表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/68

1936年4月 秋田県、女学校の校有地にて

 ハイムガルトナー国際女学校はアウグスト商会の出資を受けて心機一転の門出を迎えた、環日本海きっての小・中一貫女子教育機関だ。

 新校舎は秋田県北部の能代郊外にある。楢山にあった旧校舎はそのまま飛び地として活用する予定とのことだが、秋田市内から能代まで頻繁に行き来をしている宮本大和にとっては、その発想はあまり効率が良いとは思えなかった。

 秋田市内から国際女学校までは奥羽本線を使う。だが、学校が沿線から外れた位置にあるために、最寄りの駅から更にトロリーバスに乗り換え、国際女学校前駅まで三十分の道のりを我慢する必要があった。

 元から秋田市内に校舎のある秋田実業学校や、特別に軍用鉄道を敷かれた護民総隊本部と比べて、交通の便が悪いのである。陸の孤島と評しても良い。

 そのあたりの事情が影響してか、この女学校界隈には開校してより早くも独特の文化圏が築き上げられていた。


「Auf Wiedersehen。ヤマト?」

 ベンチに座っていた大和に対して行儀よくぺこりとやっていったのはシオン共和国から留学生であった。空色の制服に身を包んだ彼女は驚くほどに現代的な髪型をしている。

「ああ、えっと。こんにちわ。そちらこそ、グーテンターク」

「Gute!」

 行儀の良さに幼さの残る所作で手を振ると、彼女は小走りに駆け去っていく。ミックスである大和だが、外国人との交流に堪能というわけではない。心持ち気疲れして息をついていると、すぐさま"おかわり"がやってきた。


「ダァグゥハオ!」

「あ、うん。ニンハオ」

 中国人も韓国人もスラブ人も、大和の姿を見かけると例の如くぺこりとやる。生まれこそ違えども、一見して分かる育ちの良さは共通点だ。この女学校、奨学金で通うことのできる日本人と違って、やはり海外勢が不便のないよう留学するにはハードルが高いらしい。


「校舎内は気が引けるからって庭園までやってきたけど……、意外と目を引いちゃうね。大和君」

 隣で美冬と一緒に本を読んでいたのどかがぽつりと言った。

 構内はまるで時計のように施設が配置されている。中心部が校舎であり、6時方向には学生寮と正面玄関、そして見目麗しい庭園が置かれていた。

 その庭園の休憩スペースに、大和たちは陣取っているわけだ。


「こっちなら男の人も多いから大丈夫だと思ったんだがなあ」

 と大和は辟易して返す。

 事情を知らない外部の人間からしてみれば意外なことに思えるかもしれないが、ここは別段男子禁制ではない。

 用務員は寮長以外は軒並み男性であったし、そもそも教員の半数以上も男性である。

 例えば、女子吹奏楽部を引き連れて八郎潟まで"長距離行進訓練"なるものに出かけていった英国人男性などが、その典型だ。原則として関係者以外は立ち入り厳禁であったが、幼稚舎で手伝いをやっていたこともある大和は、関係者の側にカテゴライズされていた。

 更に今回は出資者であるシャルロッテや今年度から生徒として入学していた美冬に呼び出されたという手前もある。


「それだけじゃないと思うけどね」

「何がさ、のどか」

「大和君の容姿、やっぱ親近感湧くんじゃないかな」

「あー」

 大和の高身長と彫りの深さは、この時代の男性と比べると異質にすら映る。親が望んだのか自分で望んだのかは分からないが、この学校に通う少女たちも不安を抱えて生きているのかもしれない。特に昨今の「~~人は」などと人種の一々が原罪として取り沙汰される緊迫した国際情勢を鑑みれば尚更だ。

 その点については、大和自身も小学生の頃には容姿をからかわれたことがあったから良く理解できた。

 ちらりとのどかを見る。彼女は混じりものとして自分がからかわれていた時にも一貫して味方に回ってくれた貴重な存在であった。


「どしたの、大和君」

「いや、美冬ちゃんと何読んでんのかなって」

 そう言うと、楽しげにページをめくっていた美冬がのどかの膝に乗り上げて、前のめりに反応してきた。

「昨年、こちらで出た女流小説ですよ。今流行の"ポス・コロ文学"です。植民地で生まれた女性ダンサーが、パトロンを得て上流社会へ乗り込んでいくハーレクインものですね」

 一瞬それが何なのか意味を掴みかねる。一ヶ月おきという短いスパンで現代から戦前に度々タイムスリップしては恐る恐る様子見をしている大和と違い、美冬は既に"こちら側"へと生活基盤を移していた。当然ながら、常識の類も異なってくるわけだ。

 しばらく脳内を検索していき、"こちら側"の新聞にあったコラムを思い出した。


脱植民地化ポストコロニアだっけか。それ、てっきり政治経済の用語だと思ってた」

 脱植民地化とは独立の気運が高まったアジア情勢の中において、にわかに勃興した理論の一つだ。

 この理論はまず植民地の定義付けから始まっており、次に植民地状態からの脱却に向けた方法論の提示へと続く。


 大ざっぱに言えば、近代の植民地に求められる価値は一に人口。二にカロリー・ベースの食料生産力。三に埋蔵資源の市場価値となる。

 特に食料生産力は重要だ。帝国主義的な搾取・収奪を行う場合には植民地の住民が最低限生きていけるだけのカロリーを確保する必要がある。

 人口は商品の売却先として重要になるが、その反面に内乱の危険性をはらむ。価値の高い埋蔵資源の存在は最悪で、これがあまりに高いと先住民の絶滅すらも選択肢として考慮されてしまう。

 こうして定義付けが行われた後で植民地状態からの脱却。つまり独立に向けての方法論が提示されるわけだが、こちらは至極シンプルな結論であった。


 要するに植民地経営が儲からない状況へと追い込んでしまえばいいのである。

 例えば、武力闘争。アメリカ独立戦争に代表されるように、長期的な紛争状態が"損"になると判断されれば、宗主国は何らかの形で手を引くことになるだろう。

 直接的には価値ある資源の枯渇も独立へのきっかけになり得る。もっとも、こちらは脆弱な産業基盤のままに独立することになるため、その未来は決して明るくはならない。

 面白いところでは食糧自給率の故意による低下も提示されていた。

 食料自給率を下げ、他国に依存するということは他国との付き合いを決して打ち切らないという意思表示でもある。そして他国と緊張関係に陥った場合も、膨大な食料維持費を攻め手に強いることになり、占領を躊躇させる効果が見込めるらしい。

 ただ、一方で絶滅政策を平気で実行できるような相手が敵だと潜在的抑止力が機能しないという問題点もあった。


 ……と脱植民地化について知り得ることをつらつらと思い出してみたが、論理に先行しすぎていて、やはり美冬の言う"ポス・コロ文学"なる代物とは繋がらない。

 字面だけで考えれば、独立の機運を素直に受け止めた解放主義的な文学なのだろうか。そうだとするなら、文学というものは流行に影響を受けやすいミーハーなジャンルなのだなあと思える。


「先月に大和さんにお貸しした小説も、"ポス・コロ"でしたよ。お友達に紹介してもらったんです」

「え、マジで?」

 彼女の言う小説とは、周という中国人作家が書いたシリーズものの伝奇小説であった。

 あらすじを言えば、架空の世界にある白人帝国に支配された貧困都市出身の好漢が、異能を持った108人の仲間を募って帝国に反逆するというものだ。現代の漫画に通じる面白さがあり、続巻はないものかと駄目元で現代を探し求めてみたものの、そもそも同名の作者が伝奇小説を書いたという形跡すら見当たらなかったことを良く覚えている。


「あれも"ポス・コロ"、これも"ポス・コロ"。何というか、ガバガバだなあ」

「ええ、ガバガバです」

 美冬は微笑んで、更に続ける。


「……世の中の影響を受けやすいからこそ、時間の流れが変わったんだなって分かりやすいですよね」

「ん、そっか。そうだな……」

 全ては大和の持ち込んだ高校の教科書が発端になっていた。

 先ほどまで読んでいた新聞に目を落とす。


 大東亜連合の設立。東西ヨーロッパの対立……。

 "グロリオス諸島の悪夢"など、未来を知る大和にとっては911テロや日本の"神風"と同種のものとしか映らない。

 背筋が寒くなった。

 たった十冊にも満たない本が過去に持ち込まれただけで、こうまで歴史が改変されてしまっているのだ。

 千早や要は大和に責任はないと言っていたが、到底そんな楽観的な考えは抱けそうにない。


 大和のやったことは、空を飛ぶ大量の蝶の行き先に囲いをつけて、一定の方向へと導いたようなものだ。その先に蜘蛛の巣があれば、当然蝶の多くが命を散らす。

 ただの蝶なら少々の罪悪感で済むだろう。だが、それが人の命である以上は仕方ないと諦めることができなかった。

 ならば歴史の軌道修正がこの自分に可能なのか? はっきり言って、無理だと断言できる。自分にはこの時代における社会的身分が足りていないし、何が正解かも分からない。そもそものきっかけが、教科書などという借り物の、自分自身で編み出した知識ではないのである。

 一方で理解のある大人に頼るという選択肢も、そもそも頼るべき彼らが正解を選ぶという保証すらないわけで、責任を丸投げにするつもりは毛頭無かった。

 無論、千早たちのことを嫌っているわけではない。むしろ、純粋な好意に感謝しているほどだ。大和に未来知識の催促をしてこないのは、この時代を生きている者の自負が混ざっているのかも知れないが、一方でこちらを慮っていることは間違いない。随分と大事にされていると思う。


「……好きだからこそ、軽くは考えられないのかも知れないな」

「ん、何が?」

「千早さんたちのこと」

「ああ、うん」

 巡り巡って考えてみると、とどのつまり彼らに歴史の愚者になって欲しくはないのだ。だから、下手な知識の提供で"こちら側"を引っかき回したくない。

 引っかき回したくはないが、かといって気にならないはずもなく、大和はこうして懲りることもなくタイムスリップを未だ繰り返している。祖父に禁じられているにも拘わらず、だ。


 はっきり言って、未練だと思う。

 だが、「ああ、この世界はもう駄目だ」と見切りをつけて現代に逃げたところで、悲劇の起きたパラレル・ワールドは大和がいなくなってからもずっと続いていく。戦略系のビデオゲームにあるようなリセットボタンも、セーブ&ロードもありはしないのである。

 大和が深く息を吐いたところで、意外な声が聞こえてきた。


「あれ、ヤマト君じゃあないですか」

 ふわりとした銀髪をたなびかせる共和商事の技術者、ユーリの姿がそこにあった。



「ユーリさん」

「半年ぶりくらいです? のどかさんも美冬さんもお久しぶりです」

 何らかの用事が新校舎にあったのだろう。手持ちの薄い鞄を小脇に抱え、まさに帰りがけといった様相でベンチへと近づいてきたユーリの表情は、何処か晴れやかなものを感じさせた。

 ユーリは何故かきょとんとした様子で、大和が読んでいた新聞へと目を向ける。


「ヤマト君、新聞を読むのに辞書なんて使うんですね」

「え、ああ。はい」

「母国語は日本語でしたよね?」

 解せないという風に首を傾げるユーリ。

 どうやら母国語で書かれた活字を読むのに辞書を使っていることが不思議だったようだ。

 成る程、大和にしてみれば70年も昔の文章を解読するためのツールであったが、他人からすればそんな事情は読みとれまい。

 すぐにピントのずれた理解をして、ユーリは笑顔を綻ばせた。


「とても素晴らしいことだと思いますです。言語には深い意味がありますから、ぱっと見て浅はかな理解をするのではなくて、誤読の無いよう常に辞書を引く姿勢は大事ですね」

「……どうも」

 本当は違うのだが、大和の事情を説明する気にはなれなかった。

 ユーリはうんうんと頷き、さらに賞賛の言葉を口にする。


「普段の姿勢が、ヤマト君の画期的な物の見方を形成しているわけですか。ぼくも見習わなくてはいけませんね」

「画期的、ですか?」

 無意識にこの時代に対して影響を与えるような行動をとっていたのだろうかと身構える。

 その反応が意外だったようで、ユーリは再び怪訝そうな顔になった。


「もしかして、自分が"画期的"であることが許せないのですか?」

 ぎくりとさせられた。

 彼はほぼ0に等しい情報量から、大和の内心に近づきつつある。

 いや、もしかすると千早や要から何らかの事情を聞き出しているのかもしれない。心が苛立つ。自分のことは放っておいてほしい。

 そんな風に考えていたが、ユーリは大和の願いとは裏腹に「少しお邪魔しますね」と丸い木製のテーブルを挟んだベンチの向かいに腰をかけた。


「一度お話してみたいと思っていたんです」

「お話、ですか?」

「ええ! 以前、新型航空機の開発が難航していた時に、君が野原で紙製の飛行機を飛ばしていたのを見かけたんです。あれ、すごく良くできていました! こんな先進的な発想ができるなんてって、嫉妬だってしちゃいましたよ。あ、これ食べます? ロッテ理事長から貰った洋菓子です」

 そう言って朗らかに笑うユーリ。差し出された洋菓子は、何の変哲もないクッキーであった。


「紙飛行機って……」

「あの全翼デルタ状の飛行模型です。ほら、幼稚舎の女の子に作ってあげていた」

「アッ」

 大和は以前竹トンボを無くしてしまった少女に親切心から"トンビ"を作ってあげたことを思い出す。

 迂闊だった。こんなところから時代に影響がありそうな発想が露呈するとは……。


「ヤマト君、大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど」

「いえ……」

 自らの体が震えていることに気がつく。テーブル下でぎゅっと握りしめた拳を、包み込む手があった。のどかの手である。


「大和君、紙飛行機は伝承遊びだから。多分、多分だけど大丈夫。大和君のせいにはならないよ」

「のどか」

 大和とのどかの小声で交わされたやりとりを、やはりユーリは怪訝そうに眺めていた。


「……ヤマト君、ひょっとして自らの"知識"が周囲に与える影響が怖いのですか?」

 ぎょっとさせられたが、それ以上に純粋な怒りが沸いてきた。そんな軽々しく"知識"について考えているなどと、無責任にもほどがある。

 大和は猛然と噛みついた。


「怖くないわけがないでしょう。自分の行いで、世の中がどう変わるかもわからないのに」

「はあ……」

 要領を得ない受け答えに、大和の感情は爆発した。


「ユーリさんはどうなんですか!」

「んん……、怖くはないですね。むしろ大きな発明ができて、歴史に名前が残っちゃったりとか考えると、明日のごはんがおいしいです。それって間違ってますか?」

 間違っているとは言い切れない。大和の生きる未来においてだって、明日の科学技術を背負い立つ人間たちは、皆同様の希望を抱いているはずだ。

 だが、同時に知識を用いるには良心も当然必要だと考える。

 そんなことは、未来ではそれこそ国語の授業でも取り上げるくらいに"常識"だ。

 ユーリは大和の剣幕に、「成る程、これが……」などと納得のいった反応を見せながら、ゆっくりとした口調で問いかけ始めた。


「大和君、多分お互いに認識の違いがあると思いますから、質問しますけど……、"知識"って何でしょう?」

 大和は面食らった。そんな"当たり前"のことを聞かれるとは思わなかったのだ。

 口を尖らせながらも、これに答える。


「……知識は知識でしょ。つまり、知っていること」

 このような"当たり前"の解答に、ユーリは満足げな面持ちで頷いた。


「はい、知っていること。それはその通りなんですが、なんて言うのかな? "知識"は行き先の決まった箱舟ではないんです」

 何を言っているのかが良く分からなかった。ユーリにもこちらの反応が理解できたのか、更に噛み砕いて説明を続ける。


「あ、前提条件から話さなければなりませんね。えっと……、ぼくユダヤ人なんですよ。ユダヤ系ポーランド人」

「えっ?」

「ほら、最近はシオン共和国ができましたでしょ。あそこにいっぱい集まっている民族です。ユダヤ人、分かります?」

 分からないはずがなかった。

 大和は未来においても広島に住んでいる。広島は長崎と秋田を含め、先の大戦でたった"三カ所"しかない、原子爆弾の落ちた土地だ。当然、総合的な学習の時間や道徳、それに歴史公民の授業では戦争の悲劇に関する学習を重点的に行っていく。

 ユダヤ人とは前大戦における被害者の最たる民族であった。

 歴史的に迫害を受けた民族であり、ナチスによる強制収容を受け、そして……。


「あっ」

 その時、大和は気づいてしまった。

 未来において目の前の彼が科学者として名を残していない理由について。

 ユーリは更に続ける。


「ユダヤ人は、今まで国を持たなかった民族です」

「迫害の、歴史……」

「迫害? ああ、ポグロムのことですかね? そう、そういう一面もありますけど、ぼくたちって恵まれた民族なんですよ」

 そういって、ユーリは空を見上げて片手を上げた。どうやら、手で飛行機を模しているらしい。


「ユダヤ人の強みって、国や土地に縛られないことですから。"未来"は自分たちの手で切り開けるんです。ボーダーフリーのパスポートを持っているんですよ。これってすごいことだと思いません?」

 手で作られた飛行機をあちらからこちらへと飛ばし、ユーリは微笑む。


「……でも"未来"を切り開くには、"知識"が必要です。"知識"は可能性を増やせますから。だから、ぼくたちユダヤ人は"知識"というものをとても大事にするんです」

 ユーリがこちらを見る。透き通った瞳がまるで水面のように揺らめいた。


「ぼくたちの神様、知っていますか? "全知全能"なんです。全てを知っていて、全てを可能にする。だから、"知識"は神様なんですよ。"知識"は可能性。それで、"未来"を選択するのは人間。"知識"を善とするのも、悪とするのも人間ということです」

「人間次第……」

 大和は千早の語ったたとえ話を思い出した。凶器を拾ったこどものたとえ話である。

 ユーリは更に言った。


「多分、大和君は"知識"に縛られているのかも知れませんね。可能性を提示されても、進む道が善の道なのか悪の道なのか判断が付かない。だから悩んでいるんだと思います」

「俺自身の悩みも解決するってことですか……?」

 ユーリがにこやかに頷く。


「はい。悩みを解決するための"知識"が得られれば」

「また、"知識"ですか」

 拍子抜けさせられた。

 これではまるで禅問答だが、毒気が抜かれていく心地がする。その理由は明白だ。欠片ではあったが、大和の目の前に道が開けたように感じられたからである。


「はい! 将来有望な大和君は、大いに悩んで試行錯誤して、それで勉強していくべきだと思います」

 だから、若作りな顔かたちをしていながら、妙に説教っぽいことを言うユーリに対して、苦笑いを返すくらいの余裕が生まれる。


「試行錯誤が致命的失敗に繋がらないと良いですけど」

「ええと、いきなり人生の岐路を左右するような試行錯誤をするのではなくてですね。身近な、ほんの小さなことから始めると良いと思いますよ」

「あー、例えば?」

「例えば、ロッテ理事長の服のお話とか。彼女、あなたたちが服を中々用立ててくれないって、もう待ちくたびれているみたいですし。見せたい相手のいる方はせっかちですよ」

 くすりと笑うユーリの言葉に、そういえば今日能代に呼ばれた理由がそもそも以前から頼まれていた未来の洋服にあったことを思い出した。

 無論、今でも未来の文物を"こちら側"に持ち込む行為には忌避感を感じている。

 が、けれどもと思い直す。


 そもそも大和が見たあの悲劇的な未来は、この時代に教科書がもたらされてから、何ら新しい条件を加えずに進んだ末に至った未来であった。その条件は千早たちに未来を予告したことで崩れている。

 例えば、大東亜"連合"なるものの存在だ。大和が見た新聞には確か大東亜"連邦"と書かれていたように思う。


 大和は戦争などというものが大嫌いだ。曾祖父を殺した原因でもあったし、そもそも自分の選択次第で人が死ぬ可能性を考えれば、耐え難いほどに虫酸が走る。

 だが、いつまでも過去を後悔し、こうしてうじうじと"こちら側"を見続けているわけにはいかないことも理解していた。

 永遠に過去と現代を行き来できる保証もないわけで、いつかは完全に離れなければならない。

 ならば、"その時"がやってくるまで過去の知人とは誠実に向き合うべきではなかろうか。


「大和君」

「何でしょうか?」

「少しは"軽く"なりましたか?」

 大和ははにかみ、頭を下げる。

 ユーリだけではない。自分と関わりを持った"こちら側"の人間は、皆が自分の独りよがりな悩みを解決すべく、諭してくれていたように思う。

「ありがとうございます」

 と礼を言うと、ユーリはぽりぽりと頬を掻き、「どういたしまして」と返してきた。


「まあ、それはさておき」

「はい?」

「美冬さんの鞄に見えているトランプ。見事な装丁ですね? そのガラスに似たケースと言い、何処の職人が作ったんですか?」

 美冬とのどかが「あっ」と小さく声を上げた。美冬の持っているトランプは現代で購入したものである。一生の別れになるかも知れないと、のどかとの友情の証に交換しあったプレゼントの一つであった。

 あからさまに狼狽えはじめる二人を制するように、大和は心持ち大きな声でユーリに言う。


「ユーリさん。"大富豪"やりましょうか」

「はい? "大富豪"、ですか?」

 きょとんとするユーリ。

 ユーリのお陰で大和の感じていた重荷は多少解消された。それは認めるが、かといって不用意に未来の文物をばらまく行為に免罪符が与えられたわけではなかろう。

 だから話をずらした。


 結果として、ユーリはカードゲームにどはまりして、大和たちの遅刻に腹を立てたシャルロッテをも交えて、半日ほどをカードゲームに費やすことになる。無論、"大富豪"が現代のゲームであることに気がついた時には後の祭りであった。



1936年5月 護民総隊八郎潟飛行場にて



「カトちゃん、暇か?」

 護民総隊の航空機部隊長を務める加藤建夫が、たまの休憩にとドックの脇に煙草盆を出して"かちどき"を吸っていると、同僚の所茂八郎が風呂敷を小脇に抱えてやってきた。

「そりゃあ、アンタも訓練飛行待ちでしょ。だったら俺も同じだあね」

「そうか、一杯やろう」

 といって所が加藤の隣に座る。風呂敷から取り出してきたのはサイダーと煎餅であった。

 加藤は煙草盆に"かちどき"を押し付け、匂いの届かない範囲まで盆を押しやる。"鳳翔"の元搭乗員は、陸においても皆が禁煙を己に課していた。

 特に母艦が爆沈してよりこの方、どうにも火のつくものを手にする気が起きないらしい。


「トコさん、その札束は?」

 所がサイダーと共に取り出した厚紙の束に目がいった。

 札の表には歩兵や機関銃。はたまた塹壕や航空機などの無骨な絵が描いてある。

 かるたや花札というわけではなさそうだが、一体なんだろうか。

 どうにも共和商事のお膝元に越してからこの方、新しいものにお目にかかる機会が増えたように思える。

 特に文芸や娯楽関係は顕著であった。共和商事の平職員となった元小作農たちは、他地域の者たちが見れば目の飛び出るような薄給で働いているのだが、その一方で会社経由の福利厚生にはめっぽう恵まれている。有無を言わさずに取らねば上司の管理責任を問われる休憩時間や、配給される数々の民生品。

 つまりは帝都の経済学者たちが口々に罵倒する、離島の閉鎖的経済環境。または"アカ"の手口と同じなのだ。

 帝国主義と自由主義の狭間で生まれ育った加藤からしてみても、窮屈に思う者はいないのだろうかと疑問に思わざるを得ない。

 だが、それでも順調に低価格品を方々へ売りさばいているということは上手く機能しているということなのだろう。

 小作人としての困窮した生活に、"将来"という安心感が加わるだけで、驚くほどの生産能力を発揮する。

 共和商事の社長は、悪魔なのかもしれない。人に希望を持たせたままに、安く使い倒す悪魔の化身だ。

 そして悪魔をスポンサーに持つ加藤たちは、差し詰め小悪魔ということになろうか。

 思わず苦笑いを浮かべた。


「最近巷で流行っている絵合わせの一種だよ。さっき買ってきた。色々とあったが、やっぱり軍隊ものが気になってな。ほら、こうやって並べて……、先に本陣を占領したら勝ちなんだと」

「ほーん」

 コップに注がれたサイダーで喉を湿らせながら、民生品として試供された遮光眼鏡を外し、所の解説に従って札を並べていく。

 機関銃を装備した兵が航空機の爆撃を受けて全滅。ようやく塹壕を突破すべく用意した歩兵戦車が、スパイなる理不尽な札に奪われた。

 加藤は確信する。


「トコさん。このゲームつまらないよ」

「カトちゃんが下手なんじゃあないの」

 いや、アンタもさっき勝ってきたんじゃないのと抗論しようとしたところで、はたと気がつく。

 所の札運びに迷いがない。


「トコさん、もしかして経験者かい?」

 問いかけると、所は悪戯っぽく口の端を持ち上げた。

「一昨日から二十戦くらいはやったかな。下のもんにボコボコにされて、悔しくて買ってきた」

「こんちくしょうめ」

 と加藤が振りかぶった拳は、敢え無く所にかわされた。


 三戦目でようやく所から勝利をもぎ取った辺りで、飛行場の入り口から一水の藤田が入ってくる。

 どうやら記録映像の民生協力任務が終わった帰りのようであった。

 藤田は加藤と、それに心持ち複雑な眼差しで所を見て敬礼する。


「加藤隊長、所隊長。藤田航空士、ただいま民生協力任務より帰還いたしました」

「おう、ご苦労さん」

「お疲れ」

 敬礼を終えた藤田は、気落ちした所を見て不可解だという風に首をかしげた後、すぐさまここに居ない"ライバル"を探し始めた。


「篠原かい?」

「ええ、篠原航空士も休憩中ではないのですか?」

「あいつは、フィジカルトレーニング中。ほら、この後試験飛行が待っているから」

 そう言った瞬間、藤田の顔が強張った。

「そうですか。では小官もそちらに……」

 言うが早いかおざなりな敬礼を返して、ドッグ裏へと駆け出していく藤田を見送り、所がため息をつく。


「カトちゃん人が悪いんじゃないか」

 加藤はそれに笑って答える。

「いや、面白くて。でも決して意地悪だけでやってるんじゃないさ。何せ、あいつらは天才だもの。天才には"じゃじゃ馬"どもを引っ張ってもらわなくちゃならん」

 "じゃじゃ馬"の一言で、所は納得の様子を見せる。

「まあ……、いつまでも宮本を悪者にしてはおられんものな」

 加藤は頷く。


「ほい、兵站破壊。六手後には本陣進出かね。前言撤回するよ。このゲーム、面白い」

「……もう一戦頼む」

 八戦目になって四度目の勝利をもぎ取った辺りで、先ほど話題に出ていた"じゃじゃ馬"を連れた同僚がランニングから帰ってきた。

 指導者の名は青木武。同姓の青木興と区別するために、普段はタケと呼ばれている。

 タケの後ろには未だ少年の面影を残す新米航空士が多数並んでいた。

 その中にあって、妙に緊張感を漂わせた一人が西沢広義。未だ飛行時間が500時間にも満たぬというのに、元"鳳翔"搭乗員から模擬空戦で一本を取った怪物であり、宮本の"逆鱗"に触れた青年であった。

 西沢は他の新米航空士たちと同様にこちらへ敬礼をした後でタケを伴って単独行動を取り始める。

 向かう先は飛行場の入り口だ。加藤には彼の魂胆が即座に理解できた。



「宮本参謀、お帰りなさい!」

 しばし経ち、書類をたんまりと詰め込んだ鞄を提げて帰ってきた宮本に対して、西沢は直立姿勢からの最敬礼でもってこれを出迎えた。

 当然ながら、宮本の反応は渋いものである。


「邪魔だから、そこを退け」

 にべもない返事に未成年らしい向こう見ずさが露呈するも、すぐさま最敬礼の姿勢に戻る。

 西沢は現在、飛行訓練を禁止されていた。

 訓練禁止に至るまでの経緯は複雑であり、一言では言い表せない。

 まず、総隊の新型航空機"鶚"を巡って大事故が発生したところから話を始めなければならないだろう。


 1935年の12月。

 青木武の乗っていた試作4号機が編隊飛行中に空中で分解するという事故があった。

 もしこの事故でタケが死亡していれば、事故原因の追求は遅れてしまっただろうが、幸運なことに標準装備の落下傘によって命を取り留める。


『一瞬、気が遠のいて。空と地面が良く分からなくなった』

 それは急激な加速を受けた時に意識が遠のくという、ベテラン航空士ならば誰もが経験のある生理現象に起因するものであった。

 機体の分解は、無理な引き起こしによるものだ。どうやら、意識が覚醒した際パニックに陥ってしまったらしい。

 まるで人形みたいに羽黒の雪山に落ちていくタケを見て、編隊を組んでいた加藤や所は生きた心地がしなかったが、それ以上に宮本も地上にて指示を出しながら気が気でなかったと聞く。

 "鶚"に積み込まれた95式艦上無線電話機は周波数を合わせることで、多人数での会話が可能である。

 事件が起きた直後、タケに現在の状況確認と落ち着くよう執拗に求める宮本に対して、タケは全く言うことを聞かなかった。

 本人曰く、『あそこは自分の勘に従うより他になかった』とのことだ。

 その結果が片足と利き腕二本指の切断。

 高度6000メートルからの落下で生き延びたことを当人や同僚は武勇伝として語ったが、これには見舞い品を持参した宮本も激昂した。


『これより以降、計器に従った飛行を何よりも義務付け、計器飛行ができぬ者は総隊での飛行を禁じる』

 ベテラン航空士の抗議に対して、宮本は頑として譲らなかった。それほどに彼の怒りは大きかったのだと今なら分かる。

 巴戦のエキスパートであったタケは現役を退き、後進の育成任務に回された。無論、計器飛行を義務付けての上である。


 所からしてみると、宮本のあの激昂は『全くの予想外だった』とのことだ。

 "鳳翔"に居た頃の宮本はタケに良く懐いていたらしく、タケもまた自身の身につけた空戦技術の尽くを彼に叩き込んでいたからだ。

 蜜月の間柄から突如として不穏な関係へと一変した彼らを巡るトラブルは以降も幾度となく続き、その中でも最も大きなトラブルが西沢を巡ったものであった。


 そもそも西沢はタケが見出した飛行学生である。『こいつは絶対にミヤの役に立つ』と太鼓判を押された彼は、その予言どおりに水際立った成長を始めた。

 だが、それと同時にタケの持つ古めかしい航空士魂をも受け継いでしまったことが問題であったのだ。

 編隊飛行訓練中、彼は『鳥とぶつかりそうになったんです』として自らの勘に任せた見事な回避運動をやってのけた。

 だが、編隊長への連絡をおろそかにしたことが宮本の逆鱗に触れる。


 柄にもなく全力で西沢の頬を殴りつけた後、『そもそも有視界の索敵を怠っていたからこそ、鳥とニアミスするなどという事態が起こるんだ! 馬鹿野郎ッ』と怒鳴り声を上げた時の宮本の形相は異常なほどに強張っていた。

 釈明の機会を与えられた西沢は宮本に持論を主張するも、一対一の模擬空戦で十連続の負け試合を叩きつけられた後に『許しあるまで飛行を禁じる』との沙汰を下される。

 そうして今に至るわけだ。


 加藤としても断言できるが、篠原や藤田と比べても西沢の才能は別格である。恐らくもう一年か二年すれば、総隊のトップエースに並び立つことも不可能ではないだろう。

 だからこそ、タケは彼を早く一人前にしてやりたい。西沢としても尊敬する指導者の顔を立てるためにも早く一人前になってやりたい。

 そうした善意の熱情が、今のすれ違いに繋がっているのだろう。



「ミヤ、頼む……。俺からも二度と生意気はさせないよう強く言いつけるから。こいつから空の道を奪わんでくれ」

 その場で地面に膝をつくタケを見て、様子を窺っていた周囲が息を呑んだ。

 あっけに取られた西沢も同様に膝をつき、額をも地面にこすりつける。

「参謀、お願いします……!」

 二人の熱意に対して、宮本はため息を付いた後に冷えた声で言う。


「……先々月に帝都で源さんに会いました。こいつを源さんに紹介することなら、俺にもできますが」

 暗に西沢を"要らない"と言っていた。

 だが、タケはそれでもと懇願を続ける。


「絶対にお前の役に立つ。この通りだッ!」

「お、お願いしますッ」

 宮本は不愉快そうに鼻を鳴らし、「次は無い」といってその場を後にする。

 しばらくは事情の呑み込めていなかった西沢も、自分が許されたのだと自覚してからは涙をぼろぼろと流し始めた。


「……トコさん、そろそろ訓練の準備しようか」

「おう」

 ぞろぞろと西沢たちを祝いに集まる同僚たちを尻目に、加藤たちはドッグ内へと向かう。


「悪役ご苦労様、宮本」

「……加藤さん」

 先を行く宮本の背中をぽんと叩き、所と共に横へ並んだ。

 そのすぐ後に汗だくになった篠原が駆け寄ってくる。

 宮本は言った。


「隊の意識が変われば言うことないです」

 加藤は苦笑いを浮かべて、再び宮本の背中を拳で突いた。





 初めて"鶚"を目にした者たちは、まずその主翼に目を引かれることであろう。

 角度の浅い逆ガルは良いとして、その翼端には小さな垂直翼が立っている。

 機体表面も不可解で、機首の覆い(カウル)後方には波打つような歪みがあった。継ぎ目の無い滑らかな表面が特徴であった"海猫"を知る者からすれば、この機体形状に釈然としないものを覚えるのではないだろうか。

 要所に敢えて歪みを作り、気流をコントロールする仕組みはユーリと職人たちが餌付けした鳥の羽根を見て思いついたものであった。

 機械工業的に大量生産されたものには到底つけられぬ細やかな細工は、人員が少なく半ば実験部隊的な性質を持つ護民総隊だからこそ出来得る芸当だ。

 そして何よりも――。

 


 加藤が飛行帽を被り、試作二号機の操縦座席に乗り込む。

 エナーシャを回す人員は必要ない。エンジン点火は充電池を介したエンジンスターターによって管理される。

「コンタクト」

 エンジン音が高鳴り、三枚羽根のプロペラがゆっくりと回り始めた。

 まずは計器が正常に作動していることを確認。 

 特に冷却効率の悪いエンジンを積んでいるこの"鶚"は油音の確認ができないと始まらない。

 続いてエンジン動力を使った発電機を通じて、95式艦上無線電話機を起動。周波数は予め合わせられているため、調整の必要はない。


一号機ワン、エンジン、計器異常なし」

二号機トゥー同じく(セイム)

三号機ツリー、セイム」

四号機フォー、セイム」

 独特な符丁は、無線のノイズがまだ酷かった頃に考案されたものであった。海軍畑の風潮から英語が多いことで陸軍出身者は混乱させられたが、流石に毎週走りながら叫んでいればいい加減に覚えてくるというものだ。

 加藤は発艦想定位置で合図を待ち続ける。

 年季の入った航空士である自分にとって、"これ"ばかりは中々慣れない。 


「一号機、発艦」

 宮本が駆る、普段は自分が搭乗している一号機が、翼の付け根から轟音を立てて猛烈な加速と共に移動を始めた。

 "鶚"は翼の付け根に切り離し式のロケット推進装置を備えている。

 護衛空母の短い甲板において、短い距離で発艦可能速度を稼ぐための苦肉の策であった。


「二号機、発艦」

 空へと舞い上がった一号機の後を加藤も続くべく、ロケット点火スイッチに指をかける。

 ぐんと全身が座席に押し付けられ、辺りの景色が流れていった。

 丸みを帯びた強化ガラス窓が"鶚"の視界を気味が悪いほどに良好たらしめている。

 景色が流れ、流れ、機体が持ち上がった。

 フラップを持ち上げ、姿勢を安定させる。

 以前乗っていた航空機と比べても、座席から伝わるエンジンの振動は驚くほどに少ない。

 イタリア人の整備士曰く、60度のバンク角を取った倒立V型エンジンは振動をかき消すのに理想的なエンジン形態であるそうだ。

 単列の星型エンジンの場合はこれが歪む。使用している内にエンジンバランスも変化していき、しいては運動性の劣化にも繋がりかねない。

 かといって複列にすれば、機体重量が馬鹿らしいほどに増加される。

 エンジントラブルを避けるため、洋上での安定した運用を望んで得た彼らの答えがこれであった。

 "海猫"に比べて推進力に格段の進歩を見せた"鶚"であったが、運用上の問題点は無数にあった。


 例えば、失速速度や失速に至るピッチ角がシビアであることだ。

 安定した機体挙動を得るためには、最低でも時速400km以上をキープしなくてはならない。更に時速400km前後においてはピッチ角を13度以上に上げてはならない。

 はっきり言って低速域の運動性に関しては欠陥品も良いところだというのが加藤や所の感想であった。

 だが、それを補って余りある特性が存在する。最高速度だ。

 切り離したロケット推進装置が落下傘を開いて降下していく。


 高度は3000メートルを越えた。ここからが編隊飛行訓練の本番である。

「甲、横隊陣形アブレスト。ワンフライト、方位110。スロットル75」

「トュー、OK」

「スリー、OK」

「フォー、OK」

 全機がエンジン出力を合わせ、1kmの等間隔で横列に並んだ。時速510km。

 高度は3000をキープしている。


「ワンピケット。十二時方向、異常なし」

「トゥー、異常なし」

 僚機からも同様の答えが返ってくる。訓練であるのだから、それは当然だ。

「ワンピケット。三時方向、異常なし」

「トゥー、異常なし」

「スリー。九時方向、異常なし」

「フォー、異常なし」

 一号機から「スロットル90」の指示がやってきた。スロットルを90に開く。時速612km。

 四号機を駆る篠原のくぐもった声が無線電話機越しに聞こえてきた。

 声をかけてやりたいが、正直自分も厳しく、また訓練中の私語も禁じられている。

 そして、一号機から容赦のない指示が飛んできた。


「イン・プレイス・レフト。70、ナウ」

「トゥー、OK」

「スリー、OK」

「……フォー、OK」

 全機が一斉に70度のその場旋回を行った。旋回が終わった時、四号機が後方に流れていることに気がつく。反応が遅れたのだ。


「四号機」

「すいません!」

 篠原は必死だった。何せ、現状"鶚"は未だ四機しか作られていない。そして、最新鋭機が宛がわれるのは隊で最も技術の卓越した者のみに限られた。

 すぐ後ろに藤田が、そして後輩たちが篠原の座を奪い取ろうと追いかけている中で、たった一つの失敗も命取りになるだろう。

 そして、それは加藤や所も同様であった。

 四号機が速度を上げて再び横隊が形成される。

 一号機から再び指示がやってきた。


「クロス・ターン。180、ナウ」

 一号機が転回するのとほぼ同時に加藤も操縦桿を傾けて、編隊の内側へと転回する。

 意識が霞む。時速600kmを超えた辺りで行われる旋回は、猛烈な加速度が意識を奪わんとしてくるのだ。

 下半身にぐっと力を篭める。医学的見地から、高速域での意識の酩酊は血流の悪化によるものであると判明していた。

 故に身体を鍛えることで血流を無理やりコントロールする術を身につけることが重要だ。

 経験と手癖で空を飛ぶ時代は終わりを告げたのだと実感する。

 180度の旋回が終わった時、篠原は既に荒い息を吐いていた。こちらも吐きたい気分であるが、立場と負けん気がそれをさせない。

 一号機を見る。


 宮本は天狗になっていた西沢を力でねじ伏せた。

 本人は『数年もすれば追い抜かされる』と言っていたが、今の飛行を見る限り、それは在り得ないだろうと確信する。

 彼は異質だ。時代から致命的に"ずれて"いると言い換えても良い。

 この編隊飛行訓練などはまさに典型で、一体何人の航空士がこの訓練の価値に気づくだろうか?


「イン・プレイス・スプリット。180、ナウ」

 全機が一斉に反転し、下方に展開を開始した。旋回に降下の速度が加わり、時速680km。

 加藤は歯を力の限り噛み締めた。

 そうして、積載燃料が半分を切るまで、たっぷり40分の間延々と編隊訓練は続けられる。

 空を切り裂き、緩やかなシュプールを描き、4体の"鶚"は今世紀における最速域をひたすらに飛ぶ。


 加藤は思う。

 量産が効かず、兵器としては欠陥品もいいところだが、"鶚"はまさしく王者である、と。

 観艦式で空を飛ぶこれらを見上げる各国の駐在武官は、我が国の陸海軍は"鶚"に何を感じるだろうか。

 心の底から無邪気な喜びが湧き上がってくる。

 感情は激しく、思考は冷静に。

 ――俺たちが一番速い。

 加藤は操縦桿を力いっぱい握り締めた。


次回、観艦式です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ