一 日本橋
明暦四年(一六五八年)、孟夏四月。
「生まれながらの将軍」と自らを誇った徳川家光が没し、長男家綱が十歳で将軍位に就いて早七年。家光の祖父で、神君と称えられる家康公によって天下の政治の中心となったここ江戸では、戦乱の記憶も既に昔語りとなりつつある。
初夏の強い日差しが降り注ぐ江戸日本橋は、今日も大変な喧噪の中にあった。
江戸と地方を結ぶ五街道の起点であり、種々の店が軒を並べるこの辺りは、普段から往来が絶えない賑やかな通りである。だが昨年一月には振袖火事と呼ばれる大火が一切を焼き尽くし、更に今年初めにも本郷から燃え広がった炎で多くの建物が灰燼に帰した。
三つきが過ぎた今、方々から普請の槌音と職人の怒鳴り声が響く一方で、商いを再開した店を目当てに町人たちも集まりはじめている日本橋は、恐らく江戸の中でも最も騒々しい場所の一つであっただろう。
その雑踏の中を、立派な設えの輿がゆっくりと進んでいく。往来する人々はそれに気づくと、多くが足を止め、邪魔にならぬよう道端に寄って、興味深げにそちらを眺めた。
林春勝も商家の店先に寄って立ち止まり、輿の方を見やった。かれに随っていた二人の少年もそれに倣う。二人は春勝の息子で、十五歳、十四歳の年子だ。兄を春信、弟は春常といった。
春勝は剃髪し、僧衣をまとっているが、役目は幕府に仕える儒者である。羅山と号した父が一年前に七十五歳で亡くなり、四十歳でその後を継いだ。父がその号の由来とした中華の羅浮山の峰の名から取り、鵞峰と号する。幕府は医師、絵師などの職業人を召し抱える際には基本的には「法橋」「法印」といった僧位を与え、僧に準じて遇することが慣例で、春勝は「法印」に次ぐ「法眼」という地位にある。
「河内守さま」
向かってくる輿を見つめ、春勝は小さく呟く。
「井上さまの輿ですか」
兄の春信が尋ねた。息子の問いに、春勝は軽く頷いて応えた。
兄弟は一歳違いだが、兄は年よりも大人びていて、弟はやや幼さが残るため、二,三歳は離れて見える。春信はすらりとして色が白く、弟は兄よりも少し背が低く、少年らしいふっくらとした頬をしていた。
三人は道の端に立ち、輿が目の前を通り過ぎてゆくのを待った。
河内守は井上正利という男で、常陸国笠間五万石を領する譜代の大名だ。現在五十四歳。幕府では長く奏者番を務め、幕閣の信頼も篤い。近く寺社奉行に就任することが内定しているという話である。
奏者番といえば将軍と大名の取り次ぎをする役目である。時には大名たちに謁見や下賜品受領の際の礼式の指導もするというので、随分と格式張った役回りではあったが、井上当人はといえば、城から退出する際に輿丁が待っていなかったので、そのまま平気で歩いて帰ったという気取らない人柄で知られている。
そして飾らず気取らない人柄のかれは、かつて奏者番の同僚であり、今は老中首座の地位にある十八歳年少の酒井忠清を嫌って一切近づかず、忠清の雅楽頭の官職にかけて、「井上さまは、雅楽に合わない下手三味線」と世人に揶揄されても平然と嫌い続けるという人物でもあった。
輿はゆるゆると進み、一軒の書肆の前で止まった。輿の傍らに付き従っていた武士が戸を引き、井上の長身が姿を現した。
店の奥から慌てた様子で店主―――吉村という男で、仕事柄大量の書を扱う春勝にとっては見知った顔だった―――が出てきて、平身低頭というていで頭を下げた。やがて店主の案内で、井上の姿は店の中に消えた。
偶然にもそこは、三人が向かおうとしていた店であった。
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