キリギリスとアリ
この世に生れ落ちた瞬間から、彼は一人ぼっちだった。
彼が目を開けたときには、すでに両親は他界していた。
先に生まれた兄たちは、すでにこの場にはいなかった。
彼は、生まれたその日から、一人で生きていかなければならなかった。
家も身寄りもなく、頼れるものは自分だけだった。
幼いながらも、彼は懸命に生きた。
精一杯働いても、口に糊するのがやっとの生活だった。
彼はひたすらに、飢えに耐え、寒さに耐え、孤独に耐えた。
あるとき、寒さに震える彼の目に、一軒の家が飛び込んできた。
大所帯のその家には、彼が夢に描いたあたたかな団欒の風景がうつっていた。
子供たちは、優しい母親と兄たちにかこまれて、幸せそうに眠っていた。
彼にはその様が、無性に癪に障った。
奴らはただ生きているだけで飯にありつける。
ただ生まれただけで寒さをしのぐ場所が与えられたのだ。
彼には、暖かなその家が、無性に癪に障った。
◇
貧しい幼年期を過ごした彼も、いつしか青年になっていた。
生活も、少しはましになった。
そして彼は、恋をした。
甘美な恋愛の蜜におぼれていった。
毎日が、幸せだった。
この世に生まれおちてよりこのかた、ずっとつきまとっていた不幸の影からついに彼は逃れたのだ。
まさに彼は、この世の春を謳歌していた。
・・・・ただ、不幸を経験しない者からは、ただ浮かれて遊びほうけるだけの道楽者に見えたことだろう。
多くの者らは言った。ただ遊んでいるだけでは幸せにはなれない。働かざるものに救いはない・・・・と。
ただ遊び呆けるだけの若者に、労働の大切さなど分かろうはずがない、と。
しかし、多くの者らは知らない。彼が、このときを迎えるためにどれだけの辛苦をなめてきたか。
生まれたときから身よりもなく、家もなく、自分一人で生きてきた彼の苦労を、
ただ生きているだけで飯が食えた幼年期を過ごしたものに、分かろうはずがない。
不幸のどん底にいながら、それでもなお幸せを願い、あがき続けた彼が、生涯で始めてであった幸せに溺れるのを、一体誰が笑えようか。
生涯で初めて孤独から開放された彼を、一体誰が誹謗できるのか。
誰にも、彼を笑う資格などありはしない。
けれどそんなこととは無関係に、彼は嘲られ、そしてその末に、死んだ。
多くの者は言った。遊び呆けるだけでは、生きてはいけないと。
真面目に生きてこそ、幸せはつかめるのだと。
けれど、彼はその人生の最後まで、幸せであっただろう。
彼は幸せにつつまれて死んでいったのだ。
その彼の生き様を、一体だれが笑うことができようか。