1-2
異世界と言えども日照時間は決まっているようで、いずれは沈み行く夕日を湖畔に二人並んで眺めてもいいのだが、それはもっと余裕のある時にするべきだろう。
現在俺たちはイフの案内のもと、湖畔を離れ、近くの町へと向かっていた。
その道中、俺は雑談のつもりでイフに話掛けた。
「しかし、初めから俺をこんな物騒な世界に放り込むつもりだったのか? それも丸腰同然で」
彼女はあっけらかんと態度で、「はい」と答える。
「正気かよ。俺を殺す気か?」
「私的にはそうなってもよかったですが」
「そうかい。それが宿命とやら何だな」
「いえ。宿命は一度死んだ時点でリセットされます。それに生き返りなんて例外中の例外なので、もはや宿命などという概念には囚われません」
「聞こえはいいが、ようは異世界で死んでも保証はしませんってことだろ? 詐欺もいいところじゃないか」
「神様とは、得てしてそう言うものです」
「あんただって共犯だろ。なに自分は潔白です、みたいな面してんだ」
「でも私は現にこうして同行しているではないですか」
「結果的に、だろ? あんたは、初めは俺を殺す気だった」
「ですが下野さんはもう一度死んだ身ですからね。再び生きていけたことを幸運と思わなければ」
「そしてもう一度、死ぬ体験ができるってわけだ。有難いね。二度死んだ経験を活かして、一冊の本でも書こうか。ベストセラー間違いなしだ」
「印税で豪華な墓を建ててください」
「マイケルジャクソンみたいに、死体を安置してもらおうかな」
草木の茂る森へと差しかかる。陽の光が葉と葉の合間を縫い、地面に斑模様を作っている。中空に漂う土埃が斜光を乱反射させて、道をキラキラと照らしていた。森独特の光合成により生まれ変わったばかりの新鮮な酸素を吸い込むと、胸がすく思いがする。
「ですが」
と、イフは言ってきた。
「あなたは死にたがっていたではありませんか」
「死にたがっていたわけじゃない。蘇りに懐疑的だっただけだ」
「どうしてです?」
「俺は生きていてもろくなことをしない。それはあんたもよく知るところだろう」
「それは、悲しい言い方ですね」
「あんたは死んでほしかったんじゃないのか?」
彼女は、「先ほどまでは」と悪びれる様子なく言った。
「ですが今は違います。あなたは自分のしでかした罪の重さを理解しています。それはすなわち、更生のチャンスです」
「更生、ね」
「あなたは正しい人間になりたいと思いませんか?」
「正しい人間って何だよ」
「それは決まっていますよ」
そう前置きして、彼女はまるで教科書を諳んじるかのように言い始めた。
「弱きものには手を差し伸べ、邪悪なものには果敢に立ち向かう。決して嘘はつかず、決してズルをせず。人を疑わない清い心持ちで生きている人間のことです」
「似たようなことをいう先生が中学の時にいたよ。正しい人間であれ、清い人間であれって、口癖のように言っていた」
「それは素敵です。今もさぞ立派な教師としてご活躍されているんでしょうね」
「いや、確かロリコン拗らせて、女子生徒に暴力を振るったって聞いたな。懲戒免職になったんじゃないか?」
「え」
思わず絶句する彼女に構わず、俺は言ってのけた。
「下着で我慢すればよかったものを」
*
間もなくして俺たちは町へとやってきた。さほど大きな町ではなさそうで、石垣のちょっとした段差の上に町並みが広がっていた。おそらく出入り口であろう部分には看板が掲げられている。「アルジオン」と、この町の名前らしきものが書かれている。
街に入ると、石畳が綺麗に整頓されている道が続く。両脇には家々が立ち並び、その一つひとつに人の息づいている気配が感じられた。どうやらここは住宅地にあたるらしい。
しばらく進むと広場に出た。真ん中には噴水があり、その噴水を囲むようにぐるりと敷地が広がっている。そこからさらに道が四方に分かれていた。
俺たちは噴水の反対側まで回り込み、これまで歩いてきた道と間反対の道へと入っていった。
次第に煩雑な地帯へとやって来る。それまであった石畳が切れ、ここでは地面がむき出しになっている。両脇には簡易テントのような屋台が種々雑多に並び、その間を多くに人が行き交っていた。おそらく市場のようなところなのだろう。
イフが言った。
「ここでは大体のものが揃います。衣・食・住のうち、最初の二つがここで賄えるでしょう」
「住居の方は?」
「しばらくは宿に泊まってもらおうかと考えています。当面の間、食費を含め、私の方で費用は持ちます。後は自分で仕事を見つけて、自分で自分の寝床を決めてください」
「随分と冷たいんだな」
「いつまでも甘えていては駄目ですから。自立してもらわなくては、更生の余地はありません」
「更生なんて、俺は興味ないけどな」
「いいえ、してもらいます。何よりあなたには見込みがありますからね。更生の第一歩は、まず自分の過ちに気づくことです」
「別に気づいたわけはない。自然に知っていたんだ。長じれば誰だってわかるもんだろ」
そう言うと、イフは「そうでしたそうでした」と一人で納得した。
「そう言えばご病気なんでしたよね。では更生ではなく、治療でしたね」
俺は、何か言おうと口を開きかけたが、止めた。彼女の言葉を否定するのは簡単だったが、彼女の考えまでも否定するのは容易なことではないだろう。俺がいくら言ったところで、彼女に聞く耳を持ってもらえるとは思えない。
とりあえず、「そうだな」と適当な相槌で、この話を終わりにする。
しばらく黙々と歩いていると、市場を抜け出た。そこからイフの先導のもと、さらに進むと一軒の宿屋が見えてくる。
店の前につくと、イフは立ち止まり、俺へと振り返った。
「下野さんには、しばらくここに泊って頂きます」
事務的な連絡には興味などないので、俺は彼女のことは見ずに、ぼんやりと店の看板を眺めていた。見たこともない文字ではあるが、キチンと読める。この世界で円滑に生きていくための最低限の保証はしてくれているようだ。
そんなふうにしている俺をどう見たのか、イフは少し柔らかく微笑むと、「大丈夫です」と言った。
「ここの店主は気のいい人ですから」
「別に心配などしていない」
「そうですか」
彼女は杞憂もそこそこに、店の中へと入っていった。その後へ続く。
「いらっしゃい」
入るや否や、店主と思しき人物が快活に出迎えてくれた。イフが、その男へと歩み寄り、何やら話し始める。
二人を遠巻きにしながら、俺は店内へと目を向けた。
小さな宿屋であった。入ってすぐに上階へと続く階段があり、その手前に受付が設けてある。階段を昇ればおそらく、個人部屋があるのだろう。
階段を上らずに左に折れれば、酒場と待合室が併設された空間がある。奥側にカウンターがあり、さらにその向こう側には様々な種類の酒瓶が棚に並べられている。間反対の窓際には、数人で腰掛けるための質素な椅子が置かれており、その間に数人で囲むような円卓がいくつか置かれていた。
しばらくぼんやりとしていると、やがて「お待たせしました」とイフが近づいてくる。
「部屋は全然空いているみたいなので、今すぐにでも入室が可能だそうです。とりあえず、一週間分取っておきました。それからは、まぁその時になってから考えましょう」
「悪いな。何から何まで」
「いいえ。サポートすると決めたのは私ですから」
彼女は、「では、店主にご挨拶しましょうか」と言い、歩き始める。その後に続き、先ほど出迎えてくれた男のもとへと向かった。
「俺はネモ。よろしくな」
そう言って、店主はガタイのいい手を差し出した。どうやら握手を求めているらしい。しばらく逡巡したが、仕方なく手を握り返す。
「お客さんは運がいい。今は全く客がいない時期でね、貸し切り状態さ。ま、存分に寛いでいってくれや」
「はぁ」
正直、こういう人種は苦手だ。
「そんな辛気臭い顔すんなよ。俺の宿屋に泊るってことはな、謂わば俺の家族になるようなもんだ。要は兄弟ってことさ。わかるか?」
「はぁ」
俺の曖昧な返事を、彼は好意的に受け止めた。
「そうかそうか。よろしくな、兄弟」
そう言って肩をバシバシ叩いてくる。
その傍らで、小さく拍手を打ち鳴らすイフがいた。「これが男同士の友情というやつなんですね。素敵です」と心から感服しているようである。
訂正。どいつもこいつも苦手だ。
*
部屋に入ると、ベッドが一つだけ置いてある空間が広がっていた。後は、少し物を入れて置けるような物置があるだけだ。
早速ベッドに寝転がり、寝心地を確かめていると、イフが縁に腰掛けて、残る事務連絡をしてきた。
「食事の方はネモさんに頼んでありますから、心配しないでください。言えばいつでも作ってくれるそうです。申し訳ありませんが衣服に関しては、今日のところは我慢してください。私が適当に見繕って来てもいいのですが、サイズとかもありますし、ご自分で探された方がいいかと思いまして」
見れば、いつの間にやら日が暮れかけていた。沈み行く夕日が、空を茜から紫へのグラデーションに染めている。
「お金に関しては、衣類代と、それから有事の際に何かと入用かもしれませんので、多めに渡しておきますね。……って、私の話聞いてます?」
「ああ、聞いてる。至れり尽くせりだな」
俺は体を起こし、返答する。しかし尚も視線は窓の外へと向けていた。
そんな俺を見て、イフは言った。
「夕日、お好きですか?」
「いや。ただ、どこの世界でも変わらないものはあるんだな、と思っただけだ」
イフが、幾分か同情的な顔つきになった。いくら神の仕業とはいえ、誤って殺してしまっていることを気に病んでいるのかもしれない。
「もしかして、元の世界に未練がおありだったりしましたか」
「そんなふうに見えるか?」
「下野さんにも、家族はいたでしょう?」
「さてね。どの道、未練なんて感じたってしょうがないだろ。元の世界じゃ、俺はもう死人なんだ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「俺は今ここにいる。だから、ここで生きていくしかないんだ」
「そうですか」
「下着泥棒としてな」
そう言うと彼女は、それまでの優しげだった表情を瞬く間に消し、冷たい視線を向けてくる。
「最低です」
「わかっていたことだろ?」
「本当に最低です。感傷的になった私が馬鹿みたいじゃないですか」
イフはそう言うと、顔を背けた。
彼女の肩までの金髪が夕日に照らされて、一層、金色に輝いている。隙間から覗く形のいい耳が、夕焼け空に負けず劣らず、鮮やかな朱に染まっていた。
*
「あれは、君の恋人かい?」
夕飯時、ダラダラと食していると、カウンターから顔をのっそりと覗かせてネモ店長が問いかけてきた。
「あれ?」
問いかけると、彼は豪快に笑った。
「照れてるのか? 誤魔化すことないじゃないか。彼女だよ、彼女。確か、イフちゃんといったかな」
合点の言った俺は、再び今晩の夕食に目を落とす。今日の夕飯は、串肉と何かの汁物だ。具が何かまではわからないが、おいしいものはおいしい。唯一気になる点は、串に刺さっているものが全て肉であるところが如何にも男臭い、というところだ。この宿に一週間も止まれば、俺はたちまち栄養過多になってしまうかもしれない。
ともあれ、俺は答えた。
「そんなんじゃないさ」
「別に隠さなくたっていいじゃないか。俺たちは、謂わば兄弟なんだからさ」
宿泊費を払い続ける限りはな。
話の主題であるところのイフは、現在ここにはいない。ほんの数時間前に帰って行ったばかりであった。とはいうものの、彼女がどこに帰って行ったのかまでは知らない。この世界に家を持っているのか、はたまた、例のあの白い空間に帰って行ったのか。
何にせよ、一緒の宿に泊まるということはなかった。それは、一人分の部屋しか取っていないことからも、十分察せられたことだ。
店主は言った。
「彼女じゃなきゃ、あそこまで甲斐甲斐しく世話しないだろ。違うか?」
「あの様子は、どちらかというと母親に近いがな」
「何! 彼女は君の母親なのかい?」
「いや、物の例えだよ」
と言ったが、その言葉は彼には届かなかったようで、「そうかぁ。あんな若くて綺麗な母親がいて羨ましいなぁ」と呟いている。間もなくすると、自分の母親のことを話し始め、次第に理想の母親、果てには、その理想の母親がいたらどんな生活を送っていたかという、半ば妄想染みた話を聞かされた。
俺はその話を話半分で聞き流しながら、自身の皿に残っている、さっきまで肉だけを刺し貫いていた鉄串に目線を落とす。店主が話に夢中になっているのを十分見計らって、二本ほどくすねておいた。