1-4
どうやら俺は、一つ勘違いをしていたようだ。
俺が現在、滞在している街「アルジオン」。てっきり街と誤認していたが、実のところは小さいながらも国であるらしい。
俺の今いる宿屋や市場など、国の中心街が二等地で、そこからワンランク下がって貧困層の住宅のみの三等地。そして、貴族たちの住む一等地。そのように、誰が決めたわけでもないが階級によって住み分けがされているとのことだ。
さて、では以上のことを一体誰に聞いたかというと、それは、ファル男爵と名乗った貴族が、往来の真ん中で罵声を浴びせ掛けていた例の親子である。彼女たちは、ファル男爵が去って行ったのを見送ると、間もなく倒れている俺の元へ飛んできて、よくよくお礼を述べた。
「本当にありがとうございます」
特に母親の方は、拝み倒すかのように何度も礼を口にした。
「止せ。そんなんじゃない」
別に助けたつもりもないのに、お礼を言われることこそむず痒いものはない。結果的に彼女らが助かっただけに過ぎず、本当に感謝すべきなのは、彼女たち自身の幸運であって然るべきだ。だというのに、母親は聞く耳を持ってはくれず、延々とお礼を述べた。
それだけでは終わらず、一連の出来事を見ていた人たちも集まり、俺のことを称賛した。「よくやったよ」と肩を叩くものもいれば、「あいつには困ったものだ」と愚痴をこぼすものもいる。
そんな中で、例の親子たちが俺を家に招きたいと提案してきたものだから、あまり無碍にはできなかった。
*
親子たちが住む場所は、今にして思えばおそらく三等地にあたるところだったのだろう。立ち並ぶ家屋はどれもボロく、立ち込める空気がどこか辛気臭いものに感じられた。
誘われた彼女たちの家もその例には漏れず、家を満たす陽光は窓からだけに飽き足らず、老朽化した家の隙間からも侵入していた。光線のように差し込める幾条もの筋が、埃をキラキラと照らし出す。しかし、その他の明かりの当たらない部分は異様に暗く感じられ、その明暗をはっきりとさせていた。
母親に促されるままに椅子に座ると、彼女はどこからともなく救急箱を取り出して、俺の傷の手当てを始めた。
「本当にありがとうございます。助かりました」
その最中にも、もう何度目になるかもわからないお礼を口にされる。
「止めてくれ。何度も言うが、俺は別にそう言うつもりじゃなかったんだ」
事実、俺はただ単にボコボコにされただけであり、誰がどう見ても助けたとは言い難い光景であっただろう。
「そうかもしれませんけど、私たちは助けられましたから」
彼女は、俺の傷に次々と処置を施しながらも続ける。
「私たちは貴族様には手も足も出せませんから、多くの人はああやって見てみぬふりをしているばかりです。私だって、逆の立場なら同じことをしたでしょう。ですが、あなたは違いました」
「たまたまだ」
「それに、今日は娘が初めて街に出た日なんです。それが、あまり嫌な思い出にならずに済みました」
「そうかい」
不意に視線を感じて目を向けてみると、娘の方が俺のことを見上げている。何か言いたそうに、もじもじと体をくねらせていた。
「何か用か?」
問うも、彼女はあいかわらずもじもじしているだけだった。
「あ・り・が・と・う、だよ。あ・り・が・と・う」
母親が急にそんなこと言うものだから何事かと思ったが、その言葉に続くようにして少女が口を開いた。
「あ、あいがとお」
その舌足らずな言い方に、思わず母親が笑みを零す。
「すいません。娘はまだ言葉の練習中で、うまく喋れないんです」
「そうなのか」
それにしては随分と大きく見える。
「何か原因があるのか?」
「原因?」
「いや、何。ショックか何かで言葉が出なくなることがあるだろ」
母親がまたも笑った。
「違いますよ。まだ言葉を覚えたことすらありませんから」
「学校には行ってないのか?」
「そんなお金、うちにはありませんよ」
「……そうか」
今のは失言だったかもしれない。
話題を変えるため、俺は何気なく例の貴族のことを口にする。
「あの、ファル男爵と言ったか。あいつはよく来るのか?」
「ええ、まぁ。ここまでは来ませんが、街の方にはよく足を運んでいるようで、その度に問題を起こしています」
「対策は取られていないのか」
「私たちではどうすることもできません。貴族の方々のことですと、同等の貴族の方か、或いは国王に進言していただかなければなりません。ですが、国王は隣国との関係でお忙しい方ですから」
「奴に注意する貴族はいないんだな」
「どうですかね。私たちにはわかりません。ファル男爵は、他の貴族の前だと大人しいと噂で聞いたことがあります」
「なるほど」
奴は奴なりに処世術を弁えてるというわけか。
そう感心していると、彼女は「できました」と言って、救急箱を片し始めた。
「悪いな、わざわざ」
そう口早に礼を告げて立ち上がる。そんな俺を見て、慌てたように彼女は言った。
「いえ、大したことは。お茶でも飲んでいきませんか?」
「いや、いい。気にするな」
「ですけど」
「いや、本当にいいんだ」
あまりにも露骨に帰りたがるだけなのも失礼かと思い、「色々と教えてくれてありがとう。勉強になった」と付け加える。その言葉に偽りはない。
去り際に見送ろうと提案してきた彼女たちを丁重に断り、俺は家を出た。日は既に暮れかけ、ここら一帯の景観は茜色に染まっている。
行きとは違い、帰りは妙な視線に晒された。一歩一歩進むたびに、辺りの人々が俺に訝しげな表情を向けてくる。よほど俺が、三等地には似つかわしくない人間だと思われたのだろう。
それから中心街まで戻ってくると、俺はこの世界で初めての買い物をした。手始めに伸縮式の単眼望遠鏡を買いつけ、他にも入用なものを手に入れる。全ては明日のためだ。
*
夕食後。空の食器を弄び、何気なく窓の外を眺めていると、おそらくやることがなくなり手持ち無沙汰になったのであろうネモ店長が、俺の目の前まで来て話し掛けてきた。
「どうしたんだ。ぼんやりしちゃって」
「いや。ちょっと考え事をしていただけだ」
俺の答えをどう思ったのか、彼はにやりと笑って見せる。
「わかった。イフちゃんのことだろう。怒らせたのを気にしてるんだな?」
「違う」
「隠さなくたっていいだろ、俺たちは兄弟なんだ。何でもお見通しだぜ?」
「あいつのことは関係ない」
「じゃあ何を考えたって言うんだよ」
「別に何か明確に考えていたわけじゃない。漠然と感じていただけだ」
「何をさ」
「何て言えばいいのかな……とにかく言葉にしづらいんだ」
「そうかい。わかったわかった」
どこか小馬鹿にするに、ネモ店長は言った。そして、「ちなみに、イフちゃんに機嫌を直してもらうにはな」と助言めいたことを口にし始める。
「だから違うと言っているだろ」
「まぁいいから聞けって。イフちゃんにはご機嫌でいてもらいたいだろ?」
「……まぁ」
ご機嫌でいてもらいたいかどうかは別として、あまり機嫌を損ねたくないのは確かだ。主にこれからの宿代のことで、だ。
「そうとなれば話が早い。機嫌を直してもらうのは簡単ことだ。実には」
「もったいぶらずに早く言え」
「早く就職先を決めてしまうことさ」
「もっともだな」
「だろ?」
「だが生憎、次の仕事場は決めてあるんだ。後は入れるかどうかだけだ」
「本当か? それはイフちゃん喜ぶぞ」
「そいつはどうかな」
「喜ぶさ。俺も応援する。就職が決まったらパーティをしよう。報告を楽しみにしてる」
そう言って笑顔を浮かべる彼の顔を、俺はあえて見ないよう努めた。
*
それから翌日。夜も更けた頃、俺は一等地へと足を踏み入れた。
貴族の住む場所とあって、さすがに二等地とは雰囲気が違った。綺麗に歩道は整備され、清潔感も保たれている。警備のためか傭兵らしきものがあちこちにうろつき、警戒の目を光らせていた。
俺はなるべく誰の目にも止まらないよう、慎重にファル男爵の家を目指す。さすがは有名人なだけあって、家の場所は容易に知ることができた。ちょっと聞けば、誰もが教えてくれる。おそらく男爵本人も手出しされないと思い、隠しもしていないのだろう。
そうして着いた先は、貴族らしく豪奢な家だった。しかしここ一等地には同じような家、ないしはそれ以上の家が五万と見受けられる。それらに比べると、質素と言える佇まいであった。
俺は早速近くの茂みに隠れて、持ってきた単眼望遠鏡を伸ばし、様子を窺う。
二階建てほどの屋敷で、周りを柵が囲っている。入口は正面に一つあるのみで、門前には見張りのものが一人立っているだけだ。
敷地内の警備がどれだけ手厚いかまではわかりかねる。それならば、柵を乗り越えて侵入するよりかは、正面から入って行った方がいいだろう。見張りには道を譲ってもらうことにする。
俺は茂みを出ると屋敷の西側へと回り、宿から無断で借りてきた火打ち石を取り出す。それとなく集めてきた枯れ木を火種に、なるべく大きな焚火を作った。十分に燃え立ってきたところを見計らい、昨日買い付けた羊毛を取り出す。それを迷いなく放り込んだ。
それからすぐさまその場を離れて、再度先ほどの茂みへと身を隠す。望遠鏡を除き、見張りの様子を窺った。
しばらく立ち尽くすのみであった見張りは、やがて臭いに気づいたのか鼻を鳴らし始めると、原因を探るため持ち場を離れる。
見張りのいなくなった隙をつき、一気に門前まで距離を詰めた。手早く周囲の確認を行い、敷地内へと忍び込む。
幸いにも、敷地内も遮蔽物に恵まれていた。庭には花壇や植木など、どれも綺麗に整備されており、庭師のこだわりが感じられる。俺は、それらの影に潜みながら、ちらほらと存在する警備の目を掻い潜った。
屋敷の東側に回り、裏口を見つけると、俺は自前のピッキングツールを取り出して開錠に掛かる。これはこの世界に来た初日の挽、夕食の時にくすねて置いた鉄串だ。隙を見て厨房を借り、先を加工してある。以来、仕事道具として重宝している代物だ。
開錠は難なく成功した。屋敷内へと続く戸が開かれる。隙間から中の様子を窺い、誰もいないことを確認すると、すかさず滑り込んだ。
入った先は廊下が続いている。豪奢な絨毯が敷かれ、壺や甲冑人形など、高価と思われる様々なものが置かれていた。
俺は周囲に気を配りながら、慎重に歩を進める。足音に関しては絨毯が消してくれるので、うっかり踏み外さないよう注意さえしていれば、特に気にしなくてもいいのが僥倖だった。
しばらく進むと、後方から扉の開く音が聞こえてきた。すかさず甲冑人形の足元にしゃがみ、身を潜める。
扉の閉まる音が聞こえる。しばらくすると白い二―ソックスと、対照的に黒いローファーとに包まれた足が視界の隅に見えてきた。足は次第に近づいてくる。
俺は一層身を固くし、息を殺した。近づきつつある足音を敏感に聞き取っていると、やがて眼前をスカートのフリルが掠めた。そして、そのまま歩き去って行く。その後姿を見る限り、どうやらこの屋敷の使用人であるらしいことがわかる。
依然として息を潜めたまま、完全に彼女の姿が見えなくなるまでその場でじっとしているつもりであったのだが、その前に俺のすぐそばの扉のノブがひとりでに回り始める。その音に反応した使用人がこちらに振り返ったのと、俺の姿が開かれた扉に隠されたのは、ほぼ同時だった。
「あ、ちょうどよかったです」
扉の向こうから女性の声が聞こえる。会話の内容から察するにもう一人の使用人であるらしかった。
「一度、ユフィリア様の部屋を寄ってください。もしかしたら、荒れているかもしれませんので」
「ユフィリア様はすぐに部屋を汚しますからね。了解しました」
使用人同士の手短なやり取りの間、俺は次の隠れ場所に検討をつけていたのだが、どうやら扉の向こうの彼女は廊下に出てくる気配はなく、再び部屋の中に引っ込んでしまった。新たな仕事を申し付けられた方の使用人も、既に背を向け歩き出している。
こっそりと安堵の息を吐き、先ほどの会話を思い返した。
ユフィリア様とは、誰でのことであろうか。確かファル男爵と一緒にいた女性が、ユフィと呼ばれていた記憶がある。もしそうだとすれば、俺と行く先は同じということになる。ここは一つ、使用人に案内してもらうことにしよう。
廊下に散在しているあらゆるものに身を隠しながら、使用人の後をついていった。幸い、新たに使用人が現れるということもなく、距離も短かったためか、すぐに部屋に着いた。
使用人が二つノックし、「失礼します」と声を掛ける。返事が聞こえなかったので、おそらく不在だったのだろう。彼女は懐から鍵を取り出し開錠すると、部屋へと入っていった。
俺は扉の前まで行き、耳を付けて中の様子を探る。ゴソゴソと何かをしている音は聞こえた。やがて近づいてくる気配を感じ、すぐさま近くの観葉植物に身を隠す。
使用人が出てくる。おそらく特に汚れてはいなかったのだろう、手には何も持っていなかった。
彼女がその場を後にしようと振り返り、扉を閉め切る前、俺は観葉植物の鉢植えの中に落ちている豆粒のような小石を拾って、近くの窓へと投げつけた。立った物音は僅かだったが、夜の静けさが支配する屋敷内では、使用人の気を一瞬逸らすには十分な音量だった。
隙をついて、俺は部屋へと転がり込む。間もなくして扉は閉められ、施錠された。無事に部屋に侵入することに成功する。
女性特有の甘い香りに包まれながら、俺は衣類の入っているであろう箪笥へと歩み寄る。一番上の段を開けても下着類ではなかったので、すぐに一番下の段に移った。下着を入れるのは、一番上か一番下と相場が決まっているからだ。
目的のぶつはあった。俺は折りたたんでポケットにしまっていた麻袋に、片っ端から詰め込んでいく。やがて全てが入りきると、袋の口を縛り肩に担いだ。
詰め込む作業は、およそ数秒にも満たなかっただろう。だが卓越した俺の目は、流れるように詰め込まれていく数々の下着を個々に認識することができる。赤や白、色とりどりの下着を手に入れることができたが、その中に青色の下着が含まれていなかったことも、きちんと認識していた。それは先日、俺が彼女に蹴られた際に裾から拝めた例の下着のことだ。
清々しい青空のような下着。それを手に入れなくてはならない。でなくては、俺は手ブラで帰ったも同然となってしまう。