1932年4月 帝都赤坂にて
「すげえ、東京駅ってこんな立派だったのか……。ネズミの国……。いや、門司港レトロかよ」
汽車を降りた大和が呆然とした面もちで辺りを見回した。
ネズミの国もレトロとやらも良く分からなかったが、東京駅はモダンデザインの近代建造物として日本有数の優美さを備えている。
実際、初めて千早が帝都を訪れた時も、大和と同じような態度を取った記憶があり、あまり強くは言えないのだが、
「あまり、おのぼりさんのようにきょろきょろするなよ? お前の背格好はやはり目立つんだ」
今回は人目を忍んでの旅路である。
一応、彼の恰好をごく一般的な背広に改めさせてはいるが、それでも日本人離れした長身は悪目立ちすることこの上ない。
実際、彼とすれ違った旅客が目を回しているのを見るに、もし変装の小細工をしなければどうなっていたか……。結果は火を見るより明らかであった。
千早がしかめっ面でたしなめると、彼は苦笑いしながら舌を出す。
「いやあ、つい……。あ、写真だけ撮っちゃ駄目?」
これである。
まるで言うことを聞かない弟ができたような心地がして、度し難い頭痛を覚えた。
「要、今からこいつを広島へ返すわけにはいかんものか」
「諦めたまえよ、千早。今回に限って、彼は当事者なんだ」
「のどかさんでも良かったんじゃないか」
口に出してから、しまったと思う。
要は中折れ帽を目深に被りながら、怨嗟の声を絞り出した。
「のどかさんには美冬の看病をお願いしているんだ。それに……。君は年頃の妹と同世代の青年を同じ屋根の下に住まわせろというのか?」
殺意のこもった強い視線から逃れるように、千早は顔を背けて先を急いだ。
無論、大和の背中を小突きながらである。
駅舎を出ると、外には軍用車が待機していた。
運転手に挨拶し、先を急ぐ。
行き先は赤坂。今は利用するものも少なくなった、東宮御所であった。
◇
「やべえよ……。やべえよ、千早さん。何なの此処。どう考えても普通じゃないんだけど……!」
彩鸞の間と呼ばれる控えの間で千早が軍服の乱れを整えていると、大和が青い顔でしがみついてきた。
「やめろ、皺が寄る」
「だって、此処普通じゃないんだぜ。意味分かんねえよ!」
「言うな、俺も緊張しているんだ」
実際、手のひらには嫌な汗をかいていた。
千早は2週間前に、件の"日本史B"を含めたテクスト類を携帯ゲーム機と共に保護者である谷口尚真に送り届けていたのだが、その返答が「すぐに上京するように。東宮御所にて待つ」とのことだったのだ。
尚真の海軍大将としての地位を期待してのテクスト進上であったが、まさか軍を通り越して"やんごとない所"にまで話が届くとは……。全くの予想外であった。
「要はこの事態を予測していたのか?」
「僕にそんな千里眼はない」
上等な背広を気障に着こなした要は、何を言っているのだと言わんばかりに半眼でこちらを見てきた。
「そも、中地の本家は羽林滋野井家の庶流で末席ながら男爵位も持っているが、僕自身宮中とは関わらずに生きてきたからね。知識もないし、興味もないよ」
「無責任なことを言うな。ならば、何故あの時閣下を頼れと言ってきたんだ」
「そりゃあ、君に請われたから常識の範疇で提案しただけだ。今回だって閣下より呼び出されはしたが、妹の治療法を提示してくれた、彼らを守るためだけにここにいるんだ。もし彼らの人権が無視されるような事態に陥ったら、断固として反対させてもらうからな」
しれっと華族の風上にも置けないことを言ってのける。
傲岸不遜を体現したかのような表情をしていた。
千早は疲れたように肩を落とし、すぐに姿勢を正した。
見知った顔が入室してきたからだ。
軍服に身を包んだ老齢の男性である。
引き締まった口元と、意志の強そうな目つき。そして全くぶれない足取りのすべてから、その謹厳な人柄がにじみ出ているように感じられる。
彼こそが帝国海軍良識派を代表する海軍大将、谷口尚真であった。
「谷口提督。宮本予備役少尉、ご招へいにあずかり参内いたしました」
挙手注目の礼によって、敬愛する将官を出迎える。
それに対して、谷口も堂に入った構えで礼を返してきた。
「良く来た、宮本少尉。だが、此度は公式の呼び出しではないため、しゃちほこばった挨拶は要らんぞ」
「はい、心がけます」
と、ここで谷口が目元を緩めて嬉しそうにする。
「怪我ァなくて何よりじゃ、千早。軍人の宿命とはいえ、お前につまらん怪我をされるとご両親に申し訳が立たん」
「ありがとうございます。今後も細心の注意を払って、軍務に励みます」
「じゃから、わしの前でしゃちほこばった礼儀はやめいと」
苦笑いしながら頭をはたかれる。
これには千早も態度を改めざるを得なかった。
「……はい」
谷口は満足そうに頷いて、要と大和を見る。
「して、その少年があのテクストの持ち主か。それで、君が彼の保護者……。確か、面識があった気もするが」
「中地要です。お久しぶりです、閣下。今回は大和君の保護者として参内いたしました」
「うむ、決して君たちの悪いようにはせんよ。そも、できる立場にももうなくてね。さあ、朝日の間で君たちをお待ちしている方がいらっしゃる。向かうとしようか」
言うが早いか、谷口は来た時と全く同じ足取りで部屋の外へと出て行った。
千早たち3人も慌てて彼の後を追う。
谷口に案内されるがまま荘厳な廊下を渡っていき、辿りついたその場所は、
「うわ……」
ギリシャ・ローマを思わせる古典的な金色と白亜に包まれた、絢爛豪華な応接の間であった。
中には椅子に腰かけながら窓辺を望む30代前後の男性と、その男性につき従うようにして直立する老人がいる。
千早は雷で撃たれたかのように直立し、最敬礼の形を取る。
要も流石に深々と頭を下げ、
「は、えっ……?」
一人訳も分からず、きょろきょろとうろたえる大和に、千早は慌てて小声で注意する。
「馬鹿。傾注、最敬礼を取れ」
「あっ、うん」
慌てて右手で軍式の挙手礼もどきを取る。
「お前は軍人じゃないから、それは良い。早く頭下げろ、早くっ」
そのやりとりがよほど面白かったらしく、椅子に座った男性が声を出して笑い始める。
「良い。朕は此度、朕としてここにいるのではなく、"ぼく"としてここにいるのだ。下手な礼は要らない」
「陛下、お戯れは御止しください」
男性の言葉に、鋭利な眼差しでこちらを観察していた老人が困ったように諌言するも、男性は忌々しそうに首を横に振るだけで決して取り合おうとはしなかった。
「どうせ、ぼくの声は世に届かぬ。型にこだわって一体何になるというのか」
ひどく実感のこもった、悲哀の嘆きであった。
「え、陛下って、え?」
事態の展開についていけない大和が、ただひたすらに混乱している。
その様を興味深げに眺める男性を見て、千早は全くもって不敬な考えを抱いた。
目の前にいる現人神が――。まるで"人"のように思えたからだ。
「恐れ多くもかしこき陛下のご慈悲を賜り、恐悦ながらも拝謁いたします。……お前たちも楽にせい」
谷口の言葉に従い、最敬礼を崩す。
「さて、朕は"ぼく"であるからして、自己紹介をせねばならぬ。仮に竹山とでも名乗るとしよう。お前たちも、そのつもりでいるように」
「陛下……。それは――」
「……くどいぞ」
谷口の抗弁に、竹山と名乗った男性の機嫌が見る間に降下していく。
「はっ……。竹山様……」
その雰囲気を肌で感じ取った谷口が、青い顔で下を向いた。
下手に口を挟める空気ではなかった。
この現状を打ち破れる人間は、この時、この国に片手の指の数ほどもいるものではない。
「あのー」
故に現状を易々と打ち破ったのは、この時代の常識を知らない大和であった。
そのあまりの浅慮に千早はぎょっと固まってしまう。
「写真で見たことあるんですけど……。もしかして、昭和天皇、陛下ですか?」
ああ、もう駄目だと思った。
不敬罪で目の前の粗忽者が投獄される光景までありありと幻視した千早は、思わず天井を仰ぎ見る。
付き人の老人は口をパクパクさせて今にも倒れそうな顔をしていた。
自称、竹山様はというと、
「ぷっ、うん。その通りだ。ぼくは君の時代にいた天皇の父親と言うことになるらしいな。初めまして、未来の臣民――。いや、国民主権なるものの申し子であるから、国民か。君のテクストは大変興味深かった。未来的に握手でもするかな?」
「あ、はい。ありがとうございます。やべー、まじやべー……」
目の前の光景が信じられなかった。
神聖不可侵であるはずの存在が何故、こうも気さくな態度を取っているのか。
そもそも、テクストの進上を行った理由には、件の米国人と肩を並べる写真を見て、こうした不敬な悲劇を起こさないためというのもあったのだ。
それなのに何故――。頭が混乱して、上手く思考がまとまらなかった。
◇
それから、自称、竹山様を囲んだ会談はたっぷり2時間をかけて行われた。
何故やんごとない身分にまで話が言ったのかと言うと、事の重大さを理解した谷口が目の前の老人――。牧野伸顕内大臣に相談したことが原因らしい。
牧野は現状の政府や軍と宮中の関係が不穏なものであると不安に思っていたようで、『日本史B』によって今後の悲劇を確信した彼は慎重に谷口と密談を重ね、テクストを陛下に進上した。
御聖断を仰ごうという腹積もりで、だ。
その結果として自分たちがここにいるのだと思うと、千早は目の前の老人を恨めしく思う気持ちを少々抑えがたかった。
「生物の教科書も夢中で読んだが、ミトコンドリアや染色体のくだりが面白かった。それに生態系に関する章だね。今までぼくが研究してきたミクロな視点ではなく、マクロな視点から見た内容は目から鱗が落ちるような内容だったよ」
「あー……。生物は面白いですよね。俺も、あ、いや。ぼくも生物は好きで。昆虫採集とか飼育とかもよくやってたし、好きです」
「何を育てていたんだ?」
「親父に買ってもらったヘラクレスオオカブトとか」
「海外の昆虫か。良いね、見てみたいものだ!」
目をキラキラとさせながら大和と歓談する竹山様は、今まで千早が想像していたいかなるやんごとない姿とも違って、純朴さを感じさせられた。
「未来の日本については、『日本史B』を読ませてもらったが大変興味深いものだった。高速道路に新幹線、東京オリンピック。高度経済成長……。国民の、不断の努力が未来を作っていったのだな。君は日本のことが好きかな?」
「あ、はい。勿論です! はい」
この国の元首に問われて、否と言いはれる者がいたら見てみたい。
だが、こいつならば言いかねん……。と、ひやひやしていたところに、無難な返事をしてくれたので千早はほっと息を吐いた。
それがいけなかったらしい。
「ああ、君たちにも彼と引き合わせてくれたことを感謝している。海軍少尉の、ええと……」
「宮本少尉と、中地男爵家の嫡男にございます。竹山様。宮本予備役少尉は航空士。中地の方は京帝大の天文学者にございます」
卒なく牧野が耳打ちし、竹山様が柔らかく微笑む。
「成程。先進的な考え方を持った若手に彼が保護されたからこそ、こうしてぼくは未来を知ることができたのだな」
「恐悦至極にございます」
「それはもう良い」
千早と要が再び最敬礼を返すと、竹山様より制止の声が飛んでくる。
慌てて態度を改めるも、無礼講に全く慣れる自信が沸かなかった。
竹山様はそんな千早たちの態度をつまらなそうに一瞥し、
「して、ここにいる皆に問いたいのだが……。かの『日本史B』を読んだ感想を教えてもらいたい」
少し前のめりになって、本題を切り出してきた。
「牧野はどうか」
水を向けられた老人はしばし目を瞑った後に、
「明らかにこの時代ではありえない機械と共に提出された、ありえないテクストではありますが、その信憑性に関しましては容易に確認できるものと思っております」
「そう言うことを聞きたいのではないのだがな……。だが、どう確認する」
「これから起こる事件を一つ一つ、抑えていけばよろしいのです。例えば……。五一五事件。例えば……。国際連盟の脱退。五一五事件に関しましては、海軍の青年将校を洗い、現実に"血盟団"なるものが結成されている所までは調査済みです。恐らく、現首相の襲撃事件も来月には起こるでしょう」
「忌々しいテロリズムか……」
竹山様の呟きを耳にした千早は、内心複雑な心地であった。
2週間前に出会った青年士官の顔が浮かぶ。
彼は「御維新」と言っていた。恐らく、彼はテロリズムの同志として千早を誘いに呉まで出向いてきたのだろう。
少し話しただけであったが、彼の言葉に嘘偽りは感じ取れなかった。彼が「御維新」を目指しているのは、悪化していくこの国の現状を少しでも良い方向へと導いていくための手段がそれ以外思い浮かばなかったからなのだ。
擁護したい。だが安易に擁護することもかなわない。
いかんともしがたいジレンマに千早は思い悩んだ。
「谷口はどうか」
「はっ。米国との戦争に関しましては……。いささかショッキングが過ぎる内容ではありましたが、国力差から考えて概ね軍令部作戦課の想定する内容に近いものでありました」
その言葉を聞いて、竹山様の眉が不快げに歪んだ。
「ならば、何故軍は米国との開戦に踏み切ったのだ」
「それは……」
残酷な問いであった。
そもそも現状において、海軍は仮想敵国としてアメリカを想定しているとはいえ、本当に戦争に踏み切るつもりは全くないのだ。
あくまでも対ソビエト連邦を念頭に置く陸軍への対抗意識と、予算獲得という現実的な問題から米国への対抗と謳っているにすぎない。
そして、谷口は親英米の軍縮・国際協調論者。
本当は歴史の高みから、竹山様のように軍の浅慮を批判したい。だが、海軍大将と言う身の上がそれをさせてくれない。
二人のやりとりから宮中と軍の、意識の違いを千早は痛く実感させられた。
「そう言えば、海軍といえば資料館で勉強したんですけど……。アメリカとの違いは国力だけじゃなく、レーダー? とかの技術で負けていたみたいです」
「大和君、レーダーとは何だ?」
「えっと、電波を飛ばして相手の船とか飛行機の場所が分かる機械です。戦後には衛星通信とかで世界中の事件がリアルタイムに映像で見られるようになるんですよ」
「それは、とても良いことだね」
竹山様が大和へ柔らかく返す。
「電波による敵の探知、我が国の軍や大学では進んでいるのか?」
谷口がまた困りはてたように表情を歪める。
谷口は参謀を専らにしていたが、あくまでも日露戦争時代の参謀であった。
軍縮について東郷平八郎と敵対してはいたものの、その戦術論についてはそう変わることのない持論を持っている。
故に新技術となるともうお手上げだったのだ。
千早はたまらず口を挟んだ。
「電波探信につきましては、航空出身の草鹿中佐が考案なさっていたと記憶しています」
谷口が目を丸くしていた。
千早は気づかぬふりをして、竹山様の言葉を待つ。
「うん? そうか、軍も流石に研究を行っているのか。ならば、その草鹿と言う人物は大事にしないといけないな。大和君、他には何かあるかね?」
「あー、えっと。それなら……。ぼくのじいちゃん……。祖父が海上保安庁に勤めていたんですけど……」
「海上保安庁とは何だね?」
「海の上の警察官です。不審船とかを拿捕したりする。じいちゃんが言うには、俺の親父が軍にいた頃にはとにかく通商破壊が多くて、たくさんの民間人が犠牲になった。それで親父はすごく苦しんでいたんだって教えてくれました」
大和の言葉に竹山様が意外そうな声をあげた。
「君の曽祖父は軍人か軍属だったのか。まあ太平洋戦争前ならば、意外でもないな」
何か、先ほどから胸の内にもやもやとしたもの鬱積していくのを千早は自覚していた。
目の前の現人神は、何か軍に隔意を持っているように感じられるのだ。
当然、軍属たる千早としては自らを否定されたような気持ちになる。自分たちは君主の信頼を得られていないのだ。悔しい――。千早は無意識のうちに下唇を噛んでいた。
「谷口、通商破壊とは何だ?」
「欧州大戦より本格的に行われるようになった、商船等を標的とした無差別攻撃にございます。かのドイツも大戦時には潜水艦による無差別攻撃を敢行しています」
「民間人を狙うのか」
忌々しげに竹山様が顔をしかめる。
「民間人への攻撃は海上の戦時国際法において、敵国民に限り容認されているのです。何故なら資源輸送は軍の支援に当たるため、戦争行為に従事していると認識されます」
「それでも気に食わぬものは気に食わぬ。どうにかして、互いに止めさせることはできないものか」
「それは……」
再び口ごもる谷口同様、千早も内心無理だと判断する。
まず第一に、何をもってそれを民間船とし、何を持ってそれを軍用船とするかの判断が非常に難しいからだ。
戦争が勃発すれば、互いに詐術を駆使することになり、偽装船舶も現れることだろう。帝国海軍にはその一隻一隻を臨検する余力もないし、偽装船だった際に先制攻撃を受けるリスクもおかせない。
さらに第二として、海軍に商船護衛を受ける余力がないことも挙げられるだろう。
日本の海上輸送力は世界有数を誇っており、それを護衛対象とすべき商船が数1000隻以上存在する。
それらを全て護衛するとなると消費する重油は馬鹿にならないし、決戦用戦力がおざなりになってしまう。
艦隊決戦を念頭に置く、現在の海軍主流派にとってこれは到底受け入れられない。
大反対の大同団結をする首脳部の怒り顔が、目に見えて浮かぶようであった。
「臣民は守らず、戦は起こす。全く、海軍は何のために存在するのだろうか」
「失礼ながら――」
我慢の限界であった。
「問題は恐らく別のところにあるのだと愚考いたします」
一度堰を切った千早の口は、思いの丈を止めどなく語っていく。
「護衛する商船はあまりに多大にすぎ、その恒常的な警護に莫大な予算を必要とするでしょう。かといって、決戦用火力は他国へ向ける抑止力でもあり、これを割くことは難しい。外交だってそうでしょう。結局のところ我が国の経済規模と列強との国力差が問題になっているのです。内地の一部が貧困にあえいでいるのも、軍の青年将校がテロリスト化するのも、戦争が起こるのも全ては――。貧乏が悪い」
千早は一息に言いきった。
言いきってしまった。
君主の言に口を挟むなど、不敬にも程がある。腹を切って死ぬべきだ。
そう思いながらも、千早は内心晴れ晴れとした思いであった。
対する竹山様はと言うと、
「そうか」
と言って黙ってしまう。
牧野からは殺気のこもった視線を感じた。谷口からも批判めいた、何処となく複雑な視線を感じた。
要は苦笑いを浮かべ、大和はポカンと口を開けている。
「恐らく……。ぼくは現場を知らないのだろうな」
ぽつりと、竹山様が呟いた。
「初めは良かれと思って政治や軍政に口を出してみたものの、府内からも軍界からも煙たがられてしまった。時折耳に入るうわさ話では、『陛下は秩父宮、伏見宮に及ばない』などと交わされ、禅譲すら望まれているそうではないか。見限られているも同様だ」
「それは不忠者の戯言です。陛下」
牧野が慌てて擁護するも、その不敬な噂自体は千早も耳にしたことがあった。
秩父宮は今上陛下の弟君に当たり、陸軍の信望厚い人物である。
対する伏見宮は皇族軍人として、海軍内では神格化されるほど崇拝されている人物であった。
両者とも軍において同じ釜の飯を食べてその苦楽を共有している関係上、軍人からしてみればどうしても天上人より重く見てしまいがちだ。
千早は今まで不忠であるとして、そうした噂に耳を貸したことはなかったが、こうも頭ごなしに自分たちを否定されると見えてくることもある。
人と言うのは「自分を肯定してくれる君主」を望んでいるのだ。
「誰もが納得し、未来に胸を張り、テクストに書かれた民の悲哀や悲劇を回避できるような妙案などぼくには実行できないのだろうか――」
できるでしょう――。と誰かが言う。
要であった。
「恐らくは自分の縄張りに口を出されたと感じる者が反感を覚えるのです。陸軍は陸軍。海軍は海軍。政界は政界。財界は財界。各々が自分の"国"を持っているのが現在の我が国ですから。いわば宮中と言う場所は彼らにとって他国なのです」
「全員日本人なのに?」
「それは未来人である大和君だからこそ言えるセリフだよ」
大和の横やりに、要はさらに続ける。
「陸軍の始まりは長州閥。海軍の始まりは薩摩閥。政界は民権運動以来、第三勢力によって地縁を土台に形成されてきた。その後の政治力学による栄枯盛衰はあれども、現実問題として日本が日本として真に統一された時期はないんだ。だから、予算の奪い合いなんかで簡単に揉める。"他国民"にやる金なんてないからね」
「それを言ってはお仕舞いだ。陛下が何をなされても無駄に終わるという理屈になる」
牧野の反論に要は自信ありげに頭を振った。
「陛下が直接采配を取れる縄張りがあるはずです」
「そんなものは――」
「皇室予算ですよ。皇室予算を用いた資産運用の一環で、子飼いの企業・戦力を形成し、割拠する派閥の外側で陛下が良かれとおぼしめしになった計画を実行なされば良いのです」
要の言う皇室予算とは、毎年「国富の5分」が計上される皇室固有の財産を指しているのであろう。
この国の国家元首は国内の政治や軍事に口を出す権利を持ち合わせていない。法律によって、その権限を制限されている。
竹山様の望みが「戦争による民間人の悲劇を回避すること」だとして……。そのためにはどうしても法律から独立した軍事力や政治力が必要になるのだ。
だが、それは同時に既存の陸海軍や議会を敵に回す行為でもある。
当然である。「お前たちは信用できない。だから勝手に動くことにした――」などと言われて、「はい、そうですか」と従う者はいないだろう。
国中の権門勢家に三くだり半をつきつけて、果たして皇室は無事でいられるのか――?
正気の発言とは思えない。
この国の在り方を根底から揺るがす、危険な提案であった。
「狂人の戯言だ! そんなことをすれば、政界、軍界、財界、国中の全ての勢力を敵に回すぞ!」
「予算を用いて黒字さえ出せば、言い訳も立ちます」
「詭弁だ!」
千早も牧野に同意する。
皇室が断頭台の露に消えかねないリスクを内大臣である牧野が認めるわけがない。
皇室はその政治責任を回避するために君臨すれども統治せず、に徹することこそが正しいあり方なのである。
だが、そんな時代を前近代に逆行するような案に、反面で千早は少なからぬ魅力を覚えた。
皇室予算を運用することができれば、どれだけの貧困を救うことができるだろうか。軍の不足を補うことができるだろうか。
もしやすると、現在過激派に属する将校たちを平和的に転向させることだってできるかもしれない。
そして生まれる成果は――。
「列島の改造」
小さく呟いただけであったのに、その言葉は不思議と室内に響いてしまった。
要は我が意を得たとばかりに満面の笑みを浮かべる。
「流石千早だ。それは未来で言う、田中角栄の公共事業重視政策だね。現状財界が海外へ盛んに投資し、内需に目を向けていないことが一部地域の貧困に繋がっているんだから、列島改造はほぼ必須の課題と言って良い。内需を育て、国力を高める。小手先のやりくりはマネーゲームはやめて、どっしりとやっていかなきゃ駄目だ」
「……それは皇室予算で実現できるものなのか?」
更に信じがたいことには、竹山様までこの奇策に興味を見出してしまった。
それに対し要は平然と、
「皇室予算だけでは足りません」
無理と答える。
「でも、我々には切り札があるでしょう……。"未来知識"と言う切り札が――」
一同、天啓が訪れたかのように大和を見た。
当の本人は「え、え?」と困惑するだけであったが、その間が抜けた様子に場の空気が柔らかくなる。
「正確には彼のもたらしてくれたテクスト類が、ですね。資金源を作り上げることはそう難しいことではないはずですよ。例えば、地図帳とやら。あれは非常に有用です。何故なら未開発地域の埋蔵資源まで詳細に乗っているからです。さらに化学の教科書。テクスト後半に掲載されている、材料学は大変ためになるでしょう」
「臣民の貧困は公共事業により解決するとして、仮に戦争が起きてしまった場合、彼らの保護はどうする」
「陛下には統帥権がおありです。陸海軍の予算を削らず、決戦戦力の編成に口を出さないという条件下ならば、民間自衛戦力の構築は十分可能と思われます。むしろ、臣民の警護などと言う厄介な仕事を引き受けてくれる雑用が増えるくらいには思ってくれるんじゃないでしょうか」
むう、と谷口が唸る。
「自衛戦力が独自予算をもって軌道に乗ってしまえば、当然陸海軍の干渉があるだろうが……。それは人事権を死守することでどうにでもなるか。確かに……。不可能ではない」
「谷口提督まで……」
牧野はついに頭を抱えてしまった。
「牧野はあくまでも反対か」
「当たり前です! 内大臣として、陛下が矢面に立つ状況は何としてでも避けなければなりません!」
「だが、座して見過ごせば、いずれ敗戦によって矢面に立つことになるぞ」
「そ、それは……」
竹山様の腹は決まったようであった。
決まってしまったようであった。
「谷口、中地、宮本。この国の罪なき民に降りかかる災厄を少しでも振り払うため、列島改造による貧困の救済と民間人護衛戦力の構築を命じる。引き受けてはくれないだろうか」
谷口は模範的な軍人であり、主君の言うことには必ず是と答える。故に当然、最敬礼で返した。
要は苦笑しながらも、国立天文台の助手は辞退しなければなりませんねと笑って返した。
そして千早も最敬礼で返す。
それは主君に命じられたから……。だけではなく、これから誤った道を進む同僚を正道へ引き戻すためという新たな志も含まれている。
「御維新」の手本を見せてやる。
千早はこの時、はじめて国と向かい合って能動的に何かを為す理由を得たのかもしれなかった。




