1936年、1月末 カナニスク(旧ウラジオストク)市内のとある娼館にて
世界情勢の説明会です。
男たちの取り繕った笑い声、クラシック・ミュージックが満ち溢れ、高級酒と葉巻、そして商売女の色が香る階下とは別天地のように中地要のいる最上階の一室は、時計の音のみがチクタクと聞こえる不気味な静寂に包まれていた。
その中にあって、中地要は円卓の一席に腰を下ろしている。
円卓の上には湯気の立つティーポッドと、世界各国で発行されたらしき経済・言論雑誌や新聞紙が並べられていた。
――新興国家に関係する要人との会合。
要が事前に聞かされていた情報では、相手の国籍くらいしか分からなかったが、こうして席に着いてみると、ますますにこの会合の奇妙さが鼻につく。
「こういう場所はまこと馴染みません……」
要の右隣に座るフリー・ジャーナリストの高橋亀吉が、部屋に入ってより半刻もしない内に音をあげる。
彼は今回の会合で仕入れた情報を、リベラルな目線で記事にさせるべく、金子翁が送り込んだ人材であった。
「それは、お腹の綺麗な証拠ですよ。高橋さん?」
笑いながら、左隣に座る三井物産の重役、向井忠晴がそう言った。
相も変わらずびしりと整ったベージュのスーツが印象的で、今はジャスミン・ティーのなみなみと注がれたティーカップをかちゃりと鳴らし、優雅に喉を潤している。
流石に、伏魔殿の先住民は肝の据わり方が違っていた。
そもそも今回の案件は、この向井が持ち込んだものである。
『お久しぶりです。はい。実は内密のお話が……。このたび御社にとっても我が社にとっても重要な会合が開かれる運びになりまして……。共存共栄のためにも、私とともに出席をお願いできませんか?』
新年早々、共和商事の玄関前に塩を撒く羽目になった要と金子翁であったが、先方の誘いについては協議の末に承諾する。
無論、何らかの罠である可能性もあった。しかし、向井の来訪から二日と経たないうちに、外務省から同じ話を持ち込まれたこともあり、断った際に発生するであろうメリット・デメリットが想定できず、いやがおうにも情報の取得を優先せざるを得なかったのだ。
本来ならば金子翁も顧問として同行するはずであったが、彼は新年早々の寒波にやられ、体調をひどく崩していた。
既に年齢も老境に差し掛かっており、大事がないかと気が気でならない。
「ミスター・ルーヴェン。お招きいただき、ありがとうございます」
向井が要から見て、向かって右端に座る白人男性に向けてにこやかに笑いかける。
くしゃくしゃの軽やかな短髪が印象的な、人好きのする柔らかな笑みを湛えた若者だ。
若者は照れくさそうにしながら、向井に流暢な日本語で返した。
「ええ、ミスター・ムカイ。貴方とこうして会えたことは、望外の喜びであります。それに、皆様も」
といって、彼はまず高橋を見る。
「フリー・ジャーナリストのミスター・タカハシですね? 貴方の記事はいつも興味深く拝読させていただいておりますよ。リベラルな目線から描かれた帝国の情勢は、保守的な論調の他紙と比べることで、より色鮮やかな情報をいつも私にもたらしてくれます」
言って、最後に「ちなみに私も同業者なのですよ」と茶目っ気を交えたウインクして、要を見た。
「ミスター・チュウジ。お初にお目にかかります。私の名はルーヴェン・ザスラニ。『イズライール』の編集長をやっております」
『イズライール』の名には覚えがあった。最近東アジア全域で発行されるようになった言論雑誌の一つである。本社はカナニスク。非常に緻密な各国の政治・経済情勢、そして自由放任主義的な視点で世相を描くことに特徴があり、宗教的には偏りがない、人類に普遍的な倫理感を問う中立の立場をとっている。
この理性と中庸に寄った小気味の良い切り口には、本質的には学者である要も好感を抱いていて、毎号欠かさず購読していた。
編集長と言えば、雑誌の色を決める役割を担っているわけで、初対面であるとはいっても購読者の立場からすれば彼の信条は至極分かりやすい。
ただ、今は信条よりも彼の仕草が気にかかった。
「失礼、その前に何処かで貴方とはお会いしませんでしたか?」
「私と、ですか?」
きょとんとするルーヴェンのあどけない顔を見て、尚更に違和感が募る。
「ええ……、既視感がするのです」
「ああ、成る程」
小骨が喉につかえたかのような心地の悪さに要が顔をしかめていると、ルーヴェンは合点したように言葉を漏らし、答えた。
「もしかすると、私と良く似た御仁がお知り合いにいるのでは?」
それは随分とこちらの周辺を見透かした推測であったが、要は彼の推測を糸口にしてようやく答えへと辿り着く。
「確かに貴方は私の知人に良く似ています」
思い浮かんだ顔は、現在八郎潟で目に隈をこさえながら航空機の製作に携わっているはずのポーランド人男性のものであった。
全体的な風貌や日本語の自由・不自由の違いこそあれど、それ以外の仕草が不思議と酷似していたのである。
ルーヴェンが腕を組みながら、指をピンと立てて言う。
「恐らくですが、その方は私の"同胞"でしょう。遠縁の親戚かもしれません。ええ、見る者が見れば分かるものですよ」
「"同胞"ですか」
すとんと腑に落ちる。知人のポーランド人男性は、数ヶ月前に本国からもたらされた帰国"命令"をそっけなく蹴っていた。当時は航空機に賭ける情熱がそれを成したのかと理解したが、何のことはない。ポーランドも純粋な祖国ではなかったというわけである。
ルーヴェンが苦笑した。
「我々にとって、万物の事象は知識化、マニュアル化が可能です。その"同胞"も人の喜ばせ方を良く"勉強"しているようですね」
「"勉強"とは、彼が意識して振舞っているということでしょうか?」
片眉をピクリと上げ、ポーランド人男性の日常を脳裏に思い浮かべる。
要には彼の間の抜けたところや、人の話を聞かない暴走癖が天性のものでなく、意図したものであったのだとはちょっと思えない。仮にそうであったとするならば、彼は人間付き合いというものを根本的に勘違いしていることになろう。
「ミスターの反応を拝見する限り、その御仁は楽しい日々を送っているようですね」
「それは、もう」
「あはは……、おっと」
と、ここでルーヴェンが取り繕うように先ほどの説明に補足した。
「人の喜ばせ方といってもですね。勿論、"我々"の感謝は本心からのものですよ。ええ。日本の皆さんには本当に感謝しています。何せあなた方のおかげで"我々"はついに、約束の地を、安住の地を得ることができましたから」
言って、彼は暖炉の上に飾られたこの国の旗を見た。
青と白を基調とし、六芒星が東端に浮かぶ、古代の宗教地図であるTOマップを思わせる色彩の配置は、それがアジア・ヨーロッパ・アフリカの三地方を表していることを容易に連想させてくれる。
――シオン共和国。ユダヤにおける聖人の名を冠したこのユダヤ人新興国家は、産声をあげてよりこの方、恐るべき速度での資本投下が行われており、未来の工業国として、緩衝国には留まらぬ影響力を周囲に行使していた。
「……"我々"にとっては、青天の霹靂だがな」
要から見て中央に座る恰幅の良い男性が苦々しげにそう口にした。
鼻息が荒い。男は体格に似合わぬ長い足を組みながら、ソファに深く背を埋めている。
お世辞にもこの会合に好意的な感情を持っているとは言いがたく、ルーヴェンはおどけるようにして彼の態度を茶化しながら、言った。
「ミスター・チュウジ。お二人のご紹介をさせていただいても?」
「……お願いします」
要が頷くと、ルーヴェンはわざとらしく咳払いをして、彼らの紹介を始めた。
「このへそを曲げている彼は、エリス・ビクター・サッスーンと言います」
「サッスーン、ですって?」
思わず腰を浮かせた要を見て、ルーヴェンが双眸に興味の色を輝かせる。
「ええ、あのサッスーンの家長です。彼はね」
エリスが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
サッスーンの名を、要は注意すべき財閥として金子翁から強く言い含められていた。
サッスーンとは中国沿岸部に根城を置いて、幅広い商売をしていた資産家一族の家名である。
いわゆる欧州の大財閥、ロスチャイルドの係累であり、大きくくくればユダヤの同胞であった。
『"お儲け"を本懐とする当世の経済的観念は、全てがユダヤ商人"シャイロック"から始まるのです。ゆめゆめ警戒なされるように』
中東の石油利権をめぐって、ロスチャイルドと共和商事はいわば商売敵の関係にある。
人の肉すらも取引の対象とする、"たが"の外れた契約主義者は、敵を決して許さない。
直接的な関与があったか不明とはいえ、先だってに中東で起きた海賊騒動も、現地員の調査で海賊たちを手引きしていたフランス商船がロスチャイルドの子会社が保有する船であったことが明らかになっており、共和商事や護民総隊との関係は一触即発の段階にまで悪化していた。
故に、要は首を傾げる。
何故、自分たちとロスチャイルド一味がこうして顔を合わせているのか、と。
要たちに今回の会合を持ちかけたのは三井商事と外務省だ。
単に会えというのだから、けして喧嘩を売って来いという意味ではあるまい。
考え得る線としては、和睦。
だが、そんなものは外交官の仕事であり、自分たちがやることではない。
要が頭を捻っていると、柔和な笑みを浮かべたままのルーヴェンが立ち上がった。
「貴方の疑問。お察しいたします」
そして、自らの右手と左手で大げさな握手を取る。
「今回のこれは、仲直りの場なのですよ」
エリスの舌打ちが聞こえた。彼の不機嫌を、ルーヴェンは柳に風と受け流す。
その様に、要はいくばくかの痛快さを覚えたが彼の言葉が納得できたわけではなかった。
「つまり、海賊とのつながりを彼らが認め、我々との和睦を望むと?」
要の日本語を理解したのか、エリスが苦々しげに英語で口を挟む。
「そんなつながりは存在しないし、我々が下手に出る筋合いもない。これは、君たちから頭を下げて乞わねばならん案件だ」
声を荒げるエリスを要は冷えた目で観察する。
思ったよりも余裕のない顔をしていた。余裕のない者を相手にするというのは、対峙する側にいくばくかの心のゆとりを与えてくれる。
要は英語でエリスに返した。
「申し訳ありませんが、仰っている意味が……」
「ほう……、よくもまあ挑発的な態度をとれるものだ。この"我々"に」
さらに強い言葉をエリスが吐こうとしたところで、
「はい、そこまで」
ルーヴェンが手を叩き、一同の注目を一手に引き受ける。
「"やった"だの"やってない"だのはこの際関係がないのです。それよりも、もう一人の御仁をご紹介したいのですが」
途端、ルーヴェンに向かっていた視線が左端に座っていた大柄の白系男性へと移る。
熊のような人相をしていた。要も見知った男性だ。
ルーヴェンは席に着く面々をぐるりと見回し、エリスが引き下がり要たちが頷いたことを確認すると、わざとらしい咳払いをする。
「では、ご紹介をいたします。彼は――」
その言葉は男性の手に遮られた。
「貴様の仲介は不要だ。顔見知りであり、恩もある」
「おっと。もしや日本駐留時に?」
「そういうことだ」
男性の言葉に、ルーヴェンが目を丸くする。
立ち上がった男性が、こちらを見た。
「もう一年ぶりになるだろうか」
要は頷き、言う。
「お変わりないようで何よりです」
彼が何と呼ばれていたかを思い出す。。
通称"マカロフ"。元はソ連海軍の駆逐艦長をしていた男であり、今は新興国家であるロシア連邦の将軍であった。
ロシア連邦――、俗に緑ロシアと呼ばれるこの新興国は、ニコラエフスクを首都として、東シベリアやカムチャッカを領土としている。
日本の傀儡でないことを国際社会にアピールするように、帝国時代に関わりのあった国々に全方位外交を試みているが、ソ連を最大の脅威として認識している関係上、日本政府とは安全保障上の相互条約を締結しており、国内の新聞においても両国の蜜月関係を示す会談記事が政治面に載らぬ日はない。
「ウラジミール・フォン・エッセン。ロシア帝国の海軍軍人であり、今はロシア連邦の海軍大将だ。いつぞやは世話になった」
「お久しぶりです。フォン・エッセン。もうお身体のほうは回復されたようですね」
日本の捕虜であった時期には足を引きずっていたのだが、こうして立ち居振る舞いを見るに、もう心配はなさそうだ。
だが、何故この場に軍人が? という疑問が残る。軍服こそ着ていないものの、毛色の違いは顕著であった。
要の疑問を理解したのか、ウラジミールが野趣に富んだ笑顔を見せて言う。
「俺は先日の経緯から、連邦随一の知日派として政府に認識されているらしい。人手不足の昨今において、俺のような人間は貴重なのだそうだ」
随分、明るくなったものだと要は思う。
捕虜として来日した当初、彼の表情は悲壮極まりないものであった。無論、故郷に残した家族を人質にとられ、棍棒外交の捨石にされた末の敗北であるから、彼の態度も合点が行くというものだ。
「ご家族はどうされているのですか?」
言ってから、しまったと後悔した。ソ連にとって、ロシア連邦は勝手に国土を分捕った敵国に他ならない。その敵国の将軍となれば、家族とてただではすまないだろう。
だが、幸運なことに要が危惧した悲劇は起こっていなかったようであった。
「妻も娘も、既に取り戻してある。"提督"の忘れ形見であったから、こうして無事に取り戻せて本当に良かったと思う」
「"提督"ですか」
「婿養子なんだよ。俺は」
婿養子、ということはエッセンの名跡を継いだということだろうか?
軍事知識の乏しい要はその家名を知らなかったが、聞く人が聞けば分かるものなのかもしれない。
一通りの紹介が終わったところで、ルーヴェンが再びその場の司会を担当する。
「さて、皆様にこうして集まっていただいたのは他でもありません。東アジアの"同胞"でとある認識を共有させんがためなのであります」
「認識、ですか?」
高橋が万年筆を握りながら問うと、ルーヴェンがその通りだと頷いた。
「東洋には"一蓮托生"という言葉がございます。もしくは、"呉越同舟"、でしょうか。アジアという舟に同乗している我々に争っている暇はございません。それを認識していただいたいのです」
言って、ルーヴェンは円卓を手で指し示す。
「円卓をご覧ください」
ルーヴェンが指し示したものは、先ほどから目に付いていた各国雑誌の数々であった。
「昨今の情勢たるやまさに激動の一言であり、失礼ながら皆様におかれましても満足のいく現状認識ができていないものとお見受けします。ですから、共に振り返りましょう。世界の歩みを。共に見据えましょう。我々がこれから歩む道を……」
ルーヴェンが一冊のニュース雑誌を手に取った。アメリカで発行された『タイム』である。
「全ての変革は、日本から始まりました。1934年末に日本の皇帝が発信された"人間宣言"は、世界の常識を覆したのです。パーソン・オブ・ザ・イヤーの記事は皆様読まれておりますか? いや、ミスター・タカハシにおかれましては愚問でありました。世界で最も速くこのことを記事に、『タイム』のインタビューも受けた御仁ですものね」
参加者はそれぞれが違う反応を示した。
高橋は感慨深げに、向井はにっこりと笑ったまま、ウラジミールは現状を素直に認めるように、エリスは厄介ごとに頭を痛めるように、態度こそ違えど一同が頷く中、ルーヴェンは続ける。
「日本皇帝は解放主義を是としました。民族の解放、民族の自決こそ世界のスタンダードたるべきだと皇帝は主張なさったのです。そして示し合わせたように東欧で動きがありました。"ウクライナ独立問題"ですね」
ルーヴェンが2冊目の雑誌を取り上げた。
我が国においても一定のシェアを持つニュース雑誌『ロイター』だ。
「"ウクライナ独立問題"については『ロイター』が一番速く報道しました。ソ連のウクライナにおける飢餓輸出が明るみに出て、今までソ連経済を推していた知識人たちの論調が弱まりました。そして、ここで登場する勢力がワルシャワ・ドナウ経済連携協定であります」
ワルシャワ・ドナウ経済連携協定とはオーストリア・ポーランドを中心に東欧諸国間において結ばれた、自由貿易体制と人・モノの移動制限を撤去した、いわば緩やかな合邦協定である。両国は左傾化したハンガリーとも自由貿易協定を結んでおり、日に日に関係を強めていた。
「エコノミック・パートナーシップ・アグリーメントでしたか。WD・EPAの成立は、我々投資家にとっては寝耳に水でした。右傾化するものと高をくくっておりましたからね」
向井の言葉に一番大きな反応を示した者は、エリスであった。
何故かと要は一瞬考え、そして合点する。
よくよく考えてみれば、ロスチャイルドはオーストリアの貴族だ。つまり、オーストリア経済に彼らは深く関わっている。彼の表情を見れば、決して歓迎すべき事態でないことは手に取るように分かった。
ルーヴェンが向井の言葉に首肯する。
「歴史的経緯からいえば、ポーランドは欧州大戦において勝者になった連合国側の後押しで独立がなされた新興国家です。敗者の中央同盟国側であるオーストリアと合邦を進める謂れなんてありません。つまり、この合邦は連合国側にとって、まさに恩を仇で返すような所業というわけです」
「それでも連合国側への不義が為されたのには、両国なりに自国のことを考えた事情があったから、ですね?」
まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように……、いや実際に打ち合わせをしたのかもしれないが、向井とルーヴェンは阿吽の呼吸でやり取りを続ける。
「先の欧州大戦終結時に締ばれたサン=ジェルマン条約において、オーストリアは国土の約7割を中立的、ないしは敵対的な独立国として失い、盟邦ハンガリーやドイツとの合邦を事実上禁じられました。これは、広大な領土を分業的に運営していたオーストリアにとって、大きな痛手となったのです」
要は『ロイター』の該当記事を思い出す。
そも、ドイツ系オーストリア人とマジャール人の和協によって成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国はスラブ人やルーマニア人、ウクライナ人、ロマといった多様な民族を抱えており、そのいずれもが被支配民族からの脱却を図っていた。
近代において広大な土地を集権的、圧政的に運営することは難しい。自然と経済は分業体制に落ち着き、各民族の立場も保護されるようになる。
この分業体制というのがくせものであった。
自身の受け持っていた役割が工業地帯や農業地帯であったならばまだ救いがあったのだが、生憎とオーストリアは首都であり、文化と政治の中心地だったのである。
オーストリアが見舞われた領土の分割とはすなわち、我が国において東京以外を独立国として切り離されたようなものだ。いくら経済規模が他地域に比べて巨大であったとしても、それは中央を支える地方なくしては成り立たない。1929年の世界恐慌の余波もあり、自ずとオーストリアの経済は破綻寸前にまで追い込まれた。
ルーヴェンは続ける。
「10人に1人……。一昨年までのオーストリアにおける失業者の割合です。かの国の民は絶望しました。絶望し、行き着く先は政治思想の先鋭化であります。"右"か"左"か。あの国の民は"左"を選択しました。当時、パレスチナに住んでいた私はこの選択に驚きましたよ。何故、伝統的キリスト教保守主義やオーストロ・ファシズムを抑えて、社会民主主義が台頭したのでしょう。エリス氏?」
「答える必要はない」
「と、にべもないご返答をいただきましたが、要するにボタンのちょっとした掛け違えがあったわけです。そしてこれが意外なことに複雑怪奇な東欧情勢において、起死回生の一手となったわけですね」
要は頷く。
オーストリアは統制経済に寄った議会制の社会主義国家になった。
そして期せずして、かつての盟邦であったハンガリーも社会主義体制に舵を切る。
こちらは完全に旧連合国側の手落ちといえるだろう。元々愛国心が強く、ハプスブルク家による帝国復興を渇望していたハンガリーに対して、フランスを中心にした旧連合国はルーマニアやチェコスロバキア、ユーゴスラビアといった周辺小国による武力的な圧力を煽ってこれを押さえ込み、しばしば圧力をかけていた。
少しでも想像力を働かせれば、理不尽な圧力を受けることで国民の生来持ち合わせている愛国心が周辺諸国に対する憎しみに取って代わられることも危惧できたのでなかろうか。
だが、現実問題としてハンガリーに対する締め付けは続けられ、伝統的に右派の強い国柄であったにもかかわらず、ハンガリーは周辺諸国に嫌がらせでも行うかのように左傾化した。
「何故、あれほどハプスブルク家に忠誠心を持っていたハンガリー国民が容易く"左"を選択したのか……。一説には日本皇帝による左翼的改革が愛国者の左派へ持つ忌避感を薄めた結果、"たが"の外れた"愛国左翼"の誕生を助長したのだとする見解もあるのですが、大事なことは社会主義の本来的に持つ"国際性"と"攻撃性"にあります」
「"国際性"と"攻撃性"ですか?」
要の相槌にルーヴェンが頷く。
「社会主義は"伝染"するのです」
ルーヴェンは『ロイター』を開き、東欧の地図を参加者に指し示した。
「その実現性はさておき、社会主義という経済思想は民衆にとって、砂糖のように甘く、中毒性があります。そして、倫理的に正しい。誰だって倫理的に正しいことを、正論を誰かにぶつけている時には気持ちよくなれるでしょう? 何故なら、自分が正義なのですから。自分が正義であるからこそ、それ以外は悪と化します。そして――」
紙面を手のひらで叩き、更に言う。
「社会正義の名の下に、社会主義が"伝染"します。伝染先はユーゴスラビア王国。旧連合国がオーストリア弱体化のために独立させたかの国は、民族運動と社会主義革命によっていまや風前の灯です。これをあろうことか、ヴェルサイユ体制を逆手にとって、オーストリアやハンガリーが"民族自決"だと擁護しているのですから、皮肉などと言うものじゃあありません。喜劇です。確かに革命が成功すれば、社会主義陣営にとっては味方が増えますからね。怒りで"線"を踏み越えてしまった方々は、本当に恐ろしい……」
ルーヴェンが苦笑し、雑誌のページを進める。
「1935年、オーストリアとポーランドを決定的に近づける事件が発生しました。これがソ連の主要構成国であったウクライナ、ベラルーシの独立ですね。両国はエストニア、ラトビア、リトアニアといったバルト三国やフィンランドなどの北欧諸国との結びつきを強め、社会主義ながらもソ連との対立姿勢を強めています。ここで大事なことは一つ……。二つの強大な仮想敵国を持っていたポーランドが、軍事的圧力から解放されたことです」
言って、ルーヴェンは挿絵として描かれた肖像画を指で叩いた。
「ユゼフ・ピウツスキ。既に亡くなってしまった御仁でありますが、死の直前に彼は、政府に命を下しました。周辺の社会主義国と関係を深めるように、と。オーストリアやウクライナ、ハンガリーと接近し、仮想敵国をドイツに絞り、余力をもって周辺諸国との領土問題解決を図ったのです。そして、社会主義国との蜜月が成った今、1932年に締結されたソ連・ポーランド不可侵条約は国境を接しなくなったことで形骸化されました。旧連合国にとっては予想外の事態でありましょう。飼い犬に手を噛まれたようなものですから」
ルーヴェンは『ロイター』を円卓に置き、肩を竦める。
「掟破りの合邦により、東欧の経済回復は確約されました。完成された経済分業は個々の生産効率を跳ね上げます。そして、ドイツという"旧連合国にもお墨付きをもらっている敵国"の存在は、"軍拡"による公共事業の確保を正当化しました。ウクライナのドニエプル工業地域で生産されたBT戦車と、フィンランドで開発された新型航空機を各国が配備し、敵対者を威圧します。これにて東欧は見事復権を果たしました。今のかの地は、社会主義経済という新たな皇帝を冠した、いわば"オーストリア社会主義構造帝国"です。現在の敵対者はフランスの支援するチェコスロバキアとルーマニア……。役不足もいいところですな。チェコスロバキアに至っては、既にポーランドとハンガリーに挟まれた南部スロバキアに軍隊を進駐される有様ですよ。そうされる前に、西欧諸国が大々的に干渉をしなければならなかった。しかし――」
ここでエリスが舌打ちをする。
ルーヴェンが鼻歌混じりに手に取った雑誌は『イズライール』であった。要も持っている発刊第2号で特集された内容は、"西欧におけるユダヤ人富裕層の陰謀"。よりにもよって、自分たちの"同胞"を危機に追いやる内容だったのである。
「彼らはそれどころではなくなってしまった。1932年、米国で起こったリンドバーグ家長男誘拐殺人事件。1933年末、フランスで起こったスタヴィスキー事件、そして昨年のロスチャイルド家保有商船による海賊支援疑惑……、西欧世論は『ユダヤ憎し』で団結し、外の脅威から目をそらし、内側への弾圧を始めました。ドイツではニュルンベルク法が成立し、国内に残っていた"ユダヤ人とされた"人々は強制収容所へと送られてしまいます。フランスではユダヤ人資産家の資産凍結法案が可決され、イギリスではユダヤ信仰の棄教を強制する法案が可決されました」
「……それも全てが、お前たちシオニストのせいでな」
「これは人聞きが悪い。我々は事実を記事にしただけでしょうに」
憎々しげに睨むエリスを柳に風とばかりに受け流し、ルーヴェンは笑う。
「それに、我々はただ"やり返した"だけですよ? あなた方、中東のことはさておき、東アジアで新たに構築されつつあった新経済圏にちょっかいをかけようとなさったでしょう。正統主義の石頭や、信仰心など欠片も持たない"同族"の商人に楽園の建国を邪魔されてはたまりません。『対立はビジネスチャンス』が貴方たちのモットーでしたか。人の肉と血を取引に使うのは結構ですが、やるならアジアの外でやっていただきたい」
要には、彼らが何を念頭に話しているのかが良く分からなかった。理解できたことは、何やらユダヤ人が大きく二つの派閥に分かれて内部抗争を繰り広げていることだけである。
それにしたって、"一蓮托生"を謳ったその口でこのような醜態をさらす神経が理解できない。
高橋は困惑のあまり、顔を凍りつかせていた。向井は平生の通りである。大陸情勢に詳しい分、彼らの対立も理解していたということだろうか。
いや、今回の会合はそもそも向井が話を持ってきたのだ。下手をすると、彼らがこうして対立することも、折込み済みであった可能性がある。
向井がこちらの視線に気づき、口元に人差し指を当てた。
しばらく黙っていろ、との合図であろう。
4人の部外者による注目の中で、エリスとルーヴェンの言い争いは続けられる。
「まるで自分がアジア人になったかのような戯れ言を……!」
「おや、昨今出された学説ご存知でない?」
ここでルーヴェンが新たな雑誌を拾い取った。
「南アフリカ、ケープタウンのステレンボッシュ大学で面白い学説が発表されましたね。ほら、一昔前に隆盛したプラヴァツキー夫人の焼き直しで、西欧白人は皆アーリア人という根源人種の末裔であり、古代からその人種的優位性によって有色人種を支配していたのだとする学説が……」
「あんなくだらないオカルトが何だと……」
「あなたはお忙しくて世の中を見ていらっしゃらないのかもしれませんが、白人=アーリア人説は西欧で支配的な考えになりつつありますよ。だからこそ、有色人種に対する風当たりが強まり、ユダヤ憎しの論調も容易く広まったわけで――」
ルーヴェンの物言いに我慢のならなくなったエリスが円卓に拳を叩き付ける。
「だから、そう煽ったのはお前たちだろうが!」
きん、とエリスの怒声が耳朶を叩き、耳鳴りを残す。脂肪がついて自然と三日月目になるはずの両目は大きく見開き、怒りで顔を震わせていた。
ルーヴェンはその勢いにのけぞり、それでも挑発的に肩を竦める。
「我々はアジアの民として、純粋に西欧の混沌を憂慮していただけですよ?」
「ユダヤは、アジアの民ではないッ! ヨーロッパを引っ掻き回して何になるんだ!!」
「んん、どうやら根本から認識の違いがあるご様子」
言って、ルーヴェンが額に指を当て続けた。
「貴方はお忙しくて学会の近況をご存じないのかも知れませんが、実は最近脱欧してきた"同胞"が、『ユダヤ人はアジア人と人種的に多くの共通点を持っている』との研究を発表したのです。どうやら我々は古代に分派したアジア人らしいのですよ。だから、我々の建国は"帰郷"であり、故郷を守る義務があるわけです」
「そんな馬鹿な話が……」
エリスは呆れて続く言葉を紡げないでいた。
全くもって屁理屈である。未来人からもたらされた"テクスト"を読んだからこそ要には分かった。
ユダヤ人は決してアジア人などではない。ルーヴェンの語る学説は、政治的に歪められたオカルトであり、『イズライール』を愛読していた要だからこそ、彼のポジション・トークには失望を覚える。
だが、エリスにはこのような与太話にも思うところがあったようで前のめりになっていた姿勢を力なく戻し、
「結局、お前たちは我々に何を望むのだ……」
と呟いた。
そして、ルーヴェンが微笑む。
「"我々"に協力してください」
それからのエリスは驚くほど素直に頷き、用件は済んだとばかりに席を立つ。
足取りのおぼつかない彼の背中が、扉の向こう側に消えた後で、ようやく向井が口を開いた。
「存外、エリス氏は粘りましたね」
その言葉にルーヴェンがため息を吐く。
「……正直、疲れました。こういう矢面に立つ交渉ごとは苦手なのですよね」
茶化すように向井が笑う。要はもう我慢の限界だとばかりに、ルーヴェンを怒気を込めて詰問した。
「このような茶番を我々に見せて一体何のおつもりか?」
茶番の意図は流石に理解できる。
要するに、彼らはロスチャイルドをやり込める姿を自分たちに見せて、今までの対立を水に流せと暗に言っているのだ。
要とて、世界平和を希求する一員であり、和睦については否やはない。
だが、やり口が悪質極まりなかった。
先ほどの話が真実ならば、どう取り繕ったところで彼らがやっていることは紛争の種を撒き散らしているようにしか見えない。
国際協調を勧め、平和主義を至上としなければならないところに、彼らのやっていることといったら、全くもって逆コースを突き進んでいるのだ。
要の敵意に対し、ルーヴェンが目を白黒させる。今となっては、彼の素朴な仕草もマニュアル化された計算の上だということが分かるため、尚更に苛立たしい。
「それは、後が無くなってしまった彼らを自陣営引き込むための交渉です。特にサッスーン家は百年前よりアジアに根ざしていましたから、アジアに在住するユダヤ系財閥の窓口のような立場におさまっています。彼らにはユーロ・リスクを自覚してもらい、資本の移動をしてもらいたく――」
「あれは、交渉ではなくて恐喝というんです!!」
あんな交渉はいたずらに敵意を煽るだけである。
下手に相手が開き直りでもしてしまえば、その後に待つものは徹底的な全面戦争である。
勝手なことをされて日本までそのような対立に巻き込まれてはたまらない。
「ミスター・チュウジは、そもそもこの国が危機にあったことをご存じないのですか?」
「ええ、知りません。私が知っていることは、あなた方が戦争の種を撒いたであろうことだけです!」
ルーヴェンが頭を掻き、しばし思案する。
「列強各国で締結された非人道兵器に関する制限の緩和はご存知ですか?」
「それと、あなた方のしたことに関係はないでしょう――!」
「……いえ、その判断は早計ですよ?」
にべもなく返そうとしたところで、向井の差し出口が入った。
要はぎりりと歯を噛み締めて向井を睨む。
「制限の緩和に名を連ねた国の中に、ナチス・ドイツがあったでしょう。仮想敵国であったはずの彼らの関係は白人種を守る"正義の枢軸国"として、積年の確執に雪解けの相を見せています。彼らの敵意が黒人にのみ向いている内は良い。……ですが、中地さんはお忘れではありませんか? 我々日本人も"有色人種"には違いないことを」
それは事実だ。悔しいことに。
要は何か言い返そうとしたが、返す言葉が見つからなかった。
これを好機とばかりに、ルーヴェンが付け足す。
「"正義の枢軸国"陣営は、既に目標を東欧社会主義陣営に絞っています。はっきりと言いますが、いくら"軍拡"を進めたとしても東欧陣営に勝機はありません。勝者になった"正義の枢軸国"陣営は日本国や我が国、そしてロシア連邦に優勢人種としての立場から、何らかの要求をしてくることでしょうね。だから、"我々"は大戦が勃発する前に小細工をする必要があった。つまり、"正義の枢軸国"とリベラル、ユダヤ資本の分離です」
「分離、ですって?」
高橋の問いに、ルーヴェンが神妙な顔で答える。
「西欧列強は莫大な工業力と資本力を持っていますが、根本的なところで民主国家です。彼らのやっていることが過激で、倫理的に外れているほどに、必ずそれに反対するリベラルが現れます。西欧との対立は避けられないものと考えて、彼らの厭戦感情を煽るための種が必要なのです。例えば、論拠に乏しいオカルティズムやデマゴーグの流布は、知識人を嫌悪させ、それに踊らされる民衆を侮蔑させます。ミスターが私に失望したようにね。そういうものを積み重ねて、挙国一致体制の確立を少しでも防がねばならないのです」
ですから、とルーヴェンは指を立てた。
「心苦しい話ではありますが、国際的に影響力を持つユーロ・ユダヤの分離は絶対不可欠と言えましょう」
「それは"同胞"に弾圧を強いてまですることなのですか」
「……当たり前じゃあないですか」
非難がましい口調でそういうと、ルーヴェンが初めて不快感をあらわにした。
「派閥が違うとはいえ、流石に私だって心が痛みますよ。ですが、"我々"にアジアという場所を与えてくれたのはあなた方だ。だから、"我々"はアジアの立場に立って動く。元来、土地に縛られず無縁であった"我々"に土地を与えるというのは"そういうこと"なんですよ」
「――そもそもの話」
ここで駄目押しとばかりに向井が言う。
「国際協調重視とやらの立場から彼らユダヤ人も多数住んでいた満州を手放し、ソ連の圧力から目を背け、結果として彼らを満州から追い出したのは我々ですよ。無論、国際世論とやらを重視して彼らの自治を許したのも我々日本です。彼らの自存努力を貶めるべきではありません」
「それは――」
これも事実だ。情けないことに。
"テクスト"によって満州を手中に収めていることが、アメリカとの決定的な対立につながることを要たちは心得ていたが、かといって満州を手放したことで起き得る結果についてまでは正確な予測ができなかった。
"テクスト"による選択肢の分岐が在満ユダヤ人の苦境と、今の現状を作り上げたというならば、要に彼らを罵る資格はない。
そんな要の逡巡を察した向井は舌鋒鋭いままにとどめの一言を発した。
「お言葉ですが、共和商事さんは少々よそ様にたいする気配りというものを学ばれた方が宜しい」
そして、たっぷりと時間を置いて尖らせていた口調を和らげ、続ける。
「お節介が過ぎましたな。申し訳ありません。ですが、これも共和商事さんのためを思ってのことなのですよ。日本政府はあなた方に、国益にかなう"ビジネス"を期待しております」
「ビジネス、ですか?」
向井がにっこりと笑い、揉み手をした。
「はい。日本政府による正式な要請です。実は当面、シオン共和国は軍需産業に焦点を絞って産業の整備を進めていくそうでしてね。ロシア連邦は――」
「急ごしらえの建国であったため、国家財政がどうなるかも分からん。資源輸出国としてのスタートを切ることになるが、国防については日本の旧式化された兵器を買い取ることになるだろうな」
ウラジミールが言葉を食い気味に継ぐ。
話の腰を折られた向井は苦笑いを浮かべながらも、ことさらにウラジミールの言葉を肯定し、続けた。
「ええ、ええ。で、どちらも国民に必要な食料生産に不安が残りますから、海外からの輸入に頼ることになるでしょう。そこで……、共和商事さん?」
人畜無害を装っていた向井の眼が肉食獣の輝きを放ち始めた。
「今後、共和商事さんのところで出ました余剰分の農産物を彼らに売ってはいただけないでしょうか。勿論、見返りも用意いたします」
「一体、何を……」
「――見返りはシャムであります。東南アジアの独立国、シャムの開発援助をあなた方が一手に引き受けることを、政府は認める用意があるのです」
向井は言う。
「シャム王国の農業改革に共和商事さんが携わり、農産物を我々三井が東アジアへと輸出します。無論、開発後の利権はあなた方のものです。立地の問題でフランス領インドシナが目障りですが、これはエリス氏の協力を取り付けたことでどうとでもできましょう。需要と供給の一致した素晴らしい商売が既にお膳立てされているのですよ!」
インドシナという言葉を聞き、要は"テクスト"に書かれた太平洋戦争の遠因を思い出す。
人の業というものを痛感した要は、悔しげに目を瞑った。
まぶたの裏に未来人たる大和たちの姿が浮かび上がる。
次に目を見開き、見えたものは知らぬ間に一蓮托生になった勝手極まる隣人たちの姿であった。
1936年、2月下旬 『東洋経済新報』編集室にて
新年を迎えてよりまだ一か月と経たない内に、世界は激動の様相を呈している。
欧州の左系言論紙は本年を、「東欧リベラルの大躍進年」になるだろうと気炎を上げた。
欧州の右系言論紙は、「自由主義にとっては悪夢の年」になるだろうと悲しんだ。
アジアの左系言論紙は、「東亜解放の年」になるだろうと喜んだ。
そして右系言論紙は、「大東亜復権の年」になるだろうと息巻いた。
さて、遅ればせながらうちはどう評したものかと、フリー・ジャーナリストの高橋亀吉は万年筆の石突で額を掻く。
高橋は『東洋経済新報』社の一室で執筆を続けていた。
ふとすぐ傍に置いていた蓄音機が目に留まり、先日に放送されたニュース放送を再生してみる。
ニュースは、ラジオアナウンサーの謳い上げるような口ぶりから始められた。
『ニュースをお伝えします。つい先ごろ、朝鮮半島の独立法案が可決成立されました。これを受けて、独立運動の旗頭となっていた桃山公爵殿下によります政見放送が行われます』
すぐに桃山公爵の政見放送が開始される。
『……まずは、我々朝鮮人の独立を支持してくださった多数の日本国民に厚くお礼を申し上げたい』
恐らくは実際に頭を下げたのであろう。少しばかりのタイムラグを挟み、桃山公爵が口を開く。
『朝鮮の同胞たちよ。意識してほしい。我々が平和裏に独立を勝ち取ることができたのは、アジア民族自決のために勘州で命を散らせた戦友がいたからということを。この勝利は、決して日本の厚意のみによって与えられたものではない。我々が努力によって勝ち取ったものでもあるのだ!』
公爵の口調は徐々にエスカレートしていき、仕舞いには激情の赴くままに荒々しい声を出すようになる。
『余は我が王朝を滅ぼした事大主義を憎む。強者に自らの運命を委ね、亡国の瞬間まで安寧を貪っていた惰弱さを軽蔑する。独立には覚悟が必要である。自らが血を流す覚悟が必要である。余は片足を爆風に捧げた。諸君らは何を捧げるか? 捧げられるものを持つ諸君らは、誇りを持て! 諸君らは銃弾に倒れても尚、我が同胞である。持たぬ者は恥を知れ! 事大主義者は害悪である。亡国であるッ!』
朝鮮民族にとっては幸運なことに、桃山公爵――、つまりは李鍵大統領はリーダーシップに優れていた。
由緒正しい血脈と、民族差別を憎む実直な人柄は上下を問わず人々に好意を抱かせる。
戦場で得た功績は愛国者を唸らせ、平和主義者を黙らせた。
朝鮮人にとって惜しむらくは、彼が徹頭徹尾大日本帝国の軍人として教育されたことだろう。
独立を勝ち取り、圧倒的な票差を経て大統領に就任した彼が最初に行ったことは、大韓共和国という国号の公布であったが、その次にやったことは治安維持法の制定であった。
まず敵を明確に作り上げることで、国内の団結を急いだわけである。
治安維持法のやり玉に挙げられたのは、西洋列強に媚びを売る事大主義者と、かつての同胞であり今は中国に拠点を置いている大韓民国臨時政府だ。
大韓民国臨時政府の指導者は、李鍵政権に対して『紛いものの独立』であると牙をむいた。
両者の対立は根が深く、早晩に解決することはあり得ないだろう。
大韓共和国の建国を機に、周辺4カ国は首脳会談を行い、今後は多元的共存、差別のない世界に至る道を模索すると宣言した。
その宣言に則って設立された組織が大東亜連合。各国の政権担当者と、政策執行機関である連合委員会委員長が合議制をとり、各国の政策に影響力を及ぼす地域統合体であった。
連合憲章の作成には我が国の政治集団、大亜細亜協会が携わったとされている。
初代連合委員会委員長に大亜細亜協会のリーダーを務めていた近衛文麿が抜擢されたのは、その功績を受けてのことかもしれない。
近衛といえば――、 高橋は彼の名を聞いて奇妙な反応を見せた二人の人物を思い起こす。
一人目は宮本千早。彼は怪我の療養中に近衛の名を聞き、表情を強張らせた。
二人目は中地要である。彼は大東亜連合設立の報が記された新聞を握りつぶし、それを屑かごに投げ入れてしまった。
きっと、ただ小日本主義を標榜していれば明るい未来が待っていると期待していた自分とは違う視点を彼らは持ち合わせているのだろう。
先だってのカナニスクにおける会合によって、高橋はそれを痛感させられた。
「今年の予想は……、下り坂を車輪が転がるが如しとでもしておくかね」
車輪は急に止まれないわけで、加速した世界情勢をたとえた表現としては、あながち悪いものではないだろう。
「後はどこかで収まるところに収まってくれたらいいんだがね……」
恐らく無理だと予想できても、そう願わずにはいられない。
高橋は机に置かれた先日に他社が発行した号外記事に目を向ける。
そこには『宮城虎ノ門にて今上陛下を狙う爆弾テロが発生か?』と見出しが書かれていた。




