1932年5月8日(日) 荒川沖駅にて
帝都で転勤に絡んだ挨拶周りをすませた後、千早は取り急ぎ霞ヶ浦へと足を運んだ。
常磐線荒川沖駅を降りると、早速遠くから小気味良いレシプロ音が聞こえてくる。
千早は土浦行きのバスを待ちながら、筑波山の良く映える青い空を見上げた。
ここ霞ヶ浦は、この国の航空士にとってはまさに第二の故郷、聖地とでも呼ぶべき場所である。
国内三番目の水量を誇る湖には、常に下駄ばきの水上機が浮かんでおり、湖を埋め立てて整備された陸上飛行場では、未来を嘱望される若手航空士たちがその技量を競い合っている。
千早も1年と少し前まではこの地で修練を重ねていたのだ。
太平洋の潮気よりも、葦やマコモの匂い立つ、真水と海水が混じり合った霞ヶ浦の潮気の方が肌に合う。
だからこそ、ここでの出会いは必然的に千早にとって懐かしいものとなった。
「おう、宮本っ!」
兄貴節をきかせた声色に、千早は思わず仰天する。
振り向いたその先では、白い歯のよく目立つ快活な笑顔を浮かべた青年がこちらへ向かって手を振っていた。
そのがっしりとした体つきに、太陽みたいな面相には見覚えがある。
彼は航空母艦"加賀"戦闘機隊長、生田乃木次海軍中尉。
先の上海事変において、千早と共に空を駆けた戦友であった。
「生田さんじゃないですかっ。どうして霞ヶ浦に? "加賀"を降りたのですか?」
今日は日曜であったが、生田は非番にしてもおかしな格好をしていた。ランニングシャツに、カーキ色の短パンをだらしなく着こなしている様は、上官が見ていれば"修正"物の不調法である。
「あー、それはなあ……」
千早の問いに対して、生田は答えづらそうな様子で頬をポリポリと掻く。
「まあ、もうちょい待て。黒岩が来てからにしよう」
「黒岩さんも一緒なんですか」
「ほれ、あそこ。見てみぃ」
生田が指さすその先には、やはり涼しげな格好で線路沿いの小道をランニングする“加賀”戦闘機隊員、黒岩利夫三空曹の姿があった。
「ちょいとこの辺りを走っていたんだ」
凛々しい眉毛や"への字"の口元をきりりとさせながら、黒岩は規則正しいリズムで軽やかなストライドをとっている。
彼はこちらに気づいたようで、ぺこりと会釈しながら駆け寄ってきた。
「少尉お久しぶりです」
「もう予備役ですよ。こちらこそお久しぶりです。黒岩さん」
敬礼に敬礼で返すと、"への字"の角度がさらに鋭くなった。
「下士官に敬語はやめてください。やりづらくってかなわない」
「航空士は階級より、空を飛んだ時間が大事でしょう」
「少尉」
ギロリと睨まれる。
黒岩は頑固一徹なところがあり、持論が通らないと上官にも歯向かう負けん気の強さがあった。
千早は自分が全くもって悪いとは思わなかったが、先輩の面目を立てる意味で、その忠告を受け入れることにした。
「……あー、分かった。悪く思わんでくれ、黒岩さん」
「"さん"も要らんのですが、まあ良いでしょう。下士官にとって、腰が低く聞きわけの良い上官というのは逆に面倒くさいもんなんです。少しくらいふんぞり返ってもらっていた方が過ごしやすいんですよ。線引きができますからね」
ふんぞり返りながら、そんなことを言う。
千早が生田に目配せすると、彼は苦笑いを浮かべて「すまん」と手刀を切った。
どうやら、"加賀"では日常茶飯事らしい。
場を取りつくろうように、生田がコホンと咳払いした。
「まあ、あれだ。実はな。先日海軍に辞表を出してきたんだ。それで今日は黒岩に挨拶をと思って、飛行場に来たんだよ。こいつ、今やここの訓練教官だからさ」
「えっ」
千早は耳を疑った。
目の前の二人は、2月の上海事変においてロバート・ショートを撃墜した英雄であり、生田に至っては英雄譚の主人公である。
そのことは新聞に取り上げられ、今や国民的な人気者になっているのだ。面目を気にする海軍が絶対に手放すはずがないではないか。
「海軍が認めんでしょう。そんなの」
「ウヌ。そう言われてもなあ。やむにやまれぬ事情なんだよ……」
ばつが悪そうに語る生田を、黒岩が呆れた顔で見ている。
「芸者がらみですよ、少尉」
「ちょ、おまっ」
制止の声など何処吹く風で、黒岩は続ける。
「この人、たまたま芸者遊びで入れ込んだ芸者と婚約までしちまいやがってですね。それを軍に反対されて、辞表叩きつけたんですよ。馬鹿でしょう? 少尉も叱ってやってくださいよ」
「はあ……」
確かに何ともいえない間の抜けた話であった。
海軍士官と芸者遊びは切っても切り離せない関係にある。
その背景には軍が士官の無節操を固く禁じ、「素人よりは玄人で遊べ」と芸者遊びを奨励していたことがあるのだが、
「遊びで本気になってどうすんですか」
黒岩の言う通り、遊びは遊びでしかないのである。
生田はつまらなそうに舌打ちして、黒岩を睨みつけた。
「だから、やむにやまれぬ事情があるって言ってるだろうが」
「まさか……。孕ませちまったからとか言いませんよね」
「清い関係だ馬鹿野郎!」
大声で怒鳴った後、生田は諦めたように事情を説明し始めた。
「宮本は知っていると思うが、東京に喫茶店があったろう。飛行学生時代に通った奴だ」
「ああ、非番の上陸時に通い詰めたところの……。って、看板娘のいーちゃんですか」
言って、千早は思い出した。
確か、モダンファッションに身を包んだ笑顔の明るい看板娘であったはずだ。
「そう。いーちゃん。あの娘、福井の生まれでな。同郷なんだよ。親への仕送りのために上京してたんだが、いよいよ不景気でやばくなったらしくてな。気づいた時にゃ、枕営業までしようって状況にまで追いつめられてたんだよ。それで、何とか助けてやりたくてなあ……」
「それで婚約って、軽く決めていいもんじゃないでしょう。同情で結婚なんてどうかと思いますけど」
「いやあ、その。いーちゃんなら、いいかなあと思ってなあ……」
と生田は顔を赤くして言い淀む。
本人がべた惚れなのは一目瞭然であった。
「てか、芸者じゃないじゃないですか」
「知らん。市井の女子を口説くのは厳禁だって叱られて。芸者ってことになった」
「んな馬鹿な」
「まあそう言うわけでな。いーちゃんを助けるために、軍へ三くだり半を突き付けてやったのよ。こうなりゃあ、魚屋だろうが漁師だろうが、何だってやってやる。やるぞお前。俺はやるぞ」
ぐっと拳を握って決意を固める生田を呆れ眼で見ていると、ふと黒岩から視線を感じた。
「どうすんだよ、こいつ……」と言わんばかりの目をしていた。
「そういや、お前だって軍を辞めたんだろ? どうすんだよ、これから。俺と一緒に新しい仕事でも始めるか? "鳳翔"の所さんにもお前の便宜を図ってくれって頼まれていたからなあ。俺にできることなら、何だってやってやるぞ」
「そりゃあ、隊長としてのアンタに頼んだんでしょうが。無職に頼むことなんざありませんよ」
「む、無職って言うなよ!」
二人のやりとりに千早は目を丸くする。
「所って、茂八隊長ですか」
「そうそう。その茂八郎さんよ。呉鎮で上陸してた時に、隊員連れて一升瓶もって挨拶に来てな。『うちの千早がマズイことになっている。何とかしてやりたいんで、知恵を貸してくれ』って頭を下げてきたんだよ。俺としても、そこまで言われちゃ何とかしてやりたいなあと思って、あちらこちらに声はかけたんだけどさ」
「そうですか」
今の気持ちを上手く言葉にできる自信がなかった。
千早が所属していた"鳳翔"航空隊の面々が次々と浮かんでは、胸の内に暖かい物を残してくれる。
戦友の絆はかくも深いものなのかと、千早は溢れ出る感動を抑えきれなかった。
「茂八隊長に伝えてもらえませんか。俺、半官半民の海上護衛組織に配属されることになったんです。海軍から離れちゃいますけど、海には出られますから。心配しないでくださいって伝えて欲しいんです」
「へ、何時そんなんできたんだよ。統帥権はどうなってる」
「陛下の勅令ですよ。谷口提督からお声かかりました。まだ仕事内容は決まってませんけど、多分商船を護衛することになるんじゃないかなって思います」
本当は直接勅せられたのだが、国家元首と面会したというのはみだりに口外すべきではない。
千早は設立の経緯をあいまいにぼかして、生田と黒岩に伝えた。
「はぁー。自分たちで稼いだ金で護衛部隊を作るってのか。チャレンジャーだなあ」
「艦一隻、900万はするはずでしょう。商船を護衛するってんなら、数を揃えなきゃなりません。そんな稼げるもんですかね」
感嘆と懐疑、色違いの声があがったものの、二人の声には共通して少なからぬ興味が入り混じっていた。
生田は、しばらく云々唸った後、
「良し決めた。俺を雇ってくれ!」
とんでもないことを言い出した。
「いや、マズイでしょう。生田さんは英雄です。そもそも出したっていう辞表だって受理されるかも分からない。そんな中で生田さん雇ったりなんかしたら、不当な引き抜きだって軍に恨まれますよ」
「そんなもんかね」
「そんなものです」
得心のいってない様子で、生田は首を傾げていた。
「なら、俺が軍から追い出されたら雇ってくれるか?」
「後腐れがないんなら、雇わない理由はないでしょうね」
英雄を追い出すはずはないと半ば確信しながら、千早はぞんざいに返す。
「おう、分かった」
急に聞きわけの良くなった生田に不気味さを覚えながら、千早は今後のことを考えないことにした。
正直、今はもっと大事なことがあるのだ。
「そろそろお暇させていただきますね。ちょっと行くところがあるんで……」
「おう。これから呑みに誘おうかと思ったんだが、忙しいならしょうがないな。何処へ行くんだ?」
「56期の……。古賀清志中尉のところです」
千早は、自らの声が固くならないよう極力意識しながら、静かに答えた。
1932年5月13日 土浦町にて
土浦の独身者向けの下宿寮に辿りついた千早は、寮母に古賀の名を告げる。
しばしして、ざんばら髪に青白い顔で現れた古賀清志は警戒心をむき出しにしたまま、千早を自室へ招き入れた。
「散らかっていますが」
乱雑に置かれた書物を押し除け、二人が座れる空間を作る。
整理整頓のなっていない部屋であった。
「お茶、出しますね」
「急の来訪だ。必要ない」
千早は古賀と相対して正座する。
しばしの沈黙の後、古賀が口を開いた。
「小官の居場所は、石岡から聞いたのですか?」
「いや、探した。秘密にしていることでもないだろう。石岡君とは大した話をしていない」
「探した、と」
古賀の眉がピクリと跳ね上がった。
俯き気味に睨みあげてくるそのまなざしは、まるでこちらの腹の内を、何から何まで見透かさんとしているかのようであった。
千早は大きく息を吐き、要件を告げる。
「今日、貴様の所へ参ったのは他でもない。貴様らがやろうとしていることについてだ」
途端、警戒ではない――。明確な殺気が、千早の肌をひどく突き刺す。
千早は内心、嘆息した。
自分の後輩がテロリズムに加担しているという事実を、理解はできても納得できなかったのだ。
「……何のことやら、分かりかねますが」
「俺と、貴様の間柄で話しているんだ。腹の探り合いは要らん。今の俺は寸鉄すら身に帯びておらんぞ」
古賀は中尉。千早は予備役少尉。
本来なら敬語を使うべき相手に対して、あくまでも対等の立場で話しているのは兵学校で築き上げた縁ゆえだ。
じっと古賀の目を見ながら、千早は「腹を割れ」と、そう言った。
対する古賀は目を逸らそうとしないまま、無言で返す。
自分のやっていることに疾しいことなど何もないと、彼の表情が語っていた。
「単刀直入に言う。貴様らの企みは上の知るところとなっている。5月15日の暗殺計画。牧野内大臣も犬養首相も、西園寺翁も、幣原元外相も……。どの標的も暗殺することはできん」
殺気が弱まった。
困惑の相をしている。
「……解せません。仮に小官に凶行の疑いがかかっているとして、何故宮本さんがここに来たのかと」
「……だよなあ。そこが説明のしづらいところだ。ありていに言えば逮捕を待ってもらっているんだよ」
「貴方が説得するから、と? 貴方にそんな権限があるはずは……。いや――」
千早は静かに頷いた。
古賀は千早から目を離さずに、じっと睨みながらも何かを考え続けている。
やがて、疲れたように息を吐き、
「伺いましょう。貴方は兵学校時代から口八丁で他人を煙に巻く人ではなかった。どんな説得をなさるのか、興味があります」
「ありがとう」
深く頭を下げる。
「……やめてください。あくまでも聞くだけなのですから。我々の意志は固い。心変わりを期待しているのなら、無駄ですよ」
「それでも、こうして向き合ってくれたことだけでもありがたいんだ。礼を言わせてくれ」
頭を上げずにさらに続けると、険呑な空気を終始発していた古賀から初めて笑い声が漏れた。
「ほんと、相変わらずです。宮本1号生徒は」
「おう」
顔を上げ、まだ兵学校の先輩と後輩であった頃に戻る。
和解の目はありそうだ。
いや、絶対あるに違いない。
目の前の人物は、未来からもたらされたテクストにおいて、昭和の普通選挙法実施より続く、憲政の常道を破壊したテロリストとして紹介されていた。
だが、悪人ではない。
同じ学校で3年余りも付き合ってきたのだ。その人となりはよく分かっている。
ただ、国難を見過ごすことのできず、足掻いた結果がテロであったのだ。
まだ引き返せる。絶対に。
千早は彼ら、青年将校の良心をひたすらに信じていた。
「貴様らの主張は、党利党略に終始し民を顧みることのない政治家を駆逐し、私腹を肥やす君側の奸を排除し、陛下の御親政によってこの国を立て直そうとしている……、と。俺の理解に間違いはないか?」
「はい。……むしろ驚きました。ここまで情報が筒抜けだったとは。これは先ほどの計画がばれているという主張も、あながちハッタリではなさそうだ」
4月の東宮御所における会談において、当然のことながら今後起こりうる事件――。手近なところで五一五事件への対応についてもどうすべきかと取り沙汰された。
五一五事件とは1932年5月15日に起きた、時の首相犬養毅を暗殺したテロ事件である。
この事件をきっかけに政党政治は終わりを告げ、後の二二六事件という史上最悪のクーデター事件へと繋がっていき、軍部の独裁が始まるのだとテクストは記す。
テクストを読んだ竹山様は、彼ら青年将校の主張を「許さざるべきファシズムである」と怒りをもって断じられた。
牧野は「後先を考えぬ愚行」と鼻で笑った。
要は「救民をお題目に掲げながら、軍閥政治を目指す言行不一致」と民の側から嫌悪をあらわにした。
谷口は「軍が事件を未然に抑えられなかったことは、はなはだ不始末」と嘆いた。
未来を知る彼らは、目の前の青年将校をよく知らない。
歴史の高みから俯瞰すると、ただの狂人として映ってしまうのだ。
「民のための御維新だと誓って言えるか?」
「天地神明に誓って」
古賀は少しも揺らぎのない声色で言った。
歪んではいるものの、澱んではいない。千早は確信する。
「ならば、陛下の御親政がはじまって世の中はどうなる」
「貧困にあえいだ民にも目を向けられるようになり、皆が幸せになります」
「具体的には、どうやって」
「それを沙汰するのは陛下の統治大権を犯すことになりましょう」
「ならば、政治はすべて陛下お一人に丸投げか」
「不敬でしょう!」
古賀が激高するも、千早がそれを手で制する。
「つまり、陛下が何処の誰ぞに救民を命じたとして、それが為されることに文句はないわけだな?」
「当たり前です。陛下の為さることに間違いはありません」
「その結果として、貴様らの努力は無駄になってもか?」
「どういうことですか」
詰め寄る古賀に、千早が答える。
「陛下が先月、新たな救民・護民のための組織を設立なさったのだ。皇室予算を用いてな。谷口海軍大将と俺は勅命により、そこで働くことになっている」
「そんなものが……。いや、待ってください。谷口、ですか?」
「大将か提督をつけろ、馬鹿もん」
「そんな! "条約派"ですよ!?」
金切り声が部屋に響いた。
「軍縮条約は民政党が党利党略の結果、無理矢理に軍力を削った結果でしょう! 民政党の犬に勅命が下るわけがないっ!」
「陛下がまだ摂政宮であらせられた頃、欧州大戦の跡を見学し、原敬首相にご感想賜っただろう。『いよいよ世界平和の切要なるを感じた』と。貴様は陛下の御維新を望んでおきながら、陛下の御言葉も覚えていないのか」
「ぐ、軍縮をせずとも平和は実現できます! 軍縮なんて陛下は望んでおられない!」
自分に言い聞かせるようにして古賀は叫ぶ。
まるで自分の殻に閉じこもろうとする雛のようだと、千早は思った。
「望んでおられたら?」
「だとすれば、そんな――」
「口さがない者どものように、陛下の禅譲を願うか? 『自分たちの言うことを聞かない天皇の首をすげ変える』と」
「このっ、不敬だろうが!」
古賀はその場で立ち上がり、肩を大きく震わせた。
ぜいぜいと荒い息をつきながら、こちらを睨んで歯ぎしりをしている。
千早は正座の姿勢を解かぬまま、こんこんと古賀に説き続けた。
「ともかく、陛下が直接『軍縮条約はいかん』などと仰せになったことはない。陛下なりの思し召しがあり、軍縮をお認めになられたのだ。それ以上は軍人が口を出すものではない」
「ならば、切り捨てられる軍人たちはどうなりますか!」
千早には、古賀がやけのやけっぱちになっているよう見受けられた。
思うに、彼ら青年将校は不貞腐れてしまったのだ。
将来を嘱望され軍の出世街道を進んだはいいが、世論は軍縮へと傾きつつあり、実際にロンドン海軍軍縮条約が成立してしまう。
軍人であるだけで後ろ指さされる時代が来てしまった。
元来士官になるような人間は、優秀なものが多勢を占めている。
親や恩師の言うことをよく聞き、良く課題をこなし、期待に応えてきたような人間ばかりなのだ。
それなのに、急に梯子を外されてしまったら?
――自分たちは国にため民のために軍人となったのだ。
――後ろ指さされるいわれはない。
――誰が悪い。政治が悪い。
こうして、愛国心と拗ねた心がごっちゃになり、テロリズムへと走ってしまったのだろう。
だから、千早は彼らに手を差し伸べたいと思うのだ。
「俺と来い。古賀」
古賀は一瞬何を言われたのか分からないといった風に、口をぽかんと開けていた。
「俺も陛下から勅命を受けた以上、骨身を惜しまず働こうと思う。だが、新造の組織だ。士官が足りん。政治家相手の世直しごっこなんぞに現を抜かすのでなく、もっと救民のためにも具体的に働け。貴様も、その仲間も。やる気があるなら働ける場所はあるんだよ」
「お、俺は……」
「新しくできる護民組織は、陛下にも、臣民にもきっと必要とされる組織だぞ」
両の拳を握りしめて、古賀は小さく震えている。その様は、まるで子供が泣いているように見えた。
千早は彼をじっと見上げたまま、
「な、維新がやりたいんだろう? 良いことだ。大いにやろうじゃないか。ただ、テロリズムは抜きでだ」
兵学校の先輩であった頃の笑顔を、古賀に向ける。
古賀の答えが返ってくるまで、千早はじっと待つことにした。
「……宮本さん」
「おう」
「……誘っていただいて、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……ですが、俺はいけません」
「何でだ」
千早は片足で立ち上がる、問う。
「血盟団は俺だけの意思で動いているわけじゃないからです。仲間たちへの義理も誓いもある。だから、仲間たちが応じない限り、行けません」
「一緒に説得してやる」
「いいえ、自分でやります。宮本さん。自分たちでまいた種は自分たちで何とかします。5月15日の計画はなかったものにして見せますよ。それで、皆の意見が固まったら――」
古賀元2号生徒は、晴れやかな表情をしていた。
「どうか、御維新の仲間に入れてください」
「……分かった」
大の男にこうまで言わせては、千早も引き下がるより他にない。
彼の奮闘に期待するものとして、千早は下宿寮を後にした。
その3日後――。
古賀の宣言通り、五一五事件が起こらなかったことに千早は内心安堵したが、帝都をにぎわせた新聞号外によって、人目もはばからず号泣することとなる。
1932年5月15日。
海軍青年将校たちと右翼団体との間で銃撃戦にまで及んだ抗争が勃発。
右翼活動家の銃弾によって倒れた死亡者の中に、古賀清志の名前があった。