三 後生畏るべし(二)
山崎嘉右衛門の名を再び耳にすることになったのは、初めて会った日から二日後の事だった。
その日もよく晴れていて、暑いぐらいの陽気だった。午後の日差しに新緑や赤紫のサツキが映えて、夏の訪れを感じさせた。
春常は兄春信と、父の弟である守勝と共に、上野忍岡の別邸にいた。祖父羅山は三代将軍家光からここ不忍池の東に五千坪余りの土地を賜り、そこに儒者のための学び舎を営んだ。林家の邸と二棟の書庫、それに孔子や顔回らを祀る「先聖殿」がある。先聖殿は尾張どの、徳川義直―――家康公の七男にあたる―――の援助で建てたものだ。当初は邸宅が塾を兼ねていたが、更に数年後、家光公より弟の忠長大納言の没後にその邸を賜ったため、それを先聖殿の傍らの敷地に移築し、学舎として使用するようになっている。
春勝は恐らくこの忍岡の学び舎の整備と門弟の教育に、もっと多くの時間を割きたかったに違いない。勤勉で精力的な春勝は、学び舎の運営にも意欲的だったが、同時に林家の表の顔として、幕府や大名たち相手の対外的な面にも力を尽くさざるを得なかった。それもまた、儒臣としての地位を確かなものにするための務めでもあった。
その春勝が頼りとしたのが、六歳年少の弟、守勝だった。守勝もまた父羅山譲りの驚異的な記憶力と、恐らく父以上の鋭い感性の持ち主で、特に詩文と書の分野では兄を凌ぐと評されていた。頬はふっくらしてそれなりに肉づきもよかったが、幼い頃から病気がちで、肌は抜けるように白く、どこか竹林に隠れ住む賢人といった趣があった。壮年になった今でも、季節の変わり目などにはよく体調を崩して床に就いた。春勝同様に剃髪して法眼位を授かり、儒臣として俸禄を受けてはいたが、ほとんど対外的な務めには携わっていない。肉体的にも精神的にもそういった「お役目」には耐えられなかったのだろう。もの柔らかに人に接するが、怜悧で潔癖で、やや狷介な面もあったが、春常ら甥っ子たちには常に優しく穏やかな叔父だった。
守勝は対外的に多忙な兄をかれなりに助ける意図もあって、定例の講義日以外にも春常ら兄弟を伴ってよくこの「学び舎」に足を運び、門人たちの質問に答えたり、指導に当たったりした。御城に近く、来客も多い神田の本邸に比べると閑静なこの地が、隠逸好みの守勝にとっては居心地もよかったのだろう。
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