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「ただいま! お父様!」

 ソフィアは声を弾ませながらそう言った。

 私、どんな対応をとるのが正解なんだろう。皆のいる前だし、ぶりっ子で馬鹿な女を演じなくてはならないのは重々承知しているが、親の前でやるとなればまた別だ。私の精神力よ、耐えてくれ。羞恥心よ、消えてくれ。

「ただいまぁ~!! お父様ッ! とぉ~っても寂しかったですぅ」

 ああ、死んだ。私はそう悟った。私の自称スイートボイスに父は固まった。頭のおかしな奴だと思われているに違いない。周りのみんなは私達の様子をじっと見ている。なんだこの時間は……。

 こっちは心臓を破裂寸前でやっているんだ。誰かこの勇気を称えて欲しい。

「……リル? どうかしたのか?」

 真顔で聞かないで下さい、父上殿。穴があったら入りたいなんて状況じゃない。手で土を掘ってでもいいから穴を作って入りたい。

「どうしたって何がですかぁ~?」

 私はいつものように少し唇を突き出して首を傾げた。

「なんか変だぞ」

 でしょうね。なんかっていうか全てが変なんですけどね。

 無心になろう。これ以上突っ込まれたら流石に打つ手なしだ。こういう時におすすめなのが円周率だ。3.14159265358979323846……。

「ソフィア、リルは一体どうしたんだ?」

「私もよく分からないのですが、前より元気があって良いじゃないですか」

「まぁ、元気があるのはいいことだが……、ちょっと違うような」

 円周率の五百三十二億千七百六十八万千七百四桁目は01234567890って並ぶんだよね。数百億桁目でこんな素晴らしい発見があるなんて数学はやはり面白い。

「とりあえず、二人とも無事に帰って来て良かった。黙って行ったから心配していたんだぞ」 

 心配? ぱい、π? 円周率の記号をπってレオンハルト・オイラーの著作によって用いられるようになったんだよね? オイラーは一言で表せないほど偉大な数学者だ。彼の業績を知れば知るほど自分が惨めになる。

「ごめんなさい」

「まぁ、皆が一緒だと聞いていたから安心はしていたがな。今度から私にちゃんと言うんだ。リルも分かったか?」

 解析学、数論、幾何学、その他諸々……。まず彼の論文が五万ページを超えているところで超人であることが分かる。ああ、一度でいいから会ってみたい。

「リル?」

 父の私の顔を覗き込んだ。

「はい?」

「私の話を聞いていたか?」

 ……聞いてなかった。オイラーの素晴らしさについて考えていたらまた意識が飛んで行っていた。この癖をどうにかしないといけないと分かっていたも簡単に治るようなものでもない。

「て、てへぺろりんッ!」

 私はそう言って、自分で軽く頭をコツンッと叩いた。

「ちょっと宇宙人と交信しちゃってたよぉ~」

 これじゃあ、馬鹿というより頭のおかしな奴だ。私は言ってから後悔した。うん、普通に私は馬鹿なのかもしれない。後の祭り、覆水盆に返らず、後悔先に立たず。

「リル、調子悪いみたいなんで寝かせてきます」

 その言葉と同時に私はふわりと浮遊感を覚えた。

「え? 何?」

 気付けば私はニースに片手で持ち上げられていた。ニースの肩に乗っけられているという表現が合っているのか分からないが、そんな感じに持ち上げられた。

 ……何これ? 状況把握はできているんだけど、どうしてこうなったのか理解が追い付かない。

「行くぞ」

 行くぞって、私の部屋に? 確かに疲れているし、お父様の会話から逃げれるから好都合……、私を助けるため? ニースは私のことをどう思っているのだろう。このままじゃソフィアに誤解されるけど良いのかな。皆目を丸くして私達を見ている。私のぶりっ子演技にもほとんど動じなかったソフィアでさえ驚いている。

「なんか私、物凄くニースに助けてもらっている気がする」

 私はニースの耳元で小さく呟いた。

「そういう主従関係だからな」

 ああ、そういうことか。主従関係なんだった、私達。ニースは騎士として人望あるリーダーになれるだろうな、私はそんなことをぼんやりと考えた。

 ニースに抱きかかえられながらなんだか眠くなってきた。この体勢で寝るのは流石にまずい。視界が段々狭くなってくる。私、相当疲れていたのかな。なんだかニースといると安心する。

「ニース、私、……強くなりたいな」

 心で思っていることなのか、口に出して言っていることなのか、寝ぼけていて分からなくなっている。

 けど、ニースが何にも答えないってことは私がただ心の中で思っていることだろう。

「マリアが大切にしてた、あの、軋んだボロボロの床……、あんまり上手くなかったけど、家族四人の手の繋いだ幸せそうな絵が描かれていたんだ……、多分、あれレイナが描いたんだよ、それをマリアは……、魔法で消えないようにしてたんだよ」

 マリアが床を取り替えなかったのはレイナの形見を残しておきたかったのか、あの絵のような家族になりたかったのか、それとも、あそこに表われていたレイナからの家族への愛を感じておきたかったのか。

「見捨てたら後悔するって……、分かってたのに。その判断しか出来なかった自分が、弱くて、嫌いだよ」

 私はそのまま瞼を閉じて眠りについた。


 ニースはリルの部屋までリルを運び、彼女をそっとベッドの上に寝かせた。彼女の髪を優しい手つきでそっと撫でる。彼はリルを愛おしそうに見つめた。

「俺も、リルを守れるように、リルの守りたいものも守れるように、もっと強くなりたい」

 静寂の中にリルの寝息だけが静かに響いている。ニースは暫くリルを見守った後、独り言のように言葉を発した。

「リルが生まれて、今を共に生きれていることが幸せだ。……誕生日おめでとう」

 最後の言葉と同時にニースはリルの額にそっと優しい口づけをした。そして、音を立てないようにそっとニースはリルの部屋から立ち去った。

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