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ヴァルギスの筆  作者: つっちーfrom千葉
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第一話 伯爵は深夜に下町を訪ねる


 なるほど、下層社会というのは、他人に対して何の敬意を払うことなく生活を送れるのか。つまり、燕尾服も礼服も着ないで、革靴の表面を磨くこともなく、いわば着の身着のままで、ぶらぶらと街を放浪していても良いのか、と伯爵はしきりに関心した。月の光に恵まれず、五歩先すらも見通せぬ夜闇の中、行き場所が定まらぬ浮浪者たちが、金や生き方すらも無心しつつ方々を歩いている。街は誰の願望も消すべく、すべての光を失おうとしていた。道路わきに並び立つ、寂れた店舗の門扉の影に、例えば、他人の財布を付け狙う悪漢が潜んでいるかもわからないのだ。こんな暗く汚い廃墟通りを、有効な武器も持たず、明確な目的もなく、行き交うことが出来るとは、それ自体が不思議なのである。ほの暗い通りを彷徨い歩いている、すべての通行人の姿が、まるで幽霊のように侘しく、すでに財産や地位を奪われ、衣服まで剥ぎ取られた亡者のように見えるではないか。今にも崩れそうな煉瓦の壁には、いたるところに視界に入るだに見苦しい落書きがそこら中になされていた。遠い南米の宗教国の絵文字か、あるいは読めもしないが、リトアニアの古代文字だろうか、その中には、悪魔の紋様にすら似た絵柄もあった。何かの意味があるのかと、しばらくの間、翼をひらいて戦場を飛び交う悪翼インプの姿に見とれてしまった。姿こそ見せぬが、頭上には羽をばたつかせるコウモリの群れが確かにいるのだ。それに釣られて、頭上を見上げた隙に、今度は足元を抜けて、なにか黒い物体が過ぎていった。あまりの素早さに視線で追う暇もなかった。


「今のが、どぶ鼠ねずみという奴だろうか。あのようなものが視界に入らなくて、本当に良かった」


 自分の身のどこかに、もし触れていたなら、と思うと、伯爵の身体に微かな身震いが起きた。自分の身をことさらに案じている、従僕たちには、いらぬ世話を焼かれそうになったが、どうせ行き先は住民が裸同然で歩き回る貧民街だからと高を括って、銃もなにも持たずに、ここまで来てしまった。こんな汚らわしいところで、もしも、突発的な事件にでも巻き込まれたとしたら……。貧民から逃げ惑っている自分の姿が新聞にて派手に報じられてしまえば、今後、社交界に顔を出すことは難しくなるだろう。今夜の行動について、王室から詳しい説明を求められたら、それこそ、ここに来た本当の理由を詳しく述べなければならなくなる。庶民の生活に興味があり、ひとまず見学に来た、などというあからさまな嘘が博識である官吏たちに通じるはずもない。本当のことを言えば、常人には説明のできない好奇心こそが原因なのだが。


 そんなことをひしひしと考えながら、おそらく、今夜この街を歩む、唯一の富裕階層である、アレンシア伯爵は、身に迫る冷たい視線を感じながら、恐る恐る下町の裏の細い通りを歩いていた。少しでも恐怖のカーテンに覆われそうになったときは『この先に進めば何かある。きっと、何かがあるはずだ』と自分を懸命に鼓舞して歩みを進めていた。普段の安楽な生活を思えば、自分の身が、こんな物騒な場所にいること自体が、十分に恐ろしいことであったが、もっと、恐るべきことは、『自分はこれから、人としてもっとも卑しいことに手を染める』ということをはっきりと認識することであった。高位の官吏が自分が身に付けるものとして、もっとも重要視するのは道徳観念であるが、人間としてもって生まれた好奇心はしばしばその常識を覆すことがある。『この世界に生まれついてから、常に底辺でうごめく奴隷としか見ていない、下層社会の人間たちに対して、この私が、今さら頭を下げて頼みごとをするなんて!』伯爵にとって、これから起こりうることは、想像するだに恐ろしいことである。


 ロングコートの内ポケットに隠し持った、小さなメモ用紙を、手元に出したり戻したりして、小さな灯りの下で、その文面を何度も確認した。とにかく現地にたどり着くという目的を果たすために、頼れる道具は、おそらくこの紙片のみだろうが、ここに記されていることが、そのまま真実であるのかどうかは、極めて疑わしい。これを記した他人の気持ちは信じられないし、読むことも出来ない。ただ、今夜の外出を周囲から勇気ある冒険と呼ばれるためには、その過程に漂う、ある程度の異臭は感じないふりをして、右肩をかすめて行き過ぎる怪しげな影は見ない素振りをして、目の前に示された情報だけを盲目的に信じなければならないのだが。通り過ぎていく人々は、当然のことだが、皆、彼の姿を見るなり歩みを緩め、獣のような目で睨んでいった。報酬の支払いのための紙幣で太った財布は、ここまで持ってこざるを得なかった。こんな陰気な場所で、庶民にはあり得ぬ大金を持ち合わせていることが、もしばれたなら、この暗い界隈の住民すべてが敵にならざるを得ないだろう。召使いも護衛すらも付けずに、自分の衛兵に守られた邸宅から抜け出すことすら、ここ二十年ほどの記憶にはなかったというのに。


 細長く続く鬱々たる通りの、およそ中程まで来たとき、頼りない灯りに照らされた、薄汚れた裏木戸が見えた。直感的には、ここが指定された住居のように思えたが、こんな怪しげな扉に、すぐに手をかけるわけにはいかない。世の中には『開く扉を間違えました』では済まないこともあるのだろう。もう一度、例の紙片を取り出して、それを食い入るように眺めた。市街地が描かれた地図の上にいくつもの細い道が記されていたが、そのどれもが、辿っていくとこの家に通じているように思えてきた。薄っぺらな紙一つに殴り書きで書かれた、如何わしい情報などに確信などは持てるはずはない。だが、こんな汚く、薄暗い路の途中で、これ以上時間をかけて、ぐずぐずと立ち止まっていることは、もっと危険である。餌に飢えた野獣たちは常に目を光らせて、肥えた鹿肉を狙っているものだ。どの選択肢を取るにせよ、ここに長く立ち竦むことは許されない。


 伯爵はようやく意を決して、静かにその扉を開けた。住居の中は人けがなく薄暗かった。薄闇に目を凝らすと、そこは台所に通じる裏口であった。内部を流れる微量の空気かぜにのって、すぐに生活感のある匂いが漂ってきた。すぐ右横の壁を何か黒い物体が颯爽と走り抜けて行った。意図したわけではないが、今度は思わず目で追ってしまった。灰色の剛毛を逆立てた、薄気味悪いどぶ鼠の姿であった。とりあえず、使用人を呼びたいが、どのように声をかけたものだろうか? 庶民の風習や仕来たりは、まったくわからず、狭い室内を一歩たりとも進みがたいが、とにかく、ここへ来たからには、約束のものを見せてもらわなければならない。伯爵は声を張り上げて、奥の部屋に二度呼びかけた。


 早く何者かの反応が欲しいと、しばらく身動きせずに待っていたが、どの部屋からも、何の物音も聴こえなかった。テーブルの上には使用済みのカップが二つしか置かれていない。それほど、多くの人間が生活しているようには思えなかった。何らかの用事で外出中なのか、それとも、すでに寝静まったかだが、いずれにしても、名のある大貴族をこんな場所まで呼び出しておきながら、出迎えすらしないとは、失礼な話である。ちょっとした用事で出かけているのであれば、戸棚の中の茶菓子でもご馳走になっている間に戻ってくるかもしれない。伯爵はそのように考え、とにかく住居の奥へと進むことにした。


 部屋の数は今いる台所を含めても、およそ三つしかない。隣の家の赤子が何を不満としてか、泣きわめく声が響いてくる。しかし、こちらの住居の内部には何の物音もしない。こちらとしても、それほどの時間は取れない。いったい、どうしたものか。今時分、用事を思い出して、家人全員で外出をする、などということが、あるのだろうか。了解を得なくとも良いのであれば、さらに奥の間を調べるのは簡単だが、さらに踏み込んで行ったとしても、おそらくこの家は無人である。どこかの部屋において、縫い針が動くような気配すらまったくしないではないか。伯爵は上流階級の常識の範囲において、きわめて冷静にそのような判断を下した。


 一歩二歩と最初の部屋の奥へと踏み込んでみたが、腐りかけた床板が足を置く度にきしみ、黄泉から響くような不気味な唸り声をあげる。その聞き苦しい音は、隣家まで届きそうなほどだ。伯爵は生まれてこの方、こんな気味の悪い体験をしたことはないが、その一方で、率直に『これはいい』とも思った。万が一、この家の住民が来客があるにも関わらず、図々しくも、まだ奥の間で呆けているとしたら、この床のきしむ音によって、いい加減、こちらの存在に気がついてくれるかもしれない。来客があったのかと、慌てて飛び出してきて、すぐに茶菓子の準備をするぐらいの甲斐性はあるだろう。


 台所を含んだ最初の狭苦しい部屋は、わけなく通り過ぎたが、奥の二つの部屋へと続く扉の前で再び立ち止まった。伯爵はほとんど迷わずに左側の扉を開けることにした。もちろん、直感で選んだわけではない。その扉には端のほうが腐って破けた羊皮紙が貼られていて、そこには、おおよそ、人語とは思えぬ書体で、数々の呪文や悪魔の姿とも思える粗描絵が描かれていた。自分の目的としている相手が、もし、この世に存在するのだとしたら、おそらくは、このような魔界を思わせる部屋に居座っているであろうと、ここへ来る前から思っていた。今現在、この家の内部には目視できぬ霊体以外は、どんな人間もいない、という自分で脳裏に作ったばかりの大前提を胸に、その扉を勢いよく開いた。


 密かに期待していた、足元を照らす眩い灯りはそこにはなかった。その部屋の中もまた暗く、内部に存在している何ものも判別が付き難かったが、部屋は六畳ほど、離れた窓の側に二つの蝋燭が燃えていた。狭い室内には木製のテーブルが一つ、奥には自分の背丈ほどの黒檀の本棚が置いてある。壁には大きな印画紙が貼られていて、古代文字で何か箇条書きにされていたが、この暗さであの書体では、とても判読などできなかった。ひと気がまったく感じられないのは、この空間も一緒だ。もしかすると、奥に置かれている、あの古めかしい本棚には、自分が求めている情報の欠片でも並んでいるのではないか。伯爵はそう考えて、身体を一端横向きにして、目の前のテーブルの側面を素通りして、奥へと向かおうとした。


 次の瞬間、恐るべき発見から、意識もせず、身体が五歩も六歩も後退りしていた。叫び声が出なかったのは、その瞬間、呼吸器官が完全に凍り付いており、息が自然に止まっていたからだ。眼前のテーブルに付随している丸椅子に、黒いチュニックを被った痩せ細った男がすべての気配を消し去って座っていたのだ。この男は伯爵が家に踏み込む前から、ずっと、この場にいたに違いない。ただ、これまでの呼びかけや物音に対して、どういう意図があってか、何の反応も示さなかったのだ。男はテーブルの上で両手を組み合わせ、髑髏のような、見たこともない不気味なアクセサリーを両手で握りしめていた。注意深く口もとを見ると、唇は微動していて、何らかの呪文を唱えているように見えた。魔術を唱えている人間を目にするのは初めての体験だった。ここはおそらく彼の住居であるから、その内部において、どんな活動をしていても、それは自由であると断じてよい。ただ、初見の来客があるにも関わらず、独自の黒魔術に夢中になり、何の反応も示さないのであれば、蝋人形よりさらにたちが悪いと言わざるを得ない。


 その陰気な男は、部屋の中央付近を照らす、ほのかな灯りの中で、ほんの数十センチほどの間近な距離にいる、この来客の存在に気がついていないのか、それとも、気づいてはいるが、約束した金額を受け取るまでは、相手にするつもりはないのか、まったく、こちらに視線を向けようとはしない。外見や人間離れした振る舞いから想像を重ねていくと、この男は、もうとうの昔にこの世を去った中世の人物であり、今ここに有るのは、その霊魂に過ぎないのだという、一般的には少々無茶な推論も、それなりに信憑性はありそうだ。死霊の住処に放り込まれたような薄気味悪さは重々感じていたが、今さらこの男に背を向けて、隣家に向けて叫び声を発しながら、家の戸口まで一目散に逃げていくことも、それ相応に恐ろしいことに感じられた。伯爵は自分の紹介やここまで来ることになった目的を、どのように切り出そうか、しばし思いにふけった。そもそも、自分が目指してきた人物が、本当に目の前に座っているこの男なのかが、わからない。例えば、この粗末な家には、この魔術師の他にも、もっと恐るべき住民がいるのかも知れないし、そもそも、訪ねてきた住所が間違っていたという可能性についても、まだ、完全に否定はできない。ただ、自分の手の込んだ依頼は、人知を超えた魔術という概念から、それほど遠くはない。現実から相当離れた話であるからこそ、従者などには任せられず、自らここまで足を運ばねばならなかったのだ。理屈の上ではそれで良いが、重要な取引を為すうえでの、こちらの説明は順当に通じるのであろうか? 伯爵の従者が何らかの手違いから、事前にきちんと事付けをしなかった可能性もある。この男が本当に魔術によって生活を成り立たせているのであれば、人間ではあらざる者と面と向かって対話をするのは初めてである。さて、どのように話を持っていくべきだろうか。


「先ほど、一度、声をかけたはずだが」


 なるべく、術士の機嫌を損ねぬように、しかも、今度こそ、確実に耳の奥まで届くように、アレンシア伯爵は、はっきりとした声で呼びかけたが、ある一定の不満を含んだ、その明確な問いかけにも返事はないのである。自分が目指してきたのは、とある古物商である。古代からこの地に伝わる、ある文具を求めて、こんな時間に下町を訪れたわけだ。しかし、眼前の男が目当ての人物である保証はまだ得られていない。別人の可能性がある以上、まだ、腹を割った会話はしない方が良いかもしれない。自分が大金と引き換えに手に入れた情報が、単なる物語(fansy)に過ぎなかったのかもしれないが、眼前の男の素性もわからぬうちに、こちらが握っている秘密の詳細を話してしまうのは、やや決まりが悪い。そもそも、このような不謹慎な情報というのは、真っ当な人間から得られることはない。この取引にはできる限り慎重に臨むべきである。黒いローブの男は、何度か不自然な動作により、首をゆっくり上下に揺らした。眼が開いていると感じたのは幻覚で、実際には眠っているのかもしれない。伯爵はその態度に次第に我慢がならなくなってきた。


「いいかな、想像を現実へと変える、魔法の筆があると聞いて、わざわざ、ここまで、やってきたのだが」


 ほんの少し、匂わせるだけでも良かったのかもしれない。だが、特別な身分にある自分には、それほど多くの時間の無駄遣いは許されない。それにしても、こんな詳細まで話さねば分かってもらえぬのかと、訝しがりながら、伯爵はその不可解な言葉を口にした。次の瞬間、伯爵の胸は激しく躍った。男の暗い目が、気づかぬうちに、こちらを向いていたのだ。男の痩せこけた顔と細長い胴体は方角としては、確かにこちらに向いたのだが、それでもまだ、本当にこの男は自分を認識できているのか、ということに疑念を持たざるを得なかった。おそらく、この術士は伯爵を観察していた。そのどこに向けられているか知れぬ、鈍い視線には、まるで生気を感じなかった。本当にこいつは市井の人間なのか、ということに、まず疑問を持った。もし、魔界の手下であるならば、それは許されることではない。対談の前にそれを語るべきだ。


「魔法の筆なんて、どこにもありゃあしません。多分、この世界の果てまで行っても。ここにあるのは、悪魔の筆です」


 男が言葉を返してきたことにまず驚き、伯爵の身体はしばし凍りついた。男のその言葉も、人の口から出たようには感じられず、明らかに霊界から発せられたように感じたものだったが、大変な実践家である伯爵にとっても、そのことを追求していくことに、相当の勇気が必要であったのである。


「名称はともかく、その筆がこの世に無限に存在するはずの、あらゆる筆とは、まったく異質の能力を有していると人づてに聴いた。もし、その話が真実であれば、それだけでいいのだ。どうか、我が目的のために、その筆を使わせて欲しい。初めに言っておくが、私はきわめて善良な人間であるし、信義に背くような、不道徳な使い方をするつもりはまったくない。もちろん、報酬はいくらでも支払う準備がある」


「どうも、勘違いをされているようですな……」


 男は身体的な反応は示さなかったが、伯爵の堂々とした態度に、少し飽きれたようにそう呟くと、全身に漂う暗い雰囲気を保ったまま、彼の言葉のどこかに不備を見つけたようで、失望したように、再びうなだれてしまった。


「見たところ、あまり乗り気ではなさそうだな。こちらの希望については、以前に訪ねてきた従者から大筋で聞いていると思う。それを叶えるために、君が持つ魔法の筆を、ぜひとも借り受けたい。もし、その特殊な力が私には扱えぬというのであれば、君が筆を用いて、こちらの思い通りに扱って見せてくれてもいい。もちろん、その場合でも、報酬はそちらの要求通りに払う。何か不満があるかね? こちらとしては、先刻伝えたことの補足をしたつもりなのだが……」


「ほう……、魔筆とやら用いて、自分の希望を叶えると……。人間がね……。これは奇特なお方だ……。貴方がどうしてそのような、倫理から遠く離れた考えを持ったかについては、こちらは理解できません。ただ、空想上の筆が、もしここに存在したとして、それがいったい何を描きたいと願っているか、について、私は何も存じませんのでね。私は一介の凡人です。空想の物とは対話できません」


 男は不気味にとおる声でそう言い放った。伯爵にはその返答が自分の問いに対する適切な解答だとは、とても思えなかった。もちろん、身分が遥か上の者に対して、最低限の敬意を払うことを知らない、その態度には、少なからず不快感を感じた。これぞ儲け仕事と見ると、依頼主の役に立ちそうな道具を、方々から瞬時にかき集めて、すぐに宮廷に馳せ参じて来る、占い師や占星士のたぐいは、眼前で紙幣を束ねてちらつかせてやると、すぐに尻尾をふってくる。どんな難題に対しても、必ずや、こちらの望み通りの結果を出してくれる。富裕層との取引きを如何に増やせるかは、同業との重要な競争でもあるから、いかに貴族を喜ばせようかと知恵を絞り、おべっかを巧みに用いることに苦心している。それは善良なる証である。


『この黒い魔術師も、事前の情報通りに怪しい雰囲気を漂わせてはいるが、ちっとも、こちらの思った方向へと話が進まないではないか。せっかくの上流階級の訪問なのだから、まずは、私の家柄や地位のことをもっと褒めればいいのに。応対が悪いばかりでなく、大貴族を敬う素振りすら見せないではないか。これから、どんな魔術を見せるのかは知らんが、この汚らしい貧乏人は、早くその腕前を見せて、私を感心させて、目も眩むような報酬が欲しくはないのか? 私に大人しく仕えれば、こんなちっぽけな街の店先に売られているような物なら、何でも手に入るんだぞ。今夜から、お前の生活は完全に変わるんだ。それを不意にする気か。どれだけ、図太いんだ。日々犬の餌のような晩餐を食っていくことにすら、苦労しているくせに』


 アレンシア伯爵は、この時点から、心に沸いた憤慨の炎を何とか吹き消そうと、そのことばかりに苦心していた。生気すらほとんど見せぬ、魔筆の主は伯爵のそんな憤りをまったく意に介さぬばかりか、そんな愚かしい用件で来たのであれば、こちらとしても対応すること自体に疲れるから、くだらないことを喋ることに飽きたなら、とっとと引き揚げてくれないか、とでも言いたげである。


「このことについては、後で何度も触れると思うので、今はなるべく簡略化するが、通常の人間が持つ、測りでいえば、私はこの国でもっとも恵まれた階級の一人であると思っている。歳はすでに三十八だが、身分と資産については、現状ですでに上限であると考えている。王族でない以上は、これ以上の出世はすでにあり得ぬということだ。私の名を人に聴かせてみれば、皆、ほぼ同様のことを答えるだろう。『あの人は偉大だ。なぜなら、すでに、この上もない地位と富を得ていらっしゃる』最大級の賛辞を添えて、私という存在を表現するだろう」


 伯爵はそこで話を止めた。自分の立ち位置についての魔術師の見解を聞きたいと思ったからだ。奴もそろそろ、訪問客がこれまで相手にしたこともないような賓客であると、気づく頃合いだろう。この先、交渉を順調に進めていくのであれば、ここである程度の賛美の台詞を引き出しておくのも、決して悪くはないと思ったからだ。しかし、魔術師は椅子に腰を下ろしたまま、その心は再び別世界で輝く秘術に捉われてしまったようで、細かくその紫色の唇を動かして、ここまでは聞こえぬ呪詛の言葉を、いくつも呟きながら、自分を超常的な存在だとでも示したいのか、それとも、元々、精神が狂っているのか知れないが、とにかく、伯爵の話をまともに聴こうとする態度ではなかった。一般の人間には決して使えぬ魔術を用いて、対象者のその先の運命みちをしたためていくという、この男の腕前に対して、それを他人から教えられた瞬間から、ある種の疑問を抱いてはいた。王侯貴族の高い知能において説明のつかぬことが、この世に在ることは許されぬからだ。我々は国政を日々運営していくにあたって、常に最高の知性と知識を誇らねばならないのだ。しかし、今夜に限っていえば、自分も同じ船に乗っている以上、この不遜な対応に乱暴な口を挟むことはできなかった。拷問にでもかけることは容易いが、それでも口を割らぬとなると、目的へと達するまでの時間が余計にかかるだけである。


「悪魔の筆をどのようなものだとお考えですか?」

 読んでくださってありがとうございます。なるべく早めに更新をします。

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