第四話 眼鏡をかけた気弱な女性との出会い
魔筆を持っていると豪語していた古物商は、会話の途中で突然意識を失った。どうやら、目に見えぬ悪魔によって、その行動を封じられたらしい。部屋のどこからか問いかけてくる声に対して、アレンシア伯爵はかつて自分の卑劣な裏切りによって幕を閉じた恋愛劇を語りだす。
その魔術師は、首の骨でも折られたかのように、上半身にはまったく力が入っておらず、魂を抜かれた骸骨のようにうつむいている。伯爵に応ずる形で向けられていた、これまでの挑発的な弁舌はすっかり影を潜めた。こちらからの問いかけに対して、何の反応もないどころか、そもそも、表情は生気を失っており、このまま死者の数に入る気配であった。人と魔によるこの奇異な対話が、やがてすげなく終わり、悪魔がこの部屋から立ち去る間際に、この人形に微かな情けを与えて、その心を解き放ってやったとしても、精神が再び炎を起こし、正気を取り戻すまでには、おそらく相当な時間がかかると思われた。今思えば、この男は魔筆をただ所持していただけで、それを自在に扱えるわけではなかったのだろうか。やはり、ただの金銭目当ての意地汚い古物商に過ぎなかったのか。この部屋に精霊がいるとして、何のためにかは分からぬが、とにかく、すっかり精神を封じられた形である。
『事前に自分の思い描いた通りの行動を取ったはずなのに、相手側の二人は、それに相応しい対応をしなかったということでしょうか。それは、運命ではなく、人間の内面的な問題でして、貴方が実験として試した二人が、今回に限っては、たまたま従順な行動をとらずに、そのような卑屈な態度をとったということではないでしょうか。つまり、自己に与えられた屈辱と辱めを貴方への復讐のために暴発させるのではなく、あえて冷静に耐え忍ぶことにより、すべてを傷つけることなく終わらせるための、賢明な返答としたのです。拳を握りしめ、激情を何とか押し隠すことで、表には出さなかったということですが』
今度は明らかに、この部屋の奥の古ぼけた垂れぎぬの向こう側から、人のものとは思えぬ、冷酷な声が響いてくるのがわかった。しかし、声のする方角は先ほどと異なっている。悪鬼は音もたてずに移動しているのだ。今は天井の上かも知れない。隣家へと移動したのかもしれない。その声はつまりこう主張していた。貴方は人外の存在と言葉を交わしているのだと。屑同然といえる人の代表として、悪魔の前で自己の存在をかけて、己が意を宣しているのだと。それを心得た上で、慎重に言葉を選べと。
「それは、二人が恋愛の駆け引きにおける敗北や、身の破滅を大筋で認めた上で、これ以上傷口を広げぬために、自らが受けた辱めをあえて公にしなかったというわけかね。まあ、それは言い換えれば、弱者によくありがちな、やせ我慢というところかな。この人間喜劇において、それほど複雑な心理行動ではない。しかし、私の考えをいえば、生涯における重大な局面において、判断力の足りない者、知性の足りない者は、こうした状況において、屈辱という感情をもっと素直に反応として示すべきだ。己が劣等感に甘んじて、上の階級の人間に対して、存分にへりくだるべきだ。あるいは、実力のなさに失望して没落を認めて、血の涙を流して見せてもいい。権力の頂点にいる者が、あらゆる場面において優越感に浸り、機嫌よく暮らせる世界でなければ、長い歴史が階級社会を創り上げてきた意味がない。勝者は玉座で高笑い、敗者は地べたに額を擦り付けて泣き叫ぶのが世の習いだ。勝者はすべての富を手にして、敗者は一族郎党ともに滅亡、それで良いではないか。人類は長大な年月をかけて、それを繰り返すことで、ようやく、目覚ましい発展を遂げて来たのだ」
『これまでの貴方の話しぶりで理解したところでは、今、すでにそのような状態にあるのでは? 積み重ねられてきた言葉は、すべて不可解であると言わざるを得ません。こと、あなたの設定した恋愛の舞台において、敵役である二人は貴方の本意を解せぬために、騙されながらも道化として十分に演じきったはずです。二人は恋に狂ったあげく立場を失い、この社会から追放され、絶望に陥り、貴方はその一部始終をご自分の目で観劇なされ堪能されたわけです。他人の運命を思うままに操ってみせて、この上もなく、楽しまれたのではないですか? 道化たちの踊りを満悦して、その願望をすべて叶えたのなら、これ以上、魔筆の力を得てまで、いったい、何をやらせるおつもりですか?』
「うむ、我が筋書きとの相違を知ってもらうには、その一連の流れを説明する必要がありそうだな。実を言うと、自分の唯一の希望である女性をむざむざ奪われたというのに、その後、あの男がとった冷静沈着なる態度が気に食わない。わが命を狙う凶器すら持たず、睨みつける素振りすらなかった。まるで、それまでの過程においても、自分の身につけられた傷においても、まるで何の問題もない。自分は異議を唱えるつもりはないと、主張しているかのようではないか。これまで、私に役職や女を奪われた男たちは、皆、嫉妬や憎悪に狂い、私を害せんとして挑もうとするも、それすら叶わず、身近な人に場当たり的な攻撃をして、かえって、その身に重病を引き起こし、命果てるまで悶え苦しんでいったのだ。意中の人に別れを告げられた途端、一夜にして頭を狂わせ、宮廷を騒がすような重大犯罪に走り、すべての地位を剥奪された人間もいる。私はそのような結末を取り乱さずに見ているが、格別哀れなものとは思わない。人の世には、この程度の色恋沙汰は往々にしてあるべきことだ。だが、今度の場合、格別期待されていた、そのような乱痴気騒ぎは、まったく見られなかった。風の吹かない湖畔の朝のような静けさであった。愚かなる下層人間の感情とはこのようなものではあるまい。期待を裏切る平凡な結末では、純情なる人の道を狂わせるために罠を施した身としては、いささか、興に欠けるというわけだ。さして権力を持たない、自分にとって、本当に必要であったものを、敵方の策略によって奪われた人間たちが躍り狂う、その煉獄の炎の中で笑いたいのだ」
その説明を受けて、魔筆はしばらく返答をしなかった。こちらの話が長すぎたために、一端は魔法が解けて魂が抜けてしまったかと、危惧したが、精霊を目にすることができぬ身の上では反応のしようもなかった。依頼者の希望を叶えるにあたっては、承服できかねる何かがあるらしかった。悪魔の明晰なる頭脳においても、解析できない心理問題があるのだろうか。伯爵はその間に興奮の熱を冷まし、息を整えた。
『貴方がその下っ端の男に対して『自分の思う人を競合者にむざむざ奪われてしまう』、という屈辱をあえて与えたかったことはわかっています。こちらが知りたいのは、なぜ、その女ひとを奪うことによって、心底憎たらしいその貴族が苦悶に陥るだろうということを、事前に推測できたのですか? 貴方が事前に想定していた、当然そうなるべき結果とは、貴方の卑劣な行為によって、身体をひどく汚され、裏切られ、打ち捨てられ、挙句の果てに人生を曲げられてしまい、涙に濡れる女の姿を見て、恋敵が嫉妬の激情に苦しみもがくことです。しかし、私が挙げる一つの可能性としては、その下らない男の性質が、それほど信義に厚いものではないかもしれない、ということです。失った女性のことも、半生を彩る一つの道具としか考えないかもしれません。恋愛の駆け引きに敗れたのならば、それは致し方ないこととして、素直に他人にくれてやろうと思うだけかもしれないのです。人の心理のすべてを操るつもりでいる貴方にとって、その二人は舞台役者というよりは、むしろ捨て駒ですが、彼らが目の前の恋愛に対して、これは他の物には代えがたいという、かなり強い情熱を持っていると、この舞台を仕組むかなり以前から、そう信じていたわけですか?』
「ふふ、そこで気を失っている魔術師などより、現世での肉体を持たぬはずの君の方が、よほど人の深い心理に詳しいようだな。人の心の弱みが産み出したものが悪魔である、という仮説が、まだ未証明なのであれば、あるいは君の態度により、それを証明できるかもしれない。そう、君の言う通り、舞台を設定した当初から、あの家柄頼みの豚のような男は、地味な貴族嬢を自分にとって唯一の心の拠り所としていた。社交界での幾つかの話し言葉から、自然と耳に流れ込む幾つかの噂話から、そのように推察した。古文書を紐解けば、悪魔という存在は、人間の心理にも深く通じていると記されているらしいが……、およそ恋愛心理に関しては、私の方が通じているというわけだ。女の方はね……、まあ、実を言うと、その対象は有名貴族ではない。貴族お抱えの名医の令嬢でね。実際には手厚い推挙があって上流貴族のサロンに出入りしているわけで、その家柄は悪くないらしいのだが、初めて顔を合わせたとき、一見して、地味な風貌だった。性格は控えめだが大らかであり、何度か会話をしてみた感じでは、人となりは良さそうに思えたが、地位の高いパーティーに来賓の一人として喜んで迎えられるような外見ではない。なぜ、そう見えたかというと、初めて私の視界に入ったとき、彼女は頁の厚い教本を手にしていたからであり、もう一つは黒縁の眼鏡をしていたんだ。それも、稀に見る分厚いレンズだった。おそらく、生まれつきの近視だということだね。家柄が大貴族ではなく、その視力が良くないから、全てが駄目だとそう論ずるわけではない。ただ、まあ、兎にも角にも、大貴族と関係を持つには、いささか至らない女だ。多くの嫁探しに走る好色家でも、おそらく、さしたる魅力は感じないのではないか。私のような完成された人間が、この人生の半ばにきて、恋愛の対象とするには、あまりに下らない相手だと言わざるを得ない」
伯爵は説明をしている間も、目の前に置かれている黒い外観の筆から一刻も目を離せなかった。この段階で判断を下すことは控えたが、身動き一つしないこの筆は、その身に悪魔の意思を携えていて、明らかに人間とほぼ同等の知性を持っているのだ。悪魔という存在と意思を交わすことは、俗人の煩悩を捨て去った自分にとっては、この国の王に取り入ることより遥かに重要である。しかし、伯爵は目に見えぬ力に脅えるように半歩引き下がった。両脚は震えて、鉛のように重かった。未知のものに対する特別な思いもあったが、それ以上に、突然、この筆が動き出して、自分の精神を闇の世界へと引きずり込むのではないかという懸念が働いたためであった。事実、先ほどまで雄弁であったはずの、この家の主はすでに沈黙の底へと沈んだのである。
『その取るに足らない、普段なら目にも止まらぬほど下らないはずの女が、なぜ、貴方の目にとって、その舞台の主要な登場人物たる資格を持つ人物に見えたのですか。自分の心にさしたる印象を残さない程度の異性であれば、先ほど、恋敵の存在について触れておられましたが、例え、そのような赤の他人に譲り渡したとしても、それは隣家の牧童が、いたずらに庭のタンポポを摘んでいったのと同じで、貴方の心を波立たせるような、大きな問題にはならないように思えます』
「うむ、実はこの話の発端は、約一年ほど前まで遡るのだ。ある夜、夕食前の空き時間に、ひどく退屈していた私は、さる名のある侯爵の晩餐会に呼ばれていたのを思い出し、ほんの気まぐれから、それに出席してみることにした。もとより、他人との会話による充実感や人生を変えるような稀有な出会いを期待したわけではない。この時は何の前触れも感じなかったね。幌馬車に乗り、現地に着いてみると、屋敷の外に繋がれた馬車の程度や、主人の帰りを待つ、暇そうに佇んでいる従者たちの顔ぶれから、それほど、重要な人物が来訪しているという気はしなかった。それなりの料理と素性も知れぬ若い女との出会いに吸い寄せられた俗物の集まりだと結論付けても良いのではないかと思った。主催である侯爵の召使いは、この私が供も連れずに、わざわざ訪れたことにひどく面食らって、たいそう慌てた様子を見せた。私の革靴と上着を預かると、すでに侯爵が来賓のお歴々と挨拶を交わしている、奥の広間へと案内しようとした。通路を囲む壁には所狭しとルネサンス期の名画が飾られ、ペルシア産の赤絨毯が敷き詰められていた。その煌びやかな廊下を少しの憶測を抱きながら、奥の大扉に向けて歩いていく途中、幾つかの来客用の待機室の前を通り過ぎることになった。
おそらく、会場となっている広間では、今が最高の盛り上がりを見せているらしく、その食器の物音や甲高い笑い声が、ここまで響いてくるのを聴くに、パーティーの主たる参加者は、すでに皆広間に集まっているらしかった。つまり、化粧室や待機室として扱われている、それ以外の各部屋は、今現在、ほとんどもぬけの殻であるはずだった。ところが、金色の彫刻で飾り立てられた、広間の豪奢な大扉まで、あと数歩というところで、とある参加者の控室の扉が大きく開いているのに気付いた。慌て者の来賓が控え室まで忘れ物を取りに来て、扉をあけ放したままにしていくことは、人の心理の上で十分にあり得るので、それほど珍しいことでもないと判断した。しかしながら、明るい光に惹かれた視線がそちらに向いてしまったので、中の様子が意図せずに見えた。狭いが品格の漂う部屋の中では、分厚い縁の眼鏡をかけた、比較的質素な装いの女性が、たった一人で慎まやかな様子で、手元の本を読むことに集中していた。彼女の清楚な外見やその態度が、私の興味を引いたわけではないが、パーティーが盛況のときに、わざわざ控え室から一歩も出て来ない、という態度をとることは、ある種の世間から隔絶された感覚を持った人間だな、という印象を持った。称号や地位が足りないために、参加者の中で浮いてしまう存在にある人でも、人見知りで大勢の中に分け入っていくのが苦手な人でも、この会場まで出向いたからには、とりあえず、主賓のいる広間までは出向くのが普通の感覚である。主催者に顔を向けられない特別な理由があるとするなら、ぜひ、それを知ってみたいと思ったし、ここで一人で引きこもることが、どういう意図を持った行動なのか、少し、興味はあったのだ」
伯爵はそこで一息ついて、低い天井を見上げた。暗がりの中で判別はできぬが、蠅か蛾のようなものが、今になってもなお、せわしなく飛び交っている気配がした。自分のような存在がここに在ることを知って、なお意味もない、不毛な行為を続けるとは、何という無粋な存在か。緊張で息も苦しくなる場面においては、なお煩わしく感じるのであった。しかし、視界に捉えておきたいその姿は、どういうわけか、まるで無色の大気や風のように、一向に映らないのである。だが、冷静になってみれば、頭上を舞っているのが、蠅でも蛾でも、例え、危険な吸血コウモリであっても、今この場面においては、大した問題ではないのである。この特別な刻に、伯爵が己が目で見定めたかったのは、この場に確かにあるはずの魔の気配であり、最近になって知らされた伝承においては、神々より以前に、すでにこの地に生まれていたと伝えられる、人外の知性であった。神ならば、その日ごとに舞い降りてきて、教会の祭壇に向けて熱心に祈る信者の前に、神々しいその姿を現すわけだが、この地上において、悪魔がその邪気を直に示したことはない。悪魔像と言い伝えられているのは、いつも弱い人の心が勝手に産んだ悪意である。不遇に身を滅ぼされたといわれる、数々の悲運の英雄は、煉獄の炎によって焼かれたというよりは、自らの手落ちにより、その身を滅ぼしたケースがほとんどである。この極めて狭い空間に、いまだ誰も目にしたことのない、その悪魔の影をはっきりと見て取ることができるならば、悪意は人の心にのみ宿るという、自分の憶測はほぼ正しかったのだと、長年に渡る懸命な捜索は、ついに功を奏したのだと断言できるはずだ。だが、人間の高が知れた視力に、『悪魔の姿をその視界に捉える』などという、そこまでの許可は出せないと言われてしまえば、それには従わざるを得ないのだった。やはり、人と悪魔の邂逅は許されぬのか。漆黒の闇は、どんなに耳を澄ましてもただ静かなだけで、存分に不気味な雰囲気を創り上げてはいるが、自分の思念をあえて発することはなかった。だが、どこかで人の業をあざ笑うために『本物の魔術』を操ってやろうと身構えながら、今はただ黙って、こちらの訴えに耳をすましているのだ。欲望の赴くままに、この契約のために訪れた、人というものの存在を果たしてどう思っているのか。本能から生まれたその願いに対して、少しでも耳を傾けるつもりはあるのか。まだ、その明確な答えは知れない。伯爵は悪魔の像を捉えることを一度諦めて、まずは魔筆を得ようと思いを定めた。相手が自分の存在をどのように考えていようと、この時点で願望の詳細を告げるのではなく、とにかく、話の続きを順を追って語っていくことを選んだ。
「その眼鏡の女はこちらの気配を感じたのか、不意に顔を上げて驚きの視線を向けた。こちらとしても、不意に目が合ってしまったので、避けようはなく、咄嗟に会釈をした。相手の気を引きたくて頭を下げたのではない。わざとではないにしろ、待機室の内部を覗いてしまった非礼を詫びてのことだった。だが、相手の女性は一目で私がどのような身分の人間であるか、理解することができたようで、その表情は蒼ざめて、ひどく動揺していた。その極度に強張った姿勢からも、それが十分に伺えた。大草原において、獲物を捜す虎により睨まれた小鹿のような、その哀れな様子を見て、彼女が群雄渦巻く奥の大広間へと出て行けないでいる理由を、ある程度は知ることが出来た。女は読んでいた本を慌ててテーブルの上に被せると、素早く立ち上がり、硬い姿勢のままに丁寧にお辞儀をしてみせた。ただ、その礼の仕方一つをとっても、場慣れしているようには見えず、私の目には、この会場に出向いてくる直前に、誰か他の人間から即興で教え込まれた振る舞いのように思えた。もちろん、社交界における祝宴などには、すでに飽いている私にとっては、他人の礼儀が自分にとってどうであれ、そのことだけで、いちいち独断による評価を下したりはしないが。逆に、私はその田舎臭い粗忽な振る舞いに対して、多少の興味を持った。宮廷でその日の職務を終えた私の姿を見ると、我こそは愛人と成りたしとばかりに媚びをうってくる大勢の女官たちには、ついぞ見当たらない、新鮮な感覚を覚えた。私は自分の理性としてはまったく意図しない、反射的ともいえる異様な行動に出ることになった。彼女の厚いレンズの奥に隠された、つぶらな瞳を見据えて、何ものかに操られているかのように、こんな台詞を口に出していた。
『もし、よろしければ、私と一緒に広間まで参りませんか』
彼女は心底驚いたように目を何度も瞬かせた。ただ、我が言葉に驚いたのは自分も一緒だった。ドアの外から手招きしてみても、彼女はしばらくは身じろぎもせず、ことの是非を深く考えているわけではないであろうが、同意も拒否もしないのだった。私は半歩近寄り優しく彼女の手を取って、『一人の特定の女性とこのように同伴して歩むのは、いつ以来だろうか』と自分に問いかけながら、そのまま彼女を連れ添って、奥の大扉を開いた。宴席では、主賓の退屈な長口上がようやく終わったところらしく、望まぬ緊張から解き放たれた、多くの来賓貴族が何事かとこちらに視線を向けたのだった。ほとんどの目が、我ら二人の登場に対して、大いなる驚きと、次の瞬間には、すでに現れていた、羨望の眼差しを向けていた。私は多くの貴族や華族に向けて、軽く会釈をした。女は何をすればいいかも判断できぬほどの緊張に包まれた様子で、一礼した後、多くの視線を避けるように、なるべく俯きながらも、私の後を離れぬように鴨の雛のようについてきた。普段、特定の女性を寄せ付けない私がこういう振る舞いに出れば、余計に注目が集まることは当然だった。今宵は社交界の宣伝屋の異名を持つ、口の軽い来客たちが、多く来訪しているわけだが、彼らが手を繋いで歩いていく、我々二人の様子を見て、どのようなことを考えたかは自明である。皆がこちらの一挙手一投足を意識して、ひそひそ話をしているのを感じた。自分が一番望まなかったはずのことをやらされている、隣の彼女の心境を思えば、私は若干の罪の意識も感じたのであるが、それと同時に自分が今夜この場で何を為せねばならぬのかを察知することが出来た。
私はすっかり脅えている彼女の手を引きながら、なるべく高名で知られる政治家や貴族の席へと向かった。彼らはこちらに気づくと、私が今夜ここを訪れたことに、一様に喜びと感謝を表した。ただ、私の連れの婦人については、これまで出会ったことがない、ぜひ紹介してくださいと形ばかりの慇懃さを示した。この厳粛なる場で、もし、私が彼女に腕を貸しているのでなければ、彼らとて、こんな見覚えもない、ほとんど気品も感じられないような女性に対して、それほどの興味を抱いたりはしないだろう。なぜって、彼らのような毎夜各地の社交会から招待されて出向くような、交友範囲の広い知識人たちの脳内辞典に収められていないというだけで、この地味な女性はおそらく大した身分の出ではないと、簡単に判別がつくからである。彼らのうわべだけの挨拶の節々には『ここで必要以上に丁寧に紹介されてしまうと、後々、あまり、込み入った相談を持ち掛けられたときに困る』といった、我々の影をあえて踏まずに半歩引いたような対応であることが、手に取るようにわかった。大貴族たちは一緒にテーブルを囲む友人知人の質をも自分の格と考えており、決して無駄に交友範囲を広げようとはしないものだ。
私はその夜、この広いパーティー会場のあちこち巡って、彼女を名の知れた人物に紹介したわけだが、その際は、必ず、眼鏡を取り外してから挨拶をするようにと柔らかく指示を出した。この配慮も、私の普段の冷淡な対人関係からすれば、およそかけ離れたものである。先に断っておくが、この女のさりげない振る舞いの節々に、まるで自分の妹や娘のような愛情を抱いた、などということは一切ない。それどころか、これほどまでに、自分から遠く離れた位置の人種に出会うことが珍しい。人間は自分が望んだ姿かたちで生まれてくることは出来ない。例え、高貴な地位に生まれても、他人を寄せ付けぬほどの知性を持って生まれてきても、その外見だけは思い通りにはならない。血統が影響するか、それとも、前世の行いが反映されているのか、それは判然としないが、とにかく、そういった事情を知ることのない他人からすれば、相手の見た目は厳しく責める要因にはならない、ということだ。ただ、自分を多くの賓客に対して紹介しなければならない場においては、極力、自分の外観を含めた印象や評価を高く見積もってもらうべきである。これすなわち、女性であれば、なるべく身だしなみには気を使わねばならない、ということである。男性は紳士であれ、女性は華やかであれ、修業のために岩山に籠る禅僧にでも、そのくらいは理解できるであろう。この大規模な社交場に来ている以上、彼女にもそれくらいはわかり切っているであろうが、それでも、生来、自分の一つひとつの判断に自信の持てない性質から、多くの要人で賑わうパーティー会場に一歩も入ることは出来ず、控えの間に引きこもっていたのであろう。彼女のそういう心情のどこに同情したのかわからぬが、私は少しでも上流社会に馴染むための手助けしてやろうという気を起こしたのである。その理由は今もって説明できない。『それこそ、悪魔の所業なのでは?』などと問われてしまえば、現段階においても反論する余地もない。
言われた通り、彼女は眼鏡を外して、花柄の専用の箱に収めて懐にしまった。そこまでしても、目上の人間との会話に自らの気の利いた反応や話題を添えて潜り込むのは難しいようであった。だが、私はその場の空気を巧く取り仕切り、その女にはおよそ似つかわしくない、この上流階級の場になんとか溶け込ませる配慮をした。もちろん、彼女が今夜ここを訪れたのは父親の実績が要因であろうから、彼の実績をうまく引き立てる必要があった。その場に揃っていた、政治家や貴族たちは、あえて彼女自身には話題を持っていかずに、その父親の腕の良い医者としての仕事に関心を持ったふりをして、対話を組み立てているようであった。そのパーティーにおいては、始終、緊張し通しだったようだが、彼女にはこれからを見据える上で貴重な体験になったようだ。パーティーが何とか終わるまで控え室に閉じこもり、皆が酔いつぶれて引き上げるまでの時間を稼ぐために、読みたくもない本を震える手に持ちながら、字面を追っていた時の表情と比べれば、遥かに華やいで見えたものだ。多くの来客に別れを告げ、広間から引き上げてくるとき、あるいは気のせいかも知れないが、彼女は私に向けて少し微笑んだように感じられた。私は別れしなに、このような社交の場に来る際は、髪をだらしなく垂らすのではなく、もう少し、肩の上で切り揃えて来るようにと要望を出した。彼女の髪は背中の中ほどまで届いており、もちろん、その長さが似合う貴婦人も、広い世間にはごまんといるのだが、私の見たところ、肩できちんと揃えた方が、この女性にとっては、ずっと見栄えがすると思ったのだ。彼女はその申し出を受けて、いまだに緊張した面持ちを崩さぬまま、黙って頷いた。そこには自分にはまるで縁の無いはずの栄誉への疑問とともに、私のどんな指令にも服従してみせるという態度が見て取れたのだ」
『一つ質問を挟みます。その女性が、その夜の貴方の粋な振る舞いに対して、別れしなにある程度の喜びを示してみせたとき、その好意的な反応について、どう感じたのですか? あるいは、その会場での一連のやり取りを経て、多少なりとも、その女性の性格や態度に興味を持ちましたか?』
その間をついて、魔筆が鋭く問いを繰り出してきた。この部屋には口を開ける者は他になく、理屈でいえばそのはずなのだが、テーブルの上に佇んでいる黒い筆は古くから伝わる力をいまだに見せず、微動だにしていなかった。伯爵が少し腕を伸ばせば、容易に触れる距離にあるというのに、その問いかけの声は、かなり離れた位置から響いてきたように聴こえた。天空から降り注ぎ、壁や天井すら貫通してきたように思えた。だが、いくら魔物が創った物とはいえ、足も付いていない筆が、あちこちへと勝手に動き回るはずはない。創世記に生まれたと伝わるものが、この世に二本あるとも考えにくい。ただ、この部屋には魔筆の他にも気配が在るというそれは違和感として、記憶の隅に残ることになった。魔筆の興味とは、つまるところ、『その女の人となりに幾ばくかの興味があったから救いの手を伸ばしたのか』ということであったが、伯爵自身としては、ずいぶんつまらない質問を受けた、とでも言わんばかりに、即座に不機嫌な振る舞いに変わり、魔筆からの問いかけを簡単に否定した。苛立ちを声に出す必要すらなかった。彼にとっては、生まれついた身分が問題にならぬほど低く、何の外見上の魅力も持ち合わせていない女からの謝意などは、一片の興味も湧かないものであった。仮にそれが自分の品格に対して、最大級の敬意を抱いた相手方からであり、彼女がその行為にこの上なく価値ある意味を込めていたとしても、何の充実感も満足も得られないのであった。
「別れしなに、彼女は意味ありげに、その顔をほころばせ、大貴族である私に対して、多少の引け目を表しながらも、か細い声で呼び止めた。この場面において、お礼の言葉を言わねばならぬことは、知能を持たぬ人外の生物であっても知っているところだ。『近日中に、今夜のお礼のお手紙を差し上げたいのです。ここで連絡先をお尋ねしてもよろしいでしょうか』私はどんな局面においても、出会ったばかりの素性も知れぬ者に住所を教える趣味はないと率直に答えた。女はそれを純情さゆえの謙遜と捉えたのか、しばらくは一歩も引かずに同じ問いかけを繰り返すのみで、なかなか引き下がらなかった。周囲の貴族たちは半ば興味を持って、この様子を伺っていた。だが、相手が引き下がって帰宅の途につかぬ以上、このだらだらとした会話を続けるほかはなかった。この時点で女が私に対して抱いたのは決して愛情ではなく、初めて出会う目上の人間に対して抱いた興味であったと思う。ただ、この私の振る舞いから、初めて出会った女性に対しての、ある種の劣勢感を感じ取ったのかもしれない。果たしてそれが、今後二度と会うとも思えない、赤の他人への興味に値することなのだろうか? 自分でも意識したことのない、心中にある引け目は、確かにそれに気づいた相手方にとっては、一つの値打ちになると思えたのかもしれない。それが、私のような競合する者すら存在しないような権力者にとって、幾分かの弱みになるのであれば、だが。
時は経った。白い馬は嘶いて、主人の帰りを待っていた。今後の付き合いについて、答えられずにいると、彼女は余計に表情をくちゃくちゃに崩して笑った。その態度が無礼であるとはまるで思わなかった。この奥手で不器用な女性にとっては、頭の中で気の利いた言葉を生み出すよりも、まず自然な笑顔を見せるということが、対人関係における魅力の一つなのだろうと、そう受け止めることにした。
『では、来週の舞踏会で、またお目にかかれますか?』
彼女はどうしても、他の女性では得られない、特別な台詞を引き出すつもりでいた。私は賛成もせず、罵倒もせず、まったく何も答えないままに、その場を去ることにした。正直、興冷めであった。今夜のパーティーに、当初は何の期待もしていなかったはずの女が、たったあれだけの偽善的な行為に対して恩義を感じて、それをぜひ友好関係にまで発展させたいと、もし思ったのであれば、少しこちらの気遣いが行き過ぎていたのかもしれない。何度も言うが、あの行為は決して意識したものではないのだが。残念ながら、私には人を見る目はないと感じた。取り柄のない人間たちは、蟻を蟻と、蛙を蛙と、すべての人種を見た目のみでしか判断することはできない。眼と知性が決定的に分離しているためだ。私は決してそうなりたくはなかったのだ。だから、あの独りで本を読んでいた女性の振る舞いに対して、意図せぬ温情をかけたのであろうか。ただ、断じて、あの女を感化させるために、あのような意味深長な態度をとったわけではない。だから、切りたくても切れなくなるような、それ以上の深い付き合いは不要であると最初から感じていた。身分違いの関係においては、別れ際に冷たい態度をとるのが当然と思った。地上のどこで出会ったとしても、所詮は選民と凡人。自分とは住む世界が完全に違うことを明確に知らしめるために」
文章を書いているのが楽しいですが、色々と考えていると結構疲れます。読んでくださってありがとうございました。