1935年12月16日1830時 アラビア半島上空にて
群れ成して飛ぶホイグリンカモメたちの更に上空を、寺尾たちが乗る総隊保有の飛行艇は飛んでいた。
単葉の大型ガル翼が水平方向に空を滑り、ずんぐりとした機体の内部には双発の発動機がもたらす細かい振動のみが伝わってくる。
当座の目的地はアラビア半島の南部、オマーン沿岸のサラーラ港だ。この半島をずんぐりとした長靴にたとえるならば、表底に当たる部分に位置した歴史の古い港である。長靴の舌革に当たるダーラムからは、大圏航路にして1500km近くも離れており、陸路だけで移動することは難しい。
「故に……、陸路で脱出した海賊どもは、東岸の英領で商船に潜り込んでいるはずだ。事故なく商船が一日に進む距離がおおよそ720kmであると仮定して、サラーラ港に奴らが到着するまでには二日半程の猶予がある。これが航空機の足ならば、8時間と少し……。うむ、十分に間に合うな。勿論、この飛行艇が墜落などのトラブルに見舞われぬという前提が必要だが――」
後部座席に取り付けられた強化ガラス窓から眼下を望んでいた石原がそんな軽口を叩くと、飛行艇を操縦していた坂井という部下の一人が不満げに口を挟んできた。
「大佐。この飛行艇は新型ですよ! 安全性は保証されています」
「ほほう。正確には、新型機導入までの"つなぎ"と小官は本国で聞いておったのだが?」
と石原がからかい混じりに返す。大方外の風景を見ているだけでは退屈であったのだろう。実際、窓から外を覗き見ても、見えるものは砂漠とヤシ林に乳香の群生地、カモメの群れ、そして湾曲した両翼に付属する大型のプロペラくらいのものであった。
「いくら"つなぎ"だろうと、新型は新型ですよ……。この十試海護運用実験飛行艇は」
「で、その十試海護……、"新型のつなぎ"とやらはどの辺りが新型なのだ?」
「一昨年の11月、愛知航空機と川西航空機が合作で作り、それを総隊がリースしたんです。単葉双発エンジンにガル翼、離着陸フラップ、引き込み式サブフロートと、いくつも実験的な機構を組み込んでいるんですよ。最大速度は――」
坂井の口振りは饒舌であった。寺尾は目を丸くする。
「随分に艦隊さんと親しくしているんだな」
目の前の若者は、間違いなく陸軍の出であるはずだ。今年の初め頃、寺尾たちとともに総隊に異動してきたことは未だ記憶に新しいだろう。
であるというのに、彼は水上兵器である飛行艇――、それも新型の実験機などという代物について随分と熟知している。
しかも、ところどころに窺える海軍訛りも気にかかった。
発動機をエンジンといい、リースやエクスペリメンタルなどという単語に至っては、一瞬何が何だかと混乱してしまうほどだ。
寺尾の一言に、坂井は「あっ」とばつが悪そうに話を止める。
と、石原が坂井の慌てる様をからかい、大げさに驚いてみせた。
「ほう、馬脚を現したな。貴官は海軍さんのスパイであったのか」
本気で言っているわけではなかろうが、言われた側が愉快であろうはずもない。坂井は憮然として、尚も抗論しようとする。
「お言葉ですが、大佐。自分は陸士こそ出ていませんが、陸軍軍人であることに誇りを持っています。ただ、宮本航空参謀の勉強会は、陸軍航空従事者にとって必修科目であるのです。勿論、総隊さんの航空士もですが……」
「んん、勉強会? ああ、ああ。理解した。"隊長参謀"のプロパガンダなら、小官も少し興味があるね」
"隊長参謀"とは、寺尾にとっては旧知の仲になる宮本千早を揶揄する言葉だ。
彼が自らの発案した訓練課程を実戦部隊に納得させるため、今も部隊訓練に参加し続けていることは隊内でも音に聞こえている。
他にも新型航空機の開発や導入には彼自らがテストパイロットとして出向くなど、未だ前線の気風が抜けていないことから、後方の面々から失笑をかっているという。
それにしてもプロパガンダとは……。
呆れるばかりの寺尾とは違い、この石原の揶揄に坂井は強い反応を見せた。
怒る、というよりは辟易としている様子である。
「その"隊長参謀"って呼び名、ミヤさん嫌がっておりますから、本人の前では決して仰らないでもらえませんか? あの人の機嫌が悪くなると歯止めが利かなくなりますから、部隊の空気が最悪になるんですよ……」
実際、石原も本気で宮本航空参謀のことを貶めようとしているわけではないだろう。
むしろ、日ごろの話を聞く限りでは、高く評価している節さえ見受けられる。前線を理解し、後方の広い視野を持ち、政治にもある程度理解がある人材が貴重だというのは、寺尾も全く同感であった。
だが、内心の評価と場当たり的、刹那的な快楽は得てして結びつかない。
憮然とする坂井に対し、あくまでも石原は「善処しよう」と挑発的な態度を取り続けた。
「うぐ……」
ここに至って、石原の姿勢がさながら暖簾を腕で押すようなものだと坂井もようやく気づいたらしい。
不満をぐっと喉に押しとどめ、これ以上の問答は不毛だとばかりに操縦に専念しようとする。
――が、一度暇つぶしの玩具を手にした石原に、彼を見逃すという心算はないようであった。
「それで、"つなぎ"の安全性についてであるが――」
もうここいらが頃合いであろう。
寺尾は助け船を出すつもりで、差し出口を挟む。
「職権の範囲内から意見具申いたします。現在、我々は賊徒を追跡している最中でありましょう。帝国軍人たるもの常在戦場の精神を持つべきかと」
上官は隊の鑑たれとの讒言に、石原はつまらそうな表情を浮かべた。
しゃしゃりでてくるんじゃあないと、目が口ほどに物を言っている。
「隊の規律に関わる讒言、ありがたく受け取っておこう。だが、必要以上にしゃちほこばる必要はない。既に大勢は決しておるのだからな」
だから、いちいちうるさく言うのは止せ、とまるで羽虫でも振り払うような仕草でこちらを煙たがる。
寺尾はそのあんまりな扱いに心をささくれだたせつつ、眉間を揉みながら続けた。
「敵は健在。油断などしておれば、賊徒に足を掬われます」
「いや、我々は奴らと話をしに行くのだぞ?」
「件のメッセージとて、我々をおびき寄せる罠である可能性がありましょう。既に敵は正規兵という倫理的な枷を外された身。相手の意図が未だ不明である以上、決して気を抜くべきではありません。小官は間違ったことを申しておりますか?」
反論はすぐには返ってこなかった。
石原は怪訝な顔つきで首を捻り、
「もしかして、貴官は馬鹿なのか?」
「……は?」
思わず言葉を失った。
「いやあ、まがりなりにも軍士官が、戦術的、戦略的行動から相手の存念を読みとれぬと言うのはまずかろう。敵の置かれた状況を知り、その活動内容を知っておれば、貴官のような言葉は絶対に出てこん」
かっとなって、寺尾は声を荒げる。
「ご指摘、肝に命じましょう。ですが……、かような侮辱は聞き逃せませんッ!」
我慢の限界であった。
戦死した艦隊をこれみよがしにあざ笑う。天上人の如く、人やモノを見る。彼の思考の何もかもが理解できない。
虚々実々の駆け引きは自身の専門外であったために、まだ港務局においては大人しくしていることも可能だった。だが、対パルチザン活動なら自分の専門だ。中国戦線を経験した者なら、地方軍閥を相手に皆が皆、体感させられたことである。
「我々の追うリジ・アルラは、言うなればパルチザン――、非政府軍の戦術指揮官です。国内政治から孤立した軍閥が大局的、戦略的な行動を一貫して取るはずだという保証こそ、安易に下すべきではないと愚考いたしますが!」
常識的に考えれば、非政府軍の思考に大局的な国際的な合理性を求める方が危ういのだ。
彼らのような存在は、外的な要因によってその活動指針を大きく転じることがある。
例えば中国大陸の馬賊ならば、個々の目的は政府の統制から外れた地方の治安を守るという素朴な大義を持っていた。しかし、貧困による影響や日本を含めた列強の外圧を受けた結果、自存のための二枚舌外交と小国家としての振る舞いを強いられることになる。
シベリアにおけるコサックも同様だ。彼らは祖国が潰れた結果、場当たり的な行動を支離滅裂に繰り返すことになった。
ロシア中央銀行から大量の金塊を盗み取ったグリゴリー・セミョーノフなどはその典型だ。
理性に欠けるからこそ、非政府軍は非政府軍に過ぎないのである。
鼻息荒く寺尾は抗論すると、石原は顎に手を当て、しばし黙った後に再び口を開いた。
「ふうむ。貴官の主張をまとめると、非政府軍はまとまりとして何を考えているか分からんから、万が一に備えるべき……、ということか?」
「自明の理であります」
リジ・アルラが非政府軍になった身の上は同情する。いや、共感すら覚えよう。
だが、理性を信ずるべきではない。外的要因次第でその態度は風見鶏の如く変わり得るのだから。
「奴らは英仏の指示のもと、イタリアへのパルチザン活動にかこつけた我が国への嫌がらせを行っているわけだろう? これは戦略的な行動だ」
石原が持論を展開する。
「はい、その点については可能性を否定できぬと小官も考えます。しかしながら、あくまでも可能性であり、そもそも我々への嫌がらせが真実と決まったわけではないでしょう。仮に英仏の指示を受けていたとしても、それ以外に独自行動をとらないという確証がありません」
寺尾と石原のやりとりが続く中、操縦席の方から小さなため息が聞こえてきた。階級の関係もあるだろうが、横やりがくる気配はない。
「フムン。ならば、討論してみよう。議題は――、リジ・アルラが果たして戦略的思考と西洋的合理主義を厳守しているか否か」
寺尾は膝を石原に向けて、無言で話を聞く体勢に入った。望むところだ、という意思表示である。
「そうだな。まず前者を考察するに当たって、リジ・アルラの本来的な人となりを捉えるところから始めよう。奴は対イタリア戦線において開戦から終戦まで小さくない役割を負っている。貴官、流石に"ラスタファリの殉教者"どもがいかにしてイタリア相手に戦ったのかという詳報は熟読しておろうな?」
「無論です」
挑みかかるように寺尾は石原を睨み、"ラスタファリの殉教者"について知っていることを諳んじていく。
「エチオピア戦争においてイタリア軍の主力は正規軍が1個師団、自国の義勇兵数個大隊、そして現地人傭兵多数をもって、約20万でエチオピア兵35万を打倒しました」
「"ラスタファリの殉教者"は戦時において陸軍の一部隊として参加していたわけだが、各陸軍の彼我の装備差はいかほどになるか?」
「質の差は、ほぼありません。イタリア正規歩兵の装備はカルカノ銃1891年式による小銃分隊と6.5mm軽機関銃を有した機関銃分隊に分けられます。対するエチオピア軍はスナイドル銃やシャスポー銃、そしてフランス式に整備された20mm重機関銃を有していました。両歩兵にある差とは、つまり物量であります」
欧州大戦以降、歩兵の主要戦術は戦闘群を分けた委任戦闘が鉄則になっている。
砲兵の支援射撃や機関銃による火力投射で敵を粉砕した後、小銃分隊による側面攻撃で敵を掃討するわけだ。
イタリア軍はエチオピア軍に比べて機関銃を豊富に用意することができた。しかし、小銃においてはむしろ射程距離で劣っていたのである。
決定力に欠けていた、とも言えよう。
そして、歩兵同士に決定的な差がない以上は砲火力の差こそが問題になる。だが――、
「エチオピア軍は1897年式の75mm野砲の提供をフランスより受けていました。これは駐退復座機を備えており、火砲の後退を防いでくれるために速射が可能です」
そう、火砲の質においても両国に大きな差は見られなかったのだ。
兵器の量でこそイタリアが圧倒していたものの、そこはあらかじめ市街地を要塞化して敵を待ち受けることのできるエチオピアの絶対的な有利が相殺してしまう。
自然とエチオピア北部の街、アクスムにおける両国最初の武力衝突は、特に見所のない泥臭い持久戦に陥ってしまった。
「持久戦に陥った時点で、両国の軍事作戦は近代化します。つまり、『文明国が非文明国を教育してやる』という開戦当初にイタリアが主張した構図が崩れるのです。イタリアは外線作戦の維持に努め、エチオピアは内線作戦の維持に努めました。エチオピアの補給は後背地である英領東アフリカから受けられ、内戦作戦を取っておりますから、兵站の容易さではイタリアが不利です。しかも、エチオピア首都のアディスアベバとナイル河畔のファショダまでは鉄道が敷かれています」
補給のしやすい防御側とは対照的に攻撃側は外線作戦として、敵を包囲しようとする動きを取らねばならない。必然的に包囲しようと分割した各部隊に対して、弾薬を補給するべき兵站もいくつかの複線をとって広がってしまう。
これは各個撃破の好機――。
"ラスタファリの殉教者"が活躍できる余地があった。
「"ラスタファリの殉教者"は夜通しで敵軍の後背に回り込むことで、輜重部隊に対する奇襲攻撃を幾度となく成功させました。弾薬不足から息切れをした敵軍に対し、一時はエチオピア軍が攻勢に立つこともあったほどであります。彼らの作戦行動は戦術面で見れば理想的とも言えました。事実、両軍の趨勢は陸によって決することができず、航空機による制空後の戦術爆撃によって決したのであります。エミーリオ・デ・ボーノ将軍が多大なる犠牲を払ってアクスムを攻略した後、その後の進軍において必要以上に兵站の整備に気を使ったことも、各個撃破を警戒してのことでしょう」
「成る程、では"ラスタファリの殉教者"どもが後背から奇襲をかける際に、輜重部隊のみを狙い続けた理由は何か」
石原の問いに、寺尾はしばし考えて答える。
「それは……、輜重輸卒が武装していないことを逆手に取って、与しやすいとして狙ったのだと思われます」
エチオピア国内はインフラが未整備であったこともあり、大半の輸送物資を人力で運ばなければならなかったと聞いている。
さらに人海戦術が必要になる輜重輸卒は基本的に本格的な戦時動員を行わない場合、現地調達が基本だ。練度という面で見たならば、はっきりと弱兵であると断言できよう。
「そこだよ」
石原は鬼の首を取ったような表情で寺尾に指を向けた。
「リジ・アルラは勝てない戦いは挑まない。勝てる戦いで、最大限の効果が見込める作戦のみを実行しているのだ。"先"が見えているとでも言うのかな? 無理をして、戦力を浪費する愚を奴はよく心得ているのだ。アスクム攻略後の遅滞戦術も、基本は兵站への攻撃によって行っていたじゃないか。つまり、奴には合理的な思考能力がある」
確かに詳報を見る限りではリジ・アルラの取った作戦は欧州の戦訓を理解し、応用すらしているように思える。
ただ、それは英仏の支援がおおっぴらに行われていた戦争中の話であった。
「"ラスタファリの殉教者"には英仏の軍事顧問がついていました。彼らの指示に従っていただけという可能性もあります」
「うん。十分にあり得る、むしろそうだったのであろうと小官も考えたがね。ただ英仏の軍事顧問が駒を動かしていただけというだけでもあるまい。例えば後期には英仏の思惑を超えた一件もあった」
「後期、でありますか」
ここで討論の主導権が入れ替わった。石原はもったいぶった口ぶりで、身振り手振りを交えて演説を開始する。
まずは指を三本立てて、一本を折り曲げた。
「エチオピア戦争の経緯は、およそ三段階に分割できる。すなわち、近代物量戦の代名詞たる戦争初期。これは英仏……、というよりも陸軍大国であるフランスの指示によるものかな。内線作戦はナポレオン戦争の時より、彼の国の十八番だ。エチオピアと英仏植民地をつなぐ鉄道、ファショダルートと仮称しようか――、を兵站輸送に用いたことも、いかにも"らしい"話ではないか」
さらに二本目の指を折る。
「次に遅滞戦闘をとり、政治的決着を目指す戦争中期。これもまた、アウステルリッツを踏まえれば実にナポレオニックだと思える。何というか、卒がないのだよな。結局、エチオピアの用兵に問題はなく、あったのは航空戦力の脆弱さ――、つまりお雇いの白人義勇兵が"使えなかった"ことこそが敗因であった。こればかりは即席で自前の兵を育てようがないものなあ」
苦笑いを浮かべ、石原が三本目の指を折った。
「戦争中期と後期の境目は、エミーリオ・デ・ボーノ将軍の更迭に置くべきだろう。伝聞した限りでその詳細は不明だが、後任のピエトロ・パドリオ将軍に変わってからはその進軍速度が明らかに変わった」
「後任の采配が優れていたのでしょうか」
「いや、恐らくは視野の問題だろうな。イタリアは早期の軍改革によって、航空機を用いた立体飽和攻撃を実現しておった。だが、ボーノ将軍とパドリオ将軍では攻撃を仕掛ける対象が違ったのだ」
石原はそういうと握り拳を作り、ぱしんと片掌に打ちつける。
「ボーノ将軍の用兵は至極分かりやすい。兵には兵を、軍には軍をぶつける王者の戦い方だ。航空攻撃は敵軍や軍事施設を粉砕する、戦術爆撃に用いたのだな」
続けて石原は握り拳をほどき、片掌を敬遠するように迂回させてみせた。
「対するパドリオ将軍は鉄道や道路網、市街地などを狙った。つまりは戦略的に爆撃を行ったんだよ。これは大きな違いだ」
「ボーノ将軍は何故、戦略爆撃をためらったのでありましょうか?」
「それは小官よりも貴官の方がより深く理解できると思うよ。戦略的な攻撃は民間人に甚大なる被害を与える。欧州大戦を将校として経験したボーノ将軍が、倫理的に民間人の被害を忌避したとしても不思議ではなかろう」
「それは……、確かに」
自らをボーノ将軍の立場に当てはめて考えてみると、成る程確かに彼の判断に合点が行った。
自軍の犠牲は見過ごせないが、さりとて民間人を進んで狙うというのも武人としてはあるまじき卑劣さである。
石原は続けた。
「それにボーノ将軍は、ファシスト四天王の一角でもある。ファシズムとは一種の愛国的ロマンチシズムに違いないから、自分が行う戦争を"国家的で、偉大で、綺麗なもの"にしたがる理屈は、まあ理解できるね。ファシスト政権下において、草創期から君臨する四天王という無理の利く立場もそれを助長したというわけだ」
「四天王という立場にいながら、更迭される理由が分かりません」
ファッシの重鎮が更迭されたのだ。これはボーノ将軍個人の失点と言うよりも、現政権そのものの正当性を揺るがす汚点にも繋がりかねない。
寺尾が解せないでいると、石原は頷き、さらに答えた。
「遠国のことだから手に取るようには分からんがね。恐らくは上層部の主導権争いだよ。ボーノ将軍の権威が独自性を持つ前に、本国のムッソリーニが叩き潰したのだ。そして、その先兵がパドリオ将軍となる」
「ボーノ将軍は走狗、パドリオ将軍は刺客というわけですか」
「どうだろうな。そも、後任のパドリオ将軍は生え抜きのファッシではない。現イタリア独裁政権の中ではいかにも動きづらいことだろう。犬である必要がある。自分は絶対に敵対しませんと、ムッソリーニに腹を見せる必要があった。つまり、戦略爆撃は本国の要請だろう」
「成る程……」
司令部と戦場の距離が離れれば離れるほど、戦争の全容は計数化されていく。何処の誰が死んだなどと言う名前に意味はなく、単純に人的・物的資源の損耗のみを問題とするようになるのだ。
戦略爆撃が行われるようになった理由についても合点が行った。要は、本国の作戦部が戦争を進めるようになったということだろう。
「……話が幾分それたが、エチオピア側に視点を移そう。この戦争の鍵を握っていたのは、エチオピアの生命線とも言えるファショダルートだった。建前上の中立国である英仏植民地へ攻撃ができん以上、イタリアが狙うのはアディスアベバの後背にある鉄道路線だ。これを潰された時点で干し殺しが確定する。ゆえにエチオピアは英仏の承認を経ない独自行動に走った」
「英仏の承認を経ない……、独自行動、ですか?」
石原が頷く。
「――航空基地の襲撃だよ。ま、失敗したがね。とにかく、爆撃機を黙らせなければ、籠城もままならんと言うわけだ」
「いや、理屈は分かりますが……、分かるからこそ英仏の承認を経なかったと断じられる大佐の推測がよく分かりません。何をもって、英仏がウンと頷かなかったというのでありますか?」
寺尾が問うと、石原は愉快げに口の端を持ち上げた。
「白人としての"面目"なんだな、これが」
「"面目"ですか」
尚更良く分からなくなる。
石原はさらに付け足した。
「グラディエーターにモラーヌ・ソルニエじゃ、イタリアのフォルゴーレには手も足もでなかった。正規軍を投入したわけではない……。本気でなかった……、などという言い訳は通じんよ。先進列強たる自分たちが失態を犯し、顔を真っ赤にしておるところに、エチオピアからこんな申し出が来るとする。『敵の航空基地に我々で襲撃を仕掛けようと思います』とな。貴官が英仏の司令官ならばどう思う?」
「ああ……」
納得できてしまった。
エチオピアの航空基地襲撃作戦は、要するに『英仏の航空戦力を期待していない』ということなのである。これは、英仏にしてみれば腹立たしいことこの上ない。
同意の感触を得た石原の弁舌は、一層滑らかなものになった。
「重要なのは、エチオピアという国がある程度"英仏の力を見限った"ことだ。事実、航空基地襲撃失敗が確定した時点で、エチオピア皇帝は少しでも良い条件を独力でイタリアから引き出しての講和へと国家方針を転じることになった。皇帝が空襲下の首都を脱出しようとしなかったことが、その象徴ともいえるな」
「首都の脱出、ですか」
「国家元首に万が一があってはいかんから、疎開は当然の選択だ。だが、皇帝は首都に残った。恐らくは英仏に対して何らかの不信感を持ったためだ。小官が英仏なら、ここで皇帝をロンドンかパリにでも無理矢理に連れ出す。後々の切り札になるからな。オスマン王家を外交的切り札として保有するフランスを見れば、その手口は容易に理解できる。だが、結果として首都脱出は行われなかった。ここだ。ここでエチオピア側は英仏の思惑を超えたのだ!」
パンと石原が拍子を打つ。
「回りくどい話になったが、ここでついにリジ・アルラを分析するに有用な事跡が見えてくる。"ラスタファリの殉教者"どもは戦争後期、航空基地の襲撃に失敗して以降は高速魚雷艇を用いた通商破壊活動へと、作戦行動をシフトしていった。この作戦転換は、敵を陸軍のみと侮っていたイタリアの兵站輸送にてきめんだった。更に――」
石原が手刀を切った。
「これはな、イタリアに出血を強いることで『植民地支配はすんなりといかぬ』と痛感させるための一手なのだ。この一手によって、誰が得をするか? エチオピアだ。賊軍の存在が周辺の安全を散々に脅かすことで、エチオピアを支配したイタリアは今後大規模な占領軍を維持し続けなければならなくなる。それは割に合わない。維持費をなるべく削減し、何とかうまみだけを搾取できないものか? そこでエチオピア政府の使い道が出てくる。要するに『夷を以て制する』わけだな」
「待ってください。理屈は分かりますが……」
確かに石原の推測したとおりならば、エチオピア政府は生き延びることができる。現に新聞などで伝え聞く現地情勢を窺うに、賠償金や不平等条約、多少の領土割譲が行われることはあっても、王家や政府の粛正は免れ、エチオピアの君主がイタリア王家に取って代わられることはなさそうだ。しかしながら、賊徒に身を投じた者たちはどうなるのか――。
石原が笑った。
「だから、奴らは"殉教者"なのだ。そして小官が、リジ・アルラの理性を信じる根拠でもある」
全く笑えない話であった。
「祖国の自立を勝ち取るために、賊軍として死すべきことを宿命づけられ、それでも尚粛々とイタリアと敵対し続ける――。奴が目先のことに縛られるような小人ならば、エチオピア国内で反乱軍を指揮するだろうよ。海の上へと戦場を移したのは、すなわち内戦を避けるためだ。そんな男だからこそ……、我々が対面したとしてもすぐに争いは起こらない。争う意味がないからだ。貴官も警戒するのは構わんが、有無も言わさず斬りかかることはやめるように。部下も最低限の随伴に留める。小官は、奴に興味があるんだよ」
寺尾はアラビア半島の南方へと目を落とした。
白い商船が、いくつもの航跡を描いている。
空から見ると、それらはとても小さなものに見えた。
1935年12月17日0400時 サラーラにて
強い陸風に運ばれ、浜辺に寄せる波の音が聞こえてくる中、寺尾たちはリジ・アルラ率いる"ラスタファリの殉教者"と相対していた。
月明かりに照らされた"殉教者"どもの見てくれはさながら敗残兵の如きみすぼらしさであったが、素足であることを差し置けば、れっきとした陸軍のものだ。
腹に巻いたライフル弾帯に、肩に担いだスナイドル銃が様になっている。
彼ら一人一人が濁った瞳でこちらを呆と見つめていた。
その、まるで意志のない人形を思わせる視線に寺尾は困惑する。
石原が彼らに対し、何やらエチオピアの言語で呼びかけた。
すると、魂の抜けた一団の中から、ただ一人瞳に理性を感じる男が進み出る。
縮れた黒髪を細かく結わえた優男――、リジ・アルラだ。
彼は、石原におぼつかない英語で答えを返す。
「貴方は日本人ですか」
「ああ……、イギリス人の教育を受けていたのだから、英語は通じてもおかしくなかったな。いかにも、小官は大日本帝国の軍人だよ。ダーラムにて我々にメッセージを残していったろう。その存念を聞きに参った次第だ」
リジ・アルラはじっとこちらを値踏みするように見る。
聡明であるが、空虚。まるで透明なまなざしだと、寺尾は感じた。
答えが返ってこないことを不審に思ったのか、石原は続ける。
「あのメッセージは、我々に何か聞きたいことがあったということではないのか?」
「いいえ、私はもう答えを知りました」
少しして、リジ・アルラが初歩的な英語で返してくる。意思疎通に必要な語学力を最低限だけ、突貫工事で身につけたのかもしれない。
「答えとは?」
「日本はイタリアとイギリスとフランスの味方ではありません」
「何故、そうなる?」
石原が問うと、リジ・アルラが答える。
「私たちはサラーラからアフリカに戻ります。日本が三国の味方をするのなら、この場には白人が乗り込んできたはずです」
「ああ、我々は試されたのか……」
石原が帽子の上から、頭を掻いた。
リジ・アルラは話は済んだとばかりに、海の向こう側へと目をやる。迎えのボートを待っているのだ。
随伴の部下たちは相も変わらず人形のように呆としていた。
「彼らは?」
「呪術師の術にかかっています」
「呪術なぞ……」と寺尾が思わず口を挟もうとしたところで、石原がこれを制する。
「合理的だな。死兵のストレスを緩和してやっているわけだ」
言われて寺尾も気づく。彼らからは強い臭いがするのだ。生理的なものではない。この臭いには覚えがあった。
「薬物による精神操作――」
何よりもぞっとさせられたのは、指揮官たるリジ・アルラから薬物による影響を感じ取れないことだ。
つまり、この男は"素面で死兵と化している"。
リジ・アルラがこちらを見ずに口を開いた。
「マダガスカルにタンカーの船員を置いています」
「タンカー? タンカーとは貴官らが鹵獲したタンカーのことか? 生存者が居るというのか!」
石原が驚きの声をあげる。
「数人は殺しました。しかし、敵ではないと彼らが言うものですから、生かして様子を見ました。彼らは貴方たちに返します」
何でもない風に言っているが、こちらからしてみれば大事である。
もし生存者を確保できれば、臣民を守る総隊にとって誇るべき大戦果と言って良い。
事実、石原は大手柄を前にして心が躍っているようであった。
「ありがたい! だが、犠牲者が出たことはつくづく惜しい話だな……。なあ、貴官らは一体誰に"日本が敵である"と唆されたのだ? もし我が国に投降して貰えるならば、貴官らの身の安全と貴国にとって有利になる立ち回りを我が国に働きかけられるやも知れん。死兵として散るよりも有意義な命の使い方というものがあるのだぞ」
まくしたてる石原の言葉に、リジ・アルラは特に興味を示さなかった。
石原の言葉の端々には「祖国」のためやら「身の安全」やらと、彼らが食いつきそうな餌がばら撒かれていたが、そのどれをとっても反応が薄い。
まるで、国も自分たちもどうでも良いのだと言わんばかりの態度である。
死兵としての宿命に、なげやりになっているのだろうか……?
「……なあ、小官は貴官らのような有能な軍人に、無駄死にしてもらいたくはないのだよ」
あくまでも甘い言葉をささやきかける石原に対し、
「これは必要なことなのです」
ぽつりとリジ・アルラが言葉少なに返した。
「必要なこと、だと?」
眉根を寄せる石原。リジ・アルラは海を眺めながら、語り始める。
「今世のラスタファリは救世主ではありませんでした。来世の降臨を待つ必要があります。ですから、我々は時間を稼がなければなりません」
「んん、宗教的な話か……? 時間ならば政治的に政府が稼いでくれるだろう。我が国も必ず貴国の力になってやれるはずだ。それでは不足だというのか?」
リジ・アルラは空を見上げた。
「――白人は、我々黒人を滅ぼすつもりです」
寺尾は息を呑む。
目の前の黒人男性は今、確信を持って言葉を紡いだ。その根拠は何なのか……。
「黒人の根絶などありえん! それでは植民地政策が成り立たないだろうッ。前近代ならまだしも、20世紀にもなってそのような無理が通るはずは無いのだ!」
石原が驚き叫ぶが、リジ・アルラは空を仰ぐばかりで取り合わなかった。
「白人はアジ・マイ・ウオイニの空から毒を撒きました。身体中に"あぶく"ができる毒です」
びらん性の症状――、恐らくは欧州大戦時に開発されたマスタードガスの類であろう。
外部に届く伝聞では分からない現地の詳細が明らかになった。
イタリア軍の戦略爆撃の中には……、毒ガスによる黒人居住地への襲撃も含まれていたのだ。
リジ・アルラは続ける。
「我々は"あぶく"だらけになった子らを見た時、理解しました。――白人は黒人の子を絶やすつもりだと」
あくまでも理性的な態度を保ちつつ、彼はこちらを見た。
憎しみに駆られているわけでもなく、ただ透明な瞳でこちらを見る。
「救世主が生まれるためには、子らに生きてもらわねばなりません。白人が大地の獣ならば、我々を狩り過ぎることは無い。ですが……、あれは"狩りではない"」
背筋が凍りつく。
救いを求めるように、寺尾は仲間たちを見た。
数人の部下は言葉を失い、呆然としている。
そして、それは石原も同様であった。
「我々黒人が狩られるだけの獣でないことを示し、白人を駆逐する未来に至るまでの礎を作ります。貴方たち"色ある人々"も、"今は"は我々の敵として、白人の仲間でいてください。狩りの好機は必ずやってきます」
「ま、待て、人間には理性があるのだ! 人種間の根絶戦争なぞ起こってたまるかッ」
いつも不敵な笑みを浮かべ、他人をからかっている石原が驚くことに動揺していた。
泣きそうなほどに顔をくしゃくしゃにしてしまっている。
リジ・アルラはその様を見て不思議そうに目を細め、
「……まるで子どものような人だ」
と呟き、海に向かって歩き出した。
発動機の断続音が聞こえる。彼らを回収に来た同志たちのボートであろう。
リジ・アルラの背中に死兵の隊列が続いていく。
寺尾は逡巡した。
今、彼らをこの場で撃ち殺すか否かを。
あくまでも対談の体を保つため、この場にライフルを持ち込んでいるのは護衛の部下たちのみである。
"殉教者"たちは今、寺尾たちに背中を向けていた。
反撃によってこちらに犠牲が――、最悪は全滅もあり得るかもしれないが――、それでも必ず、首魁だけは殺すことができるだろう。
だが、ためらわれた。
彼らの背中に、目に見えない何かが見えてしまったのだ。
彼らとは現在敵対関係ではあったが、人種間戦争にまで深入りするつもりはない。
これは踏んではいけない猛獣の尻尾だ。
結局、寺尾は彼らがボートに乗り込み、浜辺から遠ざかるまで何もできずに佇んでいた。
しばしして、"殉教者"たちに中てられた部下たちが徐々に硬直を解いていく。
「大尉、我々は一体どうすれば……」
「……飛行艇に即刻戻り、本件を詳らかに本部にあてて報告する。それで宜しいですか、大佐……、大佐……?」
石原から反応は返ってこなかった。
青ざめた表情で、砂浜に膝をつき、
「うううう……」
顔を掻きむしり、その場でもだえ始める。
「どうなさったのですか、大佐!」
慌てて石原を抱き起こすと、彼は号泣していた。声をあげて、泣いていたのだ。
「最終戦争は……、起こり得ない!」
「大佐――?」
「覇権国家連合の争いの末に訪れるものは、千年続く怨恨の連鎖だ!! "国家と国家の争い"は、"国家と個人の争い"に移行するッッ!! 人類という生物がたった一人になるまで、戦争は続いていくのだっッッ!!! 続いてしまうのだ――ッ!!!」
発狂したようにそう叫び、彼は「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始める。
もう、寺尾には手の施しようもなかった。
石原を担ぎあげ、狂人の戯言を延々と聞きながら、重い足取りで飛行艇の停泊地を目指す。
道中に、リジ・アルラの今後を想った。
彼は一体――、どのようにして白人に一矢を報いるつもりなのだろうか……?
彼らが保有している水上戦力など、旧式の軍用艦に高速魚雷艇数隻とたかが知れている。
そして近日中にはアラブ・アフリカぼ海に列強の巡洋艦隊が集結してしまうというのに。
彼らは一体、何を仕出かそうというのだろうか……?
分からない。
分からないが……、我が国の、総隊の仲間達の被害が少しでも少ないものであるようにと祈る。
祈る際、何に対して祈るべきか、少し悩んだ。




