第二話 伯爵は魔筆の由来を話す
相変わらず、依頼者に視線も合わすこともなく、怪しげな男はそう問いを発した。男は『悪魔の筆』などと表現してみせたが、その問題の魔筆自体が、今現在、どこにあるのかが、わからなかった。伝え聞いたところでは、一応は商人であるはずだから、まずは、その筆の説明を貴様が先にすべきであろう、と思わずに居られなかった。『もったいぶった能書きはいいから、その悪魔の筆とやらを、早いところ私の眼前に出してもらえないか』と質したいところである。ただ、その秘術が本当に人外の力により為されるのであれば、こちらの言い分はいくぶん無粋な要求になるかと思い、強引にことを進めていくのは、ためらうこととなった。自分は生まれてこの方、周囲から傅かれて生活を送ってきた。当然ながら、秘法を操る魔術師との取り引きなどしたことは無い。この一件は、貨幣では解決できぬかもしれない。その単純な思いは一つの引け目でもあった。
「これから未来にかけて起こりうる、あらゆる分岐点を自分の思った通りに選び、最も適切な道筋を進んで行くための道具だと聞いている。人は局面によって、どんな思考や判断を持っているにせよ、どんな大胆極まる行動を起こそうとしているにせよ、結局のところ、運命によって縛られている。つまり、人の生においては選択という概念はあり得ない。すべての人の産まれて、生きて、そして死ぬまでのあらましはあらかじめ運命の書に記載されている。どうにか破滅を逃れようと、地上の賢者を多数呼び寄せて、どんなに知略を尽くしても、予め記された道を外れることはできない。人間として生まれたものが、もし、自己の意志によって、その運命を書き換えたいと願うのであれば、それはこの筆を用いるほかないとも聞いている。その認識であっているかね?」
魔術師はその話を取り敢えず聴いてはいたようだが、すっかり呆れたように首を何度も振り、大きくため息をついてから、いかにも気怠そうに椅子の背にもたれて、低い唸る声を出して背伸びをしてみせた。この依頼について、まったく気乗りのしないことを暗に示したいようであった。そのまま、視線を奥の方へと移し、しばし、何ごとかに思いを巡らしているようだった。ようやく、自分に来客があったということを認識し始めたようにも見えた。
「ああ、確かに、何日か前に……、『こんな汚ない街には、とんと慣れていない』などと、のたまって、無礼極まる……、妙な男が訪ねてきましたな……。まったく……、こちらから、呼んだわけでもいないのに……。いつの間にか、この部屋の中まで入り込んで、無作法なことに、何かを食っちゃべっていきましたよ。今さら、確認するまでもないでしょうが……、あれが……、あなたの従者とか言う奴ですか……」
「その通りだ。私としては、ずっと、その件で話をしているつもりだ……。こちらの要件は伝わったかな? 私はこの街の住民とは違う。我が国のために日々働いている重要な人間であり、暇ではないのでね。そろそろ、本題に入りたいのだが……」
伯爵は心の不安をなるべく押し隠して、外見上としては、丁重なる振る舞いによって、話を前へと進めようとした。その訳は、この男と付き合っているのが、苛立ってきたわけでも、面倒になってきた、というわけでもない。この場に長い時間佇んでいるうちに、何か人の目では捉えきれぬ、言い知れぬ超常的存在が、この空間を人知れず舞っているような気に襲われ、いつしか、その思いに纏わりつかれていた。両脚は恐怖で細かく震えていた。胸に何かがつかえているような気がして、呼吸は浅く早くなっていた。霞がかかったように、次第に視界はぼやけてきた。伯爵は不安を気取られぬように、右手で何度も瞼を擦って正気を保とうとした。認識を変える必要があるのかもしれない。この眼前の男の不遜な態度は、単なる悪ふざけではなく、多くの依頼者が辿った残酷な歴史が背景にあるのでは、とようやく認識できてきた。
「貴方ね……、こちらとしても言わせてもらいますが……、例え、何様であろうと、人という下らない身でありながら、分をわきまえずに運命を変えてみたいなどと、寝言にしたって、度が過ぎていると思いますがね……」
黒いローブの男は吐き捨てるようにそう言い放った。この発言とて、決して嫌味で放ったのではなく、この無知なる貴族を誤った道へと進ませぬための助言にさえ思えてきた。しかし、アレンシア伯爵は自分の意思を曲げる、あるいは撤回する、などといった判断をしたことがないのだった。この哀れな御仁は、目的のためではなく、飽くなき興味のために、つまり、裏社会の奥を少しでも覗き見るためだけに邁進するのだ、という決意をすでに固めてしまっていた。絶対的な権力をその手に握る前であれば、当たり前のように持ち合わせていたはずの自己保身の気持ちを、心の泉の下へ下へと押し隠す形で固めてしまったのである。
「時の風に晒されながら、退屈に流れていく、自分の生活には到底満足できない。例え、今の自分が貴族として望みうる、あらゆる欲望を手にしていたとしてもね。もっと前に進みたい。もっと、恍惚とした充実感を得てみたい。その上で強欲な男だと評価されるなら、それでもいい。もしも、極みに至ることができるのであれば、我が国の法に触れるような犯罪に手を貸せと言われても同意しよう。おぞましい悪意に身を任せよ、と言われても、あえてそうしようではないか」
「いったい、どこでこの住居の場所を知り得たのかはわかりませんが、私は自分の持ち物に、そのようなものがあることを認めません。悪魔の筆はそもそも偶像の世界に語られるもので、個人に所有されるものではありません。貴方も名のある官吏であれば、そのくらいはご承知でしょうに……。人間の欲を完成させるとか、課せられた運命を塗り替えるとか、そのようなものでもありません。ただ、この世界のどこかに精霊というものが存在するのであれば、それは太古の昔から、愚かしい人の営みを、ひそかに見つめ続けてきたのは確かです。いつしか無限の時が過ぎて、私やあなたの肉体が風に溶けても、この世のどこかに整然と在り続けるでしょう。つまり、人の歴史がどのように流れていこうが、必ずやそこに存在する……。それだけの物です。精霊と人とは区別して頂きたい。貴方が一介のつまらない存在であるこの私に、いったい何をさせようとしているかがわかりません。残念ながら、ご覧の通り、私はただの人ですので」
その説明を受けて、伯爵の瞳は怪しく瞬いた。噂話に聞いたものが、本当に精霊が創ったとすれば、まさに想像していた通りのものであり、権力の階段を足早に登り詰めてきた、この自分にこそ、ふさわしい魔具であるように思えたからだ。伯爵は利き手を男の眼前に掲げて、その話をすぐに止めさせた。これから述べる自分の言葉に注目するようにと指図する効果もあった。
「私の今の姿は、この世界でもっとも光に満ちている。それは君の目にもわかるだろうね? だが、私とて鬼でも仙人でもない。いくら王宮でえばり散らしてみせても、所詮は人の身であり、魔性の杖をふるって神通力が使えるわけではない。時間の経過により、いずれは醜く老いるだろう。あるいは誰かの術中にはまり、権力争いに敗れるかもしれない。そして、資産を失う、名誉を失う、称号を失う、住処を失う。健康な肉体を失う。そして……、この先はもう君に説明する必要はないね?」
「あなたの身は荒れ野にうち捨てられ、誰にも看取られることなく、走り寄ってくる野獣たちに喰われて朽ち果てます。その見苦しい遺体には、烏さえも寄り付かないかも知れない。もし、神の救いがなかったならね」
男は視線も合わせずに静かにそう答えた。伯爵はその無礼な言葉をあえて許した。それは、お互いの見解が同意に近づいてきたからだ。そう、まずは、『魔筆という物が確かにこの地に存在する』という出発点に立たねばならない。全ての交渉はそこから始まる。
「そう、今は国王に仕える、すべての高級官吏が、私のために心を込めて尽くしてくれる。実際にこの偉大なる国を動かしているのは王ではない。政治的な権力を握っているのは、この私だからね。そのことは誰もが認識している。政治家と行政官は否応なく私の足元にひれ伏している。宮廷にあふれる花のような貴婦人たちは、すべて私の姿に見惚れている。それは、この外見にも発言にも態度にも、溢れんばかりの魅力に包まれているためであるから、それは致し方ないところだ。だが、この輝かしい僥倖は、いったい、いつまで続くのだろう? その時代を代表するほどに優れた人間は、己が生涯を通じて、その国の頂点に居座るべきだ。五年後、十年後の未来にも、私は少しの錆もこの身に纏うことなく、今と同じように輝いていたい。いや、未来永劫輝くべきだ。そして、長い恒久の歴史にあって、唯一の存在として選ばれるべきだ。そう願うことは当然だろう? もっとも、選ばれた人間であるのだから……」
先程までとは打って変わり、陰影のような、くすんだ存在の男はその落ちくぼんだ目を閉じて俯きながらも、何度か頷いて見せ、伯爵の説明に対して、いくらか同意を示しているようには見えた。そのことにより、この場に漂う薄気味悪さが、消えたわけではないのだが、完全に余所者である自分の存在が、この部屋の澱んだ空気にいくらか馴染んできたようには思えた。特別な存在である、この自分なら、思いを果たせば悪魔の化身にもなれる。伯爵はおそらくそう考えたのではないだろうか。
「名誉を保つため、自分の栄華をあの世まで持ち込むために、例え悪魔にでも身を売るというわけですか。そういうお方に『魔筆など、ここには無い。引き下がりなさい』と言い聞かせてみても、おそらく、それは無意味でしょうな。人の身でありながら、深い沼のような情欲を得てしまったのは異常な事態と言わざるを得ません。どんな噂を聞きつけて、ここまで来たのかは知りませんが、私の棲み処に踏み込んでしまったなら、それは致し方ない。では、お話を拝聴致しましょう。もし、貴方が仰る、その魔筆とやらが、この世にあったとして、いったい、どのようなことを、精霊が拵えたという、その空想上の筆に書かせたいと思っていらっしゃいますか」
「簡単に結論から言えば、後世の人々がもっとも参考としうる英雄譚を書いてもらいたいのだ。ただ、この言葉では伝わりにくい……。私の人生を細部まで記録した正しい書物を残して欲しいと表現した方が近いだろう」
「先ほどから、いくらか、貴方の生まれやら、高貴なるご身分のことを伺っております。まあ、拝聴することを、こちらから望んでいるわけではありませんが……。その生活のすべてが、たいそう、恵まれてらっしゃるということで……。付け加えるならば、周囲の方々も、それを一様に認めているということで……。でしたら、何も、私のような下層の人間に、記録書の作成などを頼む必要はありますまい。なぜなら、我々のような地べたで暮らす、いわゆる汚れた民には、どのように説明されたところで、あなたの優れた人格を到底理解できぬからです。もし、ご自身の回顧録が必要なのであれば、あなたの類いまれなる成果をよく知る、宮廷の著述家にでも金銭を握らせて書かせなさい。時間に追われているなら、同様の人間を何人でもお雇いになるといい。聞くところでは、貴方は飛びぬけた資産家でいらっしゃる。お金のことは幾らでも都合がつくのでしょう? ならば、回りくどいことなどせず、それが良いに決まってます」
「金の力に物を言わせて物事を解決する、それは難事を解決する手段として、学徒の頃より、すでに身に付けている。今回の件についても、それが一番良い方策であるならば、とっくの昔にそうしてる。その方策を取れぬ理由があるのだ」
アレンシア伯爵は得体の知れない男の言葉のすべてを強く否定するかのように、そう言い放った。魔術師はいくらか解せぬ表情で伯爵の顔を見上げた。その態度は、先ほどまでよりは、ずいぶん、伯爵の言葉に興味を持ってきたようにも見えた。どれだけの時の流れと表現すれば良いかは悩むが、しばらくの間、二人はこの狭い部屋において向き合っていた。いつの間にか、テーブルの隅にとまっていた、一匹の漆黒の蠅が冷たい羽を畳んで、この様子を伺っていた。今宵も展開される人の営みを眺めていた。いつ動くのだろうか。時は弛まずに流れていった。
「残念ながら、君の名はまだ知らぬが、紹介によって出会えたのも何かの縁だ。そこに、ある程度の信頼をおいて、これからの重要な話をさせてもらう。私は自分の人生に一つ、まあ、一つと表現するのは浅慮かも知れぬが、いくらか、自分の思い通りにはならなかった出来事があるのだ。何も上級階級でなくとも、人間関係においては、そのくらいの行き違いは普通に起こり得ることであり、他人から見れば、別段、たいした問題ではないことはわかっている。ただ、後世の民衆に我が生涯を克明に告げるのであれば、それは完璧なものでなければならない。傷のついたダイヤなどあり得ない。小さな瑕疵でさえあってはならない。我が偉大なる航路には、どんな微かな染みも許されぬのだ」
伯爵は少し間をおいて、その息を整えた。壁際にある灯篭の側を何匹もの大きな蛾が待っていた。複雑に描かれた羽の模様を炎の光が明々と透かしていた。初めは一匹であった、その艶やかな舞いに引き寄せられて、同種の蛾も集まってきて共に舞うのであった。まるで、意思を失くすまで踊り狂い、火に焦がされることを待ち望むかのように。
「宮廷の詩人なんぞに、我が輝かしい足跡を描かせれば、まあ、後世の民衆ふぜいに喜ばれるものは出来るだろうが、それは、ほとんど虚である。次善の手段として、高名な著述家に多額の金銭を渡して、同じようにこれを書かせれば、およそ真実の書が出来上がるが……、それは、おそらく、私の望むものにはならないだろう。凡庸な人間の力では、無意識に通り過ぎてしまった朧げなる部分を書き換えることが出来ぬからだ。今になって、時間をその時分に引き戻すことが出来ない以上、一度刻み込まれてしまった傷は容易に取り払うことはできない。私が自分の生涯を真と主張しても、本当のことを知っている者には易々と嘘と看破されるし、一度、たちの悪い連中に疑いを抱かれてしまえば、悪い噂は次々と尾ひれを付けて流れるだろう。つまり、君に頼みたいのは、自分の死後の憂慮をすっかり失くして欲しい、ということ。現代の英雄が何事も思い残すことなく、何十年先かわからぬが、その時が訪れたなら、安心して墓標の下へ向かえるようにして欲しいのだ」
「先ほどから、いったい何を望まれて、それほど懸命に、ご説明されているのかがわかりません。今の説明ですと、貴方のような方が、危険を冒してまで、こんな僻地まで尋ねて来られた理由が、まったく理解できません。成功者の回顧録を書くとか、過去に起きた出来事をまったく塗り替える、といったことは私の生業ではありません。私は一介の古物商に過ぎませんのでね。精霊や魔物とはそもそも無縁です。どんな噂を頼りにして来られたのかはわかりませんが、例え、それがここに存在したとして、誰にそれを扱わせます? ここに悪魔でも呼び寄せるつもりですか? 私は過ぎ去ってしまった貴方の過去を、今さら書き換える力など持っていませんのでね……」
伯爵はこの意見に一定の理解を示した。どんなに頑強に押し付けても、元より、簡単に飲み込める話ではないからだ。それが理解できた上で、さらに、鋭い指摘を投げて、この説明を続けようとした。
「だが、君はその懐に魔法の筆を持っているはずだ。私のこれまでの話を聴いて、まだ、とぼけるのならば、別に構わないが、こちらとしても、その存在を知っている証左として、少しその筆について話したい。聴いてもらえるかな?」
「どうぞ、なるべく、手短に……」
不気味な風情を漂わせた男は、今にも消えそうな声でそう言うと、両手を組んで、静かな瞑想に入った。伯爵を試そうとしているのか、それとも、この先で何を言われようが、まったく相手にせずに追い返してしまおうとしているのかは、まだ判断つきかねるところであった。
「ある時、私の邸宅を訪ねてきた、イスラム地域の古文書の収集に熱心な古道具屋の店主から、実に興味深い話を聞くことができた。その寓話は虚と無知にまみれた演劇にはすでに飽き飽きしていた、この私を大いに喜ばせた。人知が及ばぬほどの大昔、この地には、精霊により生み出されたものの、人にはなりえぬ魂と、この世界に欲を初めて生み出した悪魔しか存在しなかった。やがて、悪魔は己の存在を肯定するために魔界の沼の一番底から、一つの筆を産み出した。彼らを統べる大悪魔がそれを手に取ると、筆は誰に命じられることもなく、遥かなる未来の世界において、人を産み出すと思われる、一体の創造主の化身を幻想として描き出したという。
数万年の後、悪魔たちは運命の前に敗れ去り、実体を失って幻影となった。生物の代表として生まれた、正直で善良なる人々は、すでにこの世を去った悪魔の存在を知りえなかったが、芸術という観念を手に入れる前に、永久に存在するといわれる、その絵を自然と目にすることになった。彼らは畏敬の念から、その恐るべき絵の前に跪いたのだ。その行為によって、人という生物は、触れることも発想することもできぬものを自らの創造主として崇め敬うことを覚えたのだという。
興味深い話ではあったので、その先の説明を促したが、店主はその先を話すことを渋った。庶民がすぐに使いたがる手段だ。そこで、礼を弾んでやると、かつてペルシャで耳にした『ヴァルギスの筆』という銘の付いた筆が、その逸話と関わりがあるのではないかと語って聴かせた。かつて、ヴァルギスの筆を手にした聖者は、その筆の魔力を用いて、英雄たちの成功や悲劇などの、どんな運命を辿っていったにせよ、その運命がどんな結末を用意したにせよ、この地上に特別長く存在できるわけではない。どんなに抗っても、その身は人として否応なしに霞となり消えゆく。ただ、この地上において、どんなに長い時間が経過しても、英雄も聖者もすべて消え失せても、悪魔の産んだ筆だけは凄然とこの世界に残されていたという。古の聖者たちは、この存在のことを公にしようとした。ある書物においては、それを『死』と表現し、ある古文書では、それを『定め』と表した。自身の栄華に飽き飽きして、すでに生きる目的を失っていた、多くの資産家や貴族や王家の人間が、新たなる願望の一つとして、これを探し求めた。誰もがこの筆を宝として、自分の身に随行させたいと願った。ただ、伝説は空想以上のものにはなり得なかった。この地に英雄は幾百万と現れたが、この筆を制する者は遂に現れなかった。それは、単純な知性によって生きる人には、決して扱えぬものだから」
ここまで読んでくださってありがとうございます。なるべく早めに更新をします。よろしくお願いいたします。