩いて、新たな我が家へと到着した。お世辞にも綺麗とはいえない、むしろぼろのアパートと言っても差し支えない。間取りは1K、家賃は訳ありの3万円。T京都内の1Kで本来の家賃はもっと高いのだが、父の仕事の関係でここの家に住み着いていた厄介者を追い出した経緯があり、家主のご厚意をうけて格安で借してもらっている。
錆が回った手すりには触らずに、階段を上っていく。二階建ての二階、その角部屋が俺の新しい家だ。荷ほどきは昨日のうちに終わっていて、今日はこの手に入れた食材で料理を作り、風呂に入って寝るだけでいい。
カツンカツンと音を立てて上っていくと、外に面した廊下が見える。部屋に着く前に鍵を出そうとスーツのポケットを探っていると、すぐに手にひんやりした鍵の感触に当たった。
一番奥の角、部屋の扉の前に立ち、鍵穴に鍵を差し込もうと手を伸ばしたときだった。
「う、わ!」
足の間をとてつもなく柔らかいものが通り抜ける感覚に、思わず声が出てしまった。するりと抜けていくのに驚いて、思わず手に持っていた鍵を取り落としてしまった事に気がついた。
「っあ、鍵……」
慌てて地面を見るがそこに鍵は無く、鍵がどこにあるのかと辺りを見回すがどこにも鍵はない。一階に落としてしまったかと思い、自然と溜息が漏れてしまったときだった。
「すんません、これ君のと違う?」
そう、声をかけられた。
聞き覚えのある声、聞き覚えのある関西弁。もう聞くことも無いだろうと思っていたその声は、「あ」と何かに気がついたように声を上げる。
「あれぇ雅楽代くん!何でここに居るん?」
「そ、れはこっちの台詞なんだけど、何でここに?」
急に目の前に現れた九十九輪廻は、俺の家の鍵を右手で差し出していた。一瞬ストーカー、という言葉が頭を過ぎったがそんなことは無いだろう。……多分。
「え、お家帰ってきた所やねんけど。あれ、雅楽代君もしかして」
認めたくない事実が、急に降って湧いてきた。眉間を抑えたくなるのを、必死に堪える。
「お隣さんなんや!なんや、運命感じてしまうわ、なんて」
ヘラヘラと笑っている九十九輪廻の寒い言葉に、どんと気が重くなるのを感じた。半眼になっているのを直しもせずに、じとっと見つめていると何かに気がついたように左手を差し出してくる。
「え」
そこには、ふわふわでふくよかな球体が居る。手に余るサイズでかなり柔らかいのか、手の中で形を変えている。
そう言って丸い眼鏡の奥で笑う九十九輪廻の言葉を理解できずに、その球体を眺めていると。唐突に黄色い目玉と目が合った。
「なんっ……!」
「飼うてるん?すねこすりなんて珍しいなぁ」
九十九輪廻の手の中で少し余ってはみ出しているのを見てみると、小さな三角の耳、大きな半月型の目、非常に短い手足。どことなくネコに似ているその姿は、すねこすりといわれればそういう風にも見える。
「俺はこんなの……」
「っぁ!」
そう否定しかけた時、すねこすりが指の間をするりと抜けて、地面へ降り立つとあの短すぎる手足からは到底思想像できないような速度で床の上を駆け、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
「あー!ごめんな、俺がちゃんと持ってへんかったから」
申し訳なさそうに眉を垂れさせた九十九輪廻に、面食らったが、なんとか首を振って見せる。
「俺は何も知らない」
そう言ってやや強引に手を出すと、眼を丸くした九十九輪廻だったが、すぐに俺の手に鍵を落とす。口元がゆっくりと弧を描いて、目元が細められる。
「ほな、これから宜しくな、お隣さん」
りりり、と遠くで鈴の音が聞こえた。