二 上方の儒者(四)
店を出てから、春勝はしばらく無言だった。視線を落とし、初夏の日差しが落とす濃い影を踏みながら歩いていたが、ややあって呟くように言った。
「『来たり学ぶを聞けども、往きて教うるを聞かず』」
春信は父を見上げた。
「「曲禮」ですね」
春勝が口にしたのは、儒学の経典「五経」の一つである『礼記』中の「曲禮」の一節だ。
短い沈黙があって、父は小さく嘆息したようだった。
「往きて教うるを聞かず―――とは、上方者の気概というより、儒者の気概だな」
春勝は天を仰ぐ。
「さすが河内守さま、そこを見込まれたか」
好学の大名として知られる井上が、酒井雅楽―――十八歳年少で家格の優る忠清を嫌うのも、忠清が学問よりも芸者遊びを好む風流人で、その軽薄さが我慢ならないからだとも囁かれていた。
「父上には公のお勤めがあります」
春信が言った。
「多くの方から求められて、広く幕閣や御武家様方の諮問に預かる御身です。野の学者と同じ立場ではありません」
息子の熱のこもった物言いに、ふっと父の頬が緩んだ。
「求められて―――か。そうかな」
「そうです」
きっぱりとした口調に、春勝は苦笑し、また視線を天に投げた。
「我は―――賣を待つ者なり」
わたしは、良い買い手を―――仕えるに足る方を待っている。
春勝はそう言って、息子の肩に手を置く。春常は書を抱えたまま、黙ってその後に随って歩いた。
※
林春常は、後に信篤と名乗り、鳳岡と号する。
林羅山が徳川家康に仕えて以来、羅山、鵞峰と続いた幕府の儒臣、林家三代目として、後に幕府の任命による初めての「大学頭」となり、徳川時代の「官学」を主導することになる。
そのかれが、少年の日に出会ったその儒者は、奇しくも父春勝と同じく元和四年、場所も同じ京の地で生まれた。
山崎嘉右衛門、号を闇斎。
初夏のまばゆい日差しが地に落とす影のような、くっきりと鮮やかな姿であった。