三 後生畏るべし(四)
草履を履いて外へ飛び出すと、そこに彼らはいた。
「案内を請うたのではない」
山崎という儒者の声を、春常は初めて聞いた。高くもなく低くもなく中庸を保った声は、切りつけるような厳しい響きを帯びている。初夏の強い日差しの中、男の周りだけが、どこか弓の弦のようにぴんと張り詰めていた。
書肆で目にしたときと同じ黒羽織に二本差しで、普段目にする武家と変わらぬ風に見えた。背は五尺半(一六五センチ)程で、年も背も父とそう変わらないかもしれない。傍らには若い武士が一人立っている。門弟が言っていた、河内守がつけた案内役だろう。緊張した様子で口をつぐんでいる。
山崎は言った。
「先聖殿を拝見したいと申したまで。浮屠と共に先聖先師の前には立てぬ」
先聖とは孔子、先師は孔子の愛弟子である顔回を指す。その他孟子、曾子、子思を祀っており、顔回とあわせて四賢という。
春信は頬を紅潮させて言った。
「叔父は浮屠ではありません」
「しん」
やんわりと、守勝は春信を制した。春信は口をつぐみ、叔父を見上げる。守勝の大人風の顔には、相変わらず淡い笑みが湛えられていた
「山崎どの」
山崎に向き直り、おっとりと言う。
「ご不快の趣は誠にごもっともな事と存ずる。法眼という僧位を授かり、剃髪して僧衣をまとい、浮屠ではないと言うたところで、いや到底通りますまい。儒の存在たるや、今のところ、残念ながらまことに寥々たる有様というより他ございません」
守勝は自分よりまだ背の低い、十五歳の甥の背に軽く触れて言った。
「ですが後生畏るべしと申します。若者の気概を、どうかご寛恕ありたい。これは当家の麒麟児でしてな。まだ十五ですが、いずれこれが必ずや儒臣として確固たる地位を幕府において築いてくれようと、当家では大いに期待しておるところです。―――つね、お前もおいで」
突然に声を掛けられ、春常は思わず「はっ、はい!」と大声を上げてしまった。慌てて二人の元へ駆けつける。
「つね、こちらは山崎どの。ひと月程前に京より下って見えたそうだ。こちらの方は河内守さまのご家中、三井どの」
三井と言われた若い男は黙って目礼する。
山崎はじっと春常を見た。強い眼差しにやや怯みつつ、春常はぺこりと頭を下げる。
「林子和の次男、春常と申します」
子和は父春勝の字である。
守勝は春常の肩にも手を置く。
「春信とは一つ違いになります。この二人がおれば、それも遠いことではありません。わたしは三十五ですが、この目が黒いうちに、きっとそれをこの目で見ることが出来ましょう。山崎どのにも、儒の道の先達として、まだ若いこの子たちに、どうかお力添え頂ければ幸いに思うております」
山崎は無言で春常ら兄弟を見据えている。守勝は柔和な笑みで、春信と春常を順に見た。
「案内して差し上げなさい。書庫や書院もお好きに見て頂くといい」
春信は守勝を仰ぎ、その穏やかな眼差しと視線を交した。小さく頷き、京から来た儒者に向き直る。
「叔父に代わり、春信がご案内いたします」
山崎は自分より背の低い少年たちをじっと見つめる。
「先聖殿を拝見したい」
やや間があって、真面目な口調で言った。鋭い眼差しに、春常は少しばかり身の竦む思いをした。
「はい」
春信は常の落ち着きを取り戻していた。やや緊張しながらもどこか大人びた笑みを浮かべて、京から来たという男の厳しい顔を見つめ返した。
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