第三話 伯爵は魔界において半生を語る
アレンシア伯爵は人としての道を捨てて、魔界を覗きたいとの願望から、魔筆を所望する。古物商はその執念に圧されて、魔筆を見せようとするが、その瞬間、彼は意識を失う。代わりに暗い部屋のどこからか、かつて、この筆を創作したといわれる魔族の声が聞こえてくる。伯爵は魔筆を入手したいがための、己が目的を語り始める。
魔術師はそこで初めて目を大きく開いて、いくらか納得がいくような素振りを見せた。密林を這う蛇のように色褪せていた肌に、赤みが差してきた。彼は伯爵の言葉に明確に反応して、大きく頷いて見せた。
「今の伝承の話は、平凡な語り部が繋いできたものにしては、それなりに良くできていると思います。少なくとも、私はそれにきわめて近い話を遠い昔に、いずこかの地で聴いたことがあります。ただ、貴方がその逸話を利用して、すでに定まっているはずの、自分の命運をどのように操ろうとしているのかは、まだ、理解できませんがね」
「後世に名の残るような、どんな優れた劇作家においても、我が回想録を書けぬとわかった以上、その時点で、人の手に頼ることを諦めた。我が宿願を果たすためには何としても、この地上のどこかにあるという、ヴァルギスの筆を探し出さねばならぬと決めた。それが聖遺物であれ、魔具であれ、とにかく、儀式で使用される用具を揃えるのが先だと決意した。この数年間は、数百人に及ぶ傭兵や従者に命じて、解決できた際の多額の報酬を約束して、この遠大な領地の方々を探させた。国内外の有名な学者に聞いたところでは、マケドニアやカタールには魔術を用いる占星士の伝説が多く残されているという。その地の古城や古本屋の倉庫をつぶさに探れば、魔筆の詳細が記載された古文書がいくつか残されているかもしれないと考えた。そこで、それらの地方には特に多くの優秀な部下を派遣した。彼らは古くから存在する城下町や僻地の教会に乗り込んでいき、時に武力で脅し、時に膨大なる金銭をその地の貧民たちにばら撒き、精霊の力を発揮するという魔法の筆の有力な情報を求めた。私は五年以上もの間、期待を胸に抱いて、良い報告を待っていた。おそらくは報酬目当てに送られてきた、数百数千にも及ぶ、有象無象の情報の中には、いくらか魔性の匂いを漂わせるものも、全く問題にならないものもあった。我がこと成れりと思った瞬間も何度かあった。『魔法の力を持ち得る筆をついに見つけた』という歓喜の報告を携えて、薄汚れた筆を丁寧に包んで持ち帰ってきた家来も多くいた。だが、検証の結果は、そのすべてが、ただインクが切れただけの人工的な文具だった。これまでに、いったい、何百本のまがい物の筆に向き合い、一時はぬか喜びをして、やがては自暴自棄になって、それを床に投げ捨ててきたことだろう」
「魔筆は人間の世界と共に生きるものではありません。この世に、どんなに優れた人間がいたとしても、その指に馴染むものでもありません。この愚かしい世界の動向を、ただ眺め続けていくために、この世界の根本として、常しえに存在するよう命じられ、水として、大気として、雲として、雪として、残念ながら、この欲に歪んだ視界にこそ映りませんが、常に我らの隣にあるものであります。名誉と地位に目が眩んだ貴方のような方が、いくら時間を費やしても、到底探し出せるようなものではありませぬ。風に舞う一粒の砂が、人の目には決して見えぬように、ひとつ呼吸をして生きることに感謝することよりも、テーブルに並べられた大量の美食を勧められるままに喰らうことを幸福と感じて、ただ己の欲望を満たすことだけを意識して暮らす人間どもの視界には、精霊が創り出した魔具は見えませぬ。人として生まれたからには、煩悩を持つは必然ではないか、という愚劣な主張がこの場においても、まかり通るとお思いなら、すぐにお帰り下され。どう考えても貴方には精霊の意志など扱えませぬ」
金の多寡がすべてを定めるこの時代において、乞食とあまり違わぬ身分の人間が、王宮で大勢力をもつ貴族の前で、このような大それた口を叩けば、通常の謁見の場合、随行する者により即座に斬り殺されても、まったく文句は言えない。さらに、その死体を見つける憲兵がいても、事態を察して何の調査もしないであろうし、周辺の住民においても、遺体の片付けくらいは面倒を見てくれるかもしれないが、おそらく、汚らしい野犬や野良猫と同様に扱われ、誰も同情などしないことが必定である。ただ、アレンシア伯爵としては、この不遜なる魔術師の、そのような言葉づかいを、いつからか許していたし、あまつさえ、彼の気持ちの持ちようが、長い会話を通して、少しずつ自分の側に近づいてきた、という喜びさえ覚えていた。
「国内外に多くの領地を持つ貴族の家系に生まれつき、これまで何不自由なく暮らしてきた私が、目に見えぬ精霊たちから、よほど縁遠い存在であるというのであれば、それは受け入れよう。土の霊や水の霊が、先祖代々の長きにわたりその土地に住み、自然という存在そのものに深い信仰と尊敬を持つ領民たちにしか、その神々しい姿を現さず、信心深い彼らに対してのみ魔術を用いた恩恵を与える、と言うのであれば、あるいはその通りかもしれぬ。多くの私財を投じて行った私の大掛かりな捜索は、無謀の一言で片づけられてしまうのかもしれぬ。だがね、私はついに見つけたよ。そう、魔筆の在り処を。多大なる幸運に恵まれて、魔筆をその手に掴んだ勇者たちが、時の移ろいと共に順にその秘宝を受け渡しながら、各地を放浪して、それが今、この家にあるということを知ったのだ。多くの散財が成しえた人海作戦は、ついに貴重な情報の入手という形で終わったのだ。完全に盲点ではあったが、自分のお膝元の領地にある貧民街の一角に、客の求めに応じて、魔筆を操る古物商がいる、との情報を得たとき、すでに朗報を得ることに待ち飽きていた私は、それほどの信頼も出来ぬ、部下や赤の他人に、これ以上の捜索活動を任せることをやめた。やっとたどり着いた、この最終段階において、愚かなる部下の失態で、この貴重な話を粉々に壊されたのではたまらないからな。今度こそ自分の行動により、生涯をかけた、この願望に決着をつけねばならないと決めた。自分の口で魔筆への願いを語り、自分の手で魔筆を操りたいと思った。今夜、ここに訪ねて来たのは、そういう理由からなのだ」
「では、明け透けに申し上げますがね……、確かに……、ここに置いてある真樺の筆箱の中には、この世の始まりから存在する、といわれる、一本の筆が入れてあります。二世紀ほど前に、欧州全土を巻き込んだ、ある大戦のさなかのどさくさに紛れて、闇市に持ち込まれたものです。かつてこれを所有していたと思われる者も、金に目が眩んで、これを届け出た者も、すでにこの世を去っております。戦前は、由緒ある王家が長年に渡り所有していたという噂を聞きましたが、その所有者名も時代も今ではわかりません。神も悪魔も現実ではなくなった、今の世の中にあって、縁あって、私が取得するに至りました。もはや、誰に届けるべきかも知れぬ製品なので、とりあえず、自分の身の傍に大事に保管してあります。誤解無きように申し上げておきますが、この魔筆が私を所有者と認めたわけではありません……。他にどのような処置をとることもできないだけです。おそらくは、この世界に属する、誰にも扱えぬ品物ですのでね。ただ、この筆が、あなたが先ほど仰った、伝説上の魔筆と同じものなのかは、私にはわかりません。どちらかが贋作なのかもしれませんし、万が一、本物であったとしても、長い時間の中で、とうにその魔力を失っているかもしれないわけです……。つまり、ここにたどり着くまでに、どうやら、多大な時間を浪費されたようですが……、この魔筆が貴方が期待しているような成果を本当にあげられるのかについては甚だ疑問ですね。と言いますのは、かつて、魔族によって創られたはずの遺物が、本当にその本領を発揮したところなどを、誰もその目で見たことはないからです」
魔術師は考え深げにそう説明して、ついに筆の在り処を認めた。ただ、これは目上である伯爵の願いに迎合するためでなく、まだ、両足が魔界に踏み込まずにいるこの段階で、心ばかりの忠告を与えてやり、魔族の力をその手にしたいという、その危険極まりない、無謀なる捜索活動から手を引かせるためであった。
「ぜひ、その筆を見せて頂きたい。もし、叶うならば……」
その声はやや震えていたが、喉の奥から自然に出てきた。伯爵はその場に漂う尋常ならざる空気により、すでに何者かの存在があることを知り、圧倒されていた。今宵、この汚い下町に単身で踏み込み、たった一つの住宅を探し始めてから、かなりの時間はかかったが、この似非魔術師の口を割らせることには、どうやら成功したようだ。自分が人間界と危険な悪魔たちの住処のちょうど合間にいることを実感した。アレンシア伯爵は少し前から気づいていた。今この場には、自分と聞き手の不審なる魔術師、その他に、もうひとつの存在がいると。闇の中に通常ではあり得ぬ、虫の息づかいより微かな呼吸が聴こえてくる。それはランプの光の届かない、部屋の暗がりのどこかにじっと息を潜めて、鈍く光る眼で、こちらの気配を伺っているのだ。自分の語る原初の物語を、先ほどから、ほくそ笑みながら聴いていたのだ。
先に明かしておくと、古道具商を名乗る、この不届きな魔術師は、常日頃から、この部屋に棲むものと魔界を共有していた。その悪霊の存在がどんなに恐ろしくとも、あえて騒ぎ立てないのは、決して、他の住民にそれを隠そうとするためではない。少なくとも、この先も普通に生きていきたいと思っていたので、我が心を盗み見て、折あらば意思を操ろうとする精霊たちとは、なるべく距離を置くべきだと思っていた。人間という存在自体をまとめて亡ぼしかねない魔物たちと関わり合うのは、自分一人だけでよいという信念すらあった。もっとも、警察に連絡を入れたとて、王宮に届け出たとて、悪魔の手から自分の身を守ってくれる人間など存在しない。どんな斬れる剣も優れた知性も魔族には通用しない。この男も俗人でありながら、古典の研究者である以上は、この自分だけでも魔界と関わり合ってみたいという小さな興味が、多少なりともあったことは事実のようである。
『いかに大悪魔といえども、外の空気にさえ触れさせなければ、さして問題はない』
魔性の筆が自分の手に入ったとき、彼はそう決断して、魔界とこのみすぼらしい部屋とをあえて繋いだのであった。久々に自分の住み家を訪れた客の雰囲気に多少は戸惑い、何事か少し考えこんでから、眼前の筆箱に慎重に手を添えた。その首筋や指先が得も言われぬ不安により微妙に震えていた。蓋が少し持ち上がった瞬間、伯爵にしても、周りの空気が時間とともに凍り付いたように感じた。美麗な黒蓋は音もなく外され、机の右前方へと移動されて、静かに置かれた。その中には二本の黒い筆が収められていた。魔術師はなぜか不思議そうな顔をして、まるで、初めてその筆と向き合ったかのような顔つきをして、しばし、その動きを止めた。魔筆にその指で触れたとき、いったい何が起こり得るかを知っているのは、どう考えても、この男だけである。すぐ隣で棒立ちになり、その様子を注意深く伺っていた、アレンシア伯爵は、『どうした、早く筆を握ってみせろ』と、もどかしくなったのは確かだが、あえて何も発言することはなく、黙って佇んでいた。魔術師は何か目に見えぬものにでもとり憑かれたように、未来のない重病人のように緩慢で、しかも不自然な動作により、箱の内部の右側にあった一つの筆をその指に挟み、ゆっくりと取り出し、そのまま、恐る恐る机の上へと落とした。しかし、その瞬間であった、いったい何か起きたのか、右腕をだらしなく机上に投げ出し、やがて、上半身も前のめりにもたれかかった。その反動で筆箱のすぐ横に置かれていた、陶器のカップが倒されて、少しの水が中からこぼれだした。伯爵は男のその様子を見て、少しは気にしたのだが、すぐに視線を木目の上に置かれた魔筆へと自然に移した。
全体は自宅の書斎でも見慣れた、黒い光沢の筆であり、その金色に輝く筆先は、帆船の帆先にも似ていて、ペンの本体と自然な繕いで一体化していた。金の細工による彫り込みの部分は、単純なロジウム装飾のようにも見えるが、本物の白金なのだろうか。伯爵邸にも、当然のことながら、貧民の所得の十年分でも購入できないほどの高価な筆は何本も備えてある。目の前の筆もそれらの年代物の逸品と同じような造りには見える。ただ、外観を似せるだけなら、腕の確かな職人であれば、それほどの期間を必要とせずに作れてしまいそうな、人工的な造りであるが、それにしても、漂う落ち着いた雰囲気は独特なものであった。
伯爵はこれが視界に入った瞬間に、『これが欲しい。持ち帰りたい』と直接的な願望が声として出かかったが、目の前にいる魔術師は、先ほどまでの会話からして、おそらくは金欲とは無縁であり、このような俗っぽい言葉を用いても、『これは商売品ではありません。お引き取りを』と、呆れさせてしまうのが目に見えたので、その場で少し腰をかがめて、ただ黙って机上の筆を見つめるだけに留めた。問題の魔術師の方はというと、すでにその目は閉じられていて、まるで、人の世には存在しえない何かに、その内面をすっかり乗っ取られたかのように、その身を細かく痙攣させていた。すっぽりと頭部がローブに覆われてしまい、顔は隠れてしまっていた。この角度から眺めても、その表情はまったく見えないが、明らかに魔界の力により精神を乗っ取られてしまったようだ。背後から試しに右肩を叩き、良く見えぬ、その顔の前に何度か手をかざしてみたが、反応はなかった。
『では、お話しください。貴方の耐え難い、過去の記憶というものを』
その透き通った声は、先ほどから対話をしている、目の前の魔術師のものとは明らかに違っていた。不思議な事実ではあるが、さほど神経を集中していなくとも、判断できることだった。所々破れた、古びたカーテンの後ろか、崩れかけた本棚の向こう側か、いや、どこか、この世のどこか、おそらくは人の咎をことごとく喰らってきた闇の奥から、至極当然のように我が身を審判へと誘う言葉を投げかけてきたのだ。自分はこの世界の何ものも恐れぬ大権力者であり、どんな事態が起きたとしても、動じるはずはないと、高を括ってここまで来たが、事態が俗世の人間が体験できるはずもない、恐るべき方向へと向かっていくのであれば、人としての鋭敏な神経を備えている以上は、この先の展開を恐れる気持ちが湧かないはずはなかった。
伯爵は自分の誇る家柄が他の貴族たちと比べて、どれほど恵まれているかを、あるいは常日頃自分の周囲で展開される華やかな人間関係のことなどを、異形と対峙する不安に声を震わせながらも、簡略しつつ説明した。自分が飛びぬけた才能を駆使して、これまでにどんな華々しい活躍を経て、今の地位までたどり着いたのか、ということも。齢四十にして、すでに宮廷での地位と人心を極めたのだ、ということも。その上で、若い頃からその胸に秘めていて、徐々に育ってきた願望について語り始めた。
「人間が生まれながらにして持つ最大の目標とは、自分と同格にある、すべての好敵手に対して、こちらの優位を認めさせ、羨望の念を抱かせることである。わかりやすく言い換えれば、世のすべての上級民を競争によって打ち負かし、敗北を認めさせることだ。そして、自分の前に跪かせることである。その完全なる目的に向けて、学生時代での勉学にしても、その後の宮廷での立ち居振る舞いにしても、若い頃から、道を塞ぐものがあれば、あらゆる策動を用いて対処した。また、最高の地位に登り詰めるために、常に成功への取り組みを為した。その結果、この世に欲しいものや為さねばならぬ目的など、すでに無いと断じきれるほどになった。ただ、同時代では頂点であるにしても、かつて、この大陸に存在した歴史的な名家と比べれば、これだけでは満足しきれぬ、というのも本音なのだ。アーサー王やナポレオンが、なぜ、今の時代においても尊敬の念をもって語られるのかといえば、それは彼らの残した足跡が後世の優れた著述家たちによって、実にうまく脚色されているからだ。つまり、彼らの人生を物語った、架空の絵巻物が実際の出来事よりも、大衆の心を動かしたのだ。ナポレオンが戦場で指揮を執っているところを見た者より、後世に生まれて、彼の人生を描く、英雄伝を読んで育った人間の方が遥かに多いわけだからね。想像によって生まれた戯曲が現実を越えたと表現できるかもしれない。もし、金目当てで応募してきた、名もない三文作家に彼らの伝記作成を依頼していたなら、不幸にも、上記二名は英雄とはなれず、ただの野心家や侵略家で終わっていたかもしれない。つまり、私の完成された人生においても、本当に大事な瞬間は今現在ではない。これからやって来るのだ。この私の長き足どりについて、いったい誰が、どのような記録文書を残していくかが大事なのだ。それに比べれば、今さら、無駄に積み重ねた膨大な資産や貴族の称号などは必要はない」
『輝かしい名誉や地位、あるいは後世に残りうる十分な資産を得るだけでは満足できぬと仰る……。少し意外ですな。さらなる栄誉を積み重ねるために、ここに来られたわけではなく、現世での繁栄には満足ができず、死後も延々と語り継がれることを望むというわけですか……。老いて朽ちてしまった貴方の身は、すでに土の下にあるとして、後世の人間が貴方を褒め称える声は認知することさえもできぬはずですが、いったい、赤の他人のために記録を残す、という振る舞いに何の価値があるのでしょう』
「そうか……、例え、人知を超える能力を持っているとしても、人外の世に棲むものには、到底わが心を理解できないということか。では、もう一歩踏み込まねばなるまい。地上に生まれついたときの環境も、成長してからの対人関係も、比較されるべきすべてが、通常の地方貴族風情とは、まったく異なるということをな。私にはもう政治家から毎月送られてくる支援金や賄賂のたぐい、また、下級貴族からの親密な関係を保つためのおべっかなど、まったく必要としていない。そういうものに耐え切れぬ腐臭を感じ、金銭と愛欲によって腐敗した貴族社会のすべてに、心底飽き飽きしたのだ。もはや、金も権力も老年まで維持したいとは思わない。自分の本当の進行になりうる存在がもしあるのなら、例え、積み重ねてきた資産を大きく取り崩してでも、とにかく、これまでに地上に生まれてきた、如何なる恵まれた資産家も持ち合わせたことのない秘宝をこの手にしたいのだ。もちろん、この私の永遠の名声を得るためにね」
『万世の世に生まれ出て、努力を積み重ねながらも、ひたすらに苦難の道を歩み、幾多の激戦にかろうじて勝利を収め、庶民からの羨望を一身に浴び、一刻は大陸の頂点を極めたものの、やがて黄昏と共に消えていった英雄たちも、おそらくは晩節に至り、貴方と同じことを望んだはずです。だからこそ、各国の書庫に保管されている数々の史書にも残されている通り、輝かしい経歴を誇りながらも、長い余生のさなかに、良識を見失い、あらぬ妄想癖にとり憑かれ、一般の貴族よりも余計にくだらない投資をする羽目に陥ったのではないですかね』
どこからか冷たい声が届いて、たしかにそう言い放った。どうやら、悪魔という存在も、人類の悠久の歴史と、その栄枯盛衰というものに、ある程度は熟知しており、それに対する、独自の冷静な見解というものを備えているようだった。ただ、魔筆が本当に新しい運命を生むのであれば、それが精霊による奇跡なのか、悪魔の産んだ知恵なのかは、今のところ判明しないのだった。ここで意地をはって、今のところ、目にすら見えぬ悪魔の鋭敏な推察に反抗するが正しいのか、それとも、声を一時和らげて、悪魔の精神にうまく取り入って、魔性の筆とやらに、なんとか触れさせてもらえるよう、ことを巧く進めた方が良いのかは、なかなか判断の難しいところであった。ただ、何も返答をしないのは良くないと感じて、伯爵は魔界の声に向き合うことにした。
「それは、彼らの欲望にそもそもの目的意識が足りなかったからだ。高価なもの、珍しいものを、単に戸棚に飾るために、あるいは夜中の晩餐に、わざわざ呼びつけた貴人に対して、それを見せびらかせるために手に入れようとするのは、きわめて低劣な行為であるし、それがために、金策を牛耳る裏社会の連中の罠に陥ることが必然なのだ。奴らは富裕層の人間の欲求をつぶさに観察していて、彼ら貴族が目の色を変えて欲しがるものがあれば、例え、道端に転がる砂や石であっても、一般には到底許されぬ呪術によって、それを光り輝くダイヤに変えてみせるからな。人間の欲望が生まれれば、そこには汚い害虫がたかってくるものだ。私の目的は人の手によって造られた、宝石でも金貨でもない。自分の価値が精霊や神と同格となること。それを実現するためには、少なくとも、人と異世界とを隔てる境を乗り越えなければいけない。人知を超えた奇跡を、わが手に得るためには、人の営む社会には、およそ存在しない発想が必要になるのだ。そこで、この世の創造と同時に生まれたと思われる筆を用いて、自分史を書き換え、生まれ持った一本の道の上には、到底存在しえなかった、新しい運命を手に入れる、という願望に身を任せることにしたのだ。それは創世記に悪魔が創り上げた筆を、神の創作物と思われる人間が、初めてこの手に握りしめるという事態にはなる。君には不謹慎と思われるかもしれないが、古今東西の名だたる英雄たちを、私が超えてみせるためには、必要な行為に思われた。そして、幾多の英雄がすでに永遠の眠りについたこの虚しい時代において、およそ人心を極めた、新たな英雄を誕生させるにあたっては、しごく適切な行動であると思えた」
『貴方がわざわざこんな辺鄙な場所まで、この魔筆を取りにいらっしゃったのは、そういう理由からでしたか。なるほど、つまりは、権力闘争の果てに道を極めた人間としては、ただ玉座に座り退屈に過ごすことにさえ、その身に倦怠感を覚え、人の身に馴染まぬ魔力を手にすることで、ようやく確かめられる己が欲望を満たしたいと。ただ、先ほど、ご自分の回顧録をものしたいと仰られましたが、貴方が着々と歩まれてきた道程の、何がどのように気に食わなかったのか、こちらとしては、いまだにわかりかねます。その傷が大きいものであれ、かすり傷であれ、それを防ぐ手段が、もし現世において容易に見つかるのであれば、何も、命を賭して魔筆を用いてまで、人生録を書き換えてみせる必要はないですからね』
少しの逡巡の後で、その声は静かに告げた。そもそも、人間と魔術とは不釣り合いという、つれない反応にも思えたが、元々、悪魔と人がわかり合えた歴史など無いわけであり、この疎遠な反応こそが、未知のものと対話をしているという達成感に繋がった。伯爵は動悸の高鳴りを覚えた。長い旅路の末に、自分はようやく悪魔の棲み処に踏み込んだのだ。
「いや、実をいうと、これはつまらない、一つの恋愛劇の結末に関することなのだ。最初に説明しておくと、私は対象が愛人であれ、恋敵であれ、親族であれ、とにかく勝負事には、完璧なる勝敗を決して、その上で屈服させてやりたいという思いが強く働くのだ。自分の能力が他を圧倒するほど優れているなどと、自己満足に浸ることだけが本意ではない。例え、どんなに自分を嫌っている相手にも、あらゆる客観的な事実において、我が方が圧倒的に勝利した、ということを完全に認めさせなければ気が済まないのだ。つまり、恋愛であれば、こちらが手にした女性の方が、家柄においても、外観においても、愛嬌においても、どの角度から眺めても優れていなければならない。私が年を追うごとに重ねていく華麗な恋愛体験に、誰もがその脳を狂わせるほどに嫉妬することが当然なのだ。私が本気で願うならば、世の法則を無視した、どんな道義に外れた行為でも、それはすべて叶えられると、この地上に生きる万民に知らしめなければならない。これが一番肝要だ」
『すべての生ける人が、貴方の行動の一つひとつに関心を寄せ、すべての生ける人が、貴方の輝かしい体験に嫉妬する。それが望みだったわけですね。そして、権力の高みにまで達した今も、十分な満足感を得られずにいると。そこで、貴方はあえて人の道から外れるため、悪魔とも手を結ぶつもりになられた。自分の運命か、あるいは他の誰かの運命を変えてみたくなったわけですね。人の身でありながら、悪魔の力を持ちたいと……、刹那に生きる人間の発想としては、とても愉快だ。ここにいらっしゃった理由は、何らかの理由によって、それが叶わなかった、ということで良いでしょうか』
「そちらの申す通りだ。まあ、簡単に言うならば、自分より優れた者を敬うことすら知らない、まったくもって気に食わない低級貴族が一人いたということだ。そいつは、自分の身にさしたる魅力も持ち合わせぬくせに、実るはずもない、つまらない恋をしていた。他所の豚貴族の恋愛事情などに、今さら何の興味もないが、自分の存在をそこに割り込ませることにより、その恋愛劇を粉々に破綻させ、一人のくだらない人間を絶望に追い込むことが出来るのであれば、それは、なかなか興味深い体験になる。そう思い、実行に移すことにした。完璧な立場にある私にとって、何の妙味もない一人の女を、ほんの少しの興味によって、その肉体と魂のすべてをこの手に入れ、やがて、冷酷な真実を突きつけることにより、その女を捨てた。もちろん、自分の信念による行為だ。もちろん、何の罪悪感も生まれなかった。頂点に立つ者に恋愛感情など必要はない。ただ、気の赴くままに……、というわけだが、結果として、女はその行為に心から失望して、簡単な挨拶を残して、いとま乞いをして、家族とともにこの街を去った。我が憎たらしい恋敵は、生きる目的を完全に失ったことになる。私の計画は外面上はうまく進んだように見えた。ぜひ、愛おしい女性を失った、豚貴族の落ち込みをこの目で確認して、それを酒の肴にでもするつもりだった。もっとも嫌悪する相手を、地獄の海の底まで叩き込み、絶望を味合わせたつもりでいたが、いくらかの時が経った後で部下に確認させたところ、その豚のような男は毎日の役所での仕事を休んではおらず、その態度も意外と崩れていなかった。その後の私生活もいたって平静であったという。私の顔を見れば、怒りを思い出すかと思い、こちらから、わざと近づいて行って、いくらかの会話のやり取りを試みたのだが、その会話の中でも、すっかり破綻した辛い恋を思い出して、泣き叫ぶこともしなかったし、血の涙を流すと共に屈辱に身を震わせることもなかった。追放してやったあの女だって、私に対して、己の恥辱の血痕がこびりついた憎しみの短剣を突きつけてくるぐらいの行ないをしても良いはずだ。警察がまともなら、その行為を許すであろう。そういったこれまで平凡であった人間たちの狂気が見たかった。
残念ながら、結果をいうと、その二人の対応が、私が願っていたものとは、まったく違ったのだ。もちろん、失敗の原因を探る必要がある。真の結論に至る判断材料は多くはない。私は注意深く二人の行動を観察した結果を、己が心理でまとめるしかなかった。それは、私の策略に落ちた両名が、絶望と屈辱を心の底に押し隠したものであると結論付けるしかなかった。二人の気持ちが卑劣な裏切りによって、どんなに失望と苦渋に満ちたものになったとしても、私の目に現実の画として、それが見えてこなければ何の意味はない。どんなに高価な眼鏡も心の内までは立ち入れないからね。残念なことに、今のままでは、自分の演出した恋愛演劇の結末としては、ひどく低劣なものだと言わざるを得ない。我が心を喜ばす芸術とは、到底呼べない。つまりは、私が納得のいかない、その部分を修正したいのだ」
伯爵はそこまで話すと、暗闇のどこかで今の話を聴いているはずの、聞き手の反応が気になったらしく、一度、その話を止めた。魔筆は古代文字の刻印が刻まれた、金色のピンを上にして机上に置かれたまま、黒光りするその身をまったく動かさなかった。この狭い部屋のどこからも、一切の物音は立たず、あるいは筆の側にたしかに佇んでいるはずの何者かは、まだその動きを見せず、アレンシア伯爵の主張をどう判断したものかと、物思いに耽っているようにさえ見えた。いくつかの古びた燈台は、この狭い部屋の片側にしか置かれておらず、その半端な光が、すでに気を失ってしまった、黒い服を羽織った魔術師の痩せた顔の陰影を浮かび上がらせて、心中に得も言われぬ不安を沸かせた。呼んでも叩いても、目を覚ましそうにはない。すでに呼吸を止めているかもしれない、という錯覚さえ起こさせた。そう、この男が死んでしまっては、この部屋に潜む悪魔や魔筆と意思の疎通をとる手段が無くなってしまうという、まったく別の不安が心中に起こってきた。
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