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母と水汲み女たち

 ビビアンの母は、近くに住む小金持ちの家の通いの女中をしている。富裕層とは言えないが人を雇う余裕がある――そんな人間が田舎にも増えている一方、富裕層から転落する者もいる。

 ビビアンの母は結婚前は貴族の娘の遊び相手をしていたこともあるほどの家の出だった。両親、夫と相次いで失った今は、女中の仕事と貴族の家で習った刺繍の内職でなんとか親子二人、食い繋いでいる。


「本が好きなんでしょう。学校で沢山読みなさいな」


 あたしが働けば、お母さん、楽になる――、とビビアンが言うと、こんな風に母は応えるのだ。


 ビビアンは家に帰るとすぐに煮炊きの準備をしようとした。その時、母が帰って来た。


「パンとチーズを頂いたのよ。夜はこれを食べましょう」


 そういってナイフでさっとパンとチーズを切り分けた。ビビアンの母は雇われた家で気に入られているようでしょっちゅう食べ物のお裾分けを貰えるのだ。


「昨日のお昼ね、先生に会ったのよ」


 母の言葉にビビアンはパンを食べる手を止める。


「夜に話せばよかったんだけど、なんだか言えなくてね」


「首都にある学校のことでしょ。先生から聞いたよ。無理なの分かってるし、行きたくないよ。あたし、さっさと働きたい」


「首都に行けばね、もっと勉強できるし。沢山、詩や小説だってあるんだよ」


「興味ない、試験ってどんなもんだか分からないし。お金がいるんでしょ」


「実はね、お金ならあるのよ。あなたのお祖父さんたちが死んだ時にね、結構な財産を貰ってたの。ほんとはお父さんにもう1回、商売をやるのに使ってもらおうとしたんだけど、お父さんもすぐ死んじゃったでしょう」


「そんな大事なお金、使っちゃだめだよ」


「大事なお金だからね、あなたに使って欲しいの」


 母はパンとチーズを食べ終わるとたらいの水で手をすすぎ、刺繍を始めた。ビビアンも慌てて残りのパンとチーズを食べる。やることは沢山あるのだ。ビビアンたちにとって食事はゆっくり会話を楽しみながら食べるものではない。


「お母さんもね、本を読むのが好きだったわ。あなたが学校で覚えてくるお話や詩を聞くのが大好きなのよ。あなたにね、出来るだけ長く学校に通ってほしかったの」


「ならもう、十分でしょ。私、最後まで学校に行けて満足よ」


「知ってるでしょう? お母さんが昔、貴族のお嬢様の遊び相手だったこと。そのお嬢様もね、学園に行ったのよ。冬になって帰ってきたら、すっかり変わってらしたの。なんだか堂々とした様子でね。前は本を読むのも嫌がっていて私が読んだものを聞いていたくらいなのに、国の成り立ちやら外国の様子やら説明してくださってね。世の中には私の知らない世界がこんなに広がっているんだって驚いたものよ。昨日、先生の話を聞いてね。娘時代のあの興奮を思い出したの」


「それは……、そのお嬢様は貴族だったんでしょ。だから変わることができて堂々としただけじゃないの?」


「先生がおっしゃるには、学園に入ったら平民も貴族も同じことを学ぶのですって。1年学べば貴族にふさわしい教養が身に付くって」


「待って、そんなのあたし、関係ない。貴族の教養とかあってもどうなるのよ。あたし、あたし……」


 水汲み女だよ。


 母親はまだ何か言おうとしたが、考え直したのかそのまま黙ってしまった。気まずい沈黙が場を支配する。やがて母の方から口を開いた。


「ごめんね、お母さん、ちょっと興奮してた。娘が学園に行けるかもしれないなんて嬉しくてね。今日はもうおやすみ」


 母の言葉にビビアンは立ち上がり、寝室入った。ベッドの中で彼女は考えていた。

 学園……首都……試験……貴族……外国……王妃様……それから……。

 昨日までビビアンの世界になかったものたちだ。

 ふと彼女は学園の話が出るまで自分が、学校を出たあと何をしようとしていたか思い出そうとしたが、何も頭に浮かんでこなかった。


 学園……首都……、やがてビビアンの意識は遠退き、白い眠りに落ちていった。




 井戸の周りは静かな興奮で空気がさざ波のように凪いでいた。


「ビビアン、あんた首都にいくんだね」


「貴族様の学校に通うんだろ? そんでそのまま大きなお屋敷に召し抱えられるだってね」


「首都の金持ちと結婚出来るって聞いたよ」


 どこから聞いたのか水汲み女たちは微妙に歪んだ情報を持っていた。


「待って、待ってよ。そんなんじゃないってば」


 ビビアンは訂正に忙しい。


「多分、何人か試験を受けるんじゃないかな。あたしは関係ないよ」


 言いながら、せっせと水を汲む。少し時間に余裕があるのでみんなの瓶にも水をいれているビビアンだが、この状況に堪らず逃げ出すことにした。


「あんた、優しいし、よく気がつく働き者だもんね。そういう子はね、どこに行ったってうまくいくもんさ」


 帰り際に中年の女に声をかけられた。


 ――誰も何も分かってないのだ。働き者といっても少し力があって水汲みを厭わないくらいだ。それが首都の学園と何の関係があるというのか――。

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