番外編2-2
「バカ殿で見たんだ」
「え? え? 何?」
唐突にそんなことを言われて、思わず頓狂な返事をしてしまう。果たして彼は、いきなり何を言い出そうというのだろうか。
朝。クラスの違う俺たちは、示し合わさないと会うことはない。今朝は、俺が教室に入ろうとした直前に彼の方からやってきた。中途半端に扉を開けたままの俺は、このまま彼の話を聞こうか、それとも長くなるなら邪魔にならないよう退こうかと逡巡した。
「見たことないのか、バカ殿」
「いや、あるが。昨日やってたか?」
尋ねると勝彦は首を振る。「やってない。過去に見ていたものを、昨夜思い出したんだ」と言った。
この辺りで、何だか話が長くなりそうな予感がしたので一旦扉の前から退く。教室と教室との間の壁にもたれながら、目の前を行く同級生たちの姿を見るともなしに、会話を続けた。
「それで、バカ殿がどうしたんだ?」
「カラスが下着を盗む話を知っているか?」
そう問われても、いまいちピンとこない。「なんだ、それは?」と問い返した。
「俺もよくは覚えていない。ただカラスがブラジャーを咥えて飛んでいて、あれはなんだと見上げていると、女中の一人が私のですと申し出るんだ。そんなことを昨日、思い出した」
「そうか」
俺はその後に続く言葉を待った。まさか彼が、ただ思い出したことを話すためだけにわざわざ朝早く訪れるとは思えなかったからだ。ここから、何かしらの話が始まるはずだ。
そう身構えたものの、次に待ち受けていた言葉は「放課後、暇か?」という何の変哲もない質問だった。
当然の如く暇だ。むしろ俺たちには暇しかない。時間を持て余し過ぎて、ついつい余計なことばかり考えては、ただでさえ鬱屈としている心を余計に蝕んでしまうくらいには暇だ。それは勝彦だって同じはずで、わざわざ確認しなくてもわかったことだろう。
にも拘わらずわざわざ聞いたということは、やはり何かあるということだろう。
「何をするんだ?」
そう尋ねると、彼は「カラスを捕まえる」とだけ告げた。果たしてそんなものを捕まえて何をしようというのだろうか。さらに質問を重ねようとするも、その時には彼は既に背を向けて歩き去っていた。
背中越しに彼は、「じゃあ、また放課後に」と言い残した。ちょうどそのタイミングで、ホームルーム開始のチャイムが鳴る。
追いかけて聞く真似はできなかった。
*
彼の発言は全てが意味深に見え、勘繰ろうとすればするほど、授業には身が入らなくなっていった。休み時間毎に姿を探してみたが、有名人であるはずなのにも拘わらず誰も彼の行方を知るものはおらず、結局放課後まで見つかることはなかった。
特に待ち合わせなどしていないので、彼の方からやってくるだろうと教室でぼんやりとしていると、間もなくして現れた。
「待たせたな」
俺は挨拶も抜きに、単刀直入に尋ねる。
「カラスを捕まえてどうするんだ?」
「それは歩きながら話そう」
そう言って、彼は俺の先を歩き始めた。
勝彦は放課後になってすぐに現れたわけではなく、既に日は傾き始めている。窓から差し込む陽光は赤みを帯び始めていて、目の前に続く廊下を全体的に朱に染めていた。
人気はない。誰もが既に帰宅したか、部活動に向かったか。グラウンドにて精を出している野球部は、既に佳境を迎えようとしているくらいには掛け声に熱が入っている。金属バットを打つ甲高い音が、空に溶けて行くのが聞こえてきた。
「休み時間、どこか行っていたか?」
俺は先ほどの質問を取り下げて、別のことを聞いた。彼は自分本位に会話を進める。いくら質問を重ねたとしても答えない時は答えず、気が向いた時に答えを返してくれるはずだ。なので、一度だけ聞くだけで済む。
「ちょっと、事前調査にな」
「休み時間毎にか?」
「いや、午前中はずっとだな」
「サボったのか」
そう尋ねると、彼は特段悪びれた様子もなく「まぁな」と言った。そんなこと可能なのかとも思ったが、彼は入学早々に教師陣の手を焼かせたどころか、言い負かした男だ。今更、文句を言う奴など誰もいないのだろう。
「カラスは頭のいい生き物だ。調教次第では、おそらく指定したものを盗って来てくれるはずだ」
それは二つ前の質問の答えであることは、すぐにピンときた。そして今朝の話と言い、答えは自然と導き出される。
「下着を盗ませるのか」
「そうだ。カラスの仕業ならば、誰も罪には問わない」
「しかし、可能なのか?」
「俺はSNSで見たことあるんだ。飼い主のために、道端に落ちている紙幣を拾ってくるカラスをな」
「そういうことじゃない。調教が可能かどうかってことだよ。だって、頭がいいんだろ?」
「イルカだって手懐けられる。可能だ」
「だが、どうもカラスってのは狡猾な生き物に見える。そんな簡単にうまく行くのか?」
「策はある。俺が何の考えもなしに、午前中を潰したと思うか?」
彼は自信満々にそうは言うものの、俺は何とも言えず、ただ肩を竦めるだけに留めた。
そうこう話しているうちに、俺たちは学校を抜け出て、校舎すらも出ていた。果たしてどこへ行こうというのだろうかとその行く末を見守っていると、間もなくして程近くにある公園に向かっていることに気づいた。
それは住宅街の一画に造られた小さな公園で、申し訳程度の遊具があるくらいで他に何もない。しかも、もう少し歩けば大きな公園がある為、日中も人気がないというおまけつきだ。存在意義そのものが問われる代物だった。
何の躊躇もなく園内へと踏み込んでいく彼に従って中へ入っていくと、真っ先にベンチの前に集まるカラス群れに目がいった。そして、そのカラスたちの目的は、ベンチに座るホームレス風の風貌をしている男が与えてくれる餌に他ならない。
なるほど、確かにこれならば手懐けていると言えるかもしれない。普通の鳥ならばの話だが。
「おい、正気か?」
思わずそう声を掛けると、彼は「無論だ」と短く答えた。さらには、「これが俺たちの勝機だ」とさえ言って来る。つまらない親父ギャグだ。
「そんなこと言っている場合かよ」
すると彼は、にやりと笑みを浮かべてこう言う。
「まぁ、見てなって」
彼に付き従ったままホームレス風の男に近づくと、勝彦は開口一番こう言った。
「彼が日中に話した男だ」
と、俺を指し示す。すると男は顔を上げ、「ああ、君がカラスを愛してやまないという少年か」と言った。俺はすぐさま勝彦に耳打ちする。
「俺のことをどう説明したんだよ」
「言葉の通りだ。その方がわかりやすいと思ってな」
確かに真実をありのままには打ち明けにくい。「カラスを使って下着を盗もうとしています」などと言おうものなら、正気を疑われかねないし、何なら犯罪一歩手前か、あるいは片足突っ込んでいる。何にせよ、惜しみない協力は得にくい。
ある意味では勝彦の判断は正しいものだったのだろう。しかし、それでも俺の名を出す必要などないのではないかと考えていると、そんな俺を他所に、男は「いやぁ、僕なんかが協力できるか怪しいけどねぇ」と頭を掻いた。さらに続ける。
「僕は餌を与えているだけなんだよ。ただそれだけ。それだけで何だか懐かれちゃってね。利用されているだけなのかもしれないけど、それでもいいかなって思ってるよ。今の僕には、もう彼ら以外何もないから」
そう悲愴感をたっぷり滲ませて言った。彼らとは、おそらくカラスたちのことだろう。その厭世観は、どことなく俺らと相通ずるものがあるような気がしたが、何も彼の泣き言を聞くためにここまで来たわけではない。
本当に大丈夫だろうか、という思いで彼を見つめていると、勝彦が「例のやつを見せてやってくれ」と言った。男は応じると、「ヒメコ」と口にする。すると、それに呼応して一羽のカラスが鳴いた。男は次々に名前を呼ぶと、一羽、また一羽と鳴く。
「全部に名前を付けたんですか」
俺がそう尋ねると、彼は「もちろんだとも」と答えた。そして、「こうしてみると可愛いもんさ」と遠い目をしながら言う。
確かに通常、意思の疎通など不可能に見えるカラスとのこうした芸当を見せられると、手懐けられていると思いたくもなるのも無理はない。しかし、呼ばれた名前に対して反応して見せるのと、指定したものを盗って来させるのとでは、芸当のレベルが違い過ぎるような気もする。
だが一方で、カラスの調教に関して素人同然の俺らからしてみれば、これは光明にも見えた。地道にではあるが、コツコツとカラスたちとの信頼関係を築けば、いつの日か可能なような気さえしてくる。いつの話になるかは別として。
それから勝彦は、熱心に聞き取りを行った。エサは何を、そして何時頃にあげているのか。カラスを見分けるポイントは何か。そして、それをどのくらいの期間続けたか。当初の俺のカラスが好きという設定など忘れてしまったかのように勝彦が率先して質問を重ね、俺ただその様子を見守っているだけだった。
そして最後の質問を終えると、彼はお礼として千円札を渡した。それは決して中学生には安くはない値段だろうし、男からしてみれば喉から手が出るほど欲しい金額のはずだ。しかし男は断った。彼は言う。
「昔は教師に憧れたもんだ。金八先生を見てね、僕もあんなふうに生徒たちと青春を謳歌したいと考えたものだ。しかし、現実は無情だ。いざなってみたものの、思うようにはいかず結局すぐにやめてしまった。その末路が今だ」
男は、それまで下に向けていた視線を上げて俺たちを見つめてくる。その瞳には、僅かばかりの光が宿っているように見受けられた。
「でも今日、少しだけその気持ちを思い出すことができたよ。君たちのおかげだ。ありがとう」
どうやらそれがお礼を受け取らない理由らしかった。俺たちはそんな男の好意に甘えて、言葉だけでお礼を告げ、その場を辞した。
男の視線を背後に感じながら、勝彦は俺にだけ聞こえるくらいの声量でこう言う。
「この世は皮肉に満ち溢れている」
「またか」
「喜劇に学ぶものは必ず挫ける。彼の人生の敗因はそこにある。勝ちを得るには悲劇から学ばなくちゃならない」
これは教訓だな。勝彦はそう付け加えた。
「金八先生って喜劇なのか?」
俺はそのドラマを名前こそは言っているものの、見たことはなかった。勝彦もそうであるような気がしたが試しに尋ねると、案の定彼も「知らん」と吐き捨てた。「見たこともないな」と言ってから、さらにこう言う。
「だが過程がどうであれ、終わりが大団円ならすべて喜劇だ」
随分といい加減な言い草だった。理屈も乱暴だ。
「全く、あんたの言う通りだよ」
「だろ?」
「ああ、この世は皮肉に満ちている。少なくとも、バカ殿に学びを得たやつが言えたことではないからな」
そう言うと、意外なことに彼はさらに言い返してきた。
「だが、その後は彼という悲劇から学んだぜ?」
何が面白いのか、ニヤリと笑みを浮かべてくる。俺は笑わなかった。そのユーモアには、品性がなかったからだ。
代わりにこう告げる。
「物は言いようだな」




