1936年、2月 八郎潟、金子邸にて
少々短めですが、閑話その2です。
男鹿半島、船越にある民家の一つに中地要は訪れていた。
共和商事の顧問、金子直吉の邸宅である。これは元々船宿であった一軒を間借りし、その一部を商家風に改造したもので、一見すると一世を風靡した"財界のナポレオン"の仮住まいとしては身の丈に合っていないよう見受けられる。
だが、本人曰く、それでいいのだそうだ。
「どんぞ」
トトト、と要の居る2階にまで駆け上がってきた坊主頭の少年が菓子盆に金平糖を載せた物を差し出してくる。
かつてアメリカで流行したというビリケン像を思わせる、寒さで鼻を赤くした少年であった。
「ありがとう」と菓子盆を受け取り、要は窓辺より覗く雪を被った寒風山を眺め、金子を待つ。
火鉢の暖では肌寒い。男鹿半島のランドマーク、寒風山より吹き下ろす風の冷たさを詠ったのは菅江真澄だっただろうか。
カナニスクにおける顛末を詳らかに報告することが心苦しかった。
やがて、重苦しい足音と小さな足音が重なるようにして、要の待つ部屋へと近づいてくる。
「ああ。社長、よくぞお越しに」
金子の具合は見るからに悪そうであった。要は慌てて腰を浮かせ、ビリケン頭の少年とともに金子の身体を支える。
「御加減は?」
「大分、ようなりました」
狒々を思わせる金子の表情が気丈な笑顔で綻ぶ。が、失われた体力まではごまかしようがない。
要は火鉢を挟んで金子を座らせ、正座をして向き合った。
「へば、ボクはこれで……」
そそくさと退出する少年の後姿を、金子は楽しげに見つめていた。
「お孫さんでしょうか」
「いえ、この近隣の子ですよ」
「それにしては勝手知ったるという手際でしたが……」
要が解せないと言った面持ちをしていると、金子が声を上げて笑う。
「そりゃあ、仕込んでおりますさかいな」
その言葉で要の疑問が氷解した。
「ああ、丁稚を取られたのですか」
丁稚奉公という目で見てみれば、話は分かる。金子もれっきとした商人であり、この家で他人の子を預かっていることにも納得がいく。
だが、一時期は財界の権勢を三分した一角が、今更丁稚を取ったという事実は要に少なくない驚きを与える。
そんな驚きを感じ取ったのか、金子は丸眼鏡に隠れた両眼を茶目っ気たっぷりに細め、言う。
「ほんの、手慰みのようなものですわ。わしはあくまでも鈴木商店の番頭ですから、今まで自分の丁稚というものを取ったことがなかったのです。見所のありそうな小僧を見つけて、つい……」
「はあ、成る程」
いわゆるロマンチシズムのようなものだろうか。
金子の意図を推し量ろうとしているところで、好々翁は更に続けた。
「人に何かを教えるのは好きなんですよ」
「とすると、これまでに沢山の弟子を取られたのでしょうね?」
「社員の教育という意味でしたら、そうですなあ。それに」
「それに?」
金子の呟きに相槌を打ちながら問うと、
「わしの教育がどういう物かは、社長がよくご存知のはずです」
「それは、恐れ入ります……」
返ってきた答えに、要は恥じ入って俯く。
つまり、象牙の塔から商売の世界へと寄る辺を変えた要も、金子から見れば丁稚と変わらないと言うことであろう。
実際、カナニスクでは散々ばら向井にやりこめられてしまった。
まだ精進が足りていないのだ。
居住まいを正し、深く頭を下げる。
「……申し訳ありません。良い様にしてやられました」
向井と、あのユダヤ人青年にお膳立てされた提案を思い起こす。
――新興二ヶ国に対する大規模な食料輸出要請。
軍拡を前提とした、国際秩序を乱さんとする忌むべき経済の連環に、自分たちは気づかぬ内に組み込まれてしまったのだ。
思えば、外堀は既に埋められていたのだろう。
事前に情報を知っていたのならまだしも、各国政府間で話がほぼまとまっている中、仕事を投げられたのが痛かった。
共和商事は出資者にやんごとない存在を抱えているという性質上、公の要請を突っぱねにくい。
そして現若槻政権は我が国の民主化を推進するために立てられた挙国一致政権だ。
陛下から現政権に「従うな」との御下命がない以上は、政府の取る外交路線を追認するより他にない。
要はカナニスクでの一件を、金子にすべて打ち明けた。
金子は火鉢の炭を箸で突きながら、その一々に深く頷く。
「ほう……」
そして、火鉢の縁を箸で叩いた。
「それは、何とも羨ましい経験をなさいましたな! ううん、その場にわしも居たかったものです」
「羨ましい、ですか?」
きょとんとして、要が目を白黒させる。
一体、三井物産に言いようにされたことの何処を取れば「羨ましい」となるのだろうか。
よもや、この失敗を教訓に、などという精神論を言っているわけではあるまい。要の立場は会社を率いる立場にあり、若い失敗など許されない。
金子は火箸で灰に埋もれた炭の一つを掘り出す。ぼうと辺りの熱が強まり、凍みるほどに冷たい空気を和らげていく。
「社長は誤解されておられるようですが、これは我々の"勝ち取った結果"なのですよ」
「え、何を勝ち取ったというのですか」
金子はよろよろとした動きで立ち上がり、粗末な箪笥の引き出しを開ける。中から取りだしたものは、和綴じの帳面冊子だ。
「こちらをご覧ください」
中には各国の経済状況の覚書や、大手商社の運営状況などがこと細かく記載されていた。
千金にも値する、金子の努力の結実であろう。
要はごくりと唾を飲み込む。
「シャム……、今は立憲革命によってタイ王国と名を変えましたが、あそこは日本の商社にとって宝石のようなものなのです。社長はタイ王国についていかほどご存じでしょうか?」
「一次産業が盛んな王政の国家としか……」
"テクスト"にあった東南アジアは、石油や天然ガス、天然ゴムを産出し、日本へ水産資源や工業製品を輸出する、新興の工業地域であった。
だが、それは主にマレーシアやシンガポールに限られる話で、タイについては米の輸出世界一として名が挙げられるだけだ。
金子が帳面をめくる。
「例えば、三井物産ならば東南アジア方面にいくつかの支社を持っております。シンガポール支店やバンコク支店がそれに当たりますな。基本は三井が保有する三池炭鉱で石炭を掘り、それをヨーロッパ船主向けに輸出することで、資金を回しておりました」
「東南アジアでヨーロッパ人向けに商売をするのですか?」
金子は是と頷く。
「それだけではなく、東南アジアは中継港として使える良港が多く、一次産品にも希少なものも多いのです。ユダヤ系列のクーン商会や、ロスチャイルド・パリ家が縄張りを広く持つ中で、その隙間に大阪商船や伊藤忠商事など、あまたの日本商社がひしめいています」
「ひしめいている、ということはそれだけのうまみが東南アジアにあるということですか」
「少なくとも馬鹿にはできませんな。日タイ貿易に限って言うならば、紡績業向けの綿花、チーク材を主に我が国は輸入しています。代わりに輸出するものは、石炭・綿糸・綿布・生糸・マッチ・銅・銑鉄・鉄道用品などですね」
石炭はエネルギー源として。綿糸や綿布はタイから買い取った原料を用いた加工貿易によるものであろう。生糸は純粋な国産品の輸出であり、その他の工業製品は欧米から原料を輸入しての加工貿易品だ。
ざっと見るだけでも、随分と輸出品目が豊富であることに気がつく。
「ちょっと待ってください。随分と輸出品目が多いようですが、果たしてそれに見合う輸入品を我が国に納入できているのですか?」
貿易総額は分からないが、大手の支社が取り扱っている以上、それなりの規模で貿易が行われているに違いあるまい。
とすると、まっとうな国家間貿易は"損せず得せず"を原則とする。帝国主義による植民地間貿易でない限りは、我が国に大量のタイ製品が溢れていなければならない道理であった。
この指摘は金子にとって望むべきものであったようで、我が意を得たりとばかりに膝をぴしゃりと叩く。
「お察しの通り。単純な二国間貿易で考えると、これは我が国の大幅な貿易黒字です。列強に囲まれた緩衝国であるがゆえに少々特殊な金の流れ方をしておりますが、それでも到底長続きする仕組みではありません。ですから、ここに第三国を噛ませて不均衡をごまかしていくわけです」
「第三国、ですか」
「主な国々はフランス領インドシナに中華民国ですな。例えばタイで買い取った一次産品をフランス領インドシナに輸送し、売り捌きます。そして、インドシナではサイゴン米やラングーン米を買い取り、これを上海や蘭領インド、アジア諸国へ運ぶ。そこから、鉱物資源や工業原料に変えることで再び我が国へと持ち帰る……。まあ、よくも手広くやっているものですよ」
ため息しか出なかった。
話に聞くだけでも、三井の経済活動は恐ろしく洗練されていることが良く分かる。知れば知るほど、自分たちが敵に回そうとしていた存在の大きさを実感できてしまうというのは、ぞっとしない話だった。
だが、と金子が笑みを深くする。
「我々が彼らの商売を狂わせました。――米です。我々が日本海側諸地域での寒冷地米大増産に成功したために、彼らは大幅な方針返還をせざるを得なくなったのですよ。満州事変以降、国際協調に徹している我が国に対し、中華民国は欧米の提唱する"機会均等"を遵守せざるを得ません。"日貨排斥"を認めることができないのです。すると、どうなると思いますか?」
金子の試すような口ぶりに――、いや実際にこちらを試しているのだろう。要は頭の中で理屈を組み立て、答えを導き出す。
「余剰米販売のフリーパス。つまり、外国産米のライバルとして、我々の米が候補に挙がるようになる。そして過当競争が始まる、と。値下がりは避けられませんね……。ああ、そうか。沿海諸国への食料輸出要請とはすなわち、"中国市場を荒らされないための一手"ということなんだ」
ようやく金子の言が腑に落ちた。これは三井にとっては防衛策であり、共和商事による攻めの結果なのである。
「ご名答」
金子に手放しで賞賛され、要は照れ臭そうに頷いた。
「しかし、それなら三井の策に対して、我々も更なる追い討ちをかける必要があるのでは?」
「いやですわ、社長。もう始まっておりますがな。あやつらの"自爆"というまこと痛快な結果によって」
「エッ?」
金子はくつくつと笑い、続ける。
「あやつらの"自爆"について理解するためには、まず"お儲けの手口"について今一度解説する必要があるでしょうな」
「手口、ですか」
「そうですね……。社長、この火鉢をご覧いただけますかな?」
言われて要は目を落とす。
それほど芸術的でも高価なものでもない。量産性が売りの新九谷の火鉢であった。
中では赤くなった炭がパチパチと音を立てている。
「商品の生産者……。商いの正道がこの赤くなった炭です。情熱を燃やし、売れるものを作り、世に広める。その行く先は、灰になるのみではありますが、世の中に確かな"熱"を残してくれる、そんな儚くも愛おしい存在といえましょう」
金子はそういうと、火鉢を箸で再び叩いた。
「対する"お儲け"を本懐とするものたちは、この見目麗しい火鉢そのものです。炭の"熱"を蓄えて、余熱をあたりに流していく。当人たちが何かを生み出すわけではありません。灰になることもありませんし、末永く世に蔓延り続けます」
言わんとすることが朧げながら分かってきた。
つまり、"お儲け"とは物を生産し、消費者に販売する行為を指すのではなく、"仕組み"を使って富を生み出す知恵のことなのだ。
それを、金子は邪道と罵っている。
「三井は"仕組み"によって末永く稼ぐことができるように、沿海諸国の動きを誘導しているのです」
「大韓共和国、シオン共和国、緑ロシアの三カ国ですか」
要がそう答えると、少々不足だと言わんばかりに金子が頭を振った。
「大韓共和国は計算に入れずともよろしい。あれは発足からして我が国の影響を受けた、日本の分身のようなものです。我が国の革新派官僚をそのまま継続して用いており、軍は指導者層に朝鮮方面軍をそのまま移行し、資本は全てが我が国の資本によって賄われています。つまり、我が国の韓国の間で経済的な変化は起こり得ず、自ずとその他二カ国との間で経済的な変化が起こるはずです」
金子に促され、要は思考を進めていく。
「シオン共和国、緑ロシアは軍拡による雇用創出政策を打ち出しましたね」
「そうですなあ」
あくまでも生徒の答えを採点する立場で要を見る金子を、少々小憎たらしく思ったが、決して不快というわけではなかった。そもそも要の本分は学徒である。試されるというのは望むべきことだ。
「この政策の背景には、西欧における"軍縮条約解消"があることは疑いようがありません」
「ふむ」
英仏伊は先年いっぱいまで継続していたロンドン海軍軍縮条約の改正交渉から降りることを大々的に宣言した。これは国際秩序を縛り付ける軍縮条約が事実上失効したことを意味しており、東欧という新たなポリティカル・パワーが出現したことにより、既存の軍縮条約では国際的な安全を保障できないとの懸念が直接の理由となっている。
東欧も巻き込んだ新たな大軍縮条約の締結を望む声もあるにはあったが、両者の緊張関係もあって、恐らくは実現しないだろう。
アメリカのルーズベルト大統領はこの流れに対し、「甚だ遺憾である」と不快感を露わにしている。反戦屋として票を取った人間が生きにくい世の中が訪れつつあるようだ。
と思索の海を漕ぐ要に対し、ここで金子が助け船を出す。
「概ねその通りです。我が国も、その他中小国家も条約によって再軍備を阻まれない世の中が到来したわけですが……、三井はここに目を付けたようですな」
「何故、三井が誘導したと分かるのでしょうか。沿海諸国の軍拡は、各国固有の安全保障問題ではないのですか?」
軍拡は公共事業であり、雇用が増えることは間違いない。
いくら国家予算における防衛関係費の増大が長い目で見れば国家を蝕み、予算削減がクーデターの原因になりやすいとは言っても、不景気を回すための一時的なカンフル剤としてはそれなりに優秀だ。
だからこそ、新興国家が軍拡路線を取ったことは理解できるが、国家事業であり、後年への影響が大きすぎるからこそ、他国の企業に絆されると言うことは考えにくい。
だが、金子は断言する。
「違いますよ。これを断言するに足る手がかりはいくつかありますが……、分かりやすいよう整理していきましょうか」
「はい」
まず一つ目、と金子が言う。
「前提として、平時における軍拡がカンフル剤として機能するには、巨大な経済圏の保護と強い輸出産業が必要になること。単に軍を強くするだけで経済が良くなるのであれば、今頃世界の中小国家は皆強大な軍を持っています。わしが見るに、沿海の二国は単独での軍拡を進めることができるほど余力はありませんな。つまり、誰かが手助けをして初めて軍拡が可能になる」
「その手助けが三井によって行われていると?」
「正確には我が国の財閥が、です」
そして二つ目の手がかり、と金子が続ける。
「面白いことに各国、各財閥の動きが有機的に連動しすぎているのです」
「有機的な連動……?」
一体、どういうことだろうか。要は前のめりに耳を傾ける。
「要するに、"誰も損をしていない"のですよ。二カ国は元より、日本企業も含めて」
金子の舌鋒が鋭くなる。
「緑ロシアには沿海諸国に鉱物資源を輸出するべく、我が国の財閥がこぞって資本投下を始めています。軍備については我が国から旧式の装備を買い取ることで充足。シオン共和国は、我が国の莫大な軍需に入り込もうという腹積もりのようです。そして我が国の財閥はというと、三菱、住友が皇軍の装備更新による特需を見越して、大増産体制を整えています。既に海軍の要請に応えて、40ノット強を出せる新型の高速軍用艦の建造を始めているとか……」
「待ってください。三井はどうなのですか? 三井が話しに噛んでいませんが」
要の問いに金子は苦笑しつつ答える。
「そこが三井の上手いところです。欧州大戦後の不景気を教訓として、あやつらはどうやら海運のみで稼ごうとしているようですな」
「海運で……」
「左様。何かを作って、大きく稼ぐのではなく、周りの好景気に便乗して稼ぐ。造っても商船をいくつかといったところでしょう。一過性の好景気が過ぎ去らんとする直前には、商船を軍用艦にでも改装して、周辺諸国に売ってしまえばよろしい」
深謀遠慮という言葉が脳裏をよぎった。
軍拡の破綻は不景気の到来と同義である。軍拡によって造られた兵器と、増えた兵士が"何らかの外的要因"によって"消費"されない限り、その未来は避けようがない。
破綻の未来を他者に押しつけ、うまみだけを手に入れるその着眼点には呆れ、義憤に駆られるよりも感心させられた。
「……恐ろしい手口ですね」
「そうですなあ」
要がそう言うと金子は深くうなづき、
「さて、あやつらの恐ろしさが身に沁みたところで一つ、"自爆"とは何かについて考えていきましょうか」
と口の端を持ち上げる。
要は再び唾を飲み込んだ。
「といっても大した話ではないのですがね。要するに、これでわしらを"どうすることもできなくなった"という話ですわ」
「え? あ、ああ。成る程」
一瞬意味が分からなかったが、今までの誘導から何を言わんとしているのか、ようやく理解が追いつくようになってきた。
要は恐る恐る推測を口にする。
「やり方によっては我々が一番飛躍できる……、ということでしょうか?」
金子は満面の笑みを浮かべた。
「そうです。本来なら、あやつらも金の卵を生むタイ王国の一次産業にわしらを絡ませたくなかったはずです。だが、それをせざるを得なかった。恐らくはタイ王国側の希望に共和商事を指名するような文言が含まれていたのではないかと推測しております」
「タイ王国と我々に繋がりはないと思いますが……」
解せないという風に言うと、金子は声を出して笑った。
「風が吹けば、桶屋が儲かる――」
「はあ……」
「立憲革命によって新しく政権を掌握したプリーディー・パノムヨン首相は、社会主義の影響を受けて土地の国有化や、労働者の公務員化を目指しておるそうです。その最終目標は恐らく、ユダヤ・華僑などの外国資本を追放し、民族経済活動を再建させることにあるのでしょうが……、これが国王のラーマ6世や右派の連中から評判が悪い。さて、ここで何かお気づきになりませんか? プリーディー首相の経済再建政策が何かと似ているのではないか、と……」
「あっ」
要の脳裏で、全ての事柄が電撃的に結びついた。
プリーディー首相の目指す政策は、まさに共和商事の経営そのものなのである。
身内から突き上げを食らった首相が他国の成功例を引き合いに出した。そう考えると全てに納得がいく。
「大方、三井は『どうせ支配しようとしても経済的に独立されてしまうなら、共和商事に無駄金を使わせてしまえ』と押しつけたつもりなのでしょう。ですが、我々の動き次第では……」
ぶるり、と要は身震いする。
今までの要には『この国をどうしたいのか?』というマクロな目標しかなく、『共和商事をどうしたいのか?』といったミクロなビジョンを持ち合わせていなかった。"テクスト"の存在が、ビジョンを持たぬ発展を可能にしたのである。
だが、ここにきて要の脳裏に青写真が形作られた。
独立した一国の経済を国の正式な要請で建て直す。……自分なら他国経済を支配するのではなく、共存を第一にした経営をすることができる。
無知から来る蛮勇かもしれないが、自信があった。やるべきことは今まで共和商事が内地でやってきたこととさほど変わらないからだ。
そして一国の経済を再建した暁には、その実績を看板に国際的な影響力を手に入れる。
「――穀物の国際生産者連合を目指しなさい」
金子の勧めを、要は極々自然に受け入れることができた。
……だが、続く提言には頭を捻らざるを得なかった。
「そのためにも、今後内地のことはわしに"全て"お任せくだされ。これより社長はタイで暮らし、外地で成功するまで、内地の土を踏むことは許しませんぞ」
「は、えっ……?」
混乱したままに、上機嫌の金子に追いやられる。
こうして、外部から見ればまるで"下克上"が起こったのかと誤解されかねぬ、電撃的人事異動によって、共和商事は本社と支社の二つに分裂することになった。
身一つではなく、多数の部下を伴っての渡航……、ではあったが、ゴシップ好きのタブロイド紙がこの事件を見逃すはずもなく、各紙の一面にぼろ切れを纏った中地社長がタイ王国へと逃げていく姿を描いた風刺画が掲載されることになる。
逃げ出して居着いた先が既に貿易港として一定の地位を得ているバンコク港ではなく、タムポン・トゥンクスラーという誰も聞いたことがない小さな漁村であったことも"島流し"の誤解に拍車をかけたのかも知れない。
その数ヶ月後、タイ政府によってタムポン・トゥンクスラーはレームチャバンと名付けられた港が開かれ、その一等地には共和商事の支社と共に護民総隊の支部の看板が掲げられるようになる。
勅令護民総隊レームチャバン支部。
元海軍中将永野修身を司令官とし、総隊員とタイ王国の海軍軍人によって共同運営されることになったこの組織には、記念すべき一隻目の所属艦として日本の新型艦が迎え入れられることになった。
護民甲型海防艦"占守"。藤本喜久雄技術士官が設計した、通商護衛のみを専門とする初めての軍用艦である。
しばらく短めの閑話が続きます。宮中周りで一話、新型航空機で一話、その後にようやく空母の登場でスペイン内戦の予定です。




