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1936年7月初 秋田市にて

 今年はあまり雨の降らない、水不足の懸念される空梅雨であった。

 奥羽本線401列車を下り、改札口から秋田市内のロータリーへと人の波に沿って流れ出た源田は、天から降り注ぐ燦々とした日光を全身に浴び、思わず顔をしかめる。

 まだ七月の初めだというのに、うだるように暑い。帝都近隣のじめっとした熱気も嫌なものだが、こちらはこちらで過ごしにくそうだ。

 真っ白な軍帽を目深に被り、手をぱたぱたと扇いでいると後続の男性が空を見上げて同様の感想を呟いた。


「……暑い。こちらの夏は舞鶴と似ているね」

 年の頃は50を少し過ぎた辺り。ぎょろっとした大きな目が印象に残る、がっしりとした体格の小男だ。第二種軍装に見える肩章は中将を示しており、海軍においては背丈に似合わぬ大身であることが一見して読みとれる。

 その体からは白粉の香りが微かに匂った。大方、今回の出張へと出かける前に芸者遊びに励んだのだろう。

 相変わらずの遊び好きだと、源田は小さく息を吐いた。


 ――彼の名は海軍航空本部長、山本五十六。

 まさか、彼が秋田視察に同行するとは思わなかった。責任感の重圧から、自然と源田の体が強ばる。


「さて……、まずは肝心の新造艦とやらを見物に行こうか」

 まるで散歩にでも出かけるかの如く気軽に言う山本に対し、源田と立場を同じくする随行の一人が異議を唱えた。


「まず佐藤提督のもとへご挨拶に伺うべきではありませんか?」

 総隊本部長であるはずの谷口の名が上がらなかったことから、彼が"条約派"を忌み嫌っていることが容易に読みとれる。

 が、人の好悪と選り好みはさておいても、成る程確かに現場責任者への挨拶を欠かすべきではない。

 そんな随行員の提示する普遍的な道理に対し、山本は変わり者の理屈を以て、伊達と酔狂で答えを返した。


「……何、佐藤さんと話す土産として道草を食うのも悪くはなかろう。それに、今回の目玉艦は"友鶴"の藤本が設計したというじゃないか。堀の手紙で気にはなっていたんだ」

 山本の軽口に随行員たちが皆表情を歪めた。

 藤本技術少将の名は現状、我が海軍においては半ば禁句と化している。1934年に起きた友鶴事件では合計で200名以上の海軍軍人を失うことになったわけで、他の組織よりも横の繋がりを重視する士官たちにとって、同胞を奪った彼の設計不備は到底許せるものではなかったのだ。

 とはいえ、士官は横の繋がりと同じ程度に縦の繋がりも大事にする。くつくつと笑う、この最高権力者が吐く言葉はまさに鶴の一声だ。一度くらいは疑念を差し挟んでも、流石に面と向かって反論し続ける者はいなかった。


「迎えの車を探します」

 率先して随行員が駅前のロータリーを探し回ると、送迎車は程なくして見つかった。

 黒塗りの5人乗りセダン、トヨダ社のAA型自動車が2台。先頭車の前部ドア前にこちらと同じ第二種軍装を着用した海軍軍人が直立している。

 昨年まで護民に出向していた参謀の一人であった。


「福永君、ご苦労」

「……お待ちしておりました、提督。どうぞ、お車の中へ」

 出迎える参謀は、狸のような風体をしていた。その表情は明るくない。出向前には『総隊なんぞぶっ潰してやる』と豪語していたそうだから、総隊の飛躍を宣言するかの如き観艦式の開催に面目が立たないのかもしれぬ。


「それでは男鹿の軍港まで頼むよ」

「軍港、ですね。分かりました」

 源田と随行員は後部座席両脇に、山本が後部中央に着席すると、助手席に座った福永は運転手に「出せ」と指示した。


 直列6気筒のディーゼルエンジンが唸りをあげて、秋田市内の大通りを進んでいく。

 源田が物見がてらに左右を見回していると、苦笑いを浮かべた山本が冷やかしてきた。

「"裏日本"は珍しいかね」

 その自嘲気味な物言いに、彼が新潟の……、長岡の生まれであったことを思い出す。

「あ、いや……」

 慌てて頭を下げると、山本は座席の背もたれに深く体重を預け、目を細めた。


「ここは決して"裏"ではないよ。何せ鬱屈した空気が全く漂っておらん」

 山本の言うとおり、市内は意外なほどの発展を見せていた。煉瓦造りの官庁街や共和商事に連なる商業施設が密集した区画、街頭を歩く人は多く、露店や店舗もそれなりに品を揃えている。

「ただ、外人さんがちと多いね」

 山本の言葉通り、道行く人々の中には"日本人でない者たち"が多く見受けられた。

「あれは英国人かな。身なりからして公職に就いているか、富裕層だとは思うが……。黒ん坊までいるじゃないか」

 暑気払いにと窓を大きく開けていたため、市内の喧噪が良く耳に入ってくる。

 英国紳士らしき人物は、同じく英国人らしき厳めしい顔の男性を見つけては「Jack!? Why is here!?」と白目を剥いて叫んでおり、黒人の少年たちは日本人の少年たちと横並びに、野球バットを担ぎ、握り飯を頬張りながらふざけあって歩いていた。屈強な男性を連れた白人女性がカメラでしきりに周囲を撮影しているようだが、一体何が面白いのだろうか。


「おっと」

 まだ年若い新聞の売り子が無差別に売りさばいている新聞が、風に飛ばされ車内へと飛び込んでくる。

「すいませーん」

 慌てて駆け寄ってきた少年に対し、山本がにこやかな表情で答える。

「構わんさ。これもお天道さんの采配だろう。どれ新聞を一部頂こうか。釣りは要らないよ」

 そう言った山本は随行員に命じて、代金を多めに支払わせる。恐らくは少年の身空で労働している彼を慮っての命令であろう。他人に対する気前の良さが山本の美徳であった。

 が、少年は山本の厚意を固く断って頭を下げる。


「すいません、軍人さん。お金の支払いは誠実にって、学校で教わっているんです。お釣りをお返しいたしますね」

 少年は手早く代金を精算すると、再び「ありがとうございます」と深く頭を下げ、車の発進を見送った。


「好少年でしたね。あれは立派な大和男児になりますよ」

 誠実であれというのは海軍精神にも通じるものがあり、随行員も相好を崩していた。山本も「教育が行き届いているようだなあ」と目を細めつつ、新聞をぱらぱらとめくりだす。

 "共和日報"と銘打たれたその新聞は、どうやら政治経済のみならず文化娯楽についても記事に載せる、総合的な新聞のようであった。

 第一面には本日行われる観艦式の特集が組まれており、総隊の戦歴がずらずらともてはやされている。第二面ではボリビアやパラグアイで起こった軍事クーデターが取り上げられており、さらに満州人による反政府テロの続くきな臭い大陸情勢が憂慮されていた。

 平和主義を重んずる論調など、全体としては弱気な、左に傾いている印象を受けなくもないが、海外の軍事情勢については軍事専門家のインタビューを載せるなどして、中々読みごたえのある構成になっている。


「……繁盛しているようで、何より」

 市内を抜けて八郎潟へと続く砂利道を走っている最中、新聞を読んでいた山本が呟いた。

 右手には総隊本部へと直通する軍用鉄道が敷かれており、時折1067mmの線路幅を貨客列車が通っている。

 無論視察団という立場上、軍用鉄道を利用することはできたのだが、山本の提案によりそれは却下された。今にして思えば、端から自由に動き回るための根回しであったのだろう。


「秋田の街が、でしょうか」

 源田が問うと、山本は頭を振る。

「無論、街もそうだがね。護民さんもだよ。ほら、ここの記事。護民総隊は『我々の海軍』だそうな。人心を掌握している証拠だな」

「我々の……」

 護民総隊が"彼らの海軍"であるならば、自分たち"本物の海軍"は一体何なのか。

 複雑な感情が胸の内に湧く。その大部分は不快感と嫉妬であった。源田が内心で割り切れずにいると、何故か山本は上機嫌で続けた。


「佐藤さん等、"海軍出身者"の努力によって勝ち取った信頼ならば、素直に祝福して差し上げればよい」

「祝福、ですか……?」

 山本の存念が分からなかった。宮本との会談からこの方、今更ながらに護民と海軍の不仲を悟った源田には、何故こうも山本が上機嫌でいられるのか理解できない。


「申し訳ありません。提督の仰る意味がよく……」

 戸惑いながら言葉を選ぶと、呆れ顔を山本は浮かべる。


「何処に分からない理屈がある。"海軍出身者"は同胞だろ。いわば兄と弟のような関係なのだから、弟の活躍を喜ぶのは至極当然のことだ」

 山本のこの返答は、尚更に源田を混乱させるものであった。


「でしたら、その。宮本の空戦ドクトリンを否定なさったのは一体何故でありましょうか」

「ああ、あれねえ」

 山本は心持ち眉根を寄せて、顎を手でさする。


「……宮本某の優秀さはこの俺も認めているよ。あれは先見的な物の見方だ。ただ、だからこそ駄目だった」

「駄目、と言いますと?」

「あれは本来"我々"が出すべき理論だろ。"海軍出身者"が優秀だからこそ、あの理論を編み出したことは理解できるが……、だからといって"長幼の序"を乱すのはどうかと俺は思う」

 "長幼の序"。ここに至って源田はようやく山本の考えを理解した。つまり、彼は論理の善し悪しは別として、純然たる儒教的秩序と政治的判断によって宮本の提示するドクトリンを退けたのである。

 山本は言う。


「……あれが某の論としてではなく、お前たちが合意の上で提示したものであったならば、俺は二つ返事で受け入れたさ。けれど、そうではなかった。お前たちのキャリアを守ることも、俺の職掌の一環なんだぞ? まあ、提出の仕方が悪かったよ。こんなこともある。気にするな」

 一層の奮起を期待すると締めくくった山本の表情は、身内に対する慈愛に満ちていた。

 彼が将官の中でも抜群の人気を誇っている理由が、言葉の端はしににじみ出ている。

 身内に対する懐の深さ、親分肌……。

 そして何よりも、この山本五十六という人物は徹頭徹尾、身内に利益を引っ張ってくる軍政家なのである。


 さて、右手に青々とした稲穂の揺れる水田単作地帯を、左手に潮風を防ぐ白樺林を望む幹線道路を通り過ぎ、ようやっと八郎潟の岸辺が見えてきたところで総隊の検問に捕まった。

「もし、停車をお願いします」

 ドアの外側からこちらをのぞき込む兵士たちは、見慣れぬ軍服を着用していた。

 そういえばと、昭和10年に護民総隊の服装について定めた勅令が下されたことを思い出す。

 紺色の詰め襟に、白を基調とした軍帽。警官とも陸軍とも海軍ともつかない奇妙な色の組み合わせだ。それを身に纏う彼らの仕草も、あまり潮気を浴びたものとは思われなかった。


「海軍中将山本提督による現地視察だ。通してくれ」

「少々お待ちを……」

 助手席の福永が苦虫を噛み潰した表情をして総隊員に声をかけると、下士官であろう年輩の一人が台帳と名前を確認し始める。柔らかな物腰ではあったが、稚拙と頑迷のきらいがあった。これが海軍ならば、皮肉と肩章の一つでも見せつけるだけで話が済む。

 やがて確認が済んだところで、下士官ならびに兵士たちが敬礼の姿勢をとって歓迎の意を表す。


「山本提督、ようこそお越しくださいました! こちらの一水が自動二輪で総隊本部までの案内をいたします」

「……案内は要らん。小官は昨年度まで総隊に出向していた。貴官よりもこちらの地理を網羅しているぞ」

 下士官と福永の押し問答が始まった。遵法精神にあふれる下士官の立場からしてみれば、機密の転がった軍港内で部外者に勝手をさせるわけにはいかない。それは理解できる。

 だが、福永からしてみれば"酔狂"を重んじる山本の希望を叶えてやりたい。遵法精神と脱法精神の攻めぎあいは、山本に欠伸を催させ、通りすがりの第三者による介入が入るまで続けられた。


「あれ、福永さんじゃあないですか」

 検問の向こう側から声をかけてきたのは、上海事変の英雄たる生田乃木次であった。こちらも総隊の制服を瀟洒に着こなしており、その隣には細面にポマードを塗りたくった九一の黒髪と丸眼鏡が特徴的な、いかにも技術屋といった男が立っている。

 その人相に覚えがあった源田は「おや」と声をあげた。彼は恐らく、三菱の人間だ。九六式艦上戦闘機の設計に関わる話し合いの中で、海軍相手に啖呵を切った男であったから、思い出すのも楽だった。

 三菱の彼にしてみても、こちらの人相に覚えがあったのだろう。

「げっ」

 と具合の悪そうな声を捻りだして、生田への挨拶もそこそこにその場をすたこらと立ち去ってしまった。一体何に不都合を見出したのだろうか。源田が訝しげに技術屋の背中を見送っていると、事情を聞いた生田が先導を買って出た。


「多分、福永さんは見張り付きが煩わしいから渋っているんですよね。大方、山本提督の"いつもの"でしょ。俺が先導につきますよ。堅苦しいことは言いませんし、こちらの名分が通ります」

「ああ。生田君なら、是非ともお願いしたいね」

 にやりと悪童の顔をした山本が口を挟み、交渉が成立する。生田はその人当たりの良さから、航空畑からの覚えが良い。退役直前には周囲に迷惑をかけまわった挙げ句に喧嘩別れのようにして軍を抜けたが、裏事情を知っている立場からは絶賛されていた。曰く、「困窮した女のために軍を抜けた粋な男」らしい。商売女好きの山本も共感できる部分があったのか、退役後の彼について陰口を叩いたことはなかったと記憶している。


「話がまとまったのならば、言うことはありませんが……」

 言葉とは裏腹に、福永の顔がはっきりと不満を物語っていた。

 海軍のツウとカアを理解して、なおかつ総隊との橋渡しができる人材というのは貴重だ。そして、それが出向していたはずの福永にできず、完全に籍を移したはずの生田にそれができたことが、いたくプライドを傷つけたのだろう。


 検問の兵に見送られながら、再び車が発進する。

 彼らに敬礼を返し、姿が見えなくなったあたりで山本が低い声で言った。

「――福永君、さっきのはいかんでしょ」

「……申し訳ありません」

 福永は肩を震わせ、恥入っていた。内心、忸怩たる思いであるに違いない。


「相手は、あれ……。陸さんの出身者だろ。潮気のない相手をスマートにやりこめられないようじゃあ駄目だよ」

「返す言葉もございません」

 ひたすらに恐縮している福永を見かねてか、車外から擁護の声が上がった。

 自動二輪をAA車の横付けに走らせている生田だ。


「まあ、そこまでにしておいてくださいよ。あちらさんの頑固さは今に始まったことじゃあないし、多分あのままごり押そうとしても上に連絡が行くだけでしたよ」

「そうか、やはり融通が利かないのだなあ」

「あれでも護民に来た人らは大分丸くなってるんですけどね。環境のせいかなあ」

 言いつつ、生田が通りすがりの士官に挨拶をしていく。


「お勤めご苦労様」

「千客万来ですね、お疲れ様です」

 恐らくは陸の出身者だとは思うが、随分生田と仲が良いものだと舌を巻く。

 源田が自分なりに調べたところ、総隊と陸軍の接近は軍令部においても重大な懸念事項として挙げられていたようだ。

 例えば、海軍が艦載砲の提供を渋った時には、陸が代用品を提供していた。

 また、スチールの割り当てで揉めた時にも、やはり陸がニッケル・クローム鋼を必要分回している。

 研究者なども同様で、技術交換の名目で行われる共同研究では、油田から掘り出した原油の接触分解――、つまりは石油化学研究が盛んに進められているようであった。電波探知や磁場探知などの探信技術、陸が何に使うのか皆目見当も付かない水中聴音についてもやはり技術者を派遣しており、こと研究分野において護民総隊は陸軍の一外局と化してしまっている。


 源田は今まで、こうして海と陸、総隊と両者の関係にこれほどの温度差が生じてしまうのは、ひとえに政治力の違いなのではないかと考えていた。

 帝国陸軍はプロイセンを範に取った組織であり、しち面倒くさい政治への介入や薄汚い謀略を練ることに何ら抵抗がない。逆にイギリスを範に取った海軍は、清廉で政治に関わることのないサイレント・ネイビーであることを至上とする。

 故に総隊に対して積極的に陸軍が介入した結果が、今の温度差ではないのかと。しかし、


「接してみると案外良い奴らですよ、彼ら」

 根本的な、意識レヴェルの親密さまでは想定していなかった。

 今までは政治的に海軍と対抗するため、陸がタッグをもちかけたのであろうと、そう思っていたのだ。

 だが、事態はもっと素朴な、草の根にも似た局面において進行しているのかもしれぬ。

 とすれば、海軍の未来に暗雲が立ち込める。政治的な孤立ならば、政治的なフォローによって立場を回復することもできよう。

 だが、これが感情的な孤立であったならば――?

 源田はふと湧き上がった不安を慌てて払いのけ、ぼりぼりと首後ろを掻き毟った。


「見えてきましたよ。提督お目当ての、"うちの"艦隊」

「ん、お……、おお……?」

 緩やかなカーブを描く潟上の高みから、まさかりを思わせる半島の突起がまず目に飛び込んでくる。

 突起を取り囲む海の色が濃い。それは海底までストンと深く落ちている証左であり、ここが湾を掘り込まずとも使える天然の良港であることを示していた。

 そして湾内の、特に海の色が濃くなっているところに50隻弱の軍用艦艇が停泊している。内の半数は"見知った"艦であり、もう半数が知らない艦であった。

 煌びやかなダイヤを模した3層の輪形陣。艦のいずれもが"純白"に輝いている。決して陽光のせいだけではあるまい。

 視察団一行は湾に浮かんだ顔ぶれを見ては目を細め、素直な気持ちを言葉に漏らした。

「……谷口さんは何をお考えなのかね」

 山本がむすりとした顔で言った一言に、宮本こうはいには悪いと思ったが源田も強く同意した。




1936年7月初 秋田土崎港にて



「ワオ、歴代の"ブルーリボン"が並んでいる写真なんて滅多に取れるものじゃないわ! これだけでも遥々日本にやってきた甲斐があるわね」

 秋田の港湾に並ぶ2隻の大洋横断高速客船オーシャン・ライナー、"ノルマンディー"号と"クイーン・メリー"号をぱしゃりとやった連れ合いの女性が、爛々と目を輝かせている。

 昨今に隆盛を誇っている女性らしさを追求したタイトなリブドレスに羽根帽子も、彼女にかかれば形無しであった。どうやら、"美しい羽根が美しい鳥を作る"ということわざは嘘っぱちらしい。反面、上着として着ている海兵マリーンジャケットは良く似合っていた。とどのつまり、彼女の本性は"じゃじゃ馬"なのである。


「エディ、ちょっと手荷物をお願いね」

 丁寧にカールされた短い茶髪をはためかせ、連れ合いの"じゃじゃ馬"がいそいそとその場を離れようとする。当然、カメラは忘れない。

「ヘイ、ヘレン! 一体何処へ行くつもりなんだ」

「それ、愚問よね? AP記者の私には、一番良いアングルで"ブルーリボン"の2ショットを撮らなければならないっていう使命があるのよ」

 言うが早いか、ヘレンは白・亜・黒、様々な人種の入り交ざった観光客の群れをかいくぐり、2隻の船首方面へと向かい始めた。

 エドワード・ショートは嘆息する。

 子持ちになった覚えはないが、子守の如く性質が悪い。無事に観艦式を見終えて帰国した暁には、こんな"じゃじゃ馬"を押し付けてくれた恩人に対して面と向かって苦情を叩きつけねば気が済みそうになかった。



 そもそも、こうしてエドワードが"じゃじゃ馬"に連れまわされることになった発端は、恩人のありがたくもないお節介にある。

 アメリア・イアハートのエスコートを無事に終え、エドワードは再びカーチス・ライト社のテストパイロットとして飛行技術の研鑽に励む日々を送っていた。

 北米大陸横断飛行は良い経験となったが、名声の足しになったかといえば首を傾げざるを得ない。事実、新聞各紙が取り上げていたのは"ミス・リンディ"の偉業のみであり、エスコート役の名前などは忘却の彼方に追いやられていた。


 これは時勢も悪かったのだと思う。近年は兎にも角にも女性解放運動が活発化しており、社会の様々な分野に女性が進出することが"正義"であると報じられる風潮にある。そしてこれは保守もリベラルも変わらない。例えば、シカゴ・トリビューンがアメリア・イアハートを推し出した様に、ワシントン・ポストは"ミセス・ルーズベルト"を推し出していた。

 "ミセス・ルーズベルト"ことエレノア・ルーズベルトは言うまでもなく、現大統領のファースト・レディである。彼女は女性の社会進出に並々ならぬ情熱を燃やしており、昨年には女性が設計に携わったオーシャン・ライナー建造の後援を表明した。

 "開明的"な職種は女性を我先にと取り込んでおり、女性の参入を渋る職種は"閉鎖的"であると叩かれる。

 元来保守的であった航空業界は、槍玉に上がる筆頭であった。そこに英雄"ミス・リンディ"の出現である。

 当面は猫も杓子も"ミス・リンディ"をもてはやす風潮が続くであろうから、兄の汚名を返上する機会は得られないだろう。

 雌伏の時を過ごすエドワードに、日本の知人から来日の誘いが届けられたのは1936年1月のことであった。


『へえ、エディにも日本からの招待状が届いたのか。私は軍務で行けそうにないが、イクタとミヤモトに宜しく言っておいてくれよ』

『分かった。日本土産は何が良い?』

『正直な話、日本については良く分からないのだよな……。カミさんが欲しがりそうな"セッシュー"のブロマイドならハリウッドで手に入るだろうし、わざわざ日本に行って欲しいものとなると……。ああ、新型航空機の写真は欲しいな。できればぱしゃりとやってきてくれ』

『新型航空機の写真って、軍機に関わりそうなもんだってのにジョンは俺に捕まって欲しいのか?』

『だから、"可能な限り"って言ってるだろ』

『ミッション・インポッシブルだ。こん畜生め』

 カーチス・ライト社の通信室にてペンサコーラにいるジョン・サッチとの電話を終えたところで、エドワードは何者かに肩をトントンと叩かれる。

 振り返れば、同僚のスコット航空技師が寝不足の眼をしぱしぱとさせながらこちらを見ていた。


『ヘイ、エディ。新型の航空機って何の話だい?』

 厄介な奴に聞かれたものだと辟易しつつ、エドワードは社員用休憩室に戻ってコーヒーを片手に事情を話す。

 日本の知人に『観艦式を見に来ないか』と誘われたこと。観艦式は日本の新型航空機のお披露目も兼ねていること。元々アジア方面には一度行ってみたいと思っていたこと。

『僕も連れて行ってくれ!』

 新型の航空機に興味を引かれたのか、はたまた新型機開発のための怒濤の三十五連勤に嫌気がさしたのか、スコットが大声を出したところで他の社員も『何だ、何だ』とエドワードたちのもとに集まり始めた。

 そして誰が長期休暇を取ってエドワードに同行するかを決める段になって、テストパイロットの筆頭であり、自身にとっては恩師に当たるジミー・ドーリットルがずばりと彼らを両断した。

『男同士でお手手を繋ぎ、2ヶ月以上も豪華客船のベッドで"よろしく"やるのか?』

 この一言で、同行を望む声がぱたりと止んだ。と、ここまでは良い。

 問題は彼が続けざまに放った一言だ。

『要は写真でもなんでも、情報が欲しいわけだろ。だったら、うちの姪が新聞記者をしているから、エディに同行させればいいんじゃないか』

 この一言で、話題の関心は新型航空機から『ジミーの姪は果たして美人か? エディを蹴飛ばすべきか否か?』に取って代わられる。

 幸いなことに蹴飛ばされはしなかった。

 写真で見せられたヘレン・ドーリットルの姿は十人中八人が振り向く程度には整っていたが、十人中十一人が俯く程度には迫力があったのだ。

 一体、何処のどいつが女子学生ボクシング大会の優勝シーンを見せられて、ムラムラとくるというのであろうか。

 マッチョイズムは男のためにあるのである。



「エディ! 手帳を鞄に忘れてしまったわ。早く来て頂戴!」

 元学生チャンプにして、現新聞記者の"じゃじゃ馬"に呼びかけられ、回想を止めたエドワードはぼりぼりと尻を掻きながら気乗りせずに彼女のもとへと向かった。

「なあ、時間は有限なんだ。アンタの仕事は叔父さんの頼まれごとを遂行することだろ。それで皆がハッピーになれる」

「そうね、時間は有限ね。だから、仕事以外のことに有効利用しないと。子供のお遣いじゃないんだから」

 ツンとして話を聞かない年下の女性の態度に、エドワードは内心で悪態をついた。

 朴念仁でないエドワードには、"じゃじゃ馬"を押し付けたジミーの魂胆が理解できる。要するに、自分の姪と"よろしく"やってもらうことで師弟関係から家族の関係にまで深めたいと思っているのだ。

 尊敬する恩師にそこまで思ってもらえているというのは光栄であったが、流石に"これ"はない。

 エドワードがため息をついていると、秋田の市街地から鼓笛隊のリズムと共に聞き慣れた音楽が聞こえてきた。


「ウソ、"リパブリック讃歌"? 何で日本で……」

 目を丸くするヘレン。"リパブリック讃歌"は南北戦争をテーマにした、アメリカの民謡であった。それが日本で演奏されているという事実に驚きが募る。

 いくら兄を不当に貶められても、祖国の楽曲を耳にして無関心でいられるほどエドワードは合衆国を嫌ってはいない。音の出どころへと注意を払いつつ、それとなくヘレンに提案した。

「行ってみるか?」

「行ってみるわ」

 提案と自由意志の表明は、ほぼ同時に行われた。まるで弾丸のように飛び出していくヘレンを呆れ顔で見送った後、エドワードもいそいそと市街地へと足を運ぶ。


「見て、エディ! パレードをやっているわっ」

「ああ、パレードだなあ」

 どうやら"リパブリック讃歌"はこの国の女学生によって演奏されているようだ。

 綺麗に足並みをそろえたマーチング・バンドが楽器を抱えて楽しげに演じている。

 奇妙なことに、バンドメンバーの2割から3割程度は白人の少女であった。日本は多民族国家であったのであろうか?


「へえ、こちらでもトワリングってするんだ。うちの大学でもドラムメジャーがやっていたけれど、あんなに沢山の女の子がやっていると絵になるわね」

「トワリングって?」

「ほら、あの先頭で棒をくるくるってやっている演技のことよ。うちでもフットボールの応援団が良くやっていたんだけど、行進しながらは見たことがなかったな」

 ヘレンに促され先頭を見てみると、確かにバンドメンバーの"綺麗どころ"が指揮杖や各国の旗を振り回していた。

 相当に筋力を使いそうなものだが、皆が自信に満ち溢れた笑顔を浮かべている。あれは恐らく、彼女らの中では名誉職なのであろう。華やかさの裏に、苛烈なポジション争いが透けて見える。

 そうこうしている内に、演奏曲が変わった。"リパブリック讃歌"の次は"英国擲弾兵グレナディアーズ"。護民総隊は海軍組織と聞いていたのに、陸ずくめの選曲だった。どうやら見境がないらしい。

 パレードを見物していた中から、口笛による賞賛があがった。多分、英国人が見物しているのだ。

 そう考えると、外国人を出迎えるこのイベントにおいて、他国の行進曲を演奏することはあながち間違いではないのかもしれない。

 パレードが通り過ぎたところで、ヘレンが腹を手で擦り笑った。


「……昼食にしない? 屋台で何かを買っても良いし、何処かお店に入ってもいいけど」

 エドワードは呆れながらもこれに同意する。どうにも目の前の女性は、手綱を取ろうとすること自体が間違っているように思える。予定がお座なりにならぬ限りは、さながらプレーリーの雌牛の如く放し飼いにするのが正解なのだろう。それに、自分も腹が減っていた。


「良いよ。適当な軽食屋に入ろう」

 そう言って手近な軽食屋を物色して入店する。日本の伝統食にも興味があったのだが、初日から冒険する必要はあるまいとして、とりあえずは洋食屋を選んだ。

 妙にイタリアの面影を感じる品揃えであったが、エドワードは無難にカツレツのサンドイッチを頼み、ヘレンは魚卵で和えたパスタを注文する。

 味は安さの割には可もなく不可もなくと言ったところであったが、何よりもボリュームがあったのが助かった。相席で山盛りのパスタをかっくらっていたイタリア人男性が気にはなったが、概ね満足のいく形で店を出る。


「それにしても、不思議ねえ」

 何処となく興が乗って二人並んで市内を散策している最中、ヘレンがぽつりと言葉を漏らした。

「何がさ」

「この街が、よ」

「不思議、ねえ」

 言われてみれば、不思議な街だ。アジア人も白人も黒人も見かけるところは合衆国にも似ているが、発展途上の色合いが強い。活気がある、と言い換えてもいいかもしれない。


「私、アジアというとオリエンタリズムの国ってイメージや、未開の地域という印象しかなかったわ」

「まあ、確かに未開じゃないな。ただ、ここより上海の方が街は綺麗だと聞くぜ」

 まだ存命であった頃の兄からアジアの写真を送ってもらったことがあり、エドワードは上海や香港の町並みも知っていた。大陸にそびえたつ摩天楼と比べれば、秋田の街は伝統的な木造建築も多く、発展しているとは言いがたい。

 エドワードの返しに、ヘレンはふるふると頭を振った。


「違う、そうじゃなくて。アジアの町並みって、大抵は白人が作ったものでしょう? ここは多分違うのよね。それなのに日本人以外がこうして沢山集っていることが、不思議なのよ」

 言って、ヘレンは写真機を構えて喫茶店のテラスで茶を嗜む人々の姿を写真に収めた。

「へえ」

 彼女の随分と真面目な物言いにエドワードは面食らい、感嘆の息を吐く。

「何よ?」

「意外としっかり考えているんだって感心しただけさ」

「新聞記者だもの」

 誇らしげに答えるその表情は何とも小憎たらしく、エドワードはお手上げとばかりに肩を竦めた。


 その後、土崎港へは遠回りをして帰ることに決め、神社仏閣の手前に張り出していたバザールで伝統品を物色し、射的を楽しみ、醤油なる調味料を用いた屋台料理や中華料理を腹に収める。

 ちょろちょろと透明な水の流れる水路に住むカラフルな魚をしげしげと見ながら歩いていると、見覚えのある樹形の並んだ小道に辿りついた。

 しばし頭を捻り、思い出す。


「ああ、チェリー・ブロッサムか」

 どうやら宮本が手紙で言っていたことは本当であったらしい。赤黒いさくらんぼがぽつぽつと実っている。見るからに不味そうだ。

「エディ、樹の名前なんて知っているんだ。飛行機の名前しか知らないのかと思ってた」

「意外にしっかりと物を考えているんだよ」

「航空士なのに?」

「航空士だからと言ってくれ」

 ヘレンが笑った。マッチョな割に笑顔はチャーミングなのだなと思いつつ、売り言葉に買い言葉を返す。

 小道を抜けて、公園に出ると再び観光客がたむろしていた。


「ここは何の催しをやっているのかしら」

「聞いてみた方が早いかもしれないなあ。エクスキューズミー!」

 とりあえず、手近にいた白人男性に声をかけて聞くことにする。

 白人男性は、ル・グランというフランス人の青年であった。俳優のような甘いマスクがとにかく印象的で、立ち並ぶと僅かに気後れしてしまう。


「ここは記録映像の上映や、この街の発展史。それに勅令護民総隊の足跡について展示説明を行っているそうですよ」

「護民総隊の?」

 エドワードは目を見開いて辺りを見回したが、知人らしき男性の姿は見られなかった。それどころか軍人の姿すら見つからない。

「ねえ、ムッシュ。軍隊の展示を行っているとのことだけど、軍人の姿が見られないわ」

 ヘレンが興味津々と話に割り込んでくる。ル・グランは柔らかに微笑んで、彼女の問いにも答えを返した。


「民間の企画だそうですからね。総隊は情報を提供するだけ。後は好き勝手にやってくれと。結構面白いですよ。総隊のお膝元で、堂々と"貧乏所帯"なんて言葉を使っていたり」

「それはすごいな」

 普通、軍隊は威厳を保つために好き勝手な言論を嫌う傾向にある。民間の力が強いのだろうか。

 興味が引かれて、背伸びをしては人ごみの上から展示を覗き見る。そこにはパネルに張り出された説明文と、単葉の航空機が置かれていた。

 機密であるはずの一角が、である。


「ウソだろ! 道草を食って目的を達成しちまったぞ」

「ちょっと、エディ!?」

 人ごみを掻き分け、観衆の最前列へと躍り出る。

 ガル翼の単葉機、説明文にはいくつかの国の言葉で海上護衛1型哨戒機と書かれていた。トレントで見かけた機体の改修機らしく、新型機ではないようだ。

 民間人の学生らしき青年が解説も行っていたが、こちらは生憎と日本語で聞き取れなかった。


「よろしければ、通訳しましょうか?」

「してくれるのか?」

 ル・グランのまさかの提案にエドワードは前のめりに食いついた。

 ル・グランはこちらのあまりの食いつきように苦笑いを浮かべると、

「うちの"ボス"がスライド映写を見に行っている間だけですけどね」

「スライド映写ですって? 私たちも見ましょう、エディ!」

 こちら言葉に、今度はヘレンが食いついた。

「待てよ、ヘレン! 叔父さんの頼まれごとを忘れたのか。物事には優先順位ってもんがあるだろうが!」

「どうせ、観艦式でも見られるんでしょう? だったら椅子に座って優雅に映写を楽しみたいじゃない」

「アンタなあ……」

 既に彼女は叔父に頼まれた航空機の視察という本分を忘れて、"未知の国"の取材・観光を楽しむ腹づもりであった。

 ル・グランは二人のやりとりが随分とおかしかったらしく、口元を押さえて笑う。


「こうなったらレディは強いですよね。こちらの展示は時間が区切られていませんし、上映時間の限定された映写を優先しても良いのではないでしょうか。私もお付き合いしますよ」

 しれっと同行を申し出るル・グランに、随分自由なものだとエドワードは呆れて返す。

「"ボス"の居ぬ間に休憩していたんじゃないのか?」

「単に航空機が好きでしたから、この辺りをふらふらと別行動をしているだけですよ。面白そうなものを見てまわるだけです」

 まだ出会って間もないが、エドワードはこの男がどうやらお人好しの類に属する人間であることが確信できていた。

 あまり好意にぶら下がったままというのも良くないが、さりとて日本語を解する通訳の存在は貴重だ。

 エドワードはル・グランに手を差し出して礼を述べる。

「すまない。案内をお願いできるか?」

「勿論」

 ル・グランの先導した先は、いわゆる中央広場になっており、大型の天幕が建てられていた。

 入場は無料。チケットはないが、売店はある。エドワードは瓶入りの炭酸水を購入して、薄暗い天幕の中へと入っていった。


「はて、結局戻ってきたのかね?」

「はい、ダルラン提督。米国人の友人の案内を駆って出まして……」

 小声でダルランと呼ばれた初老の男性は、何とも人の良さそうな人相をしていた。背筋を伸ばしてベンチに座っており、その左隣にはエドワードと同じ瓶入り炭酸水をちびちびと飲む少年が座っている。

 はて、と首を傾げる。少年は見るからにアジア人であった。


「ごきげんよう、ムッシュ。隣のお子さんはお孫さん?」

 物怖じしないヘレンが問うと、ダルランが愉快そうに肩を震わせる。

「戦友の息子ですよ。マダム」

「そこはマドモアゼルと仰って欲しかったですわね」

 戦友の息子と紹介されたアジア人少年は、ちょこんとした細い足を揃えてこちらに頭を下げてくる。


「シゲノです。マドモアゼル」

「あら、お上手」

 気の利いた物言いのできる利発な少年だ。ヘレンはすっかりと彼が気に入ってしまい、断りを得ることもなく彼の隣に腰をかけてしまった。

 空いた席はダルランの右隣だけであったため、エドワードとル・グランは周りに迷惑のかからないよう、静かに腰をかける。幸いなことに、上映は始まったばかりのようであった。


「……かつて我々の住む秋田は、凶作のたびに飢え死にする者が出る、口減らしの為に娘を女衒に売り出さねばならない土地でありました」

 スライドの構成は、困窮した地域の再生やその手法についてを写真を用いた比較で分かりやすく説明するものであった。語り部は演説を商売としている者であるのだろうが、いかんせんエドワードは日本語が分からない。そのため、字幕とル・グランの通訳を頼りに鑑賞をしなければならなかった。


「ここ、僕が通っている学校が今建っているんです。ほら」

「結構立派ね。アラメダのハイスクールを思い出すかも」

 政治経済にあまり関心のないエドワードからしてみると、少々退屈な内容が続く。

「面白いなあ。要するに王権力による富の再分配が起こったのよね」

「ニュー・ディールの二番煎じだろ」

 欠伸をかみ殺したところで、再びヘレンの喝采があがった。自由主義者にして女性解放運動者である彼女からしてみると、女性を取り巻く環境の変化と自由獲得の勝利は、随分と輝かしいものに見えるらしい。

 しばらくして、街の空中撮影が映し出されたところでエドワードの眠気もぱっと覚めた。

 きっちりとバンク角を一定に揃えた空撮だ。恐らく、パイロットは相当に上手い。


「上手いなあ」

 ル・グランの呟きが耳に入る。やはり彼も航空士なのだろう。ならば、有識者同士で色々とこの国の航空技術に関して意見を交換したいところだ。

 やがて、退屈な街の発展史に関する上映が終わると、護民総隊の足跡に関する上映が始まった。


「……陛下の勅令により発足された護民総隊は、全くの予算0からスタートを切ったのであります」

 映し出されたスライドには、漁船のような小型艇が映し出されていた。何かの間違いかとも思ったが、どうやら総隊はこの"漁船もどき"でソ連との戦いを切り抜けたらしい。

 そしてこの国の北方、オホーツク海の戦いに関する解説が始まる。


「おっ」

 ここから先はスライドの映写だけではなく、動画が交えられていた。

 いかにして撮影したのだろうか。敵艦の全貌までもが詳細に映像として収められており、それが艦隊を率いて海を走る様までもが上映される。


「……バルト艦隊の保有していた"オルフェイ"級だな。まともに当たっては勝ち目がない。あそこで一当てする決断をした提督に敬意を覚えるよ」

 ダルランが驚嘆の息を吐いた。先ほどから気になっていたが、"提督"ということはフランス海軍の上役なのであろうか? 何故、祖国を離れて日本に来ているのか疑問が募る。

 動画に航空機が映し出された。思わずエドワードは身を乗り出してスクリーンを注視する。

 映し出された機体は、先ほど広場で見た海上護衛1型哨戒機だ。スクリーンの中で海面すれすれを飛びまわり、敵艦の火砲をくぐり抜ける技術に会場から驚きの声が挙がったが、エドワードは逆に失望を覚えた。

 どうやら、この映像は模型を巧みに動かした、ただの再現映像であるようなのだ。偽物と分かれば、途端に興醒めしてしまう。

 ただ、嘘か真か航空機の一機が放った銃弾が駆逐艦を大破させた段については小気味良く感じた。その立役者の顔写真がアップで映し出されたところで、エドワードはがたりと立ち上がった。


「ミヤモト!?」

 一斉に非難の目がエドワードに向けられた。先ほどまで喝采の声をあげていたヘレンにまで批判され、面目の立ちようもないエドワードはすごすごと静かに座り直す。


「えー……。ご指摘の通り、彼の名は宮本千早航空士であります。護民総隊におけるエース・パイロットの一角であり、現在は航空参謀として後進の育成に励んでおります。とはいえ、その腕前は現役を退いてからも錆び付いておらず。こちらは先日に行われた新人育成の模擬空戦映像になります」

 語り部がここで解説をやめ、今までの臨場感に溢れた映像とは異なる、遠目に機体の挙動だけを撮影した空戦の風景が映し出された。


「うぁ……」

 ル・グランが声にならぬ呻き声をあげる。

 新人と行ったという一対一の模擬空戦は、全てが宮本の圧勝で終わっていた。

 ヘッド・オンから始まった対等の空戦においては、5回の旋回を終えるまでには必ず宮本機が新人の駆る機体を押さえつけている。

 高度有利に背後までとった、新人機優勢の立場で始まっても、やはり気づいた時には宮本機が完封してしまっている。


「両機体は本当に同じスペックなのか……?」

 エドワードの呟きに、ル・グランが口を挟んでくる。

「スペックは同じでしょう。速度も、一度目の交差角度も差がありませんから。ただ、交互つづら折り機動(シザーズ)に持ち込んだ後が"有り得ない"」

 ル・グランの言葉に同意する。

 スクリーン上の2機は、縫うような螺旋機動を互い違いに繰り返していた。いわゆるバーティカル・ローリング・シザーズの形であったが、両者の旋回半径から隔絶した技量差が窺える。

 言うなれば新人機の機動は大きなビア樽で、対する宮本機のそれはまるで針子の機織り(ウィーブ)だ。


「どういうこと? エディ。さっきからミヤモトというパイロットが連勝しているのは分かるけれど、そんなにすごいことをやっているの? 新人をただ捻っているだけでなくて?」

「馬鹿言うな。映像に映ってる新人とやらが本当に新人なら、世にいるベテランの半分はパイロットを失業しちまう」

 この映像の価値を理解していないヘレンを、エドワードは慌てて嗜める。


「だったら、どう凄いのか教えてよ」

「分かったよ。じゃあ、この空戦映像から……」

 言って、エドワードは映像に解説を差し挟んでいく。


「この空戦は機首の向かい合った反航戦……、つまりヘッド・オンからスタートした。互いに軸をずらしてすれ違ったところで旋回を開始している」

「新人機は相手を"押し出す"ためにスロットルを絞った斜め上旋回を初めから心がけていますね。分かっている動きです」

 相槌にル・グランが加わってきた。検証の足しにもなるため、エドワードとしては大歓迎だ。エドワードは頷き、続ける。


「戦闘機による空戦は畢竟ひっきょう、敵の背後を取った方が勝つんだ。"押し出し"は正攻法中の正攻法。樽回り機動(バレルロール)もハイ・ヨーヨーも全ては相手を"押し出す"ためのテクニックに過ぎない」

「良く分からないけど、速度が遅いほうが有利ということ?」

 要領を得ないという風に問うヘレンであったが、その答えは当たらずとも遠からずと行ったところを射抜いていた。


「その認識で正しい。運動性能が同程度の機体ならば、旋回戦はどれだけ機体を遅くコントロールできるかが鍵になる。だが、これは"失速"のリスクを負ってしまうんだ。そこで失速寸前にまで速度をコントロールする術と、速度を回復するタイミングが重要になる」

「でも、それおかしいわ。今の、ミヤモトのは下旋回で始めているじゃないの。"分かってない"動きということ?」

 やはりこの女性は考える頭を持っているらしい。与えられた情報から、合理的に答えを導き出すことができている。案外、新聞記者からパイロットに転向しても"ミス・リンディ"くらいには上達するかもしれない。


「下旋回は確かに"押し出される"リスクを負う。だが、同時に"速度"がなくちゃ敵に攻撃できないんだよ。逃げるにも、敵を追いかけるにもな。今のは増速して急上昇を狙ったんだ。互いの射線がずれた状態ですれ違う。二回目の旋回では新人機よりも高い位置へつけているだろ」

「……難しいわ」

「これからもっと難しくなる。ほら、ここだ。ここで宮本機は完全に"失速"している」

 恐ろしい話であった。

 失速に至る限界速度は75ノットあたりだろうか。だが、上昇旋回の頂点において宮本機は明らかに30ノット以下にまで速力を落としている。完全に失速しているはずなのだが、機体の挙動は安定していた。

 まるでお辞儀をするようにその場でかくんと横に折れ、大幅に旋回半径を縮小して新人機を追う。


「……本来パイロットが避けなきゃならない、"失速"すらも完全に武器にしていやがるんだ。あいつは」

 墜落が怖くないのだろうか? 頭のネジが飛んでしまっているとしか思えない。

 その後も模擬空戦という名のなぶり殺し映像が放映される。

 空に身を置いていない、外野の反応は上々のようであった。エース・パイロットの雄姿に、自分までもが偉くなったように感じているのかもしれない。

 だが、同業者の反応はひどいものであった。ル・グランは顔を真っ青にしているし、自身もはっきりと恐怖を自覚している。

 あれは死神だ。もし戦場で出会ってしまったならば、100%死が確定してしまう類のおぞましい何かである。

 背中を追っていたはずなのに、こうもまざまざと巨大な壁を見せ付けられてしまうと最早ため息しか出なかった。

 これまでに重ねてきた自分の努力が無意味にすら思えてくる。

 宮本と自分の力量差は、果たして飛行時間を増やすだけで縮められるものなのだろうか?

 分からない。

 分からないが、一度"空の高み"を目指すと決めた以上、諦めるなんてことはしたくなかった。



 上映を見終え、陰鬱とした気分のまま本日宿泊予定の"浅間丸"へと向かう。奇遇なことにル・グランたちも目的地は同じであったのだが、立ち寄らなければならない場所があるらしく、途中で別れることになった。

「結構楽しめたわね。明日は洋上で揺られながら、日本の艦隊を観閲か。正直あまり興味はないから、他にも色々と催し物があるといいのだけれど」

 長時間椅子に座っていたため体が凝り固まってしまったのか、ヘレンは大きく背伸びをしながら楽しげに言う。

 特に反応もせずに横に並んで歩いていると、眉根を寄せたヘレンが問いかけてきた。


「何よ、神妙な顔しちゃって。つまらなかったの?」

「いや、そうじゃない。何て言うのかな。少し参考になりすぎただけさ」

「ナイーブなところもあるのね。貴方って」

 馬鹿にしているのかとヘレンを睨みつけたが、すぐさま笑顔で「褒めているのよ」と返され、拳の振り下ろし先を失ってしまう。やりづらい女だ。しばし、無言で目的地へと向かう。


 "浅間丸"は歴代の"ブルーリボン"に比べるとやや見劣りするものの、それでも十分に豪華客船にカテゴライズされる船であった。

 タラップには行列ができており、乗船するにはしばらく時間がかかりそうだ。

 置時計を見てみると、何時の間にやら午後6時を過ぎている。夕方を自覚した瞬間、腹の虫がぐうとなった。憂鬱な気分になっていても、生理現象だけは抑えようもない。

 列の後ろで忍び笑いが漏れ出でた。腹の虫を聞かれたのかと振り返ってみると、大柄な白人紳士の視線がやはりこちらに固定されている。

 背はエドワードと比べても若干高く、上品な歳の取り方をしている。

 紳士は笑いをかみ殺すようにして、口ひげを震わせ声をかけてきた。


「夕食が待ち遠しいですね?」

 彼の話す言葉は巻き舌の強い、合衆国の英語であった。

「あんた、アメリカ人か?」

 問いかけてみると、紳士は嬉しそうにまなじりを緩める。


「イエス。貴方と同じ米国人ですよ。こんな極東の地で同胞と出会えたことを嬉しく思います。ミスター・ショート」

「えっ。何で、俺のことを?」

 記憶を辿る限りでは、この紳士とは面識がなかったはずである。見知らぬ他人に自分の名が知られていることが何とも奇妙に思えて、思わず目を白黒とさせていると、紳士が人差し指を一本立てて、したり顔で言った。


「トンプソン・トロフィー・レースの優勝者、エドワード・ショートの名を知らぬ者は、航空機ファンの間ではモグリですよ。昨年には"ミス・リンディ"のエスコートもしていらっしゃいましたね。きっと"姫様のお守り"は大変だったことでしょう。心中お察しいたします」

 てっきり自らの業績が全て"ミス・リンディ"に吸われてしまっているものと思っていたから、こうして自分の"追っかけ"がいるという事実には何ともこそばゆい物を感じる。

 照れ隠しに頬を掻きつつ、今更ながら目の前の紳士の名前を聞いていなかったことに気がついた。


「……アンタの名は?」

「申し遅れました。私の名はジョゼフ。ジョゼフ・グルーと申します。今は合衆国の駐日大使なんぞをやっております」

 着崩していたスーツはそのままで、ジョゼフはエドワードとエネルギッシュな握手を交わす。

 見た目よりもフランクな人物なのかもしれない。


「へえ、エディにもファンがいるのね」

「彼の飛行技術は合衆国でも有数ですからね、ミス」

 感心するヘレンに対し、ジョゼフはエドワードが如何に優れているかを人目も問わずに熱弁しだした。

「ほう」と周囲が耳を傾けてくる中、何とも居心地の悪い思いをする羽目になったが、決して不快というわけではない。要するに身内ではない誰かに認めてもらえて、嬉しかったのだ。


「日本に来たということは、やはり新型航空機がお目当てですか?」

「そうなんだ。知人から、是非にと言われて丁度時間もあったもんだから、こうして遥々やって来た。少し街中を回ってみたが、来て良かったと思ってるよ」

「ああ、総隊に知人がいらっしゃるのですね」

 ジョゼフが少し、目を細めた。そしてすぐに晴れやかな笑顔を浮かべて言う。


「私も総隊に知人がいるのですよ。ミスター・ミヤモトという……」

「ミヤモトを知っているのか?」

「それは勿論。貴方の兄との間に起きた"不幸な事故"のことも、皆知っています」

 恐らく、蘇州で起きた航空戦のことを言っているのだろう。兄のことを思い出し少し物悲しくさせられたが、それよりも引っかかるものが彼の言葉の中にあった。


「"不幸な事故"ってどういうことだ……?」

 ミヤモトと兄が戦う羽目になったことが不幸だというなら、それは納得もいく。戦争は全てを不幸にするのだ。ただ、"事故"とは一体何を指し示しているのか。

 ジョゼフは失言したといわんばかりに表情を歪め、話を打ち切ろうとする。が、その態度が尚更にエドワードの興味を引く。


「どういうことなんだ」

 更に詰め寄ると、観念したジョゼフが「ここだけの話ですよ」と小声で言った。

「そもそも貴方の兄、ロバート・ショート氏を言葉巧みに戦場へ連れ出し、日本の航空機部隊に単機でぶつけたのは上海のユダヤ商人だったのです」

「えっ……」

「ミスター・ミヤモトのことを知っているなら、彼らが"女子供の乗る列車をわざわざ爆撃"するなんて思えますか?」

「それは――」

 そんな非人道的なことを行うはずはない。手紙のみのやり取りではあったが、数年も付き合ったのだ。宮本の人となりはよく理解している。あれは非人道的な行いをして、素知らぬ顔で日常生活を送れる手合いではなかった。ならば、


「実際には女子供など乗っておらず、載せられていたのはシナ軍閥に売り込むための武器弾薬でした。それを事前に察知した帝国海軍が兵站爆撃を行う計画を立て、更にユダヤ商人も帝国海軍の動きを知った。彼らは慌てたでしょうね。爆撃で商品を台無しにされては大損です。ですから、当時上海に滞在していたロバート氏を誘導したのです。丁度ユダヤ系列のホテルに泊まっていましたから、接触は容易でした」

 ジョゼフの説明は、その尽くが納得のいくものであった。昨今、合衆国で流布されているユダヤ人による陰謀論もあいまって、まるで"そうとしか思えない"。

 エドワードは騙された兄の身の上を思い、気づけば下唇を噛み切っていた。


「大方無法者を懲らしめてやれとでも唆されたのでしょう。だが、待ち受けていたのは日本の最精鋭部隊だった。ユダヤ商人にとってはそれでもよかったのです。ロバート氏には時間稼ぎをしてもらうつもりでしたから。そして――」

「その先は聞きたくない」

 エドワードの言葉に、ジョゼフは無言で頭を下げる。


「……失礼。ただ、ミスター・エドワードはお気をつけください。この国の急発展の影にはユダヤ資本が見え隠れしております。何処に目と耳があるのか分からない。どうかロバート氏のように騙されることのないよう」

「ああ」

 エドワードは頷き、答える。


「分かりすぎるほどに、分かったよ」

 金のためならば人の正義を、命を、憎しみを弄ぶ輩がこの世界には存在するのだということを、エドワードはこのとき心に強く刻み付けた。



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