Cafe Shelly 失われた友たち
あっ、と思ったときには遅かった。水たまりに携帯電話がポチャン。その瞬間、私の友と呼んでいた大勢は帰らぬ人となった。
「どうしよう…サチにメールしなきゃいけなかったのに。それと待ち合わせに遅れるって、啓太にも電話しなきゃいけないのに…」
そもそも朝寝坊したのが事の始まり。啓太と映画に行く約束をして、起きたのは待ち合わせの三十分前。昨日の夜は飲みすぎちゃったからなぁ。家から待ち合わせの噴水前まではバスで約十五分。さっさと家を飛び出せばいいところなのだが、やはり私も女の子。お化粧だけはしていかねば。
で、準備に二十分かかり、さらにバス停まで走って三分。幸い、バスがすぐに到着したにもかかわらず、雨のおかげで道が混んでいて。バス停を降りてから噴水前まで走りながら啓太に電話をかけようと思って携帯を手にした瞬間、それがするりと私の手から逃げ出した。そして今に至るわけだ。
しまったなぁ。でも今は悩んでいる場合じゃない。早く啓太のところに行かなきゃ。彼、時間にはちょっとうるさいのよね。
「ごめぇ~ん、遅くなって」
啓太の姿を見つけるやいなや、その第一声。啓太イライラしてる。
「美喜、おせぇっ!」
あ、やっぱり。
「ごめぇん、ちょっと飲みすぎちゃって寝坊しちゃった。それにね、さっき…」
携帯を落とした件を言おうとした瞬間、
「言い訳をするヤツは嫌いなんだよね」
一言あっさり言われてしまった。確かに寝坊した私が悪いわよ。でも、こっちの言い分くらい聞いて欲しいじゃない。なんかあったまにきた!
「わかったわよ。なにさ、こっちの話くらい聞いてくれてもいいじゃないっ!」
で、なんかムシャクシャして、啓太に背中を見せて来た道を戻っていった。結局デートの計画はパー。にしても腹立つなぁ。こういうときは誰かに話を聞いてもらうに限る。やっぱサチがいいかな。そういえばサチにメールを送らなきゃいけなかったんだ。
そして携帯電話を取り出す。が、画面は真っ暗。いくら電源ボタンを押しても反応しない。あっちゃー、困ったな。とりあえず携帯ショップに行くか。その足で一番近い携帯ショップに向かい、早速事情を説明。
「お客様の場合、保険には入っておりませんので水没となりますと修理は全額かかることになります」
「それ、いくらかかるんですか?」
金額を聞いてびっくり! それだったら新しいのを買い直した方がいいじゃない。まだ一年も使っていない携帯なのに。けれど携帯がないと生活できない。仕方ない、新しいのを買うことにするか。
聞けば、新規購入にしてしまえば結構安くなるらしい。買い替えになると思った以上に高くつく。今のバイト代を考えたら、新しいのを買った方がよさそうだ。そうなると電話番号は変わってしまうが仕方ないな。でも、この選択があとあと面倒な事になるとは考えもしなかった。
「それで、古い方に入っている電話帳って新しいのに移すことはできるんですか?」
「うぅん、お客様の場合水没させてしまったので、できるかどうかはわかりませんが…とりあえずやってみます」
そしてしばらく待つ。が、店員の顔色はしぶいまま。そして…
「お客様、大変申し訳ありませんが電源が入らないためデータを移すことはできませんでした」
えぇっ、ど、どうしよう。私の友達とか、アルバイト先とか、いろいろ大事な連絡先がこの中に入っていたのに。
「どうにかならないんですか?」
「誠に申し訳ありません。当店ではこれ以上のことは…」
どうしよう、これじゃ誰にも連絡できないじゃない。新しい携帯を手にして、しぶしぶ店を出る。ま、仕方ない、誰かから連絡が来るのを待つしかないか。このとき初めて重要なことに気づいた。
「あ、誰も私の新しい番号を知らないんだ…」
そうだ、そうだった。これじゃ誰からもかかってくるわけない。おまけにこちらは誰一人電話番号を知らない。私、家の電話番号すら憶えていないのに。当然メールがくることもない。しまった、誰とも連絡がとれないじゃない。
雨はさらにひどくなっていく。私の気持ちをそのまま天気が映し出しているみたい。今は空っぽの携帯電話を虚しく手にとり見つめる以外、できることがなかった。
翌日はバイトの日。なんだかだるいなぁ。重い体をひきずりながら、なんとかバイト先まで到着。すると、予期せぬ出来事が。
「えっ、なんで閉まってるの?」
私のバイト先はファーストフード店。といっても、大手のではなく地方の小さなチェーン店。店には張り紙がしてある。
「都合によりしばらくの間お休みさせていただきます」
都合によりって、どういうことよ? 私、何も聞いていないわよ。あ、そうか。連絡先は前の携帯電話の番号だった。しまったなぁ。それにしても困った。アルバイトができないとなると、お給料ももらえない。携帯とか、いろいろな支払いがあるのに…。幸い、お店の電話番号は掲示してあるのでわかる。早速電話してみよう。
呼び出し音がなる。一回、二回、三回…結局二十回鳴らしても出ない。そっか、この番号は今目の前にしているお店のものだから。そこには誰もいないのは当たり前か。う~ん、困ったなぁ。なんでお店が休みになっちゃったのか、わけがわかんないし。しゃーない、友達のところにでも行くか。
そう思って足を向けたのは、仲良しのサチのところ。今日はいるかな?
ピンポーン
サチのアパートの呼び鈴を押す。
「ふぁぁい、だれ?」
もう昼前だというのに眠たそうなサチの声が聞こえる。
「わたし、美喜だよ」
「みきぃ~?」
その途端、激しくドアが開く。
「美喜、あんた今頃なによっ! いい加減にしてよねっ」
さっきの眠たそうな声から一転して、怒ったような激しい口調。ど、どうしたっていうの?
「今頃って…」
「あんたがメールしなかったから、こっちは大迷惑だったんだよっ」
そうだった。昨日はサチに新しいバイトの紹介をする件でメールをしなきゃいけなかった。わたしの知り合いのところを紹介するってことで、面接の日時を昨日教えることになっていたんだ。
「ごめん、ちょっと事情があってさ…」
「あんたがメールしてくれなかったから、こっちは予定が立てられなかったんだよっ」
「あ、でもさ…」
携帯電話を水没させてしまったことを話そうとした瞬間、
「あ~、チョームカツクっ!」
そう言ってドアを閉められてしまった。
「あ、サチ、ねぇ、開けてよ」
まったく、私が悪いのはわかってるけどあの態度はないじゃない。こっちの話も聞いて欲しいわよね。にしても、なんであそこまで怒るかなぁ。
ここにいても仕方が無いので、とりあえずどっかに行くか。私の心を象徴するように、雨が急にひどくなってきた。さっきまでは傘をささなくてもよかったくらいなのに。傘、持ってきてないよ。ふぅ、仕方ない、ビニール傘でも買うか。私は駆け足で近くのコンビニにもぐり込む。ついでにここで立ち読みでもして時間をつぶすかな。そのとき、突然後ろから声をかけられた。
「美喜っ、あんた何してたのよ?」
声をかけてきたのはバイト仲間の正美。
「あ、正美」
「何度も電話するけど通じないじゃない。ったく、シカトしてんじゃねぇよ」
正美はちょっと気が荒いところがある。
「ごめんごめん、ちょっと事情があってさ」
この言い方がまずかったみたい。正美の顔つきがさらに厳しいものになった。
「こっちは大事な話があるから何度もかけてんのによ。てめぇ、フザケんなよ!」
なぜかキレる正美。それに対して私も思わずキレてしまった。
「なによっ、こっちの事情くらい聞いてくれてもいいじゃない。わたしだって大変だったんだから」
これがさらに火に油を注いでしまった。
「てめぇの事情なんか知るかっ。シカトするヤツは許せねぇんだよっ。メールの返事もねぇし、てめぇボカしたろかっ!」
正美の勢いはハンパない。これ以上正美と話をしていると、身の危険も感じてしまう。ここは退散するに限るな。
私はフンっとした態度でコンビニを飛び出した。でも飛び出したのはいいけれど、外は雨。傘を買うつもりだったのに、また店に入るのもシャクだし。もういいやっ、どうにでもなれ。思い切って私は雨の中、家に向かって駆け出した。
どうして私がこんな目にあわなきゃいけないのよ。なんで啓太とケンカしなきゃいけないのよ。なんでサチに怒られなきゃいけないのよ。なんで正美にキレられなきゃいけないのよ。たかが携帯に出られなかった、メールを送れなかった、それだけのことなのに。
目には雨だか涙だかわからないものがいっぱいあふれていた。家に帰って、シャワーを浴びて、布団をかぶって。私は鳴らない携帯電話を手にして、いつしか眠ってしまった。
起きたのは夜中。頭がボーッとしている。携帯電話を見る。いつもならメールがいっぱい送ってきているところなのに。着信もゼロ。なんだか虚しくなってくる。やることがなくて、携帯サイトをウロウロ。でもなんだかつまらない。そんなとき、突然一通のメールが。
誰だろう? 新しいメールアドレスなんてまだ誰にも知らせていないのに。届いたメールは出会い系サイトからの迷惑メール。そういえば一時期こんなのがたくさん届いて、ホント迷惑していた。けれど今日に限ってはなんだかうれしい。なんとなく届いたメールを開いてみる。書いてある内容はとても嘘くさい。でも、やることもなかったせいだろうな。思わずそこに書かれてあるアドレスをクリック。さらに読み進める。誰でもいい、メール友達になってくれる人がいないと寂しくて仕方ない。そんな思いが募ってきた。別に見ず知らずの人でもいいや。今の心の寂しさを埋め尽くしてくれたら。気がついたらそのサイトに登録している自分がいた。そしてコメントを書き込む。
「だれでもいいですから、今のわたしの心を埋めてください」
送信。ふぅ、なんかちょっとだけスッキリしたかな。けれど、まだまだ私の心は埋まらない。それからわずか数分後。
「あ、メール」
なんだかうれしい。メールが来るとホッとするな。早速開いてみる。するとそれはさっき登録したばかりの出会い系サイトからのもの。
「はじめまして。寂しいあなたの心を埋めてあげますよ。メールから始めてみませんか?」
見知らぬ男性からのもの。へぇ、こんなメールがくるんだ。でもプロフィールを見たら四十歳過ぎ。ちょっと中年はね…。そう思っていたらまたメール。
「こんばんは。こんな夜遅くに寂しいんだ。オレとデートしない?」
おいおい、こんな夜に誘うか? こんなヤツはパス。そしたらまたメールが。
「オレが心を埋めてやるよ。ほら、体が寂しがっているんだろう?」
その後にはちょっとエッチな言葉が続く。なんか勘違いされてるなぁ。こんなのもパス。それから立て続けにメールが届く。こっちがうつらうつらしてきたときに、また一通、また一通。おかげで今度は眠たくても寝られなくなってしまった。にしても、まともな男はいないのかな。夜中にメールを送ってくるくらいだから、ろくなのはいないか。で、結局明け方までメールと格闘するハメになってしまった。
寝たのは朝五時。それからひと眠りして、起きたのは九時。起きた、というよりも起こされた、といったほうが正解。
「美喜、いるんでしょ。美喜、美喜!」
ドンドンと激しくドアを叩く音。誰よ、まったく。
「ふわぁぁい」
ドアを開くと、そこに立っていたのは和美だった。和美はボランティアサークル仲間で、リーダー的存在。以前のバイトで知りあって、そのときにボランティアに誘われた。まぁ私がボランティアって柄じゃないんだけど。なんとなく楽しそうだったから、一緒に活動をしている。
「美喜、あんた今日は当番の日だったでしょ!」
あ、しまった! これはうっかり忘れていた。今やっているのは、老人と一緒に花壇の手入れをするというもの。そこで老人クラブの人の世話を交代でしている。
「ごめぇん」
「ごめんじゃないわよ。電話するけど出ないし、メールも返事がないし」
「ホントごめん、電話がさ…」
「約束守れないなら、ちゃんと連絡をしてよ」
ドア越しに怒りの口調で話す和美。私はなんとか人前に出られる格好に着替えながらの会話。
「だからさ、私の携帯がね…」
そう言って玄関の扉を開いた。が、そこにはもう和美の姿はなかった。あわてて追いかけてはみたものの、和美は原付バイクで走り去っていくところだった。
どんどん私の周りから友達が離れていく。たかが携帯電話が通じ無くなっただけなのに。今は別の携帯電話があるのに、それには友達から連絡が来ない。来るのは出会い系からのメールばかり。まるで私が別の人物になったみたい。そして、別の世界で生きている。私、どうすればいいの? このまま別の世界の別の人物になっちゃうのかな…。そう思ったら、涙が出てきた。
鳴らない携帯電話を、思いっきり地面に叩きつけたくなった。携帯電話を持った手を振り上げたところで、震えがきた。これがなくなったら本当に誰とも連絡がとれなくなってしまう。振り上げた手をゆっくりと下ろす。
そしてまた、雨がポツリポツリ。私の心と同じように。雨がまた、すべてを濡らし始めた。家に戻り、ベッドの上でひざを抱えて顔をうずめる。両方のひざは私の涙で濡れている。どうして私がこんな目に合わなきゃいけないのよ。たかが携帯電話を濡らしてしまっただけなのに。どこにこの思いをぶつければいいの? 友達がどんどん私から去っていく。みんな怒って私から逃げていく。そして私は一人ぼっち。頭の中はそんな思いが繰り返されている。体には力が入らない。このままベッドの上で死んじゃうのかな? 泣くこともできなくなり、頭がボーッとしてる。何も考えられなくなっちゃった。
と、そのとき。私の携帯電話の呼び出し音がけたたましく鳴った。この携帯に変えて始めての着信。
えっ、なに、どうしたの? 最初はワケがわからなかった。だって、誰からもかかってくるはずのない携帯なんだモン。もしかしたら、私の生み出した妄想? それとも夢? けれど、それははっきりと聞こえる。
携帯電話を手にとると、より一層それがはっきりとしてきた。妄想でも夢でもない。本当にかかってきたんだ。恐る恐る携帯電話を開く。そして通話ボタンを押してみる。
「はい…」
相手は誰だかわからない。だからこちらの名前は名乗ることはできない。
「あ、ミッコ、マイだけど」
その声は若い女性のものだった。第一声だけではつらつとした元気の良さそうな人だっていうのがわかる。けれどそれは私に向けられた声ではない。ミッコという人に向けられたもの。つまり、間違い電話。普通ならここで「違います」と言って切るところだけれど。いまの私にとって、その声は天からのプレゼントのように思えた。
「あの…私、ミッコじゃないけど…」
「あ、ごめんなさい。うっかり番号、間違えちゃったみたい」
電話の向こうのマイさんと名乗る人は、ここで電話を切ろうとしたに違いない。けれど、いまの私にとってその声は何かの救いになる。直感的にそう思った。
「あ、ちょっと待ってください」
反射的にそう言ってしまった。
「あ、はい。どうかしましたか?」
「あの…す、すいません。なんでもありません」
考えてみたら、見ず知らずの人に何かを求めるなんて無茶な話。今度は謝ってしまった。もうこれで電話を切られてしまうだろう。けれど、電話の向こうのマイさんからこう話しかけられた。
「あの、間違っているかもしれないけれど。ひょっとして何かあったんじゃないですか? 声がとても切羽詰った感じがしたんですけれど。今とても困った状況にあるとか、そんなんじゃないですか?」
私の声がよほど悲痛に聞こえたんだろうか。でも、事実そうなんだから。
「…はい、助けてください、わたしを、私を助けてください…」
私のことを理解してくれた人がいる。そう思うと、涙がどっとわいてきた。そして、遠慮もなしに助けを求める私がいる。今はもう、電話の向こうのマイさんにすがるしかない。
「もう少し詳しく話してもらえますか? 一体何があったの?」
やさしく応えてくれるマイさん。その声に甘えて、私は何があったのかを話しだした。携帯を落として濡らしてしまったこと。そして彼氏である啓太に遅れるという連絡をつけられなくなり、それが元でケンカ別れしてしまったこと。慌てて携帯電話を修理に出したけれど、高かったので新機種に変更したこと。それから誰とも連絡がとれなくなったこと。アルバイト先の店が突然閉まったことを誰からも連絡を受けられなかったこと。親友のサチにメールを送らなかったため、サチが怒りだしたこと。バイト仲間の正美が突然キレたこと。あまりにも寂しくて、出会い系サイトに登録したら変なメールばかりきちゃったこと。ボランティアーサークルのリーダーである和美から怒られたこと。そして、まだ誰からも電話が来ていなくて寂しかったこと。まるで私が別の世界の別の人物になったような気がしたこと。とめどなく話しが続いた。
「あ、ごめんなさい。なんか私、甘えちゃってつい長話をしてしまって…」
「いいのよ。たくさん話しをして、今の気分はどうかな?」
「はい、おかげさまでなんだか気が楽になりました。本当にありがとうございます。でも…」
「でも?」
「でも、私この先どうすればいいんでしょうか?」
「そうねぇ…あ、そうだ。あのさ、私喫茶店をやっているんだけど、一度遊びにこない? ちょっと紹介したい人がいるんだ」
「喫茶店、ですか?」
「うん。そこに来る常連のお客さんで、今のあなた…あ、そういえばまだ名前も聞いてなかったわね」
「あ、わたしは美喜っていいます」
「美喜さんね。その人なら美喜さんの悩みを解消してくれるかも」
「わかりました。ぜひ行かせてください」
その後、マイさんから喫茶店の場所を聞いた。喫茶店のある通りなら知っているけれど、そんなところに喫茶店があっただなんて知らなかった。
「カフェ・シェリーですね。じゃぁ明日早速うかがいます」
「うん、楽しみに待ってるね」
電話を切った後、なんだか気持ちが晴れやかになった。携帯を新しくしてからわずか二日しか経っていない。けれどその間は気持ちが沈みっぱなし。私がわたしじゃなくなった気持ちさえしていた。けれど今はとてもウキウキしている。こんな気持になれたの、いつ以来だろうって感じがする。今度は目が冴えて眠れなくなっちゃった。まるで遠足の前の日みたい。さっきかかってきたマイさんの番号を早速登録。この携帯では始めて登録する人だ。記念すべき番号だな。
そして朝を迎え、さらにカフェ・シェリーへと向かう時間になった。一体、どんな喫茶店なんだろう? 期待に胸を弾ませ街を歩く。雨はまだ降り続いている。けれど、それもなんだか楽しい。
「ここかな…」
それらしい看板を発見。このビルの二階なんだ。今までこの通りの一階にあるお店は入ったことがあるけど。二階のお店なんて気にしたことなかったな。早速二階に上がり、お店の扉を開く。
カラン、コロン、カラン
カウベルの音が心地いい。同時に声が。
「いらっしゃいませ」
男性と女性の声がはもる。男性の声は低くて渋い。女性の声はとてもかわいらしい。そして、その声は昨晩聞いたあの声であった。
「あの…マイさん、ですか?」
「はい、あ、ひょっとして昨日の電話の美喜さん?」
「はい、そうです。昨日はありがとうございました。おかげで気が楽になりました。早速来てみました。まだ早かったですか?」
見ると、お店にはまだお客さんが誰もいない。
「ううん、もう大丈夫よ。お客様はお昼前くらいからいらっしゃる方が多いから。さ、こちらにどうぞ。この席がリラックス出来るわよ」
案内されたのは窓際の半円型のテーブル席。四席ある中の、一番端の席へと通された。そこに座ると、ふぅっと落ち着く。なんかいい香りがする。外は雨なんだけど、窓から入ってくる光が心地いい。自然に目をつぶる。意識がそのまま深い世界に落ちていく…。
ハッと目を覚ます。あれっ、私いつの間に寝てたのかしら。よく考えたら、昨日の夜は興奮してほとんど寝てなかったんだ。うーんと背伸び。
「気持ちよかったかな?」
そうマイさんが話しかけてきた。私はちょっと焦っちゃった。喫茶店に来て早々、うたた寝してたなんて。
「あ、ごめんなさいっ。なんかうっかり寝ちゃってたみたいで」
「疲れてたのかな?」
「あ、はい…でも今すごく気持ちがいいです」
「そう、よかった。その席は一番リラックスできるようにしてるの。心も体もリフレッシュしてもらいたくてね」
「でも、私ずいぶん寝てたんじゃないですか? なんかすっごく気持ちがいいんですよ」
「うふふ、寝てたといってもわずか一分くらいじゃないかな」
うそっ、そんなものなの? それにしてはずいぶん気持ちがリフレッシュできているんだけど。
「よかったらうちのオリジナルブレンドコーヒー、シェリー・ブレンドを飲んでみませんか? これを飲んだら、もっと気持ちが前向きになれるかもしれませんよ」
どんなコーヒーなんだろう? そのシェリー・ブレンドを注文して、ワクワクしながら待つ。が、さっきとおなじ心地よさが体を包む。そして私は再び目をつぶっていた。
次に目を覚ましたのは、コーヒーの香りとともに甘いクッキーの香りが漂ってきたとき。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドと、私の特製クッキーです」
マイさんはコーヒーを私の前に置くと、私の横の席に座った。まだ他にお客さんがいないので、ゆっくりしていられるのかな。
「ありがとうございます。また寝ちゃってましたね。なんだかここ、すごく気持ちいいんですよね」
さらにさっきよりもリラックスできていることに気づいた。そして早速コーヒーを飲もうとしたとき
「あ、クッキーを一かじりして、そしてコーヒーを飲んでみて。きっと面白いことが起こるから」
マイさんの言葉に不思議さを感じながらも、言われたとおりにした。
まずはクッキーを一かじり。んっ、すごくおいしい。ほどよい甘さと香ばしさが口の中に広がる。
そしてコーヒーをブラックのまま口に入れる。甘さと苦味がうまく口の中でブレンドされて、また違った味が広がる。なんだろう、この味。口の中で何かが広がっていくような感じがした。
そのとき、私の頭の中で何かがはじけて広がる絵が見えた。はじけて広がっていったもの。それは私の友達。その輪がどんどん広がっていく。みんな笑顔で楽しそう。そのまん中に私がいる。今までの友達から、さらにまだ見たことがない人達までも広がりを見せている。そして、その広がりはとどまることを知らない。なんて言ったっけ、あの宇宙が始まった時の爆発。まるであんな感じ。
「どんな味がしたかな?」
マイさんのその言葉に我に返った。
「あ、えっと…」
「ふふふ、なにか見えたみたいね」
「あ、はい…あれ、私夢を見てたの?」
「ううん、夢じゃないの。このシェリー・ブレンドはね、飲んだ人が今欲しいと思っているものの味がするの。そしてクッキーと一緒に飲むと、その欲しいものの映像が出てきちゃうのよ。だから、今美喜さんが見た映像は、美喜さんが欲しいと願っているものなの」
マイさんの言葉は普通じゃ信じられない。けれど、今の私にはマイさんの言葉は当たり前のことのように聞こえた。
「ということは、あの爆発したように広がっていく友達の輪が今の私が欲しがっているものなんだ」
「友達の輪が広がっていくところが見えたんだ。それが欲しがっているものなんだね」
そうだ、そうなんだ。今の私は正反対。爆発で広がるどころか、それがしぼんで枯れてしまっている。
「マイさん…わたし、どうしたらいいの? 友達、ぜんぜんいなくなっちゃった…」
私は泣きそうになった。携帯電話にはマイさん以外誰も登録されていない。誰からも電話はかかってこないし、メールも来ない。私は一人ぼっち。
「大丈夫。もうちょっとしたらなんとかしてくれる人がくるから」
その言葉通り、お店の扉が元気に開かれ、同時に賑やかな声が聞こえた。
「どもーっ! マスター、マイさん、こんにちはー」
現れたのは一人の男性。
「おー、隆史くん、待ってたよ」
お店のマスターがその人の名前を呼んだ。
「どれどれ、携帯電話で困っているかわいい女の子ってのは…あ、君か!」
私を見て話しかけてくる男性。今の私と正反対で、元気の塊みたいな人だ。
「美喜さん、紹介するね。こちら隆史さんといって、文具屋さんをやっているの。パソコンとかメカとかに強くて、頼りになる人よ」
ひょっとして電話で言っていた、悩みを解消してくれる人ってこの人のことなのかな?
「どれどれ、どんなことで悩んでいるのか、よかったら話してくれるかな?」
隆史さんは気軽に話しかけてくる。私はマイさんにも話したことを一通り隆史さんに話した。携帯電話に入っていたデータさえ戻れば、私も人間関係が戻ってくるのに。そのことを付け加えた。
「なるほど。で、その壊れてしまった携帯電話はどうしたかな?」
「あ、はい。なんか未練があって、まだ捨てずに家にありますけど…」
「おっ、ラッキー。ならなんとかなるかも。じゃぁ、今度ここに持ってきてくれるかな? あ、ボクの電話番号はこれだから」
そう言って隆史さんは名刺をくれた。
「どうせなら赤外線で通信しようよ」
赤外線で、なんてちょっと前まで当たり前にやっていたことなのに、なぜか妙に懐かしさを感じる。なんかうれしいな。これで隆史さんの携番とメアドゲット。そのとき、お店のマスターがカウンターから声をかけてきた。
「美喜ちゃん、一つ聞いてもいいかな?」
「えっ、何でしょうか?」
「美喜ちゃんは今のお友達とは携帯電話の番号さえ戻れば、関係が元通りになると思っているかな?」
マスターに言われてドキッとした。今の私は、携帯電話の番号さえ戻ってくればいいと思っていた。そうすればみんなに連絡をとることができる。けれど、本当にそれだけでいいんだろうか? 友達は戻ってくるのか?
「でも…まずはみんなに連絡をとらないと。どうして連絡をとれなかったのかをメールとかで説明しないと…」
私の頭にはそれしかなかった。だから早くみんなのアドレスをなんとかしたかった。
「そうか、メールさえ送れれば元通りになるんだ」
マスターの言葉は今の私にはちょっときつく聞こえた。反論しようとも思った。でも、メールを送ったところで本当に啓太と仲直りできるのだろうか? サチは理解してくれるだろうか? バイト仲間の正美は誤解をといてくれるだろうか? ボランティアリーダーの和美は私を信頼してくれるだろうか?
「どうして今までみんなが美喜ちゃんの話しを聴こうとしなかったのか、よく考えてごらん」
「マスター、ちょっとキツイ言い方じゃない?」
マイさんは私をかばおうとしてくれた。けれど、マスターの言葉に私は思い当たることがあった。
どうしてみんなが私の話しを聴こうとしないのか。それは私がみんなの話しを聴こうとしていなかったから。前に啓太から言われたことがある。おまえって、ホント人の話しを聴かずに自分のことばっかしゃべりたがるやつだって。あのときはそう言われても何とも思っていなかったけど。逆の立場になって初めてわかった。みんな、私が連絡を取らなかったから怒っているんじゃない。それはきっかけに過ぎない。私の話を聴いてもらえないのは、私が話を聴かなかったから。私が話をちゃんと聴いていたら、私の携帯が壊れて連絡がとれなかったことをちゃんと伝えられたはず。マスターの言葉でそのことに気づいた。
「ありがとうございます。わたし、自分の何が悪かったのかがわかりました。わたしはいつも自分の言いたいことばかり言って、周りの人の話なんて聴こうともしなかったんです。だからみんな、わたしの話を聴いてくれない」
私がそう話すと、マスターはニコッと笑ってくれた。
「うん、そこに気づいたんだね。そこに気づいたのなら、美喜ちゃんはこれからどうするかな?」
「はい。まずは周りの人の話をきちんと聴きます。自分の言いたいことはぐっと抑えて。すぐにできるかどうかわからないけれど、とにかくチャレンジしてみます」
「そうか。それはよかった。じゃぁ私から一つプレゼントをしよう。まだコーヒーとクッキーは残っているよね。さっきと同じように、クッキーを食べてコーヒーを飲んでみてごらん」
それが何を意味するのだろう? ともかく私はマスターの言うとおりにやってみた。さっきと同じ、クッキーのほどよい甘さと香ばしさが口の中に広がる。そしてコーヒーを口に入れる。クッキーが口の中で溶けていく。と同時に、甘さと苦さがミックスされてなんともいえない絶妙な味わい。まるで甘さと苦さがぐるぐる渦を巻きながら、口の中でどんどん広がりを見せていくみたい。ここまではさっきと変わらない。けれどその後が違った。
さっきはここから爆発のような広がりを感じた。けれど今度は逆。どんどん中央に向かって吸い込まれていくような感じ。何に吸い込まれていくのか? それは私自身。そして吸い込まれていくのは私の友達。さっき頭の中で思い描いた、友達の友達までもが私の方に向かってくる。
そっか、さっきはこちらから友達の輪を広げることばかりを考えていたんだ。けれど今度は違う。友達の方から自分に寄ってくる。みんな、自然と私に集まってくる。その渦の中心に私がいる。本当にあるべき姿ってこっちなんだ。それだけ私に魅力を感じてくれる。私が追いかけるんじゃなくて、みんなが私を追い求めてくれる。そうなるのが本当の私の望み。そうなるためには、まずきちんと周りの人の話を聴かなきゃ。私の要望ばかりを押し付けちゃだめなんだ。
そのことがわかったところで、私は目を開けた。そしてマスターの方を見て、今感じたことを話してみた。
「マスター、素敵なプレゼントをありがとうございます。わたし、気づきました。今までは友達を広げることばかり考えていたけど。逆に惹きつけること、こっちのほうが楽しいし、わたし自身が魅力的になれるんですね」
「そうか、いいところに気づいたね。これからの美喜ちゃんが楽しみだよ」
マスターはにっこり笑ってそう言ってくれた。なんだか自信が持てたな。
「ところで、前の携帯電話は持ってこれるかな?」
隆史さんは私の携帯電話のことを気にしてくれている。あ、こういう言葉が人を惹きつけるんだ。
「はい。今日は予定がないから、これから一度家に戻って取ってきます」
「あ、外は雨が降ってるからオレの車で家まで送るよ」
「隆史さん、途中で美喜さんをナンパしちゃだめだよ」
「マイさん、そんなことしたらカミさんに怒られちゃうよぉ~」
カフェ・シェリーは笑いに包まれた。この喫茶店、なんだかすごく居心地がいいな。優しさだけじゃなく厳しさもある中で、最後は笑いに包まれる。そういう思いやりって、私忘れてた。自分勝手な私はもう卒業しなきゃね。
それから隆史さんに車で家まで送ってもらった。そして壊れた携帯電話を渡す。
「じゃぁ預かっておくから。うまくいくかいかないかわからないけど、やってみるよ」
「ありがとうございます。でも…うまくいかなかったら、私はこれからどうすればいいんですか。どうやって友達と連絡をとれば…」
「大丈夫。カフェ・シェリーで気づいたとおりに行動すれば、むこうから人はやってくるよ。だから今はそのことだけを考えてごらん」
隆史さんの言葉に勇気づけられた。私は「はい」と返事。とはいってみたものの、どうすればいいのか。行くあてもないけど、家にじっとしていたって意味はない。とりあえずもう一度バイト先に行ってみるか。
まだ雨は降り続いている。傘をさしてバイト先に歩いていく。歩き出したときには足取りは重かった。でも、カフェ・シェリーであったことを思い出していたら、いつの間にかスキップをしている私がいた。
うん、話を聴くこと、これが大事なんだよね。そう何度も心に刻みながらバイト先に到着。すると、昨日とは違って店のシャッターが空いていた。でも開店はしていないみたい。誰かいるのかな?
「おはようございまーす」
恐る恐る中に入ってみる。
「あーら、美喜ちゃんじゃない。ごめんねー、急にこんなことになっちゃって」
そこにいたのは社長の奥さん。いつも明るい性格の人で、私はとても大好き。
「こんなことって…?」
「あら、美喜ちゃんには連絡いってなかった? 実はね、このビルのオーナーとちょっともめちゃってね。だって、急に家賃を引き上げるだなんて言い出して。それでてんやわんやしたんだけど、むこうが強攻策をとっちゃってねぇ。で、昨日は急にお店を閉められちゃったのよ。それでねぇ…」
奥さんの話は続く。とにかくおしゃべり好きな人。私は反論もせず、意見も言わず、ただひたすらに奥さんの話を聴いた。ようやくしゃべりつくしたのか、奥さんは最後にこんなことを言ってくれた。
「美喜ちゃん、ありがとね。なんだかスーっとしたわぁ。もうさっきまで腹がたって腹がたってしょうがなかったんよ」
「いえ、とんでもないです。あ、そうそう、私携帯電話を壊しちゃって。新しいのにしたから番号が変わったんですよ」
「あらぁ、それで美喜ちゃんには連絡がつかなかったのね。ごめんねぇ」
そこで早速新しい番号を教えた。さらに奥さんの電話番号もゲットできた。
「じゃぁ、他の人の番号もいるわよね」
ありがたいことに、奥さんはバイトの名簿を持ってきて見せてくれた。これでバイト仲間の電話番号もゲット。
「ありがとうございます」
「明日からなんとか営業再開できそうだから。あ、美喜ちゃん時間ある? もしよかったらみんなに電話で連絡してくれるかな? 店の電話使っていいから」
これは願ってもないチャンス。ついでに私の携帯の件も話しができるし。それについては快く引き受けた。
その作業も一通り終わり、奥さんとさらにおしゃべりをして店を出た。すると、偶然にもボランティアリーダーの和美とバッタリ出会った。
「あ、美喜。ちょうどよかった。今度のボランティアの日程の件だけど」
まだ顔は若干怒っているような感じがする。でもここはまだ自分の言い訳をせず、先に和美の言葉を聴かなきゃ。
和美は日程の件以外にも、今問題になっている話まで始めた。どうやら私が行く予定だった日に、ちょっとしたトラブルが起きたようだ。なんだか話が長引きそう。会話が一呼吸したところで、私はこんな提案をした。
「和美、どうせならそこのマックに行かない? ノドがかわいたでしょ」
「そうね、このまま立ち話もなんだし」
あ、意外にすんなりと提案を受け入れてくれたな。そしてマックに入ってびっくり。
「あれっ、美喜と和美じゃない」
なんとそこにはサチがいるじゃない。
サチも和美のことは知っている。サチの手にはアルバイト情報誌。どうやらまだバイト探しに困っているみたい。
「サチ、この前はごめんね」
まずは素直にこの前のメールを送れなかったことを謝った。
「何かあったの?」
和美が興味深そうに聞いてくる。そこでサチはこの前のことを話しだした。正直、それを聴くのはつらかった。途中で言い訳をしたくなった。でも今は口を挟まずに聴くことに。
「そうそう、美喜は私の電話もとらなかったのよ。ね、どうしてなの?」
和美のその言葉でようやく私の話す番が回ってきた。
「実はね…」
ここでようやく携帯を水に落としたことを話した。
「なんだ、それなら早く言ってくれればよかったのにー」
意外なことに、二人は同じ言葉を私に返してきた。なんだ、ちゃんと私の話を受け入れてくれたじゃない。で、和美とサチの携番とメルアドをゲット。
ここでわかった。今までの私だったら、すぐに自分の言いたいことを言ってしまうので、逆にすぐに反撃にあってしまう。でも、相手の話をちゃんと聴けば、こっちの言うこともちゃんと聴いてくれるんだ。
マックでしばらく和美とサチと話をしていると、突然私の携帯が鳴り出した。しかもそのときにテーブルの上に携帯を置いていたので、サブディスプレイに出てきた名前を二人に見られてしまった。
「加藤隆史って…新しい彼氏?」
「違うわよ。携帯の件でお世話になっている人。あ、もしもし」
「美喜ちゃん、いい知らせだよ。なんとか住所録のデータを取り出すことに成功したから」
「うそーっ、ありがとうございます。助かります~っ」
これは嬉しい知らせ。早速そのことを和美とサチにも報告。
「ついてるじゃない。じゃぁこれで啓太と仲直りできるね」
サチの言葉に私は満面の笑みで大きくうなずいた。そうよね、啓太が私にイライラするのも、私が啓太の話を聴かないからなんだ。今度からは注意をしなきゃ。
私は早速隆史さんの会社に行くことに。そして無事に携帯のデータを新しいのに移し替えることができた。
「美喜ちゃん、早速誰に連絡を取りたい?」
隆史さんの質問の答はこれしかなかった。
「彼氏の啓太に連絡を取ります。そして謝って、一緒に行きたいところがあるって伝えます」
「それはどこ?」
私はにっこり笑ってこう答えた。
「もちろん、カフェ・シェリーです!」
<失われた友たち 完>