7-1
新しい一日が始まりました。
透き通るくらいの青空に跳んでいく番の小鳥。すれ違う人々の顔は今日という日を祝うかのように晴れ晴れとしていて、こちらも釣られて笑みを零してしまいます。そっと深呼吸をしてみると、新鮮な空気がたちまち肺を満たし、心までも洗われるかのようでした。
今朝もネモ店長の営む宿屋に向かった私は、まず店主である彼と挨拶を交わしました。
「おはようございます、ネモ店長」
「おお、おはようイフちゃん。今日も可愛いね」
「ありがとうございます。ネモ店長は今日も決まってますね」
そう言うと彼は、「そうかな」と照れたような表情を浮かべました。常の如く、「俺も捨てたもんじゃないよな」と呟く彼の横を通り過ぎ、二階へと上がるとすぐに下野さんが泊っている部屋へと辿り着きます。
まだ下野さんは寝ている時間かと思われますが、いつまでもそんな自堕落な生活を送らせるわけにはいきませんから、今日という今日は必ず起こして見せます。
ノックをし、呼びかけます。
「下野さん。おはようございます」
反応なし。呼びかけ続けます。
「朝ですよ、起きてください」
「今日も精が出るね」
ネモ店長も上がってきて、そう言ってきます。
「下野さんを更生させるのが私の役目ですから」
私がそう意気込むと、彼は「イフちゃんは本当に偉いなぁ」と言います。それから「それに引き換え下野くんは……」と溜め息を吐きます。
私も釣られて溜め息を吐きそうになるのをぐっと堪え、再度呼びかけました。
「下野さん、起きてください。起きて来ないようでしたら入りますよ」
私の発言を待っていたかのようにネモ店長が鍵を差し出してきます。それがこの宿屋のマスターキーとなっており、毎朝毎朝、全く起きてくる気配のない下野さんの部屋に入る際にお世話になっている代物です。
私は店長によくよくお礼告げて、鍵を差し込みます。鍵を私に預けて去って行く店長を横目に、部屋の中へと入りました。すると、驚きの光景が目に飛び込んできました。
下野さんは既に起きており、ベッドに腰掛けています。その事実にも驚きましたがそれよりも、彼の目の前にまるで平伏するかのように頭を下げている子供の姿があり、下野さんは下野さんでいつものように不遜な調子で腕を組んでそれを眺めています。
それがまるで子供に土下座を強要する大人げない人のように見え、言葉を失ってしまいました。
「何を、やっているんですか」
やっとのことでそう言うと、私の姿に気づいた下野さんが「早いな」とだけ言ってきます。
「何ですか、これは」
私が重ねて問いかけると、彼は言いました。
「何だろうな。俺が聞きたい」
すると、それまで頭を下げていた子供が顔を上げてこう言いました。
「お願いします。僕を弟子にしてください」
その声には聞き覚えがありました。いつしか下野さんがどこから盗んできたかも知れない下着を渡していた子供です。確か先日、同じ子を家出したからといって一時的に宿に泊めたこともあったとも聞いています。名前は確かアルクくんだったでしょうか。
私はなんと言葉を挟んだらいいものやら戸惑い、「えと」と言ってそれきりでした。下野さんも、困ったように肩を竦めております。
彼は言います。
「ここのところずっとこんな調子なんだ」
「ここのところとは?」
「俺の行くところ行くところ、突如として現れては弟子入りを申し込んでくるんだよ」
私はやはり何と言えばいいかわからず、ただ「はぁ」とだけ言います。そんな私に対して、アルクくんは熱を込めて言います。
「今回の僕は本気なんだ。下にぃに弟子入りを認めてもらうまで、何度だって繰り返すつもりだよ」
「少年、何度も言うようだが、その期待には答えられない」
「どうして? 僕がまだ子供だから?」
「違う」
「じゃあ何?」
半ば怒鳴りかけの彼の気持ちを諫めるため、私が一旦「あの」と割り込みます。アルクくんと目線の高さを合わせ、それから問いかけました。
「弟子入りってことはその、下着泥棒のってことで間違いないですか?」
正面切って問われると恥ずかしいのでしょうか、彼は少しもじもじとし始めました。顔を赤らめながらも、精一杯強い口調で「うん」と頷きます。それから、彼は続けました。
「僕は、下にぃみたいに強くてかっこいい人になりたいんだ。変わりたいんだよ」
必死に言い募る彼に少し同情の念が湧かなくもなかったですが、しかしこのまま犯罪者への道のりを歩ませるわけにはいきません。「アルクくん、いいですか?」と前置きをして、私は含めるように言いました。
「下着泥棒なんてするような人は格好良くはないですよ」
視界の端で、うんうんと頷く下野さんの姿が見えました。そんな彼に言いたいことは山ほどありましたが、とりあえず今はアルクくんの説得に専念します。
「犯罪なんて恰好悪い人間のすることです。とりわけ、下着泥棒なんてその最たるものと言っても過言ではありません」
そこまで言うも、アルクくんは食って掛かります。
「僕は別に下着泥棒になりたいわけじゃない。ただ、下にぃみたいになりたいんだ」
「勘違いしていますよ、アルクくん。下野さんは一見、毅然としているように見えるかもしれませんが、その実ただ我が儘なだけです。というのも彼は、誰からも嫌厭されるような人だから、相手にされないばかりにいろいろと拗らせてしまっているんです」
そこまで言い切ると、さすがの下野さんも「普通そこまで言うか?」と口を挟んできました。しかし、日頃の身勝手さのお返しをするため、ここはあえての無視をしてアルクくんに語り続けます。
「あなたみたいな年頃なら憧れてしまうのも無理はないかもしれませんが、断言します。彼は目標にしてはいけないタイプの人間です」
私の言葉の一から十まで理解できたとは思えませんが、勢いに気圧されたのでしょう。アルクくんはすっかりと言葉を失い、それから助けを求めるかのように下野さんの方へと目を向けました。
「下にぃも、そう思うの?」
そう問われた下野さんは、すかさず「よせよ」と言う。
「何が悲しくて、そこまで自分のことを卑下しなくちゃならないんだ。俺はそこまで思わない」
彼がそう言うものだから、アルクくんはたちまち顔を綻ばせて「じゃあ」と言ってきます。しかし、その先を続けるよりも早く、下野さんが言葉を継いでいます。
「だが、少年のことを弟子には取らない」
「どうして……どうしてそんなこと言うの?」
打って変わって悲しそうに顔を歪ませたアルクくんに、下野さんはあくまでも冷静に言い放ちます。
「見込み違いだからだ」
「見込み違い?」
「ああ、少年には才能はないよ」
そう言い切られると、アルクくんは絶句しました。それから小さく「わかったよ」と言い、肩を落としながら部屋を出て行きます。そのしょげかえった背中につい慰めたい衝動に駆られますが、そんなことをしまえば逆効果となってしまいます。ここは心を鬼にして我慢です。
アルクくんの姿が見えなくなると、私は溜め息を一つ吐いてこう漏らしてしまいました。
「困ったことになりましたね」
下野さんが、「何がだ?」と問いかけてきます。
「何がって、アルクくんのことですよ。変な道に進もうとしています」
「我が道を行くものは往々にして、変人だ」
「そんなことを言いたいわけじゃありません。だいたい、こうなったのも下野さんのせいなんですからね? わかってます?」
「なんだって俺のせいになる」
「下野さんが彼に不用意に女性の下着を渡したせいじゃないですか。よもや忘れたなんて言わせませんよ」
「忘れるわけないだろ」
「ならご自身の罪もお認めになるんですね?」
「俺がいったい何の罪を犯したというんだ。俺はただ少年に可能性を与えただけだ。チャンスは誰の手にも平等に与えられるべきだろう?」
「すごいですね。一聴すると聞こえはいいですが、よくよく考えてみれば無責任です。下野さんは言葉を巧みに操る天才ですね」
「言うようになったな」
「おかげさまで。出会ってから今までで下野さんから学んだものは数知れません」
「授業料でも貰っておくべきか?」
単なる売り言葉に買い言葉のつもりだったのでしょうが、そうはいきません。「そうですね」と言うと、彼は少なからず驚いた顔をしました。
そう何事も思い通りになるとは思わないことです。そう内心でほくそ笑みながら続けます。
「今度は私の方から教えます」
下野さんは眉根を寄せて「何をするつもりだ?」と問いかけてきます。
私はこう言いました。
「これからしばらく下野さんについて回ろうと思います。そして、言動の改善を図ろうかと思います」
まだ理解できかねる様子の下野さんに、私は畳みかけます。
「とりあえず一週間、一緒にいましょう。よろしくお願いします」
むしろ、初めからこうするべきだったのかもしれません。
*
イフはその言葉の通りにした。俺が部屋に籠っていれば、同じく部屋におり常に監視するかのような視線を向けてくる。堪らず外に出ても、さながら昭和の細君かのように数歩後ろをついて歩いてきた。
いずれ飽きるだろうと思い、しばらく無視していたが一向に止める気配が見えない。いつもの広場を通り、商店の並ぶ道さえも抜けたにも拘らず、彼女は相変わらずついて来ていた。
俺は一つ溜め息を吐くと振り返り、こう言う。
「どこまでついてくるつもりだ」
「決まっているじゃないですか。下野さんの行くところまでです」
「俺がどこに行くかわかっているのか?」
「知りません。でもそんなことは問題じゃないです」
「本当にそう思うか? 何が待ち受けていたとしても?」
挑発的に問いかけるも、彼女はあっけらかんとした調子で「はい」と答えた。俺がこれからいかがわしいお店や後ろ暗い奴が集まるところに行くことなど、まるで疑っていない様子だ。
そんな俺の心を見透かしたように、イフは言う。
「下野さんは、人を危険に巻き込むような真似はしませんから」
随分と知ったような口を聞くのが癪に触り、いっそのこと本気でそういういかがわしいこと専門の宿屋に連れ込んでやろうかと思ったその時、後ろから唐突に声を掛けられた。
「こんなところで立ち止まるな、クズめ。人様に迷惑をかけることしかできんのか?」
出会い頭に不躾を通り越して罵倒の嵐を飛ばしてくる奴を、俺は一人しか知らない。振り返ると案の定、リリシアの姿がある。だが、彼女一人ではない。
「奇遇だな」
そう声を掛けると、リリシアはおぞけを振るうように自身の身体を抱いた。
「気色の悪いことを言うのはよせ。貴様との偶然なんてあるものか」
「偶然じゃないなら、俺のことを探していたのか?」
「気色の悪いことを言うな。なぜ、わざわざ貴様なんぞに会いに行かなければならない?」
「じゃあ、偶然なんだな」
そう言うと、彼女は突如として黙した。偶然であることは今しがた自分自身で否定したばかりだ。舌の根も乾かぬうちに覆すのは躊躇われたのだろう。
分が悪くなったリリシアは、話題を逸らすかのようにイフへと声を掛けた。
「お久しぶりです、イフ様」
「こちらこそ、お久しぶりです」
イフは丁寧に「リリシアさん」と呼びかけた後、彼女の傍らに立つもう一人の存在へと目を向けた。ローブを羽織り、フードを目深に被ってその顔はわからないが、何となく察しはつく。
イフも同様だったようで、近づいていって声を掛けようとした。「もしかして、アウロ」とまで言えたが、その先はリリシアに口を押えられ、最後まで言えなかった。
「お忍びなんです。あまりその名前を出さないでください」
そう注意されたイフは、口を塞がれたまま頷いた。解放されると一息つき、それから「お久しぶりです、リリシアさん」と挨拶を仕切り直す。流れで、「アウロ」とまで言いかけたのをすんでのところで呑み込んだ。
アウロラがくすくすと笑いを漏らす。
「そこまで神経質にならなくて大丈夫ですよ」
そんなおおらかな彼女の思いとは裏腹に、リリシアは「駄目ですよ」と言う。さらにこう続けた。
「もしまたアウロラ様が攫われたりしたら、私はもう生きていけません」
「大袈裟なんだよ、リリシアは」
「アウロラ様は危機感がなさ過ぎるんです。ご自分のことを第一に考えてください」
そう言われたアウロラは、俺へと目配せすると困ったように苦笑した。いかにも、大丈夫なんですけどね、とでも言いたげであるが、今度攫われても無事に助け出せる保証はない。俺も一言、忠告しておくことにした。
「まぁ、ほどほどにしておけ」
しかし、それに答えたのはリリシアだった。
「ああ、そうするよ。貴様みたいな犯罪者には特にな」
射殺さんばかりに睨みつけてくる彼女の目は、アウロラに馴れ馴れしくするなと言うことを如実に語っていた。そんなリリシアを「まぁまぁ」と諫めて、アウロラは言う。
「ところでお二人はここで何を?」
俺が「何を、と言われてもな」と言うと、続くようにイフが「特に何もしていませんでしたしね」と言う。
「強いて言うなら、言い合いしていたくらいか」
俺の言葉に、イフが「ですね」と追従する。彼女はさらに、無用な心配をかけないためか、「あ、いつものことですからね?」と補足した。
すると、アウロラが少しばかり顔を曇らせて言ってきた。
「お二人は仲いいんですね」
そうなるんだろうか。二人して答えに窮していると、彼女はさらに尋ねてきた。
「前々から気になっていたのですが、お二人ってどういう関係なんですか?」
その質問はさらに難解だ。俺たちの関係を一言で表す言葉はそう思いつかない。しかし、いざ一から十まで説明したところで、信じてもらえないどころか、むしろからかわれてると思われかねない。
ここは全てをイフに一任するつもりで、彼女の言葉を待った。イフはイフで、返答に困っている様子で、長いこと顎に指先を当て「うーん」と唸っていたが、ようやくまとまったのかこう言った。
「ただならぬ関係です」
それは決して間違ってなどはいないが、多くの誤解を与える言葉だった。アウロラはたちまち言葉を詰まらせ、代わりにと言っては何だが、リリシアが「正気ですか?」とイフに言う。
「こんな奴と、その、ただならぬ関係なんて」
イフは「はい」と平然と答える。二人の間で、認識がズレていることは容易に想像がついた。
リリシアは、引き攣った笑みを浮かべながら、「イフさんみたいな綺麗な人がどうして……」と呟いている。さらに続ける。
「その、イフさんはいいんですか? こんな変態とだなんて、自殺するに等しいですよ?」
言われっぱなしも癪だったので、俺が口を出す。
「さすがに言いすぎだろ」
「黙れ! 貴様、イフさんに何をした! 家族を人質に取ったのか!」
「俺を何だと思ってるんだ」
「気色悪い! 私がお前のことに対して思いを持つわけがないだろ!」
そう言い放つと彼女は、「行きましょう、アウロラ様」と踵を返した。引きずるようにして連れていかれるアウロラは、どこか寂しそうな目をしていた。
そんな彼女らにも律儀に別れの挨拶を告げたイフは、それから間もなくして「どうしたんでしょう」と首を傾げた。
「急用でも思い出したんでしょうか?」
そう俺に問いかけて来るので、俺はこう返しておいた。
「何だろうな。俺が聞きたい」




