1935年12月17日1200 オマーン湾にて
"球磨"に乗り込んだ佐藤と大井を出迎えたのは、甲板にずらりと並び傾注の姿勢をとった搭乗員一同であった。
「――心に染み入りました。畏れ多くもかしこき今上陛下の軍事大権を任せられた者同士です。我が艦隊は貴艦隊への協力を惜しみません」
百武の言葉に佐藤が返す。
「これより我々は死生を共にする仲間である。我々の背中を、貴官らにお任せしたい」
総隊と遣外艦隊の意思統一が確認された後、佐藤と大井は艦橋へと案内された。
"球磨"の艦橋は八角形状の露天式を採っている。雨天時には帆布で天井を覆うが、今現在は晴れていた。
「……雨天の用意をしておいた方が良いかもしれんな」
佐藤の言葉につられて空を見る。
強い東風の吹きしく遠方に、うずたかい積雲が認められた。典型的な寒冷前線の境目だ。
現地の船乗りたちは強風のことをシャマルと呼んでいた。夏場のシャマルは風向きが素直で読みやすいが、冬場のシャマルは乱れて読みにくい。冬場のシャマルを読み切ってこそ、一人前の船乗りなのだという。
我ら護民総隊は中東入りして以来、濃密な数ヶ月を過ごしてきた。と言っても、その天候読みの精度に関しては現地人に比べ、まるで素人も同然と言って差し支えない。
いかなる兆候に対しても余裕を持って対処する。予想外の事態は起こるもの、と気構えておいた方が無難だろう。
「成る程、用意させます」
佐藤の案内に立っていた大川内は頷くと、乗組員に帆布の用意を指示しつつ、艦橋の中央――、百武中将の隣へと彼を誘おうとした。
「中将、是非百武司令官のお隣へ」
そんな大川内に向けて、大井は佐藤の反応に先んじ、謝絶する。
「申し訳ありません。司令官は、現在足を痛めていらっしゃいまして。何処か掴める物がある場所を……」
大井の言葉に、提案した大川内がきょとん固まった。
佐藤の振る舞いが、どう見ても健常者のそれにしか見えなかったからであろう。
「大井君、良い」
事実、涼しい顔で百武の隣へすたすたと向かう佐藤の足取りは一見すると軽やかだ。
しかし、大井は知っていた。
アラビアに来てからこの方、人の見えぬところでは彼が壁を背もたれにし、足を引きずっていることを――。
北方で折った腕も完治しているとは良い難く、要するに無理が祟っているのだ。
せめて、この任務が片づいたら長期の休暇を取ってもらえれば……、と大井は願ってやまなかった。
百武は、そんな大井の心配を察知してくれたのかもしれず、
「"球磨"の艦橋は、中々に景色が良いのですよ」
と艦橋の縁へと佐藤を自然な形で誘導する。
縁ならば、手すりに体を預けられよう。模範的な海軍軍人らしいスマートな対応である。
「ありがとう、百武司令官」
静かに息を吐く佐藤の顔は、少し寂しげに見えた。
「総員、配置につけ」
ラッパが高鳴り、護民・海軍合同艦隊による海賊掃討作戦が開始された。
前進半速9ノット。
進路は南東へ。
艦隊陣形は単縦陣をとり、錬度の高い遣外艦隊が"球磨"を筆頭に先達を務めた。
白い航跡を海面に残し、追い風を受けて護民・遣外連合艦隊が快走する。ホルムズ海峡の両岸にそびえたつ、堆積岩で形成された海蝕崖が目に見えて遠ざかっていった。
大井が後方を眺めていると、後続艦に併走する民間船が数隻ほど目に付いた。
小型のダウである。
どうやら付き合いの深いアラブ商人が、"秋津"の乗組員に声をかけているようであった。
「見てください、司令官。アラブ商人たちですよ」
渋谷たち発動艇部隊の隊員が甲板から身を乗り出し、商人に向かって何かを叫んでいる。
「出港前にも彼らは商人から土産物をたんまりともらっていたようでしたが」
「"員数外"の嗜好品が多少増える分には問題あるまいて」
帝国軍人としてはいささか褒められぬ、品の無い行動を発動艇部隊の隊員たちはとっているわけだが、佐藤も彼らを厳しく注意する気にはなれないようだ。
「この海賊事件が無事に解決できれば、彼らとも別れることになる。率先して商人の輪に入っていた渋谷君たちは感慨もひとしおであろう」
たとえ9ノットの半速といえども、商人たちの小型帆船よりはずっと速い。
渋谷たちは民間船が豆粒ほどの大きさになるまで手を振っていた。
やがて、前方にたゆたう海面の色が変わる。
外海に出たのだ。
オマーン湾沖合いの海底にはなだらかな下り坂が続いている。
その下り坂の終点辺りからがインド洋。海流が変化するため、すぐに分かった。
「おもーかーじ、150度ようそろ」
航海長の声が響き、艦隊がアフリカ東岸へ向けて回頭する。
次いで「もどーせー」の号令と共に、艦隊の進路が海流にぴたりと重なると船足が明らかに変わった。
大洋の潮風が鼻につく。平生よりも湿っていた。
風も強く、時化の予兆をひしひしと感じさせる。
百武が軍帽を手で押さえながら、しかめた表情で呟いた。
「佐藤司令官の仰るとおり、順風満帆とは行かぬようですな」
大井は今後の労苦を思い、小さなため息を吐く。
その日の太陽が水平線の彼方へと飲み込まれた頃、インド洋は案の定に荒れはじめた――。
◇
豪雨が舷窓を叩き、激しいピッチングが続く中、各艦の乗組員は"艦内哨戒第三配備"の態勢をとり、実労働4時間のローテーションを組んで作業に当たる。
どうやら隔壁に体をぶつけた者が居るようだ。先任の怒鳴り声と修正のやりとりが士官室からそう遠くないところで飛んでいるのが聞こえてきた。
「騒がしくて申し訳ありません」
しかめっ面の大川内が煙草盆に"ほまれ"を押し付け、そう言った。
「何、この程度は艦内の常だろう」
とは佐藤の言である。実際にどんな艦に乗っても出くわす光景ではあった。にこやかに行儀の行き届いた水兵など、聞いたことがない。
現在、大井や佐藤、それに"球磨"の先任士官たちは士官室で事務作業の傍ら、本作戦についての会議を重ねていた。
まず、海賊どもが所有されているとされる高速魚雷艇は勿論のこと、アデン湾で暴れまわったという武装船舶や予想されうる戦力について、艦型、性能などが議論される。
戦力を予想するに当たり、陸詰めの石原たちが集めた情報は大いに役立てられた。
その情報の緻密さに、"球磨"航海長の中山定義大尉が舌を巻く。
「……これを陸サンが収集したのですか?」
資料に添付された図画には、海賊の保有が危惧される艦として、北米西海岸の高速密輸船やオスマン王朝の装甲艦が描かれていた。
北米の高速艇もオスマンの軍艦も、基本はフランス経由で手に入れたものだろうが、それらを全部合わせればちょっとした小国の海軍力にすら引けを取らない。決して非正規部隊が持っていて良い戦力ではなかった。
図画を覗き込むようにしてみていた大川内が眉をひそめる。
「陸サンの情報収集力も、情報も、にわかには信じがたい話だが……」
反応の鈍い士官たちに対し、大井は発言の許可を求めるべく、手を挙げた。
"陸軍嫌い"をこじらせていては、目の前の現実も見えなくなる。
「当初は小官も驚きました。しかしながら、彼らの情報収集能力は確かです」
士官連中が唸る中、吉田という艦隊付きの参謀が疑問を投じた。
「装甲艦といえば、れっきとした軍艦ですよ。潮気に慣れていない、新参の海賊が果たして一朝一夕で動かせるものでしょうか?」
この吉田の疑問については尤もなものであった。
大井も頷き、彼の指摘を肯定する。
「それは小官も同感に思います。もし装甲艦を保有しているとしても、せいぜい浮き砲台程度にしか使えんでしょう。いや、ろくに整備もできんわけですから、海に浮かんでいられれば御の字です。やはり警戒すべきは快速の小型艇でしょうね」
「武装にも拠るでしょうが、小型艇の肉薄攻撃は駆逐艦の装甲を打ち破る恐れがあります。肉薄を恐れ、手傷を恐れる臆病者なぞ我々の中にはおらんでしょうが、十分に射程を取った砲撃で敵戦力の勢いを挫くことが定石だと思いますね」
「同感します」
会議も中頃になったあたりで、佐藤が思い出したかのように「そう言えば」と口にした。
「他三国の艦隊の現在位置も気になるところではある。小官としては時化が収まってから、周辺海域の先行偵察も進めたいと思うのだが……」
「じゃあ、うちの九五式水偵を出しましょうかい」
口を挟んだのは、兼子先任航空士だ。
「九五式水偵というのは、"球磨"の艦尾に積んであったアレかな」
「ええ。九五式水上偵察機。愛知航空機の新型で、単葉低翼の可愛い奴です。巡航速度で時速236kmは出ますから、周辺海域の偵察には十分使えますよ」
と胸を張る兼子。
誇らしげにするだけあって、巡航速度で236kmはかなり速い。
大井が軍にいた頃なら、艦載の水上偵察機といえば九〇式か九一式の水偵であった。
これが最高速度でおおよそ時速160から200km。
開発が進められていた九四式でも、確か230km程度だったと記憶している。
それが巡航で236kmというのだから、恐らく最高速度なら300kmは優に超えるのだろう。
単葉にしただけでここまで速力が伸びるものなのか。いや、もしかしたらエンジン周りも一新されているのかもしれない。いずれにせよ、尋常でない開発速度であることは確かだ。
「航空技術は本当に日進月歩だなあ」
「護民さんがそれを言うんですか」
他人事のように呟く大井に対し、兼子は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
「で、うちの水偵なら火薬式カタパルトで打ち上げられますから、海面の状態はある程度無視できます」
「ああ、あのレールはカタパルトだったのか」
大井がぽんと手を打つと、兼子は興味深げに前へ乗り出した。
「もしや、護民さんのところでもカタパルトを使っているので?」
「いや、うちはハイン式の帆布発着艦だけだよ。ただ、建造中の航空母艦に搭載されるかも知れんとは聞いている」
「へ、航空母艦にカタパルトをつけるんですか。それはまた何ででしょう?」
「さあ、小官も聞きかじっただけだからなあ……。少しでも発艦速力を稼がにゃならんとか、何とか……」
何しろ大井は陸詰めの連中と違い、北方では蟹工船、南方でうだる暑さの中、アラブ商人たちとの千夜一夜物語と、東奔西走の日々を過ごしていたのだ。
内地の情報に興味がないわけではなかったが、ゆっくりと反芻する余裕はなかった。
兼子はなおも食い下がろうとしたが、ここで雑談に待ったがかかる。
横道にそれる大井たちの会話を軌道修正したのは、百武であった。
「ならば、うちの水偵と護民さんの水偵で周辺の偵察にあたるとしよう。沿岸部から沖合いまで、隈なくが望ましいな。どうだろうか、諸君」
百武の意見に、皆が頷く。
こうして出撃の出番表を作成する段にさしかかって、兒島という主計士が手を挙げた。
「畑違いの意見ですが、主計科の視点から具申いたします。航行計画によれば、東アフリカに到着するまではオマーン沿岸部を虱潰しに進む予定ですね。ならば、偵察に用いる戦力を進行方向、沖合い、後方の三方に各一機のみとしてはどうでしょうか。これが敵国との戦争中ならば護衛機の一機でもつけるべきなのでしょうが、海賊に対空兵装も航空戦力はありませんから」
兒島の意見を受けて、兼子の顔があからさまに歪んだ。
「そりゃあ主計さんは命を張った経験がないから、そんなことが言えるのかもしれませんがね。護衛機の有無というのは精神的にも相当でかいんですよ。それに海上で万が一があっても困る」
主計科と兵科は伝統的にぶつかりやすい。書類で戦をする帝国海軍にあって、贅沢に物資を使わぬようにするお目付け役が主計科だからだ。
両科の不仲は"良識派"を自称する遣外艦隊においても例外というわけにはいかぬようであった。
はてさて、と大井は趨勢を見守る。
このように主計科と兵科が仲違いを起こした時、主計科が勝つか、兵科が勝つかは時と場合によるものだ。
例えば、出港直後や戦闘の気配がない平時においては主計科の方が強い。いわゆる"飯炊き兵"の親玉を怒らせて、日頃の飯を減らされてはたまらないからだ。
それに対して直近に戦闘を控えていた場合は、兵科の方が普通強い。理由は兼子が口にしたとおりである。飯にこだわり、勝利を逃してしまうなど、笑えない冗談だと参謀畑の大井も思う。
そして今は後者に当たるわけだから、通例で考えれば主計科の方が折れる。
大井はそう睨んでいたが、生憎とその予想は外れてしまった。
兒島は随分鼻っ柱が強いようで、兼子を睨み返してさらに続ける。
「あまりどんぶり勘定で弾と油を使い過ぎると、内地で"加藤派"に無能とつつかれるんですよ」
おっ、と大井は内心で声をあげた。
この兒島という青年士官は、中々侮れぬ。交渉をかなり得意としているようだ。今、遣外艦隊の面々が何を嫌がるかを的確に理解し、主計科の主張を通そうとしている。
事実、兼子は痛いところを突かれたという顔をして、大川内の機嫌を窺っていた。
大川内はというと、"悪加藤"の名前が出た時点で結論が出たようなものである。
「俺は兒島主計長の意見に理があると思う」
大川内の言葉を聞いて、兼子はがっくりと肩を落とした。
「部下に何て言われるか……」
大井は苦笑して、兼子をなだめる。
「モノは考えようだろう。水上機の偵察範囲はおおよそにして300マイルであるからして、時速236kmなら往復で大体4時間30分。1コマ4時間30分で3機ごとのローテーションだ。休み時間が増えるじゃないかと説いてやれば良い」
「そう簡単に済めばいいですが……」
「兵士は現金なもんだからなあ。泣きでも何でもして口先八丁で言いくるめなさいよ。後は野となれ山となれの精神だ」
北方での牟田口もそうだったが、総隊に着てからやたらに人をなだめる機会が多くなったように思う。
これじゃあ参謀というより、寺の坊主だ。
実は出家こそが自らの道なのではなかろうかと益体もないことを考えながら、兼子と今後について話し合う。
「総隊の海護二型は単座で、航続距離が短いんだ。後、航法の精度も未だ未熟な者が多いから、なるべく沿岸部の哨戒を回してくれ」
「ちゃっかりしてるなあ」
「そういうなよ。きちんとした飛行学校のある海軍とは、やはり航空士の育成効率に差が出てしまうんだ。ここは一つ、ノーブレス・オブ・リージュの精神で頼む」
実際に八郎潟を拠点としている総隊の飛行学校は、海軍の猿真似にも及ばないお粗末なものであった。講師にエース・パイロット級を配置しているとはいえ、とにもかくにも練習機が足りない。座学だけでは限界があるとは、宮本参謀の言であった。
大井がお寒い事情を訴えかけると、兼子が降参だという風に諸手を挙げる。
「分かりました。ただ、こいつは"いける"って奴にはうちらと平等に働いてもらいますからね。それに、隊長格のサボりまでは許せません」
「その辺りは、所茂八郎先任隊長に直接言ってくれ」
「元"一航戦"の先輩にそんなナマ言えるわけがないじゃないですかっ。ぶん殴られますよ!」
兼子の悲鳴はさておいて、出番表を作成するためにはやはり"富山"の所隊長へ話を通しておかねばなるまい。
通信士に伝言を頼もうとしたところで、大井はもう一人話を通しておかねばならない人物を思いだした。
"富山"で水測試験をしている田村久三だ。
「佐藤司令官。現状、水測長の田村さんはデータ取りに熱中していらっしゃると思いますが、本格的に偵察活動を始めるなら、彼のデータは必ず役に立つと思います」
佐藤は目を瞬かせ、万年筆のペン先を揺らしながら、これに同意する。
「田村君か……。うむ、気づかなかったが、確かにその通りだ。即刻、水測の結果をこちらに通信できる環境を構築しなければなるまい」
佐藤と大井のやり取りを聞き、"球磨"の士官たちは怪訝そうな顔をした。
互いに目を見合わせ、しばしこちらの様子をじっと窺うような仕草を見せる。
「水測……、ですか。馬鹿なことを聞くようで申し訳ないのですが、対潜哨戒ではないのですよね?」
おそるおそるといった風に質問を投げかけたのは、中山だった。
海軍軍人はエリート気質が強く、『聞くは一時の恥』に抵抗のある者が少なくない。
例えば、主計の兒島や参謀の吉田がそうだ。大井たちのやり取りに疑問を持ったまでは他の面々と同様であったが、態度を取り繕うのも早かった。
素知らぬ顔をしているが、後で水測のイロハを調べ直すつもりだろう。鼻っ柱の強い優等生に良くいる手合いだ。
同じエリートでも商船出身の吉野たちとは違うな、と身内の顔を思い浮かべる。彼らには軍事は畑違いだという免罪符があった。鉄拳制裁があまり広まっていない総隊において、この免罪符は良い方向に作用しており、今では上下の間柄でも気軽に「何故、何」と意見の交換、疑問の提示が日常的に見受けられる。
いわば、中山は無知という名の不名誉を被るスケープ・ゴートなのだ。畑違いなら無知を晒しても良かろうというセクショナリズム、無様を見せるわけには行かないという海軍としての面目、そして筋金入りの上下関係が構築されている中で、彼以上の適役がいなかったから、不名誉をかって出た。
ここで殊更に彼の無知を際だたせてしまうと、キャリアに傷をつけてしまうことだろう。大井は冗談めかして、中山に答えた。
無駄な軋轢は、自らの人生時間の浪費であると学んだのだ。
「小官も初めは意外に思いましたがね。これが案外、水上艦の察知にも流用できるんですよ」
中山はほっと息を吐き、立て板に水を流したかのように饒舌になった。
「私の知る限りでは、艦隊航行中の水測はノイズが発生して使い物にならないと聞いておりますが」
「実際、ひどいノイズですよ。北方ではうちの水測員が戦闘中の聴音に従事していましたが、まともに聞き取れる状態じゃなかった」
戦闘が絡むと、軍人は食いつきが良い。
今まで黙りを決め込んでいた吉田が口を挟んでくる。
「そうなると、艦の行き足を止めるのですか? 航行計画に差し障りが出ますが……」
「いえ、航行しながらで問題ありません。14ノットの強速までは悪天候下であっても聴音が可能です」
大井の返答に、大川内が疑わしげにこちらを見た。
「14ノット? こう言っては何だが、水測の田村とは元"足柄"分隊長の田村君のことだろう? 彼は水測の勉強を専門に積んだ人間じゃあなかったはずだ」
「ええ、元"足柄"分隊長。今は便利屋の田村さんです」
艦政本部長、"山彦"艦長、そして水測長……。
万年人手不足の総隊においては、スペシャリストよりもゼネラリストが尊ばれる。
田村はその好例で、器用に何でもこなせることから、様々な職務を転々とさせられていた。あまりにも転々としているせいで、"ローリング・ストーン"などというあだ名が付いてしまったことはご愛敬である。
「ご指摘の通り、彼は本来機雷の専門家でありまして、水測の専門家ではありませんでした。ですから、我々は発想を変えたのです。素人でも水測がしやすいようにすればいいんじゃないか、と」
大井はそういうと、"球磨"の通信士に"富山"へ取り次ぐよう依頼した。
内容は「周辺を航行している船舶がいないか知りたい」というものだ。
返事はすぐに返ってきた。
「艦隊進行方向270度に、複数の断続的な人工音感知せり……」
"球磨"の士官が信じられない様子で口をあんぐりと開けた。
「今は時化ているんだぞ! 水中音が乱反射する中で、そう手際よく聞き取れるものなのかっ?」
驚きの声を上げる大川内の反応に、大井はさながら悪戯に成功したかのような小気味良さを覚えた。
もっとも彼の反応をあざ笑うつもりなどない。一年前の自分であったならば、同じ反応をしたに違いないからだ。
「もしや護民さんの使っている聴音機は、ロッシェル塩を捕音材に使っているのでしょうか」
中山が少し学のある所を見せようとした。が、残念ながら不正解である。
従来、我が国の海軍が水中聴音に用いていた機構は、電話機の構造をそのまま流用した――、いわゆるダイナミック型を採用していた。
そもそも音とは"振幅"によって生み出されるものである。
そして"振幅"は何らかの物体を媒介にして遠方へと伝導していく。
ダイナミック型とは、この伝導した"振幅"を永久磁石とコイルを用いて電流へと変換する機構のことだ。
具体的には、永久磁石とコイルを組み合わせたマイクロフォンという機器が音の振幅を拾い取る。次に、磁力を生み出し、磁力は電流へと変換される。変換された電流は真空管のような増幅回路を通して増幅され、より大きな音として再生される……。
基礎理論は18世紀末の科学者、マイケル・ファラデーの発見を基にしており、構造自体も単純だ。そのため、工業技術の未発達な我が国においては取っ付きやすい代物であった。
これに対して、中山の挙げたロッシェル塩とは西欧諸国で採用され始めた比較的新しめの捕音材である。
酒石酸カリウムナトリウムの塩――、いわゆるロッシェル塩には、圧力を電流へと変換する性質があり、より効率の良い音から電流への変換が可能だ。
ただし、加工と実用に難があった。何せ、塩だ。塩には可溶性のものと不溶性のものがあるが、生憎とロッシェル塩は後者だった。
水中での聴音に用いるには、一手間も二手間も工夫が必要だったのである。
大井はかぶりを振って、続けた。
「残念ながら、うちの聴音機もダイナミック型ですよ」
「それでは理屈に合いません。どうすれば、従来の聴音機よりも聞きやすくなるというのですか」
大井は仰々しく頷くと、周囲を見た。
注目されている。
佐藤が苦笑いを浮かべている中、大井はこほんと咳払いをし、心持ち誇らしげに水測の種明かしを始めた。
「……聞くのではなく、見ているのです。はい」
北方での戦いによって総隊が得た教訓は、「そもそもどう努力しても人の聴覚には限界がある。もしくは個人差が大きい」というものであった。
ゆえに聴覚以外で音を感知する……、そして複数人が同時に分析できる方法を模索することになる。
問題解決の種は意外と近くに転がっていた。
共和商事のエンジニア、マリオがその答えを持っていたのだ――。
『……目で見えるようにすればいいんじゃないか? それなら、皆が確認できるだろ』
八郎潟の上陸時、意見を広く募っていた大井に対し、味噌付きのきりたんぽを頬張っていたマリオはこともなげにそう言った。
彼の言葉にも驚いたが、彼の横に積まれていたきりたんぽの量にも大井は驚く。明らかに一人で食べる量ではなかったのだ。
『別に一人で食べるわけじゃない。職場仲間と後で楽しむんだ』
『何故そうも沢山のきりたんぽを抱え込んでいるんだ?』
『切ってない奴はタンポと言うらしいぞ。これは妹が缶詰めのチハヤを無理やり連れ出して、農家巡りをしたときの土産でな。何でも農業用エンジンをメンテナンスする礼としてもらったんだと。それで……』
バルブにカムに自然吸気の3馬力だの云々と話が横道に逸れかけたため、大井は強引に話を戻す。
『ああ、その話はまた次の機会に聞くとして。それでだね。音を目で見えるようになど、できるもんじゃあないだろう。発想の根拠が知りたいところだが』
するとマリオはきょとんとした面持ちでこう言った。
『電流は目で見えるようにできるんだから、音だって多分いけるだろ』
奈落の底で蜘蛛の糸を見出したかのような驚きを、この時の大井は感じた。
『電流を視覚化……、そんな方法があるのかっ?』
詳しく聞かせてくれと詰め寄ると、マリオがあからさまに面倒くさそうな顔をする。
どうやら、新型エンジンの習熟に詰めていたところで、今は貴重な休憩中とのことであった。
忙しいから後にしてくれと説明を渋るマリオに対し、大井は諦めずに食らいつく。
結局、次の北洋巡視中で海の幸をとってくるという交換条件で、講師役を快諾してもらうことになった。
『例えば、俺が関わっていたレース機やテスト機だと、大抵は電気式測定器とバッテリーを積み込んでいてな。調整だの何だのと細かい整備を行う電気技術者が現場にいたんだ。そいつらが電流を目に見えるようにする検知器を持っていた」
『電気技術者か……、それなら造船関係で総隊に顔を出している面々や、無線電話機の研究を行っている企業に問い合わせれば、現物の検知器を入手できるかもしれないな』
『現物なら、ユーリの所に置いてあるよ』
『それは、良いことを聞いた!』
一度着想を得てからは、トントン拍子に事が運んだ。
そもそも既存の聴音機自体が、音の"振幅"を電流に変換する仕組みを持っているのだから、電流から音へと再変換する過程を削ってしまえばいい。
かくして、聴音機の出力部に"トムソン式リフレクチング・ガルバノメートル"なる電流検知機を取り付けただけの聴音試作機第一号は半月もかからぬ内に開発することができた。
……が、ここで一度研究が躓く。
試作一号機に取り付けられた電流検知機は、電流が流れると懐中時計を思わせる金属器に収まった指針がゆらゆらと揺れるだけの代物であった。
試しに大井が検知機を睨み付け、心なしか新技術誕生の期待に胸を膨らませている田村がマイクロフォンに向かって喋り出す。
『ミスター・メニー、カムヒア!』
グラハム・ベル気取りかよと思わないでもなかったが、確かに音圧が電流へと変換され、針がわずかに揺れた。
その揺れを見て、拍子抜けした大井は肩を落とす。
どう見ても、役に立ちそうには思えなかったからだ。
驚喜した田村がマイクロフォンの近くで、コーヒーカップをちりんと鳴らすと、これもまた針が揺れる。
『大発明じゃないか、これは!』
『いや、どう考えても駄目じゃないですか……』
確かに、音を目で見ることはできた。しかし、細やかな揺れ具合で音の質を見極めようと言うのでは、既存の職人芸と何ら変わりがない。
『これじゃあ、できそこないですよ。実戦じゃ使い物になりません』
『発展性のある着想だと思うのだがなあ』
研究者気質の田村は、早々に実入りが少なそうだと匙を投げた大井と違って、この新発見に執着した。
数少ない上陸時は無論のこと、北方戦後の哨戒活動中も試作1号機を手放さなかったのだから、その執着振りは相当である。
そして、あることを発見するに至った。
それはつまり、「自然音による揺れは不規則でブレがあり、人工音による揺れは規則的でブレが少ない」というものである。
どうやら、"山彦"の機関音を検知したらしい。
田村が喜び、その事実を報告してきた当初、大井はまともに取り合わなかった。
機械が生み出す人工音が規則的なことなぞ言うまでもないことであるし、他の音と混ざってしまえば、その規則性も読みとれなくなってしまうだろうからだ。
思うに、この"当たり前"を"当たり前"と捉えてしまう精神構造こそが、凡人の凡人たる所以であり、田村は非凡であったということなのだろう。
田村は音声に関する研究を突貫的に押し進め、19世紀にフランスで発明された蘇音機に目を付けた。
蘇音機は今日におけるレコード・プレーヤーの前身にあたる録音機である。これは音を再生することができず、針先につけた煤で"音の揺れ"を紙に描くという機構を持っていた。
そう、音の波形を紙に記録することができるのだ。
結論として、田村は一号機に蘇音機を組み込んだ二号機を使って、水中音の記録に成功した。
これは単位時間内の波形の変化を写し取れるものだから、規則的か、はたまた不規則かを読みとりやすい。
また、自艦隊の機関音に紛れたノイズもイレギュラーな波形として現れる。
対象とする人工音の波形を予め知っていれば、音の強弱によっておおよその距離を測ることすら可能だ。
何よりも複数人で音の分析ができる! 情報の共有ができるのだ!
『大発明じゃないですか、これは!』
『だから、最初に言っただろ』
としたり顔で功績を誇る田村の態度が癇に障ったが、この発明によって従来の聴覚に頼った水中聴音と比べて、明らかに精度の高い聴音が可能になることは明白であった。
かくして、試作二号機は海護95式水中聴音補機として、現実に試験運用されるまでに至ったのである――。
大井の長々とした新・水中聴音機誕生秘話に耳を傾けていた"球磨"の士官連中が、ほうと息を吐く。彼らの顔には、様々な感情が浮き上がって見えた。
例えば、新発見に対する純粋な興味。
あるいは、対潜技術において海軍に先行する総隊に対する羨望と嫉妬。そして、
「したり顔で語っておるが、結局田村君の功績じゃないか」
大井に対する呆れも、そこには混ざっていた。
◇
聴音によって判明した近隣を航行する人工物については、翌日にその正体が明らかになった。
『左舷艦首、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、距離25000』
時化は既に止んでいる。大井たちは雨露に濡れた艦橋へ上がると、双眼鏡で見張り員の報告する方へと目をやった。
正横方向に黒い点がぽつぽつと見える。結構な艦隊だ。
旗艦から三番目までは、横に細長く、前方が急斜面で後方へなだらかに落ちていく傾動地塊のような艦型をしている。
このスマートな形状は、見張り員の報告どおり巡洋艦に間違いあるまい。
後続艦は薄っぺらい盆の上に、小さな突起が一つ見える。極めて小柄ながらなあの形状は、駆逐艦の特徴を有していた。
だが、最後尾が分からない。見張り員は駆逐艦と判別したが、駆逐艦にしては大きすぎるよう見受けられる。
「旗艦以下3隻は恐らく5500トン級……、軽巡洋艦か。おい、艦隊の進路をあちらに寄せつつ……、艦型表出せ」
大川内が部下に指示した矢先に、佐藤が静かに素性を言い当てる。
「あれは、英国の"ダナイー"級軽巡洋艦だろう。最大速力29ノットの重武装艦だ」
「"ダナイー"……、"D"級ですか。確か欧州大戦時の設計艦ですね」
部下が艦型表を持ってきた。
大川内が艦型の並んだパネルを眺めている傍らで、大井も横目でパネルと艦型を見比べる。
まず一見して分かることは、前方の甲板が一段高くなっている船型だ。
しかしこの特徴は判別の役には立たない。短船首楼型と称されるこの艦型は、艦内容積に余裕のない軍用艦に良く採用される形状であり、別段珍しいものではない。現に後続艦もすべてが短船首楼型をとっている。
注目すべきは射撃指揮所のついた前方マストと、やはり武装であろう。
艦首、艦橋背後、ボイラーの後ろの艦央部、艦尾に計6門の単装砲が備え付けられている。
そして高角砲が2基。
佐藤の説明にあったように、5500トン級にしてはかなり過大だ。多分、トップ・ヘビーにすらなっているかもしれない。
武装をヒントにしてイギリスの巡洋艦を総当たりにしていくと、当該艦が見つかった。
どうやら、佐藤の推測は当たっていたようだ。
「お見それいたしました」
百武が賞賛すると、佐藤は眉をぴくりとさせて双眼鏡を覗き込んだ。
「百武司令官、後続の艦に分からんものがある。後続の……、あれだ。アドミラルティ改"W"級駆逐艦の後ろにある、仏艦か? あれは」
"ダナイー"級を小振りにしたような駆逐艦隊が続くさらに後方、殿に巡洋艦と駆逐艦の合いの子のような大きさの軍用艦が航行している。
先ほど、大井が違和を感じた艦であった。
駆逐艦より大きいにしては、二本の煙突が慎ましやかだ。排煙の量を見ても、蒸気タービンで動いているとは到底思えない。
水上機を搭載できる二層の後部甲板が印象的だ。
巡洋艦に比べて小振りながらも多目的に利用できそうな雑用艦というのが、一見して抱いた感想であった。
「お待ちください」
艦型表とフランス艦を見比べる百武。
そうしてしばし悩んだ末、
「あれはフランスの"ブーゲンヴィル"級です。植民地通報艦という奴ですな」
「植民地通報艦……。成る程、艦隊決戦型の艦艇ではないのか。道理で足を引っ張っておるように見えたわけだ」
双眼鏡を外し、佐藤は鼻を鳴らした。
大井はその不愉快そうな反応に目を瞬かせる。
いくらなんでも、ただ艦隊決戦型の艦艇ではないというだけで気に入らないということはありえまい。もしその理屈で言うならば、総隊の保有艦のほぼすべてがお気に召さぬということになる。
もしや、弱い者虐めを目的とした艦だからか? 武人然とした彼の性格を考えると、ありえそうな話だ。
大井はしばし佐藤の存念を推し量っていたが、答えは単純そのものであった。
「植民地通報艦とやらが一隻……。フランスは海賊退治に声をあげたものの、まともにやる気はないらしい」
どうやら戦力の供出に対する不満、協調性に欠ける態度が見え透いていることに問題があったようだ。
それもそうかと納得する。
1921年にワシントンで開かれた海軍軍縮会議において、米・英、日本、仏、伊の艦船保有比率は5:5:3:1.75:1.75と定められていた。
この比率設定には過度の建艦競争を防ぐという目的だけでなく、国際秩序を保つため、最低限必要な保有量がこれなのだという建前が存在する。
つまり、裏を返せば国際秩序を揺るがす"敵"が現れた場合、戦力を供出しなければならないということでもあるのだ。
もし、"正義"の戦いを前にして戦力の供出を渋ればどうなるか?
他の軍縮加盟国は、供出を渋った国に対して、「国際秩序を監督する資格無し」として詰るであろう。
下手をすれば、今も改正交渉が続いている軍縮条約会議において、保有艦の大規模な縮小を呑まされることにもなりかねない。
だからこそ、日本は補助艦艇を含めて計8隻の小艦隊と、8隻の護民艦隊を参加させている。
今回の被害国である手前、下手に戦力を出し渋り、他国に舐められるわけにはいかなかったからだ。
「もしや……」
吉田の小さな呟きを、佐藤は聞き逃さなかった。
「吉田君、何か分かったのか?」
「いえ、単なる予想にすぎませんから……」
「言ってみなさい。予想の真偽について、気にする必要はない。参考になる情報が欲しいのだ」
推測が的外れであった場合、吉田は恥をかくことになってしまう。だからこそ、佐藤は「正しいかどうかは問わない」と付け足したわけだ。
佐藤がこの辺りの柔らかさを身につけたのは、商船出身者による影響が大きい。
設立の初期から手塩にかけて育てた生え抜きが可愛くて仕方がないのだ。
往々にして、年齢を経た頑固者は気に入った若手と接する度に影響を受ける。
例えば、"軍神"東郷平八郎は、"艦隊派"の若手が可愛い余りに、"艦隊派"の御輿に掲げられた。
佐藤とてベクトルは違っても、根元は同じだ。それが総隊にとって、この場面において都合が良いと言うだけに過ぎない。
しかし、意見を出しやすい環境というのは若手にとっては天国のようなもので、吉田は心持ち高揚しながら、自らの推測を述べ始めた。
「恐らく、フランスはエチオピアに深く肩入れしていましたから、あまりイタリアの手助けをするつもりがないのだと思います」
大井は成る程と、自らの持っている情報と比較して、その推測を検討する。
石原たちのもたらす情報が確かならば、フランスがエチオピアに強く入れ込んでいたというのは間違いない。
中には義勇軍としてイタリアと直接戦った者もいただろう。となれば、今回の海賊事件はさながら「味方が敵を襲っている」ようなものであり、参加する意義を見出せない。
その意味で、吉田の推測には信憑性があった。
「だとすれば、何故この掃討作戦に参加しておるのだ」
矛盾している、と百武が吉田の推測とフランスの行動に見られるズレについて言及した。
これもまた正論だ。
先ほど述べた"戦力の不供出"によるデメリットは、実のところ立ち回り次第で回避できる可能性があった。
要するに海賊掃討作戦が"正義の戦い"に認定される前に、イタリアの暴虐を国際的に批判すればいいのだ。
それをせずに戦いに参加し、その上で戦力の供出を渋るというのは、右にも左にも振り切れていない、いささか中途半端な態度であった。
「そもそも海賊どもの戦力はフランスが主に整えたのだ。未だ海賊どもと繋がっており、何やら陰謀を企てているということだろうか?」
大川内の言葉を聞き、吉田は口元に手を当て、下を向く。
「……可能性はあります。が、それは一部の独断であり、国家的な動きではないと思うのです。国内問題が海賊どもの支援を許さないでしょう」
「国内問題、ですか」
吉田が言うには、現在のフランス政局は混乱の真っ直中にあるらしい。
「まず前提として、フランスは経済への不満や隣国への反感から伝統的に右派が根強いです。ですが、ひとくくりに右派といっても王党派や帝政復古主義者が相争い、統一の目が見えません。我が国でも新聞報道されました、一昨年のスタヴィスキー事件を覚えていますか?」
「ああ、新聞一面で見た気がしますね」
大井は答えつつ、新聞の内容を思い出す。
スタヴィスキー事件とはユダヤ人詐欺師が引き起こした巨額の疑獄事件である。
何やら政府高官が複数人、公金の引き出しに関係していたらしく、当時の中道左派政権が壊滅状態にまで追いやられたことで、海を隔てた我が国においても一面で報道されるに至ったのだ。
「あの事件の後、左派が汚職に関わっていたことで、右派の勢いが増しました。右派といっても王党派や帝政復古主義者ではなく、全体主義者の台頭です。イタリアに対する強硬姿勢、雇用の創出を名目にした大規模な軍備投資、エチオピア戦争への介入は、すべて右派の理屈に則って行われました」
「ファッシとファッシの対立か……」
百武は意味が分からぬという風に顔をしかめる。
「ええ……、しかしこの強硬路線は挫折しました」
吉田が頷き、さらに続けた。
「鳴り物入りでフランス権威の復活を目指したエチオピア戦争への介入が物の見事に失敗しましたから、今や国内では右派への失望で溢れかえっているはずです。右派の奴らは役に立たない。だが、左派も信用がならない。フランスは現状、右へも左へも満足に動けないのです」
「成る程、絵が見えてきた。つまり吉田君は、海賊掃討に参加を表明する政治勢力と反対する勢力の相克が、このように中途半端な現状を作り出したというのだな」
「その通りです。佐藤中将」
彼らの立場を自らに置き換えて考えてみると、あの通報艦の乗組員が哀れにも思えてくるから不思議である。
「また、"政治"か――」
佐藤がそう吐き捨てて、不愉快そうに唇を噛む。
彼の脳裏に浮かんでいるものは、北方で相対した"マカロフ"であろうか。それとも"ラスタファリの殉教者"であろうか。
陸軍嫌いと同様に、政治嫌いをこじらせては碌なことになるまい。
今すぐ新見をこの場に呼んで、老将の機嫌を取りたいところであった。
◇
英国艦隊との距離が10000にまで迫った時、相手艦隊の旗艦より伝聞が送られてきた。
「奴さんは何と?」
大川内の問いかけに、報告を持ってきた通信士が電文を読み上げる。
「はい、『先日の被害たるや如何程に』とのことです」
「先日? ああ、渋谷君らと海賊が交戦した、アレを言っておるのか」
百武は佐藤に目配せした。素直に返答して良いものかと問いかけているのだ。
佐藤は頷き、こう言った。
「恐らく、イギリスは事件の詳細を掴んでいるのだろう。下手に隠しても恥をかくだけだ。包み隠さず、伝えてもらいたい」
「分かりました」
そのまま、通信士に命じて電文を打たせる。
すると再び英国艦隊から電文が返ってきた。
「『ソコトラの東に本艦隊の討ち漏らしが航行中なり。貴艦隊に助勢をお願いしたい』と」
「"食い残し"を手柄に、譲ってやるだと!?」
百武の顔が赤黒く染まった。
彼の怒気と部下たちの狼狽を見て、大井はすべてを察する。
彼も佐藤と同種の癇癪持ちだ。決して怒らせてはならない。危うきに近づくべきではないだろう。
「御免蒙ると熨斗つけて返してやれ! そんな侮辱を受け入れるわけにはいかんッ」
通信士が飛び上がり、「分かりました」と駆け出そうとした矢先、
「"ブーゲンヴィル"級の後部クレーンが動いています。航空機を発進させるつもりです!」
見張り員の報告に、皆が相手艦隊へと目を向けた。
「機種は何だ? 何がしたい。兼子航空士は……、偵察の第一陣か。待機中の奴に特定させろッ」
艦橋がにわかに騒がしくなる。
機種の特定はすぐにできた。
ロワール130。単葉高翼の小型艦載飛行艇である。
「こちらに向かってきます……。あ、光信号を発しました! 『我、目的の場所まで先導す』……、繰り返します。『我、目的の場所まで先導す』……」
「……フランスの様子がおかしいな? 嫌味が言いたいというよりは、別の意図があるように思える」
皆がフランスの意図を測りかねて、首を傾げる。
徒に時間が過ぎていくことを危惧したのか、佐藤が百武に提案した。
「百武司令官。ここはフランスの誘いに乗ってみてはどうだろうか。いずれにしても我々は掃討作戦に遅参している。我々の主目的が"洋上の安全保障"である以上、残敵の掃討も職務の範囲内だと思うのだが……」
佐藤の提案に百武はしばし思案する。
余程、イギリスに侮辱されたことが我慢ならなかったようで、中々答えが返ってこない。
しばしして、ため息とともに了承の言葉が返ってきた。
「分かりました。全艦、進路を飛行艇の進む先にとれ。こちらの偵察機に打電するのを忘れるな」
百武の指示を受けて、艦隊が左舷方向へ転進する。
目的の海域へは丸一日の時間を要した。
目的地へと辿り着いた護民・遣外連合艦隊の面々は、そこに漂う"食い残し"の正体に驚愕することになる。
サメの背びれが海面付近にちらほらと見える中、大破して航行不能に陥った小型軍用艦艇がそこにはあった。
その乗組員のほとんどは、まだ成人もしていない少年兵たちであったのだ。




