36.とある先輩と後輩の話
別視点です
千秋院 千晶にとって、日下部 冬稀は怨敵である。
そう認識したのはごく最近であり、それまではクラスの隅にいる根暗な人間程度の認識だった。
これからも、自分に関わることもなく消えゆく人間の一人。
そんな彼への評価が一転したのはある少女の言葉があったからだ。
「……ごめんなさいっ!」
放課後、呼び出されたかと思えば突然頭を下げられた千晶は、予想外の行動に面食らった。
「呼んだと思えば、いきなりどうしたの氷織」
日下部 氷織。それが、千晶を呼び出した人間の名前だ。
黒く艶やかな長髪に、スラっと伸びる手足、肌も陶器のように白く透き通って美しい。オマケに、愛想もよく、勉学、運動、ともに優秀な少女。
千晶の一個下である彼女は、入学したてでありながらも、既に存分にその存在感を発揮していた。名家の令嬢であるということであり、学園でも憧れの存在であった千晶と、新星のごとく現れた氷織。見た目が麗しい者同士のやり取りは画になるのか、気が付けばセットで語られることも多くなっていた。
そんな折、特に用事の無かった千晶は、後輩である氷織からの呼び出しに二つ返事で答えたのだ。元より、礼儀正しく、物腰の柔らかで話していて気持ちの良い少女だ。断る理由など無かったのだ。
なのだが、
「私、先輩に謝らないといけないことがあるんです! いえ、例え謝ったとしても許されることではないでしょう」
そんなことを言いながら頭を下げているのだ。
千晶がなんとか顔を上げさせようとしても頑なに断り続けた末に、先輩命令でようやく上げるくらいには強情だった。
それだけの理由があるのだとすぐに悟った。
「落ち着いて、大丈夫。話は聞くから」
そう言って、千晶は空き教室の端にあった椅子に氷織を座らせる。その顔は、いつものような笑顔は浮かべておらず、痛々しさすらある悲痛の面持ちだ。
「どうしたの?」
優しく気遣う様に聞いた。それでも、氷織が肩を小さく震わせ、そして俯く。
「話したくないなら、別に良いのよ?」
千晶の言葉に揺らいだのか、一瞬氷織が躊躇うような顔をした。しかし、次の瞬間には覚悟を決めたのか、顔を上げ、千晶を見上げる。
「……先輩、昔虐められてたって、聞い、て、その……」
「――ッ」
その口から出た言葉は予想外の物だった。
おそらくは、千晶の心の中で最も脆い部分。いつまでも治らずに腐り続けている心の洞だった。
「誰かから、聞いたの?」
氷織が、静かに頷く。
それを見て、千晶は自分を気遣ったのだと感じた。今までの彼女の行動から優しい人であることは知っている。だから、自分の過去にも胸を痛めているのだと思ったのだ。
しかし、そうではなかった。
「……私、知っているんです」
頷いた後、再び俯いたままの氷織がぽつりと言った。垂れ下がった髪に遮られ、その表情を窺うことは出来ない。
ただ一つ、声が震えているのは分かった。
「知っているって?」
千晶が問い掛ける。否、問い掛ける前からその言葉の意味を知っている。頭のどこかで、それを聞いてはならないと理解している筈なのに、気が付けば感情がひとりでに問い掛けていた。
「――先輩を虐めた犯人」
「っ、そう……そうなのね……!」
予感は当たっていた。
同時に、胸の辺りからじわりと体を伝うように熱が広がっていくのが分かった。抑えようにも、広がり続ける熱。いや、もう抑えようとも思わなかった。
「誰か、教えなさい」
もはや、氷織を気遣う余裕などない。今までのような優しい口調を捨てて、千晶は強く言い放つ。
その千晶の態度に怯えたのか、一瞬身を竦ませた氷織は震える声で呟いた。
「……私の、兄で、す」
「――は?」
思考に空白が生まれたのを自覚する。
けれど、氷織からの言葉に納得している自分も存在した。
だから、最初に彼女は謝罪をしたのだと、今更ながらに理解した。
「……兄っていうと、日下部冬稀のこと?」
「っ、はい」
「そう……」
最初に心の中で猜疑心が首をもたげた。
冬稀への印象は、物静かで臆病な人間だ。氷織とは正反対の彼に、そこまでの行動が出来るとは思えなかった。
その旨を伝える。すると、氷織は今にも泣きそうな顔で首を振った。
「あの人は、歪んでいるんです。一人で息を潜めて生きて、社会への抑圧を悪意という形で吐き出す。そんな人で、だから、私は、なん、ども、止めて……」
それ以上の言葉が氷織から出てくることは無い。言葉以上に、涙と嗚咽が彼女の心情を現していた。
「そう。本当なのね?」
念を押すように千晶が問う。
すると、必死に呼吸を整えながら氷織が言った。
「兄が、虐めた所を見たっていう、友達もいます。いろんな人、が、知ってます」
「……その人たちを後で教えてもらっていいかしら」
「……はい」
そこまで話して千晶はハッと我に返った。
目の前の少女は勇気をもって打ち明けてくれたのだ。それなのに、怖がらせてどうする。
(いくら私とあの子の仇だからって――)
熱くなり過ぎたと、深呼吸をする。そして、未だに俯いたままの氷織の頭を優しく撫でた。
「話してくれてありがとうね」
「……せんぱい」
「とりあえず、今日はもう帰りましょう。詳しい話は明日にでも」
怒りを振り切るように、千晶が言った。そして、氷織に背を向ける。きっと、今の自分の顔はひどく醜くなっていると思ったのだ。
それでも、少しでも先輩らしくあろうと、気丈に振舞って見せた。
「氷織、立って?」
未だに座ったままの氷織に立ち上がり、一緒に帰るように促す。
「ね、行きまし――」
「先輩」
呼ばれて思わず、振り返る。
そこには、氷織がいて、まだ席に座っている。
その顔が、笑っていた。
見間違いではない。斜陽に当てられた顔が、確かに笑みの影を作っている。
「……氷織?」
「はいっ」
千晶の呼ぶ声に、氷織が歯切れのいい返事で答える。まるで鈴を鳴らしたような、子気味の良い返事が、この場では異物でしかなかった。
「アンタ、何を」
「――先輩、兄さんの事が憎いですよね?」
覆い被さるようにして放たれた言葉。そして、千晶の奥底を射抜くようにして見開かれた、光のない真っ黒な目。
その闇が、心地よく頭を揺らす。
「もう一度、聞きます」
そして透き通った声で歌うように、
「兄さんの事が憎いですよね?」
やがて――
「……ええ、そうね」
復讐の火種が、確かに熱を持った。
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