二 上方の儒者(三)
井上と武士たちが店を出て行き、吉村がそれに続いた。男は見送りに加わる様子もなく、また春常らに挨拶をしようともしない。目礼一つせず、そのまま踵を返し奥へ戻ってしまった。
吉村が戻ってきた。
「あら。奥戻ってしまわはったんか」
「あれはどなたです」
春勝が尋ねた。
「先月京から下って見えた山崎先生ゆう学者はんです。せっかくやしご紹介をと思うたんですけど。―――誰か声掛けてきてんか」
店主の言葉に、小僧が一人奥へ入った。
「学者。何をなさっておいでです」
「儒学とお聞きしてますので」
「旦那さま」
呼びに行った小僧が戻ってきて、困った様子で言った。
「どないした」
「「ふと」とは話したくないと」
さっと、父の顔色が変わった。春信も驚いた様子で目をみはり、ついで唇を噛んだ。
「浮屠」とは僧侶のことで、仏陀の音訳ともいわれる。
春常は憤るというよりは、どちらかというと予想外の事に呆然としていた。儒者でありながら僧形を取っている事に対し批判の声があると、聞いたことぐらいはある。だがここまで直截に、その事実を突きつけられたことはなかった。
まして父春勝は、幕府に仕える儒者の中で最も高い地位にある。祖父羅山と父春勝は、「偉い儒者」なのだと信じていたし、その春勝と会えるといえば、儒者であれば喜ぶはずだと思っていたのだ。
小僧は「ふと」という言葉が判らなかったらしく、困惑顔をしている。吉村は「もうええ。仕事戻り」と言って小僧を遠ざけ、苦笑する。
「いやどうもご無礼しました。本店からの指示でお世話させてもろうてるんですけど、何とも気ぃのきついお人で」
「父は僧ではありません」
春信が訴えるように言った。吉村は困った様子で頭をかく。奥を憚るように、小声で言った。
「そらもう、江戸のもんは皆よう判ってます。せやけど、あの先生は先月京から来られたばかりですよって、その辺りの事情もまだようご存じあらへん。しかも京は江戸と違うてお公家さんと職人町人の町ですやろ。お武家さまにもあの調子ですわ。城持ちのお武家さまから是非儒学を講じて欲しい言われて、普通やったらすぐ出かけて行くところですやんか。それを、「教えに来いという礼はない」やら言わはって、店のもん皆こら手に負えんってなって」
ちらりと奥を見やり、吉村はそれでも少し愉快そうに言った。
「まあ上方もんの気概と気位とでも言いましょうか。わたしもあないな方久しぶりに見た気がしますわ。河内守さまもああいうお人柄ですから、それがかえって面白う思われたんかもしれませんな」
春勝は話を聞き終わると、取り寄せた書を春常に持たせ、礼を言って言葉少なに店を後にした。
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