1932年4月 中地家別荘にて
大和の目の前には丸三日をかけた努力の成果が、輝かんばかりの存在感をもって地面に横たわっていた。
取り外されたチェーン駆動装置やハンドルなどがひどい有様になっているが、この際見なかったことにする。
壊れた安全自転車を提供してくれたのは、家主である中地要だ。自分に責任はない。絶対に。
「長い戦いだった……」
何せボルトを締めるレンチのサイズすらかみ合わなかったのだ。背に腹は代えられぬと"やっとこ"を使う羽目になり、必要以上の手間がかかってしまった。
「何やってるの大和君」
油まみれの顔を手の甲でぬぐっていると、後ろから呆れ声が聞こえてきた。
幼なじみののどかである。
「要さんから、壊れた自転車もらったんで改造してたんだ。そっちこそ、氷室の中はどうだったんだ?」
「うーん、虹色のキラキラがどんどん強くなってきた気がするよ。この調子なら後数日であの時と同じような状態になるかも……」
「おお!」
一抹の不安を吹き飛ばす、嬉しい知らせだった。
もし、元の時代に帰れなかったらどうしよう……。と、正直気が気ではなかったのだ。
趣味である機械いじりに専念しているのも、弱音を紛らわせるためというのが多分にあった。
「要さん、それは何ですの?」
のどかの背中からひょこりと覗いた美冬の瞳が、好奇心にきらきらと輝いている。その視線は大和の制作物に注がれていた。
シンプルなフレームにはサドルが雑に取り付けられており、ギアとチェーンを取り外された車輪にはペダルが直結している。
それは実用を全く考慮しない遊技のみを目的とした乗り物、一輪車であった。
「一輪車って言うんだ。昔は結構クラブ活動で学校で乗ったんだよなあ」
そう懐かしく思いながら、出来立ての一輪車に乗ってみる。
「よっ」
「すごい、すごい!」
バランスをとってその場を前進後退してみせると、美冬の喝采がその駆動に合わせて飛んできた。
「大和君って無駄に手先が器用だよね」
「じいちゃんの趣味に付き合わされてたからなあ。流石に本職のエンジニアみたいなことはできないけどさ」
元の時代にいた祖父を脳裏に思い浮かべる。
負傷によって海上保安官を早期に退職した祖父は、よくガレージに籠もって機械いじりをしていたのだ。
その祖父が機械をいじる度に決まってぼやく言葉があった。
「親父が飛行機乗りでなあ。満足な整備と機械さえありゃ、戦争で死ぬこともなかったんだろうに」
幼い頃に死に別れたため、祖父は自分の親の顔も知らないのだという。
遠くを見る彼のくたびれた眼は、いつも寂しさを湛えていた。
その眼が大和の心をざわめかせるのだ。ああ、出来もしないことだと分かってはいても、一度で良いから曾祖父と会わせてあげたい、と。
「あれ? もし時間旅行できるなら、じいちゃんと曾じいちゃんを会わせてあげることもできるんじゃね?」
名案だと思った。
元の時代に帰ったら、真っ先に祖父のもとへ向かおうと腹を決める。
「後は曾じいちゃんが何処にいるかだよなあ。軍人だそうだし、今度千早さんに聞いてみるか。そういや、千早さんたち今何処にいるんだろ」
「千早様は、新しく立ち上げた半官半民会社のお仕事で呉と帝都を往復しているそうですわ。お兄さまも色んなところへ足を運んでおられるみたいです。ねえ、私もその一輪車に乗ってみたいです!」
ずい、と詰め寄る美冬を見て、大和は要と彼女が兄妹であることを改めて実感した。
鼻に女性の香りを感じ、慌てて少し仰け反る。
「大和君?」
背筋に冷たいものが走った。
振り返れば、無表情になった幼なじみがこちらをじっと見つめている。
「お、おう。難しいから、気をつけるんだぞ。美冬ちゃん。怪我されたら、要さんに殺されそうだ」
わあ、と無邪気に喜ぶのは美冬ただひとりであった。
同月 呉市内にて
呉市内に建てられた古ぼけたオフィスにて、"元"海軍大将、谷口尚真は老齢で視力の落ちかけた眼を細め、分厚い書類と格闘していた。
窓辺からほのかに漂う葉桜の気配も、嘆息と共に吐き出され、室内に充満した紫煙の香りが台無しにしている。
月月火水木金金。
連日の情報整理作業により鞭打った老体から、ぎしぎしと悲鳴が聞こえるようだった。
回数も覚えていないほど嘆息を吐き続ける。
目元を指で揉みほぐすと、ふと鼻孔にコーヒーの香りが入り込んできた。
「お疲れさまです。提督」
労いの声に顔をあげてみると、何処かとぼけた面構えの男性が傍に立っていた。
彼の親しみがこもった笑顔と、節くれ立った指に持つコーヒーカップを見て谷口は察する。
どうやら、茶を入れてくれたらしい。
彼は永野修身、"元"海軍軍令部次官。
軍令部を去った谷口の後を追うようにして、海軍に辞表を叩きつけた男であった。
尚真の嘆息はさらに深くなる。
「すまんな、永野君。君のような男に茶汲み小僧の真似事をさせてしまうとは」
「いえ、好きでやっていることですよ。針のむしろで冷や飯を食らうよりもずっと、ずっとマシです」
互いに自嘲げな笑顔を浮かべる。
永野は谷口とその志を同じくする、"条約派"の一角であった。
「それにしても、良く御前会議で海軍が了承しましたね。『護民のみを目的とする独立した海上部隊の創設』なんて」
「いや、当然反対されたよ。案が通ったのは陸軍の援護射撃と、予算は新造組織の自弁でまかなうという条件のおかげだ。陛下の『もし通らぬならば、海軍予算で戦力を編成するように』との一言も決め手の一つと言えるかもしれん」
永野がほう、と声をあげて驚いた。
「陛下の民を想う御慈愛にはただただ平伏申し上げるとして、リクサンが良く海上戦力の拡充を許しましたね」
「最初は統帥権をいたずらに混乱させるものとして反対していたのだがな、海軍の反対意見を聞いた途端、手のひらを返しおった。『陸軍としては海軍の意見が亡国的であり、現実的でないと愚考する』とな。人は石垣、人は城などという武田信玄の名言まで引き合いに出しおっての得意顔じゃ。大方、身内争いと思われたんだろう」
正論というものは吐いている当人はいたく気持ちの良いものだ。
陸の得意顔が容易に想像できたのか、永野が困ったように笑う。
「それは……。都合が良いというか、何というか」
「そもそも、此度の海上部隊設立の件は陸にデメリットが何もないからなあ。対岸の火事とはまさにこのことじゃろう」
「陛下の護民思想は陸を範疇に入れておられぬのですか?」
谷口は深いため息をついた。
「海軍から外へ出てみて、一つ分かったことがある」
「それは?」
「この国でもっとも民を見ていない組織が海軍であるということだよ」
谷口の過激な見解に、永野が絶句する。
「陸はあれでいて、大陸利権と密接に結びついておるからな。懇意の仲は財閥のみという、幾分生臭い身の上であるが、それでも常日頃から一応護民を意識しておるのだ」
「それは確かにそうですが……」
「対する海は、国でもなく、民でもなく、仮想敵国の正面火力のみを見ておる。これは課題だぞ。永野君。我々は陛下に視野の狭さを指摘されたのだ」
恥ずかしい話だった。
一般に海軍士官は自他共に認める帝国有数のエリートであり、粗野で偏狭な陸と比べて紳士的で開明的と言われている。
谷口とてエリートの自負があったからこそ、"条約派"にその身を置いたのだ。
「ともかく、我々は誰よりも開明的であらねばならん。御下命を遵守するためにも、一刻も早く組織を立ち上げ、軌道に乗せる」
「そのための書類仕事ですな」
谷口と永野は互いを見て、頷いた。
「私も先日資料を確認いたしましたが、財源確保のための企業部門と通商護衛を専らとする軍務部門の2部門に分けるのですよね」
「うむ、企業部門は中地男爵家の嫡男が社長として舵取りを行う」
「そちらは大丈夫なのですか? 企業運営はそう簡単なものではないでしょう。どうやって軍事予算を稼ぐつもりなのでしょうか」
永野の疑問はもっともなものであった。
海軍の年間予算は人件費、維持費、兵器開発費などを合計して2億5000万から3億円程度を確保している。これは国家予算の1割5分を占めており、1企業が捻出できる額では決してないのだ。
皇室予算という莫大な財源はあくまでも初期投資であって、しかも資産運用の名目で提供されることになっている。深謀遠慮で物を見ても最終的に黒字にならなければ意味がない。
継続しての捻出は見込めないのである。
故に企業活動によってその予算を継続して捻出しなければならないのだが……。
「中地君が言うには、国内の埋蔵資源を採掘し、採掘地を基盤とする内需を中心に据えた産業構造を作り上げるそうだ。その余剰利益分を拡大再生産と護衛部隊にあてるらしい」
「そりゃあ、また……。随分と夢に満ち溢れた案ですな」
永野が眉根を寄せる。
無理筋の案であると、その顔がはっきり言っていた。
「日本が資源を持たん国であるというのは、周知の事実だ。永野君の懸念はよく分かる」
「それなら……」
「じゃけど、わしは何も心配しておらんよ。彼は"千里眼"の持ち主だからな」
訳が分からない、といった風に永野が口を開けた。
谷口とて、例のテクストを目にしていなければ、到底信じられはしなかったであろう。
ふと、立場を捨てて自分についてきてくれた永野にも"未来知識"を教授してやりたいという欲求に駆られた。
だが、すぐに思い直す。
"未来知識"の拡散を禁ずる。絶対に秘匿せよと、陛下より命が下されていたからだ。
"未来知識"とは阿片のような代物である。
安易な考えでひとたび悪用されてしまえば、この国の未来を閉ざしかねない。そうした懸念故の秘匿であった。
周囲に不信感を持つ陛下らしい判断だ。
谷口は自らを含めた幕下の不甲斐なさを内心歯がゆく思う。この不手際は、働きによって挽回せねばなるまい。
「とにかく、金儲けは専門家に任せよう。わしらにできることは、少しでも安く、スマートに軍事予算を組み上げることだ」
お手伝いいたします、と迷いのない言葉が返ってきた。
「まず、第一に人員ですな。参謀教育を受けた士官と艦隊運用のできる士官、それに技術士官は絶対に必要です。すでにめぼしい人物に目を付けておられるのですか?」
「それが難航しておるのだ。まず大前提として、どうしても予備役か冷や飯食らいからの抜擢にしないといかん。海軍主流派からの引き抜きは、いたずらにあちらとの溝を深めるだけだろうからな。更に、設立目的の専門性がなあ……」
「専門性、ですか」
永野の相づちに谷口は頷き、机に置いたままにしてあった煙草を手に取り、火をつけた。
「陛下から勅せられた大方針は『戦争によって被害を受ける臣民を第一の護衛対象とすること』なのだが、これを海の理屈で考えると通商護衛となる。困ったことに海軍には通商護衛の第一人者がおらんのだよなあ」
煙をぷかりとやりながら、谷口は昔日の戦争を思い起こす。
日清、日露、欧州大戦に伴う対独戦、そしてこの前の上海事変。
そのどれもが艦隊決戦や上陸擁護作戦であり、いわば攻める戦であった。
この国には何かを守りながら戦うというノウハウを持った人物が致命的に足りないのだ。
「永野君は誰ぞ良い人材を知らんか?」
あまり期待を持った問いかけではなかったのだが、意外にも永野は幾人かの人材をすぐに挙げてきた。
「通商護衛……。となりますと、商船航路の維持が重要になります。機雷による被害を防ぐためにも掃雷の専門家は必要でしょう。次に艦隊の商船護衛行動についてのノウハウは、欧州大戦にてイギリスの船団護衛に携わった部隊が持っているかと思われます。後は、通商破壊と言えば潜水艦ですから、対潜水艦知識のある士官が欲しいところですが……」
と指折りながら、重要な人物を挙げていく。
機雷の専門家としては田村久三少佐の名が挙がった。齢35歳である彼は、水雷学校や海軍大学校、帝大理学部などで機雷兵器についての知識を深め、今は重巡洋艦"足柄"の分隊長をやっているという。
「田村君か……。良い軍人だとは思うが、現役じゃないか。引き抜けるのか?」
「根っこの部分で研究者肌の人間であるようですから、自分の専門分野を生かせる職場なら、興味を示すでしょう。海軍に交換条件を差し出す必要はありそうですが、不可能ではないと考えます」
更に船団護衛経験者としては井上成美の名が挙がった。
三角定規の異名を持つ、有能ではあるが偏屈な海軍きっての鼻つまみものである。
「実は現在、井上の細君が結核を患っておりまして、看病のために半隠居状態なのです。雇用条件次第ではありますが、おそらく引き抜けるでしょう」
「成るほど……。じゃけど、奥方の病気か。弱みにつけ込むようで気が進まんなあ」
谷口が井上の身の上に同情の意を示すと、永野がふてくされたように返してくる。
「私だって犬猿の仲を推挙なんて気が進みませんよ。ただ、船団護衛に関しては、悔しいことにあいつが一番ノウハウを持っています。これを逃す手はありません」
「ふむ……」
谷口は吸い殻を灰皿に押しつけ、しばし思案した。
他に選択肢がないのなら、井上のスカウトは絶対にやるべきだろう。
何せ、これから手を着けていく通商護衛という分野は全く未開の分野なのだ。
素人の生兵法で暗礁に乗り上げては、目も当てられない。
「分かった。井上にはわしの方から話を付けてみよう。それで対潜の専門家はどうか」
「そちらは私も専門外で……。対潜と言いますと爆雷兵器と早期警戒が重要になると思います。爆雷は田村君の知識に期待するものとして、早期警戒は……。潜水艦を見つけるには聴音機や見張り員の心眼に頼る他はないかと思われます」
「早期警戒なあ……」
頬杖をつきながら、大海原を想像する。
見渡す限りの水平線の中に潜水艦の艦橋を見つける作業は困難を期すだろう。
更に商船護衛ともなれば夜通しで行われるのだ。
夜間に人の目は期待できない。どうしたものか……。
そこまで考えて、ふと思いついたことがあった。
「電波探知はどうだ。宮本少尉が草鹿中佐なる者が研究していると言っていたぞ」
「電波探知……。ですか? それが何なのか分かりませんが、草鹿……。ですか」
永野はそこであからさまに嫌そうな顔をした。
「草鹿、というのは恐らく草鹿龍之介のことでしょう。元航空参謀の。今は海軍大学校で教官をやっているはずですが、あいつはなあ……」
「何か問題があるのか」
「いや、住友財閥理事のお坊っちゃんなんですよ。その坊ちゃん気質が影響して、何をやるにもぼんやりしていまして……。当人も、軍人をやるよりは学者でもやっていたいと豪語しているような変わり者なんです」
「それはいかんなあ」
谷口は良識派ではあったが、生粋の軍人でもあった。
故に軍人には自覚と誇りを強く求める。ぼやっとした人柄はあまり好むところではないのである。
「物の役に立つのなら、誘いをかけるもやぶさかでないが……。教官だって現役だ。敢えて引き抜く必要もないじゃろ。宮本少尉にはわしから言っておこう」
「了解しました。ところで、千早は元気にしておりますか? あいつも、こっちに来るのでしょう?」
「今は所用で帝都に向かっておるはずだが……。そうか、永野君と千早は知人だったな」
「知人も何も、兵学校校長時代の教え子ですよ。練習航海でも手ずから航法を教え込みました。何事も素直に聞く可愛い奴です」
谷口は嬉しさに、頬を緩める。
孫同然に可愛がっている青年に向けられた好意だ。嬉しくないわけがなかった。
それと同時に、彼がこれからやろうとしていることの困難さに想いを馳せ、少し気持ちを沈ませる。
「説得の必要がある連中が帝都におるそうでな。裸一貫で話してみるそうだ」
「説得、と言うと士官の引き抜きですか? 軍と揉めなきゃ良いですが……」
永野にあいまいな返事をしながら、窓の外へと目を向ける。
正義感に駆られた善人だからこそ、融通がきかない面もあろう。
何はともあれ、五体満足で帰ってきてくれよ、と願わずには居られなかった。