1-3
泥棒の朝は遅い。
泥棒は基本的に夜遅くに仕事をこなすため、どうしても夜更かしをすることがある。場合によっては夜が明けるギリギリまで仕事に従事していることもあるので、ともすれば当然、寝る時間が遅くなり、起きる時間も遅くなる。
そうして俺が、半ば昼に近い時間帯に目を覚ますと、その先には青筋を立てたイフの姿があった。仁王立ちをし、未だにベッドに横たわる俺を見下ろしている。
「早いな」
俺が声を掛けると、待っていましたと言わんばかりに大きな声で返してきた。
「おはようございます。そう言う下野さんは、随分と遅い時間に起きるんですね」
「そうだな。まぁ、昨日は遅かったからな」
体を起こしながら言う。すると、僅かに彼女の雰囲気が変わった気がした。
「……どうして遅かったんですか?」
「忙しかったんだよ」
「何にですか?」
何だか今日はやけに追及される。それが彼女の怒っていることと関係しているのか、考えあぐねていると、イフは続けた。
「もしかして、これが関係していますか」
その半ば断定が伴った口調で彼女が指差したものは、ベッドの前に堆く積もる女性ものの下着の山だ。それら全ては、俺の昨夜の成果である。昨日は意外にも疲れていたのか、仕事の後、下着をそのままに眠ってしまっていたようだ。
しかし、ここで臆して否定するような真似をすれば、自身の立場をより一層弱いものとし、思わぬ事態に話が転がるかもしれない。何より、下着泥棒には下着泥棒なりのプライドというものがある。
「そうだが、何か?」
この堂々とした態度にはさしものイフも慄いたようで、一瞬怯むような様子を見せたが、すぐに気を持ち直す。
「何か、じゃないですよ。もしかしてですけど、これ全部盗んできたものじゃないですよね?」
「そのまさかだ」
「何故、そうも悪びれることなく言うのですか」
「おかしいか?」
「おかしいですよ。下野さん、自分のしでかしたことをわかっているのですか?」
「もちろん、わかっているさ」
「じゃあ、この下着の山なんですか」
「衣類じゃないか」
「へぇ! じゃあ下野さんは、これを着て街中を歩くんですね!」
「冗談だろ?」
そう言うと、彼女は何か言いたそうに指を差し向けたが、そのまま自分のこめかみへと添え、「彼は病気、彼は病気……」と小さく繰り返した。俺自身、別に病気のつもりはないが、それが免罪符となっているのならば、今は甘んじることにしよう。
苦悩する彼女の傍ら、俺が昨日の戦利品をとくと眺めようかと手を伸ばし掛けたところ、その腕をすんでのところでイフに抑えられる。
それから彼女は言った。
「とにかく、この下着は持ち主に返しましょう」
「正気か?」
「何故、私の方が疑われるんですか。下着の持ち主も、さぞ困っていることでしょうし、返しに行くべきです」
「断る。別に困るほど取ってはいないつもりだ」
「取ってるじゃないですか。現に、こんなに山になるほど……」
と、そこまで言って彼女は、何か思い至ったようで「まさか」と前置きした。
「複数の家から盗んできたんですか?」
「ああ、簡単だったぞ」
この世界の家のセキュリティは貧弱そのものだった。鍵の仕様が、元いた世界と比べて、何世代も前のものとなっている。適当な鉄の棒さえ手に入れれば、容易にピッキングすることができた。
そのおかげで仕事が捗ったとも言えるし、そのせいでつい夢中になり、時間を忘れて仕事に没頭したせいで、今朝、犯行がバレる事態に陥ってしまったとも言える。
「困る困らないにせよ、とりあえず返しに行くべきです」
「断る。大体、どの面下げて泥棒が盗んだ品物を返しに行くんだ?」
「大丈夫ですよ。キチンと誠意を見せて謝れば、相手もきっと許してくれます。私も一緒に行きますから」
「断る」
「断らないでください」
「断ると言ったら、断る」
しばらく頭を抱え込んでいたイフは、やがて顔を上げて、一つ溜め息を吐いてからこう言った。
「わかりました。今日のところは、私が一人で返しに行きます」
*
かくして、部屋を追い出された俺は、いそいそと準備を整えて宿を後にするイフを尻目に、朝食という名の昼食を摂った。
「何だか、今日は朝から騒がしいな。何かあったのか?」
黙々と食べていると、カウンターから身を乗り出し、ネモ店長が尋ねてくる。
「怒ったんだよ」
端的に応えると、彼は幾分か同情的な顔つきをした。
「あのイフちゃんがかい? あんな温厚そうなのに?」
「人間誰だって、怒る時は怒るだろ」
「そりゃ、怒らせるようなことするからじゃないか。いったい何をしたんだい?」
「別に何も」
「何もしてないわけないじゃないか。でなきゃ、何でイフちゃんが怒ったりするんだよ」
「さぁな。それが母親の務めだからじゃないか?」
そう言うと、店主はより一層顔を顰めるだけだった。
*
宿泊期間は一週間。イフは、それより先はその時になったら考えると言った。それは言い換えるとつまり、イフの気分次第だとも言える。これ以上俺が粗相を働くようなことがあれば、あっさりと見限り、俺は路頭に迷うこととなるだろう。
そのようなことを言外に伝えてきたイフは、俺を職探しへと駆り立てた。
職安にでも行けばいいのかと思えば、もっと大きな町ならいざ知らず、ここにはそういった類のものはなく、どうやら地道に店を渡り歩いて、職を求めなくてはいけないらしい。
それを聞いた途端、俺の全身の筋力は弛緩し、意欲は中空へと放散、意欲という意欲はたちまち大地へと吸い込まれていった。
結論を言えば、面倒くさかった。
しかし、いつまでも宿で燻っているのは忍びなく、仕方なく俺は町を出て、しばらく街中を歩いた。目的などない。ただ何気なく、各家庭の庭に干されている洗濯物に目を配りながら、行く当てどもなく彷徨った。
やがて街の中心地、噴水の広場へとやってきた俺は、縁に腰掛けてぼんやりとした。この場は町民の憩いの場となっているらしく、家族連れや恋人、或いは友達同士が、仲睦まじそうにしている。空を見上げれば、清々しい青空が雲をのどかに浮かべて広がっていた。
そろそろ散歩を再開しようかと立ち上がり、数歩歩んだところ、何かにぶつかり足が止まってしまった。見ればどうやら子供とぶつかってしまったらしい。黒髪の男の子で、今は尻餅をつき、驚いたように俺を見上げていた。
さすがにぼんやりとし過ぎたかと、自身の過失を恥じ、子供のことを助け起こそうと手を伸ばしたところで、泣かれる。
「完全に俺の不注意だ。悪かった。そんなに痛かったか?」
問うも、子供は依然として泣き続ける。事は広場の中心で起こっているため、その場に集う数々の人の注目を浴びることとなる。
だが、俺に策がないわけではない。
いくら子供とて、一人の男には変わりはない。パンツの一つや二つを握らせれば容易に泣き止むだろう。そう思い懐に手を差し込んだが、そこではたと気づいた。そうだ、下着は全てイフに没収されたのである。
万策は尽きた。いつまでも衆人環視の冷たい視線を浴び続けるの耐え切れず、俺は仕方なく子供を伴って、広場の隅に寄った。設置されている一つのベンチに並んで腰かける。
どう声を掛けていいものかわからず、とにかく無言で子供が泣き止むのを待った。子供の泣き方は、初めの時のような勢いは鳴りを潜め始め、次第に鼻を啜る程度のものとなる。
そのタイミングを見計らって、俺はすかさず声を掛けた。
「その、悪かったよ。俺が不注意だった」
子供はゆっくりと、濡れそぼった瞳を向けてきた。まるで責め立てるかのように、じっと見つめてくる。
「怪我は、ないか?」
しばらく俺のことを見つめ続けていた彼は、やがて首を横に振った。
「……ない」
それを聞いて、俺はひとまず安堵した。
「そうか。てっきり打ちどころでも悪いのかと思った」
「何で?」
「何でって、そりゃ泣き出すからさ」
そう言うと、彼はどこか拗ねたように唇を尖らせた。
「……別に、泣いたの痛かったからじゃない」
「じゃあ何で泣き出したんだ?」
尋ねると、彼はしばし沈黙していたが、やがて以下のことを話し始めた。
どうやら彼の家は現在父子家庭で、数年前に母を病気で亡くしたらしい。以来、父は傷心気味で、だが子どもの前だからか、どこか無理しているようにも見えたようだ。
父は頑張ってこそくれているが、それでも家はお世辞にも居心地がいいとは言えず、そんな彼の心のよりどころは、生前母がくれたペンダントだけだったらしい。
しかし、その大事なペンダントを取り上げられてしまったようだ。
「誰に取り上げられたんだ?」
そう尋ねて返って来た名前は、どうやらこの辺では有名は貴族であるらしい。だが有名と一口に言ったものの、その実は悪名に近い。自身の立場を活かし、町民に対して傍若無人に振舞っているらしい。当然、俺が聞いたことがある名ではない。
さらに尋ねる。
「どうして取り上げられたんだ?」
「ぶつかったから」
「ぶつかったから?」
問い直すと、彼は頷いた。
「イシャリョー? って言ってた」
「なるほど」
貴族とは名ばかりで、どちらかというとその素行はチンピラに近いらしい。
どうやら、ペンダントを取り上げられたことがトラウマとなり、俺とぶつかった拍子に、その記憶がフラッシュバックしてしまったのだろう。それが、彼が唐突に泣き出してしまった真相だ。
「このことは誰かに言ったのか?」
「誰かって?」
「いや、そのだな……」
警察的な何かだ。生憎、この世界に来たばかりの俺では、果たしてこの世界において警察にあたる存在が何であるのかわからない。ましてや、その警察にあたるものがまともな権力を有し、貴族とやらに対しても全うに検挙してくれるのかどうかもわからない。
「父親には?」
そう聞くと、彼は首を振った。
まぁ、言い出せない気持ちもわかる。
彼のことは非常に気の毒だとは思う。彼の境遇はもちろん、彼の遭遇した理不尽な暴力にも同情する。だが、俺にはその悪い貴族を倒せるだけの正当な力もなければ、彼に掛けられる慰めの言葉も持ち合わせていない。
結局、俺は何もしないまま、彼は彼で理不尽な暴力に晒されたまま、俺たちは別れるしかできなかった。
*
先にも増してぼんやりとした気持ちで街を歩いていると、自分でもどこをどう行ったのか、いつの間にやら妙な光景に遭遇した。
往来の真ん中、誰憚ることなく大きな声で罵詈雑言を飛ばしているものがいる。
「貴様! どこに目をつけて歩いている!」
そのように声を挙げているのは、どこかこの場には似つかわしくない雰囲気を纏ったものだ。体にぴったりと合い、装飾がふんだんに施されている服を着ている。傍らに立つ女性も、同じくらい煌びやかなドレスを纏っていた。
しかし、その服装とは裏腹に、彼らの立ち振る舞いには品性はあまり感じられない。
「この服がどれほどの値段のものかわかっているのか! 貴様なんかでは一生かかっても手にすることのできない代物なんだぞ!」
そう声を荒げる男の足元には、地面を舐めんとばかりしている親子がいる。母親と、無理矢理といった形で土下座させられている子供だ。子供の方はまだ年端も行かぬ女の子で、何故自分がこんな仕打ちを受けているのか、まるでわかっていない様子である。
母親の方は、繰り返し謝罪の言葉を口にしていた。
「ねぇ、ファル」
不意に、男の肩にしなだれるようにして女の方が言った。
「何だい、ユフィ」
「あれ」
そう言って彼女が指を差したのは、他でもない俺である。男はその指につられ、俺と目が合うや否や、つかつかと歩み寄ってくる。
「何だ貴様」
「いや、別に」
「別にとは何だ、別にとは」
「そんなこと言われてもな」
見れば、街行く人々は皆、気まずそうに眼を逸らし、見てみぬふりをして足早に立ち去るものばかりであった。時間帯の割に妙に静かだとは思っていたがなるほど、そうするのが一番だったのだろう。
「こいつ、私らのこと睨みつけていたのよ」
女の方が言う。男は律儀にも、「そうなのかい」と彼女の言葉に応じてから、俺に言ってきた。
「俺たちに、何か言いたいことでもあるというのか?」
「いや、特にそんなつもりはないが」
「ないが? ないが、何だ?」
何だか面倒くさい奴だ。
見ていたことは確かだが、特に何か思っていたわけではない。強いて言うなら、俺が生きていた中で、あんな状況に遭遇したことがなかったので、つい見てしまったに過ぎない。
果たして、どうやり過ごしたものか。
「すまない。単にぼーっとしていただけなんだ。特に悪気はない。許してくれ」
そう言うと、男は眉をしかめた。
「何だ? その口の利き方は。いったい誰と話していると思っている」
「……すまん。わからん」
正直に答えると、男は声を荒げて言った。
「俺は、この国の一等地に住むグアム家のファル男爵であるぞ! 国には多額の税金を納めている。貴様ら愚民どもと違ってな!」
「そうか」
「そうかって……舐めているのか貴様!」
「いや、別にそういうわけではないんだが」
「だが何だ!」
面倒くさい。
「こいつ、私らのこと舐めてるんだよ絶対。ファル、叩きのめしちゃいなよ」
女がそう言うと男もその気になったようで、「そうだな」と上着を脱ぎ、指の関節をポキポキと鳴らし始めた。
上着一枚脱いだ彼の姿を見て、俺は一目で悟った。彼と俺とでは、歴然とした差があることを。
この勝負は一瞬で決着するだろう。そう思ってる間にも、男は大きく腕を振りかぶった。その拳はまっすぐ俺の顔面にまで飛んできて、そのまま直撃する。
間もなく、視界が暗転した。
*
結論から言うと、俺はアッサリ敗北を喫した。それもそのはず、俺には喧嘩の経験など一つもなく、対して貴族の男の方は、服の上からでもわかる通り筋骨隆々だった。
あえなく地面にのされた俺は、多大な罵詈雑言と共に唾を吐き掛けられる。そしてもう気が済んだのか、どこかへと歩き去って行った。
女の方も後を追うように消えたのだが、その前に俺に一つ蹴りを浴びせてきた。
「あんたみたいなのがファルに挑むなんで、百年早いんだよ!」
そう言い残して駆けて行く。
ちなみに蹴りを入れられた際、ドレスの裾からパンツが拝めた。
今日の清々しい青空と同じくらい、綺麗な青だった。