1935年12月19日0600 ソコトラ島沖合南方にて
某お艦ゲーのイベントに没頭し、調べ物にも苦戦した結果の難産でした。
前方約5000メートル先の海上で、ロワール130がくるくると空を回る。まるで魚群を見つけた海鳥を思わせる動きであったが、その下に漂っているのは魚などではなく、海賊が所有している小型武装艇だ。
恐らく排水量は恐らく200トンにも満たないであろう海賊船の行き足は、既に止まっていた。
艦砲射撃を受けたのか、甲板上の構造物は軒並みなぎ倒されており、艦尾がほぼ沈んでいる。
機関が動いていないことは、"富山"の聴音によって既に判明していた。
「……佐藤司令官。どういたしましょう」
百武の問いかけに佐藤は低く唸った。
このままあの艇を捨ておけば、程なくして沈むことだろう。時化の名残は未だ色濃く、海流も陸から離れている。
何処かの岸辺に流れ着くまで、転覆せずにいられる可能性は無きに等しい。
「我々の目的に則れば、放置しても問題はない」
だが……、と佐藤は双眼鏡を覗き見る。
黒人の乗組員が十数名、未だ甲板に残されていた。そのいずれもが小銃で武装しているため、ただの民間人ということはありえない。
中には大怪我した者もいて、甲板の縁にのたれかかり、海面にその血を垂れ流していた。
あれではサメを呼び寄せるようなものだ。事実、海面にちらほらとサメの背鰭が見えている。
「……幼いな」
佐藤は甲板上でこちらを威嚇している海賊の顔ぶれを見て、そう言った。
人種が異なるがゆえに正確なことは分からないが、海賊のいずれもが十代の前半――、とうが立っていても二十を越えることはあるまい――、であり、佐藤の中の良心がこのまま捨ておいて良いものかとずきずき疼く。
彼らは先日の戦闘で総隊の隊員を殺した憎き仇に他ならないのである。たとえ意趣返しに興じたところで、道理も理屈も十分に通るはずだ。それでも……、
「降伏の勧告は可能か?」
敵に手を差し伸べようと思ったのは、決して気まぐれからくるものではない。前例を知っていたからである。
過去、佐藤が付き添った上官の一人に、同じ状況下に置かれてなお、敵を助けた者がいた。
佐藤の提案に、"球磨"の乗員が一同晴れやかな顔をする。海軍士官は祖国のため、敵と"正々堂々"戦うために、今の道を志した者たちばかりだ。
伝統と誇りを何よりも大切にしているのである。なぶり殺しは自らの誇りを汚してしまう。
「やってみます!」
慌ただしく指示が下され、まず国際信号旗が掲げられた。が、海賊の反応は芳しくない。
「反応ありません」
「……陸さんの情報によれば奴らも元々陸の兵士だ。信号の意味を解さないのかも知れん。英語でも宜しい。一応、光通信も送ってみてはくれまいか」
信号兵が通信を試みると、小銃の発射音がかすかに聞こえてきた。
「あれは……、威嚇射撃ですな。発光をこちらの砲撃と勘違いしたのかも知れません」
「フウム……」
佐藤は眉間をこめかみを指で揉み、思案する。
信号が駄目となると、音声による直接勧告を視野に入れねばならない。
だが、そのためには可能な限り海賊船へ近づく必要があり、危険であった。
大破した海賊船にどれほどの戦闘能力が残されているのか、全くの未知数なのである。
また、一見して武装した海賊たちの警戒心が窺える以上、安易な接触はリスクを増大させると考えてよい。
いたずらに仏心を出した結果が、身内の殉職……。そんな愚かな結末を、総隊員の命に責任を持つ司令官が受け入れるわけにはいかなかった。
仏心を出すな。回収など諦めろ。自らの職務を思い出せ――。
佐藤は自らの職務を思い起こし、全艦に転身の号令を出すよう、百武に進言しようとする。――その寸前、"出雲"より通信が入った。
「司令官、"出雲"より通信。『恨みは深き、敵なれど』とのことです。繰り返します……」
『上村将軍』の歌詞を耳にして、佐藤の眼に数十年前の光景が蘇った。
"船乗り将軍"上村彦之丞提督のもとで先任参謀を努めていた頃、佐藤はロシア巡洋艦"リューリク"と戦ったことがある。
"リューリク"は憎い相手だった。あちらの通商破壊によって、我が国の徴用輸送船が3隻も撃沈されていたのだ。それも輸送船の降伏をはねのけた上での蛮行であった。
当時、上村提督は激高した国民から無能となじられ、参謀として責任のあった自分も鬱屈していたことを良く覚えている。
ようやく"リューリク"を追いつめ、雪辱を成し遂げた時には思わず涙したものだ。
だが、上村提督は沈みゆく"リューリク"を睨みつけながら、こう命じた。『敵ながら天晴れ。乗組員を救出せよ』と。
彼は一体、どのような気持ちで怨敵の救出を命じたのであろうか?
あの後、いくら佐藤が存念を聞いても、彼は腹の内を明かしてはくれなかった。今となっては、全ての秘密が涅槃の先にある。
ただ、今も尊敬してやまない上村提督の名を出された以上、佐藤に選択肢は残されていなかった。
「小官に対して、上村提督を引き合いに出すのはずるい」
その言葉に百武が笑う。
「……確かに。上村提督はずるいですな。おい、一体"出雲"のどいつが言い始めたんだ」
「恐らくは航海長の工藤かと。奴は上村提督の信奉者ですから」
大川内がそう言うと、何故か大井がうんざりと肩を落とした。
「大井君、知り合いかね?」
「小官の同期です。そう言えば、"工藤大仏"は昔からこういう奴でした……。あの野郎、いたずらに総隊と海軍で軋轢を生みそうなことを……」
大井の恨み言に、皆が頬を緩ませた。
「"工藤大仏"。御利益のありそうなあだ名じゃあないか。ここは一つ、御仏の思し召しに従うとしよう」
佐藤はそう言って、"秋津"へと指示を送る。
程なくして、"秋津"の艦尾より8隻の大発動艇が発進した。
信号の発信を諦め、直接海賊の拿捕を試みることにしたのだ。
「成る程……、護民さんの発動艇で接舷乗り込みを行うわけですか」
接舷乗り込みなどという前近代の発想が物珍しいのか、心持ち興奮した様子で大川内が言う。が、途中で何か思いついたかのように声を漏らした。
「佐藤中将、本艦隊に手伝えることはございますか?」
確かに、このままでは遣外艦隊の出番がない。佐藤は一瞬考え、海賊船の威圧を依頼することにした。
「貴艦隊には海賊船を包囲し、おかしな真似をしでかさぬよう戦意を挫いてもらいたいのだが」
大川内は頷き、百武を見る。百武は佐藤の依頼を快諾し、すぐさま艦隊を動かすよう大川内に命じた。
「高見の見物ができるほど、俺も貴様も偉くはなかろう。何せ、"左遷組"なわけだからな」
百武の冗句に大川内がにやりと口の端を持ち上げた。"悪加藤"への恨み辛みでいきり立っていた先日に比べれば、嘘のように余裕がある。やはり、遠方の海で味方と出会えたことが大きかったのかもしれない。
こうして、総隊の発動艇が海賊船へと直進するルートを取る一方で、遣外艦隊が単縦陣の序列を維持したまま、敵の周囲を取り巻き始める。
包囲の輪は等間隔に並んでいて、一分の乱れもなかった。規律正しく輪を狭めていく様子は、流石の錬度と驚かされる。
「発動艇が肉薄します!」
見張り員の大声が響く中、佐藤たちは固唾を呑んで行く末を見守った。
◇
渋谷は発動艇隊旗艇の司令所に陣取り、海賊船を凝視していた。
敵を救わんとする佐藤の指示に否やはない。むしろ、潮気のきいた素晴らしい判断だと思う。志半ばで命を落とした部下たちも、自分たちが復讐鬼と化すことを望んではいないだろう。そういう育て方はしていなかった。
我々勅令護民総隊は、命をただ奪うのではなく、命をただ守ることを本分とする――。商船の出身者にも馴染みやすいその理念は、今や海軍出身者も含めた総隊員共通の本懐となっているのだ。
その結実ともいえる成果が民間人をかばっての殉職。悲しくはあるが、誇らしくもあった。
しかし……、難しい。
「……どうしたものかな」
渋谷は誰へともなしに呟いた。
部隊指揮を任されている以上、今回の戦いは渋谷の采配に委ねられている。
日頃磨いてきた腕の見せ所だ。何とか被害を最小限に留め、最大限の戦果を挙げて見せたい。
「シナッパチ、海賊連中に信号は通じなかったんだよな?」
総隊結成時からの通信兵、中谷に問うと彼は間の抜けた出っ歯をぽかんと見せながら、渋谷に答えた。
「へぇ、はい。"球磨"からの無線を聞いた感じでは、はい」
「じゃあ、まずは何とか信号以外の手段で武装解除させにゃならんわけか」
懸念されるものは搭載砲の有無と、船員の武装であった。
「旗艇のみ増速。上部構造物が壊れているようだが、遠目からじゃあ良く分からん。先行して敵さんの火砲が生きているのか、確認する」
「アイ・サー」
総隊の保有する大発動艇は、陸軍のそれとは運用思想が違うために艦型も仕様も全く異なる。
例えば、本来上陸戦を想定して箱型に作られていた艦型は、外洋や北洋での機動力と復元性を重視して、紡錘形に改められていた。機関も瞬間的な馬力が重視され、液冷航空エンジンの回転数を抑えたものを用いている。緊急出力により生み出される馬力は750馬力以上。無積載なら最大で32ノットまで増速することが可能だ。
また対潜爆雷戦による個艇運用を想定してるため、大型化も為されている。
陸軍大発の自重が9.5トンであるのに対し、総隊大発の自重は47.2トン。全長も3倍近い差があった。
「第一戦速」
渋谷の乗る旗艇が12ノットから、20ノットへと増速した。それに伴い、ぐっと艦首が持ち上がり、後続艇との距離が開いていく。
反面、海賊船との距離はぐんぐんと狭まっていき、
「とーりかーじ、270度」
「アイ、サー。とーりかーじ」
ついには彼我800メートルの位置で互いに舷を並べあう。
「……小銃の射程範囲内に入りましたね」
石岡という海軍上がりの射撃指揮官が、防弾板越しに敵を覗きながら言った。
渋谷は指で頬を掻きながら、敵の様子を注意深く窺い、答える。
「ん、500までは寄せる。それで機銃だか火砲だかが火を噴かなきゃ、敵さんの武装は小銃だけだ。面舵40度」
角度の浅い面舵を取り、旗艦を徐々に徐々にと海賊船へと寄せていく。
砲弾が飛んでくる気配は見られなかった。
「こりゃ、火砲は無しと判断して良さそうだな……、お?」
その判断を後押しするように、小銃の弾丸が飛んできた。
「……決まりだ。更に200まで寄せる」
この期に及んで小銃の火力に頼るあたり、すがる物が本当にないのだろう。
目を細め、海賊たちを見る。
やせ細った黒い肌の少年たちが、自分の身長ほどもある小銃を担いで、こちらを狙っていた。
「何故、ガキどもしかいないんだろうな?」
「先日戦った奴らは、もっとガタイが良かったと思いますが……」
「五里霧中の話だ。あいつらを大人と間違えたのかもしれんぞ」
「まさか。取っ組み合いをした隊員だっています。流石にあんな青っぴょろいのにゃ組み負けませんや」
海賊船の周囲を回遊しながら、さらに距離を詰めていく。防弾板に弾丸が弾かれる音がひっきりなしに聞こえてくるようになった。
船上では波揺れのせいで射撃精度が落ちる。いかに有効射程の半分から射撃しているといっても、その腕前は見事という他なかった。
耳元で響く防弾板の悲鳴に目が回りそうだ。渋谷は叫んだ。
「おい、ガキにしちゃ良い腕してやがんな! いや、腕というより目が良いのか!?」
「自分たちでも、あのくらいは、できますよ!」
三八式歩兵銃を肩に提げながら、石岡が怒鳴った。
確かに商船出身者はともかく、海軍士官や陸軍出身の水兵ならば、彼ら少年兵と撃ち合って粉砕することは容易いだろう。
「こちらも応射して、黙らせますか!?」
「馬鹿。うっかり殺しちまったら、どうする! シナッパチ、拡声器用意しろッ」
「ア、アイサー!」
渋谷は中谷に拡声器のスピーカーを海賊船へと向けさせると、マイクロフォン越しに呼びかけた。
「 アーチャッ!」
直後、銃弾の雨が降り止んだ。が、すぐに射撃が再開される。どうやら、今までに聞いたこともない大声に戸惑っただけらしい。
「ああ、何でだっ。通じん!」
「スワヒリ語ですよ、それ! エチオピアの連中にゃ通じません!」
「そうか! 東アフリカ、東アフリカ……。おい、エチオピア人相手にゃ何て話しゃいいんだ?」
「知りませんよ、そんなこと! イタリアさんにでも聞いてくださいっ!」
渋谷はアラブ滞在中に出会った商人たちの言葉を必死に思い出そうとする。中にはアフリカ出身者もいて、意味の分からぬ言語混じりのスワヒリ語に悩まされることも多かった。あれが母国語だとするならば、彼らが話していた言葉をでたらめにでも再現すれば、言葉が通じるかもしれない。
渋谷は叫んだ。
「デナ、ネフ!」
効果は覿面であった。少年兵たちは一瞬驚いて硬直した後、怒り狂ったように声変わりのしていない高音で強い言葉を投げつけてくる。
ただ、銃弾の雨が降り止むことはなかった。もしやすると、馬鹿にされたとでも思われたのであろうか。
「デナ、ネフ!」
渋谷はそれでも根気強く呼びかけ続ける。しばらく、銃弾と大声の応酬が両艇の間を飛び交い続けた。やがて、弾薬が尽きたのか、少年たちの罵声のみがこちらに降り注ぐようになってから、渋谷は接舷できる寸前まで発動艇を海賊船へ近づけさせる。
「結果オーライだ! お前たち、手出しは無用だからなッ」
そう言うが早いか、渋谷は身を隠す防弾板より飛び出して、少年兵の前に姿を見せる。
「おい、ガキども! 武器を納めろっ」
5メートルほどの間を隔てて、指呼の距離で渋谷は軍帽をとり、少年兵たちと向き合う。流石にここまで近づけば、異人種といえども顔かたちの違いまで識別できた。
少年兵はナイフを取り出し、切っ先をこちらに向けている。元より日本語で呼びかけたため、意志の疎通ができたとは思っていない。
相変わらずの罵声を耳にしながら、渋谷は「矢弾尽きて、すぐ傍を艦隊に囲まれてこの態度。こいつら肝が据わってやがんな」と場違いな賞賛を口にしていた。
渋谷は大きく息を吸い込み、彼らに呼びかける。
「そいつ、その血を流しているそいつだ!」
と船縁でぐったりとしている一人を指さして、叫ぶ。
「そのままじゃ死んじまうぞ! 手当してやるから、投降せい!」
しきりに海賊船から発動艇に運ぶよう、ジェスチャーで訴えかける。
少年兵の圧力が弱まった。
流石に目前にまでしゃしゃり出てきて、寸鉄を帯びずに何かを叫ぶ人間を敵と判断できなかったのかも知れない。
ましてや、渋谷は黄色人種である。彼らが戦っていた白人種とは見てくれが明らかに違っているのだから、戸惑いを見せても不思議ではなかった。
八方を囲む艦隊からも『降伏せよ』との光信号が一斉に発せられる。意味は分からないかもしれないが、チカチカとひっきりなしに光を発している様は、少年たちにとっては不気味に感じるだろう。
彼らの勢いが及び腰になる。
「早く決めろ! このままフカの餌になりたいのかっ」
ここで渋谷は彼らに呼びかけ、更に水面下に見える大きな魚影を指さす。
これが決め手であった。
少年兵は海賊同士で顔を見合わせ、持っていた小銃やナイフを下ろし始める。
「良し、接舷作業。ロープ張れ! 俺自ら、乗り込んでやるッ」
それからの作業はつつがなく進行した。
怪我をした兵を渋谷自らかつぎ上げ、発動艇に回収していく。
仲間を心配する少年兵の姿は、渋谷からすれば年相応であるように思えた。
彼らの武装を解除させ、一杯の水と食事を馳走しながら渋谷はあることに気がつく。
「襲撃の日にゃ、煙い変な匂いがぷんぷんさせてやがったと思うんだがなあ」
ものすごい勢いで胃袋へ食事を流し込む少年兵たちに訊こうにも、言葉が通じないのではどうしようもなかった。
◇
「海賊……、いや遭難者の武装解除と確保が無事に済んだようです」
発動艇から無線による報告が届けられると、張りつめていた"球磨"の空気がほっと弛緩する。
海軍の士官連中は自分たちが物語の主人公になったかのように誇らしげな表情を浮かべているし、佐藤も大きく息をついていた。
元より助けずとも良かった命である。自身の判断で、これ以上の被害がでなかったことを喜んでいるのだろう。
大井は汗でかゆくなった手のひらを掻きつつ、上空の"お客さん"のことを思い出した。
「あー。あのフランスの飛行艇。どうしましょうか」
そう言えば、と士官連中から声が漏れた。上空を旋回するロワール130のことを完全に忘れていたらしい。大井も渋谷たちのことが心配で、すっかり念頭になかったわけであるから、これについては指摘できる立場にない。
「海軍の飛行艇なのだから、国際信号が通じるだろう。賊を遭難者として救出した旨を、まずは伝えておけばよいかな」
百武の指示で通信が送られる。すると、ロワール130が驚くべき返信が返ってきた。
「"シュウヨウヲモトム"……、何故フランスの飛行艇から日本語の返信が返ってくるんだ?」
大川内は訳が分からないといった顔をした。
だが、彼の疑問に満足のいく答えを提示できるものはここにいない。
「奴さん。帰ろうとしませんね」
「"飛行艇の収容を求める"とは一体どういう了見だ?」
「帰りの燃料が無くなってしまったんでしょうか」
「ただでさえ、国際的に失点の許されない現状で、そんな間抜けを晒すものかね」
あれこれと議論を重ねるも、謎は深まるばかりである。
この期に及んでは、直接存念を問い正した方が良かろうとの判断から、佐藤たちは飛行艇パイロットを"秋津"へ迎え入れることにした。
そして、大井もまた佐藤に同道し、"秋津"内に設置された外交用応接室にてフランス人パイロットを向かい合うことになる。
◇
護民艦隊は海上護衛や領海内の哨戒を専らの任務としている関係で、艦内に外交用の応接室を備えている。
これは本来ソ連との交渉に用いられるはずであったのだが、昨年の勘州事変を受けて、ソ連の影響力が日本近海から遠のいてしまったために、今や埃をかぶっていた施設であった。
それがまさかこんなタイミングで役に立つとは……。大井は高官たちの注目を一身に受けているフランス人青年パイロットをじろじろと見る。
長身だが、筋肉質ではない。その顔の作りはれっきとした西洋人のそれであり、先程日本語での着艦許可を求めた人物としては、違和感があった。
パイロットは飛行帽を取り、褐色の巻き毛を手櫛で後ろに撫でつける。そして堂々とした立ち居振る舞いで高官たちに向けて敬礼した。
「着艦の許可、ありがとうございます。自分はフランス海軍所属のル・グラン中尉であります」
パイロットはそう日本語で名乗り、高官たちを驚かせた。
我が国は国際的に比較すると、ほぼ単一に等しい人種構成をしている。故にモンゴロイド以外が流暢な日本語を喋ることに、ひどい違和感を抱く者が多い傾向にあった。
何を言い出すのかと警戒していた百武も、思わぬ先制攻撃に困惑を隠せない様子で、「ああ」と言い淀んでいる。
「随分と日本語が堪能なようだが……」
ようやく口をついて出たその言葉に、ル・グランはしてやったりとばかりにニヒルな笑みを見せる。
話すだけではなく、聞く方も堪能のようだ。
長身の西洋人というのはそれだけで絵になるが、笑顔まで加わると鬼に金棒であった。
もし、ここに集っていたのが免疫のない令嬢たちであったならば、あっと言う間にロマンスの華が咲いていたに違いあるまい。
プレイボーイ然とした風貌のル・グランだが――、恐らく意識しているのだろう――、気に障るような浮ついた振る舞いは見せず、百武の目を見て言葉を返した。
「ジャックという日本人の弟分がいます。時折、ヨーロッパで顔を合わせますし、日本にいる際には手紙も出しておりますから、意志疎通程度には嗜んでいますよ」
はて、と大井は首を傾げる。
日本人の知人と、"ジャック"という西洋人名が結びつかなかったからだ。
「どうしましたか?」
「いえ、"ジャック"とはあだ名でしょうか?」
「そういえば、聞いたことがありませんでした。ただ、半分は日本人です。父が日本人、母がフランス人の少年ですよ。自分にとっては、恩師の息子でして。夢は軍のパイロットだそうですから、その時は宜しくお願いします。父はシゲノですから、適性もばっちりでしょう?」
ル・グランを囲む高官たちが何ともいえない表情を浮かべる。
大井の知る限りにおいて、ル・グランの言うシゲノという人物には、全く覚えがなかった。恐らく、他の面々もそうだったのだろう。
だが、まるで知っていることが常識のように語られると、エリート特有の悪癖がもたげてくる。
つまり、"無知は罪"という見栄っ張りの悪癖だ。
百武はしばし考え、言葉を選ぶようにして言った。
「将来、軍のパイロットになりたいというのなら、いずれは陸士か兵学校を受験するのだろう。いずれは会うこともあるやもしれんな」
百武の言葉に、ル・グランが大きく頷く。
「ええ、自分も空で再会することを願っています。親子でエース・パイロットなんて偉業も見られるかもしれませんね?」
また、聞き捨てならない発言が降ってきた。
エース・パイロットとは欧州大戦時に定められた、"10機以上撃墜"の航空戦果を成し遂げた者に送られる称号だ。だが、陸にも海にもシゲノなどというエース・パイロットは存在しない。
百武の横顔を密かに覗くと、明らかに顔をひきつらせていた。
いい加減、見栄を捨てるべきではないかと皆がその表情に漂わせた辺りで、応接室の扉脇に控えていた航空士が声をあげる。
「ああ、バロン・シゲノ!」
その声にめざとく反応したル・グランが無邪気な笑顔をほころばせた。
「ええ、そのバロンです。貴方、航空士ですよね。流石にご存じでしたか」
対する航空士はといえば、高官の注目が自分に集まったことに気がつき、しくじったという顔つきになる。
「え、ええ。航空雑誌で読みました。フランス陸軍所属で欧州大戦における航空戦果多数。勲章ももらったエースですよね?」
何故、フランス陸軍に日本人が? とは口が裂けても言えなかった。
差し出口を高官たちが叱責しないのは、恥をかかずに身内の航空士を通してバロン・シゲノなる人物に関する情報を入手するためであろう。
航空士の答えを聞いて、ル・グランはほっと安堵の息を吐いた。
「良かったです。シゲノは日本に立派な航空機部隊を作るために帰国しましたが、失敗したと聞きました。けれども、彼の業績を知っている人は知っていたのですね」
皮肉でない、その口振りに大井は耳が痛くなってしまった。
自分はシゲノなるパイロットの業績など耳にしたことがない。いや、この場にいる航空士以外の誰もが知らなかったのだろう。
大井は帰国したら、シゲノに関する情報を真面目に集めようと心に誓った。赤っ恥はこりごりである。
「それで、貴官が我々と接触しようとした理由は、一体何故であろうか?」
咳払いとともに、横道に逸れた話を佐藤が修正する。
ル・グランは一度頷き、姿勢を正して答えた。
「我が提督、フランソワ・ダルラン中将から接触を命じられました。日本の海軍と良い関係を築いておくように、と」
「我々と接触したことで、良い関係が築けると?」
大井が目を白黒とさせ、次にフランスについての事情通である吉田に目を向けた。
「吉田」
「はい」
百武に呼ばれた吉田は誇らしげに一歩歩み出る。ル・グランとの交渉相手を彼が一手に引き受けることになったわけだ。
「ムッシュ・ルグラン。いくつか事実の確認をさせていただいても?」
「……ムッシュとは面映ゆいですね。ですが、構いませんよ。中将から貴方がたの疑問には誠実に答えろとも命じられています」
ル・グランは照れたように頬を掻き、快諾した。
「ええ。ありがたい。それではまず一点。貴方がたのこの接触は本国の承認を経た公式のものですか?」
最初の質問は、大井には意図が良く分からないものであった。
だが、ル・グランは痛いところを突かれたという風に苦笑する。
「ダルラン中将から命令ではありますが、中将が本国の承認を経てから動かれたかどうかは分かりません。ただ……、恐らくは承認をとっておられないでしょう」
つまり、軍の独断で他国の戦隊と接触したということだ。大井は仰天して、そんなことが許されるのかと口を挟もうとしたが、寸でで日本にも同様の例があったことに気がつく。満州事変などは、政府の承認を経ずに動き出した最たるものであった。
吉田は言う。
「なるほど……、つまり貴国の海軍一派が我々と誼を通じたがっていると。お言葉ですが、貴方がたと我々が通じて、いかなるメリットがあるかをお聞かせ願いたい」
この質問の意図は大井にも分かる。本国の承認を経ていないと言うことは、国内で意見が統一できていない……、恐らくは熾烈な派閥争いが繰り広げられているということなのだろう。つまり、この接触は派閥争いの手札として利用される恐れがあるのである。
「いくら多少の外交権があるといっても、我々はあくまで軍人であって外交官ではありませんから」
吉田の続けたこの言葉には、厄介ごとを持ち込んでくれるなと言う非難の念がありありと透けて見えた。
「参りましたね……」
ル・グランが頬を掻く。
吉田以外の誰もが、吉田の意見に賛同していた。
実際、他国の一派閥に肩入れするというのは、どう言い繕っても内政干渉に他ならない。幕末のような動乱期で、今よりも阿漕な帝国主義志向が許されていた佳日に比べ、今のワシントン体制は過度の内政干渉に手厳しい。
しかも相手は列強国である。逆恨みするであろう敵対派閥も、相手国の国民感情も、独断に怒る内地の政府も敵に回しかねない博打を打つなど、常識では考えられなかった。
ル・グランが口を開く。
「こちらも打算の上で動いていますから、仲良くできないと言われれば何も言えないのです。ただ、我々に意図があることを包み隠さずお伝えしたかった。その誠心を認めてほしかった。それだけです」
「打算とは?」
「貴方がたに"フランス飛行艇の案内"で海賊を救助したと本国で報告していただくことこそが、打算なのであります」
吉田が面食らったように眉を持ち上げた。
「我々が本国で海賊救助の報告をすることで、いかなるメリットが生じるのですか?」
「たくさんございますよ。まず、エチオピアの恨みが和らぎます。共に戦っていたから分かるのですが、我々ははっきり言って、イタリアの連中のようにエチオピアとじり貧の紛争を繰り返したくはありません。あそこは決して三等国ではない……。余裕がないのです。次に、貴方がたと蜜月を演じることで国内の過激派を牽制することも可能です。今回の作戦における我々の使命は、"そこそこイタリアに媚びを売り"、"エチオピアから恨みを買わず"、"イギリスに侮られず"、"日本との誼を国内に広め"なければならないのです」
うえ、と大井は顔をしかめた。
そんな政治的な綱渡りは軍人の仕事ではない。全権を握っているというダルランとやらもさぞ胃が痛いことだろう。
ル・グランの説明に吉田が「ああ」とため息をついた。
「お話は理解できました。元々、日本の商船を襲撃した海賊の手引きをフランス人がしていた件もありますし、国際協調を忘れていないと内外に強調した方が得策なのは間違いないでしょうね……」
「エッ」とル・グランが仰天して言う。
「その情報、自分は初耳です。確度の高い情報なのですか?」
「ええ。確かな情報です。海賊どもがフランス商船を通じて武器を入手していたことも、日本商船を襲撃した下手人の逃亡を幇助したことも、証拠も含めて確保しています。恐らくはどこぞの過激派の手によるものでしょうが、よもや政府がその件に関わっているということはありませんな?」
「まさか!」
陸軍の情報を、対外的には自分の手柄にすり替えた。ちゃっかりしていると大井は呆れる。
対するル・グランはフランス語で何かを呟き天を仰いだ。
「また、スキャンダルで国内が荒れます……。下手をすれば早晩に政権が……」
ため息と共に肩を落とした彼の表情は、決して嘘偽りを言っているようには見えなかった。
仮に目の前の青年航空士の口振りをそっくりそのまま信じるとすると、フランスという国はどうにも船頭多くして船山のぼる、現在進行形で迷走している政情にあるようだ。
吉田が探るように続ける。
「この接触は良きにつけ、悪しきにつけ、フランスにもたらす影響が大きいと思います。これを良い方向に導くためには双方のメリットが必要です。貴方がたは我々にいかなるメリットをもたらしてくれるのですか? 提示されたメリット次第では内地へ報告できる内容も変わると思いますが」
ル・グランは何か答えようとしたが、ぐっと言葉を飲み込み、力無く首を振る。
「いえ……、これは自分の手に負える問題ではなくなりました。至急外務省に連絡を取り、そちらで調整をしてもらう必要があります。いずれにせよ、フランス国内の急進右派は勢いを削がれることになるでしょう。自分としては願ったりでもあるのですけれども……」
澄まし顔をしてはいるが、大井には吉田の舌打ちが聞こえてくるようであった。上昇志向の強いこの青年は、少しでも内地へ帰る際の手土産を増やそうとしているようだ。
それをル・グランの自制心によって阻止された形になる。
吉田はしばし口を閉ざして何かを考えた後、たった今思いついたように質問を付け加えた。
「そういえば、現政権は急進・穏健右派の寄り合い所帯なのでしたね? 右派の勢いが削がれることを望むということは、貴官や中将は左派に所属しておられるということですかな?」
どうやら少しでもフランス軍部の内部事情を探ろうという方針に切り替えたようであった。
若干持ち直したル・グランは苦笑いしつつも、これについて正直に答える。
「ああ、いや。自分の場合は確かにユーロ・アフリカ解放主義の中道左派に共感を抱いていますが、ダルラン中将は違います。あの方は……、穏健な右派でしょうか? ただし左派にも一定の理解があり、間違いがあれば自説を曲げ、自国の利益を第一に考えられる立派なお方です」
「それは、是非とも会ってみたいものだな」
ル・グランが無条件の信頼を置くダルランに対し、百武がそのような感想を呟く。ひとたび会ってしまえば、フランス政治に巻き込まれること請け合いなのだが、それでもと思わせるくらいにル・グランの語り口は素直な尊敬が透けて見えた。
「成る程。ええ。貴方がたのお立場も含めて、海賊救助の報告の件については内地に申し次いでおきます。しかし……、博打を張ったものですね」
吉田の言葉にル・グランがきょとんとして固まる。
「博打、とは?」
「いえ、どうにも貴方がたは我々が"海賊を救助する"という前提で動かれていたように思われますから。もし、先だっての襲撃を恨みに思って動いたらどうされたのか、と」
「いや、それは、"有り得ない"でしょう? あんな、ほぼ無力化された海賊船を相手にそれをやっては、"信用"を失ってしまいます」
ル・グランの、全く疑いを抱かぬ物言いに、表情を取り繕っていた吉田や大井を初めとした海軍高官は面食らってしまう。
何故かくも当たり前の如く即答できるのだろうか。
更に続けられたル・グランの言葉に大井たちはぎょっとさせられた。
「クリスマス決議後に行われたエンペラーの肉声放送、全世界でトップニュースになりました。帝政の日本が"解放主義"を奨めて、"有色人種"を助けることは当たり前のことですよね? 建前だけの話だというなら、朝鮮半島、でしたっけ。そこの王子が起こした"独立運動"について大真面目に議会で論じ、可決されるなんてこともないと思います。既にフランスでは『ああ、日本はそういう国なんだ』という認識ですよ。だから、こうして会いに来たわけです」
自覚が足りなかったのであろうか。
いくら海賊の掃討という大義名分があろうとも、もし"勅令"を賜った我々護民総隊が、無力化した海賊船を見殺しにしていた場合、他国に付け入られる隙を作ることになっていただろうと、目の前の彼は言っているのだ。
背筋に冷たい物が走る。
期待や信用というものが決して誇らしいものであるばかりではなく、別の面から見てみれば枷になり得ることを大井は初めて理解した。
「あれは要するにルーズベルト大統領の公約と同じようなものでしょう? ほら、『私の任期中、アメリカは戦争に介入しない』という奴です。その国のトップの公約なら、それはもう確約じゃあないですか」
ル・グランの言っていることはすなわち、大日本帝国という途中下車のできない特急列車が最低でも十年、定まったレールの上を走り続けるということを意味していた。
「それは、そういうことになるのでしょうな」
脳天気に同意する吉田の軽率さが憎たらしく思えた。
「……終着の景色か」
今まで静かに見守っていた佐藤のうめき声が聞こえてくる。
大井と同じ想像に至ったからであろう。
レールの先にある世界が、果たして今と同じ形をしているという確信が持てなかったのだ。
1935年12月20日0920時 フランス領マダガスカル、サントマリー島にて
インド洋の西に浮かぶフランス領マダガスカルは、島というくくりで見てみると、世界有数の面積を誇っている。
この面積が大きいということは、決して良いことばかりではない。それが植民地であった場合、広さはそのまま支配の難解さに繋がってしまう。
事実、島内に在住するフランス系移民は土着マダガスカル人の1割程度の人数しかおらず、抗仏独立運動家の団結を防ぐために民族間の対立をあおっていたせいもあってか、インフラの整備も遅れがちであった。
20日の0700時頃。
護民・遣外連合艦隊から分離した一部隊がマダガスカル島の北東に浮かぶサントマリー島東岸にたどり着いた。
旗艦は"早苗"。随伴艦として"対馬"、"早蕨"がついており、全体の指揮は遣外艦隊の艦長が採っている。
本来は全艦隊でサントマリー島へと向かう予定であったが、島北端部でイタリアの巡洋艦隊と鉢合わせした際に、予定の変更を余儀なくされたのだ。
今現在、"球磨"を旗艦とした本隊はイタリア艦隊に随伴しているはずであった。
"対馬"の操舵室にて、乃美という商船出身の艦長の隣に侍っていた吉野は、電話の受話器越しに聞こえてきた佐藤の憮然とした口振りを思い出す。
『海賊の掃討に付き合うことになった』
"コンドッティエリ"型軽巡洋艦を旗艦とし、"フレッチア"級駆逐艦8隻を随伴した快速のイタリア艦隊は、列強国による掃討作戦が始まってから、一週間足らずで既に武装艇を6隻撃沈している。
イタリアの提督と面談した佐藤によれば、出会い頭から既に相手はこちらに対して敵対的な態度であったらしい。
まず、オマーン湾でイタリア商船に被害を出してしまった失点を詰られた。
八郎潟で働いているイタリア人たちを見ていると、驚くほどに神経質で他人に厳しかったことが印象に残ったそうだ。
口を開けば、「大ローマの誇り」だの「日本にこけにされたへたれ空軍と自分たちは違う」や「空母機動部隊などはお呼びじゃない」などと枕詞につけてきたらしく、提督は一通りこちらの失点を挙げ連ねた上で、イタリアの主導による作戦参加を提案した。
大ローマなどは国民意識の高まりと理解できるし、空母機動部隊への反感はセクショナリズムの対立と理解できるが、『日本にこけにされた』のくだりが、どういうことだろうか?
それは佐藤も理解できなかったそうだが、とりあえずイタリアの提案自体は受け入れることに決める。
『やけに日本を自分たちの下に置きたがる態度が気になったが……、陛下の御意志は護民だけではなく国際協調にもある。ここでイタリアと揉めても仕様があるまい。先だってのフランス人パイロットの言を踏まえるに、出来得る時に他国と強調して悪いということはあるまい』
正しい判断だと吉野も思う。
"海彦"の新見艦長も常々言っていたが、自分たち護民総隊は正しくあらねばならないのである。その正しさとは現時点においては人命の尊重と国際協調。いかにイタリアが鼻持ちならない態度をとったとしても、そのことだけを以ていたずらに和を乱してはならない。
一応、練度と見てくれの良い艦は選りすぐってあちらに随伴させているから、万に一つも他国に侮られるということはないだろう。後は予想だにしない問題が起きぬことを祈るばかりである。
と、見張り台より報告が降ってきた。
「右前方40度。艦長、見えました。日本船籍のタンカーです!」
双眼鏡をのぞくと、マングローブと砂浜が織りなす熱帯の景観が途切れたあたりに、ラグーン状の入り江があった。その出入り口に当たる箇所に、タンカーが頭から突っ込んでいる。
「ファンネルマークは、小倉石油のもの……。失踪していた"第二小倉丸"に間違いないなあ」
日焼けした小麦色の顔をくしゃくしゃにしながら乃美が酒焼け声で言う。
乃美の言葉に吉野はため息をつき、頷いた。
「喫水面が浅すぎます。あれは底を擦っていますね。むごい有様です……」
タンカーは見るからに浅瀬に乗り上げていた。あの船を再び航行できるようにするためには、大規模な修理が必要だろう。
「そうさな。商船の人間なら、誰だってアレを見たら辛くなる。さっさと何とかしてやらないと……」
乃美は我がことのように肩を落とし、伝声管を通じて全乗組員に通達する。
「 短艇用意」
近辺調査と救援のために上陸命令であった。
了解の旨が返ってくると同時に、吉野と乃美は操舵室を出て、タラップを降りて甲板へと駆け出る。
「準備できたか?」
「もう少しで準備完了します。ですが……」
「どうした?」
言葉を濁す乗組員が、"第二小倉丸"の甲板へと目をやる。
「タンカーの、甲板上で何者かが旗を振っているのです」
「何だってっ?」
慌てて確認すると、確かに"第二小倉丸"の甲板上で小さな人影が小さな7尺程の柄に布をくくりつけた即席の救難旗を振り回している。
日本人の中年男性だ。
あれは間違いなく生存者であった。
確か寺尾たちからの情報によれば、彼らは海賊に監禁されていたと聞いていたが、あの小麦色に焼けた上半身を見るに、外出の自由程度はあったようだ。
男性は丸眼鏡をかけていた。フレームが壊れ、ひび割れているのか太陽光を乱反射しているものの、文明を思わせるアクセサリーが、彼の風貌にインテリゲンチャとしての面影を残している。
だが、その形相は知性とはかけ離れたものだった。
「ここじゃあっ!俺は、ここじゃあぁーっ!!」
怒鳴り声が甲板にいる吉野たちの耳にまでしっかりと届く。
「……健康上の問題はなさそうですね」
「そうだねえ」
吉野の言葉に軍帽を押さえた乃美が頷いた。
「とにかく彼らを早急に保護しよう。救援物資も短艇に載せるように」
「分かりました。総短艇、卸し方!」
吉野たちは短艇に乗り込み、乃美による艇指揮の下で陸地へと急いだ。
「両舷、オール用意! ……前へっ!」
オイッチ、ニとかけ声が繰り返され、ラグーンの全貌が明らかになる。
多分に貝殻の混ざった白い砂浜は、先日通り過ぎたというサイクロンの余波を受けたせいか、漂着物で溢れていた。
その中にあって、作りのしっかりした木組みの"やぐら"が目に付く。どうやら、普段は救難旗を立てかけるために使っていたようだ。
その救難旗はというと、丸眼鏡の男性は既に放り投げていた。
甲板を降りた男性は、まず喜色を満面にして飛び上がり、すぐさまこちらへと駆け寄ってくる。
その足取りも軽やかで、大きな怪我もなさそうだ。
乃美が大声で呼びかける。
「大日本帝国、勅令護民総隊"対馬"艦長の乃美です! 貴方たちの救助にやってきましたよお!」
「おう、待っとったわぁ! これで内地へ帰れるんかぁっ!?」
乃美は頷き、次に問いかける。
「他の生存者はッ?」
「小屋で休んどるけ! 早く! 俺を内地へ帰しちくれっ!」
と、ここで引き波で短艇の船足が遅くなる。
しばらくは上機嫌で手を振っていた男性であったが、中々やってこない短艇に業を煮やして、地団太を踏み始めた。
満面の歓喜は、満面の憤怒へと取って替わられ、彼は感情のままに叫ぶ。
「遅か! 何しとるんや! こう、な。こう、もっと気合い入れて船漕げやぁっ!」
仕舞いには、待ちくたびれたらしく、着衣のままに海へと入っていき、こちらまで泳ぎ始める。
乃美は焦り、男性を制止する。
「ああ、大人しく待っていなさいっ!」
「み、店のもんを待たせてるんや! 俺が帰らんと、店が潰れてまう!」
互いに近づいていったとはいえ、結局男は短艇までの数百メートルを泳ぎ、漕手の一人に引っ張りあげられた。
「猪突猛進とはこのことですね……」
呆れた様子で吉野が呟くと、男は荒い息をつきながら答える。
「こげな関門の……、大瀬戸で、泳ぐのと、何も変わらん! んなことは良いから。おい、もやし! 早く俺を帰しちくれ!」
「も、もやし?」
もやし呼ばわりされた吉野は戸惑いつつも、「まずは要救助者全員の無事を確かめてから」と宥めようとする。……が、先だって「猪突」と評した彼に対しての対応としては上手くなかった。
「んな悠長なこと言うなや、もやし!」
胸ぐらを掴まれて耳元で怒鳴り散らされ、吉野はうんざりとした様子で顔をしかめていた。
「まさか、要救助者全員が"この手合い"なのでしょうか……?」
吉野の危惧は幸いなことに杞憂で終わる。
いつまでもけたたましくがなり立てる男とは対照的に、他の乗組員は静かで統制の行き届いたものであった。
何故、このような差が生まれたのか。
それはこの男が商船の乗組員ではなく、二人しかいない"客人"であったことが関係しているようであった。
◇
管楽器の音色が高鳴る中で、丸眼鏡の男性が怒鳴り声をあげる。
「お前らぁっ! 何しとるんかあ! 俺らは内地へ帰らねばならんのやぞ! とくと帰り支度済ませんかいっ!」
せかせかと、人一倍のスピードで短艇に自分たちの財産を載せていく男性を見ながら、
「……あの人はね。北九州で石油小売店を商っていたそうですよ。よっぽど店が心配なのでしょう」
と吉野の横でパイプをくゆらせた中年の男性が笑う。
「小売店ですか」
「はい。満州での商売に翳りが見えてきたので中東で商売の種を、と。冒険商人とは、ああいう手合いを言うのかもしれません」
彼は鈴木桂一郎といって、"第二小倉丸"の船長を務めていた男であった。
聞けば神戸の商船学校を出ているらしく、"秋津"の河野艦長とも旧友であるそうだ。
無論、吉野にとっても大先輩に当たり、世間の狭さを実感させられる。
無事であった船員たちの規律がやけに整っていたことは、彼の統率力を如実に表しているだろう。
「中小の商店は船頭が大事ですから、あの人も必死なのでしょう……。うちの者の尻を蹴っ飛ばすのだけは止してもらいたいところですが」
鈴木の言葉に吉野は頬を緩める。
こうした冗談を叩けるくらいには、彼らの心に余裕があるというのはありがたかった。
「囚われていた数ヶ月間。お辛くはありませんでしたか?」
「そうですね――」
鈴木はしばし考え、これに答える。
「辛い気持ち、と言うのはありましたが、それは自分の判断ミスを責めてのことで、待遇については特に何も」
「判断ミスですか?」
判断も何も彼ら商船は海賊の襲撃を受けた時点でひとたまりもないのである。しかも相手は神出鬼没の"殉教者"どもであり、吉野からしてみれば彼はただただ不運なだけであった。しかし、鈴木は自らのせいだと言い張る。
「予兆は耳にしていたんです。それを問題にしなかったわけですから、私のせい以外に考えられません」
「何ですって?」
仰天する吉野を横目に、鈴木が続ける。
「ダーラムに入港してからの数日。出航する商船の順番というか、日程や時間帯が妙に偏っていましてね。ああ、国も偏りがありました。イタリアの船は明け方の早い時間に出航し、イギリスやフランスは昼の日が高い内に出ていましたし、出航を見合わせることもありましたよ。あれは何らかの情報を事前に握っていたからなのでしょう」
「そんな偏りが……」
吉野は絶句する。総隊の調査の過程では出てこなかった情報であった。それに鈴木が気づいていたあたり、並大抵の洞察力ではない。
だが、鈴木はこの考察を自分の着想ではないと補足した。
「同業他社の浦部君がですね――。ああ、商船学校の後輩なのですが――。彼が気づいたんですよ。中東の海は朝方の霧が濃いから、昼の日が高い内に出港するべきだってね。アデン湾での海賊事件についても言及していましたが、僕は取り合わなかった。出航の予定を一日遅らせるだけで、大きな損失になりますからね。予定通りに出航して、そして"彼ら"の襲撃を受けた。……いくら悔やんでも悔やみきれません」
「そうだったのですか……」
吉野は鈴木を労わりながらも、内心でその浦部と言う人物の聡明さに舌を巻いた。
まるで鍵穴から部屋の全貌を見透かすような洞察力の鋭さだ。
ともに商船を守る、同志として総隊に勧誘したいという腹の内が見え見えだったのだろうか。鈴木が苦笑いを浮かべた。
「彼は軍には入りませんよ。嫌いなのだそうです」
「そうですか……」
心持ちがっくりとしながら、吉野は話を続ける。
「しかし、鈴木先輩は責任感が強いのですね。責任を感じるあまり、捕虜の待遇をも苦になさらなかったとは」
「ああ、いえ。本当に悪くない待遇だったのですよ。外出の許可も得られていましたし。最低限の生活物資"彼ら"が定期的に運んできましたから、飢えることもありませんでした」
「それは……。破格ですね」
"元”正規軍とはいえ、今は単なる賊徒に過ぎない彼らに捕虜を全うに取り扱う義理も義務もないのだから、この情けは不幸中の幸いといってよいだろう。
「もっとも……。我々はあくまでも"ついで"なのでしょうがね」
と言って、鈴木は肩をすくめて椰子の木陰へと目をやる。
「海賊どもにとって、主賓は"あちら"にいる彼だと言うことですか?」
吉野が先ほどから頭の片隅にこびりついていた疑問を口にする。
日本人要救助者がせっせと帰り支度を整えている中にあって、一見して軍人と分かる格好をした西洋人男性が一心不乱に管楽器を吹いていた。
ノスタルジックな音色である。恐らくは民族楽器の類だとは思うのだが、新見は白人の民族楽器について明るくない。
いや、そもそも何故民族楽器なぞを持ち込んでいるのだろうか?
脳内に疑問符が湧いて尽きない。
「ええと、彼は」
戸惑いながらそう言うと、鈴木が紹介をしてくれる。
「チャーチルさんというイギリス陸軍の軍人さんだそうです。エチオピア戦争でイタリアを相手に最後まで義勇兵として戦っておられたそうで、エチオピアの"彼ら"からは"名誉黒人"のような扱いを受けておられました。ご紹介しますね。ミスター!」
鈴木の呼びかけに、チャーチルなる男性が演奏をやめてムスっとした顔をあげた。
「一体何なのだ、スズキ」
明らかに演奏を途中で遮られたことを、苦々しく思っているようであった。
しかし、鈴木は気にせずに笑いかける。
「我々は祖国に帰ることになりましたから、その挨拶を。こちらは我が国の海軍の方です」
正確には海軍ではないのだが、外国人にそれを言っても詮無いため、吉野は無言で敬礼する。
すると、チャーチルはつまらなそうに鼻を鳴らし、民族楽器を砂浜に置いた。
「エチオピアの黒人どもとやりあうつもりか」
「やりあう、というよりは既に掃討作戦を行っており、我々もそれに参加しています」
「つまらなそうな戦だな」
そのあんまりな言い草に吉野は目を白黒させた。
「お言葉ですが、戦につまらないも何も無いと思いますが」
「いや、ある」
チャーチルはそう断じて、吐き捨てる。
「生と死が隣り合わせであり、冒険心が掻き立てられ、個人の名誉が重んじられる戦争こそが真っ当な戦争なのである。まるでドブネズミを駆除するような戦争が、あるか。少なくともわしは認めん」
吉野は彼の在り様にドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを見た。
つまりは、時代錯誤も甚だしいと言うことだ。
戦争が近代化され、人命が計数化されることでその価値を失った昨今において、前近代的なロマンチシズムを未だ夢見ているのである。この男は。
自分たちの戦いを「つまらない」などと断じられるのは面白くない。
吉野は憮然としながら、言う。
「既にイタリアとエチオピアの戦争はイタリアの勝利に終わりました。貴官は本国へ帰らないのですか?」
チャーチルはこれに頭を振って答える。
「今は帰らん」
「それは何故でしょう」
チャーチルがこちらを見ずに言った。
「……わしがここで帰ったら、連中の戦いが本当にドブネズミの復讐劇に終わってしまうからである」
この男の言っていることは、いまいち良く分からなかった。
「貴官がここにいることにどのような意義があるのですか?」
「いちいちうるさいぞ」
ぎろりとチャーチルはこちらを睨み、民族楽器をもって立ち上がった。
この場を離れるつもりだろう。
「スズキ。ジャパニーズワインは少々甘ったるいが、中々の物だった。スコッチ・ウイスキーを返してやりたいが、今は持ち合わせが無い」
「それならば、この一件が終わって落ち着かれましたら、日本を一度訪ねてください。私は海に出ていなければ横浜におりますから。会社をクビになっていなければね」
チャーチルからの答えは無かった。
林の奥に建てられたバラックの中にチャーチルが消えた後、鈴木は吉野に頭を下げる。
「お気を悪くされたかと。申し訳ありません」
「いえ、それは良いのですが。良く分からない人でしたね」
「恐らく、不本意なのだと思います。色々と」
不本意、という言葉に聞いて吉野は西方の山向こうを見た。
イタリア艦隊と護民・遣外連合艦隊は今頃マダガスカル島の西岸、グロリオス諸島へ向かって航行しているはずだ。
そこで英仏艦隊と合流し、新たに判明した海賊の根拠地の一つを叩くのだという。
情報の出処は分からない。だが、こうも奇妙なタイミングで根拠地が判明するあたり、何者かが今まで情報を出し渋っていただけの可能性もあった。
何者かの手のひらで踊らされたまま、実戦に臨むというのは恐ろしいことだ。
嫌な予感がこびりついて離れない。
「……成る程。不本意ですね、色々と」
そう返して、目を閉じる。
後日、吉野は掃討作戦の結果を知らされ、腰を抜かすことになった。
巡洋艦3隻が轟沈。1隻が大破。駆逐艦5隻が轟沈。大破2、中破1――。
海賊の殲滅と引き換えに四カ国連合艦隊が被ったものは、各国の軍事・経済バランスを揺るがすほどの大損害であった。
次回、ようやく戦闘回ですが、多分短いです。




