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1935年7月下旬 帝都、逓信省にて

例の如く、難産です。

 帝都において、麹町こうじまちといえば皇居内濠の西端――、半蔵門を出た先にある、甲州街道沿いの界隈を指す。

 しかし、これはあくまでも江戸時代の土地勘が未だ抜け切れていない民衆寄りの理解によるもので、視点を変えて行政区分の"麹町区"となるとやたらに範囲が広がってしまうのだ。


 例えば、内濠の東端――、和田倉門の北。大手門沿いの大手町も"麹町区"に含まれる。

 西も東も"麹町区"となれば、東西を挟まれる宮城きゅうじょうもまた、"麹町区"に区分されるであろうことは、容易に想像できるであろう。


 しかし、広島生まれの谷口にとって、この区分けは長年首を傾げざるを得ないものであった。

 何故、宮城までもが"町"に含まれるのか?

 "町"とは、民草が住まう場所である。

 それを宮城のある場所まで"町"としてしまうなど、いささか強引過ぎはしないだろうか。

 例えば、中央に旧江戸城があるのだから、その名をとって"江戸区"でも、"丸の内区"でも、はたまた江戸城の別名をとった"千代田区"でも構わないはずだ。

 恐らくは麹町に並々ならぬ愛着を持った高級官僚が、"麹町区"の設立に踏み切ったのだろうとは思うが、谷口はその決定に天下国家の理念を感じ取ることができなかったのである。

 軍政に携わるようになって大分経ったが、文官かれらの仕事は未だに分からん――、というのが谷口の素直な感想であった。


 閑話休題。

 大手町は、明治の御一新を境として今や内務省や大蔵省の関係諸局、それに文部省などの官舎が建ち並ぶ官庁街となっている。

 その中にことさら質素に映る、木造の洋風官舎が建っていた。

 逓信省ていしんしょう。この国の郵政と物流を管轄する行政機関である。

 

 谷口はカラカラと空調の回る大臣室で、逓信大臣と官房長官と向かい合って相談を受けていた。

「海難事故……?」

 渡された地図資料には、中東アラビア半島の東岸――、オマーン湾が朱書きでぐるりと囲われている。

 谷口の問いに対して、テーブル越しの逓信大臣、小泉又次郎は片眉を持ち上げて答えた。


「おうともさ。共和商事から話行ってねぇのか? アンタんとこだって無関係じゃねぇはずだが」

 小泉は無頼な物言いで、片腕をテーブルに預けてこちらを睨みあげる。

 上品なスーツこそ着ているが、その猫背で前のめりの立ち居振る舞いはまさに野人のそれだ。

 彼は民政党の議員の中でも異色の人となりをしていた。

 かつてはとび職人の親方としてやくざ者をまとめあげ、日露戦争の終戦時には主戦派に回って焼打ち事件に参加したほどの過激派で、常に国民の目線を忘れないことから、分かりやすさを求める一般大衆層に人気がある。

 どうやら、巷で騒がれる"刺青大臣"の二つ名は伊達ではないらしい。

 谷口は渋面を作り、小泉の言葉を元手に考えを巡らせた。

 

 "海難"、と小泉は言った。

 海難には人為的なミスによる座礁や、天災による遭難。そして海賊行為や通商破壊による被害が挙げられる。

 共和商事が主として力を入れている産業は水産業だ。

 しかし、水産業は北洋にその経済活動域を限定しているため、中東とのかかわりは薄い。

 アウグスト商会の船舶ならば中東を経由してアジアとヨーロッパを行き来しているであろうが、半島西岸のスエズ運河を経由する関係上、その道中でわざわざアラビア半島の東岸へと足を運ぶ意味はない。

 はて、他に共和商事が携わっている水産、海運業はあっただろうか……? と首を傾げたところで「ああ」とようやく思い至った。

「もしやすると、油槽船タンカーか」

 小泉がこくりと頷いた。


「小倉石油株式会社の油槽船がオマーン湾の沖合いで消息を絶ったらしい。あすこは共和商事と提携をしているんだろう?」

 未来知識を持つ共和商事は、我が国における石油の供給ルートについても大きな問題意識を持っている。

 "テクスト"において我が国が東南アジアへと進出した主な原因は、米国による対日石油の禁輸にあった。

 石油は重化学産業にとっては血液にも等しい、欠かすべからざる存在だ。

 当然ながら、もし何らかの理由で石油の供給が止められてしまえば、我が国の経済は甚大な損害を被ることになり、その時に「資源がないから奪いに行こう」などという強硬な発想が生まれてしまうことも否定できない。

 そこで共和商事は、将来の悲劇を回避するためにも石油の供給ルートを複数確保しておくべきであると考えた。

 北洋の油田は当然として、彼らが更に投資先として選んだのは、中東のサウジアラビア王国だ。


 つい先ごろまでの中東は、欧州大戦の余波により英仏に分割支配されていた。

 それをイブン・サウードなる国王がアラビア半島における熾烈な内戦に勝利することで、ついにはイギリスから独立を勝ち取ることに成功したのだ。

 中東の石油利権が英仏をはじめとする西欧諸国に牛耳られている現状において、油田の開発に手を伸ばしていくのならば、独立国としてある程度の無理がきき、未発見の油田が残るサウジアラビア以外に選択肢はない。

 ゆえに、共和商事はサウジアラビアの投資と開発に乗り出したわけであるが、報告書を見た限りではこの投機的事業はかなりの成功を収めているという。

 重油価格は国内外の関係企業がカルテルを結んでいるため、新たな供給ルートを発掘した新参者が利益を得やすい土壌が整っているのだ。

 掘れば掘るほど利益になるわけで、当面は左団扇の状況が続くであろうと思われる。


「ったく、この時勢に海難たぁ景気の悪い話だがよ。問題になっているのは、油槽船が跡形もなく消えちまったってところだ。それこそ油の一遍も海上に残さずによ」

 不快げに口元を歪める小泉に代わって、官房長官が補足する。

「消息を絶つ直前に、油槽船は救難の電信を送っております。信号にあった地点には船の痕跡は残されておりませんでした」

 奇妙な話である。

 座礁ならば船の残骸が現場に浮かんでいてもおかしくはないし、油槽船ならば染み出した原油の一つでも残されているのが道理であろう。

 痕跡の一つも見つからないということは、つまりは船がその場から移動したということである。


「すると、我が国の船が消息を絶ったのは……」

 官房長官は苦々しげに答えた。


「……海賊に襲われた可能性があります」

 その言葉に谷口は返す言葉を失った。

 単に海賊に襲われた、と言っても油槽船は巨大だ。それに、積み荷自体の扱いも難しい。

 当然、これを襲うのならば入念な準備と装備が必要になり、必然的に海賊の背後に国家規模の組織が控えているであろうことが推察できる。


「他国籍の船舶にも被害は出ておるのか?」

 谷口の問いに、官房長官は否やと答えた。

「オマーン湾においては確認されておりません。しかし、半島西部のアデン湾にてイタリア国籍の民間船舶にたびたび被害が出ていると聞き及んでおります」

「確か……、イタリアは東アフリカを獲得しておるのであったか」

「目下、エチオピア帝国と戦争状態にありますが、沿岸部はほぼ掌握しているようですな」

 東アフリカは紅海の沿岸部に位置しており、平時ならば農産物や中継貿易による利益が期待できるが、今は戦時でつ攻勢に出ている真っ最中だ。

 恐らく被害にあった民間船舶とは、イタリア軍への補給を担った船のことだろう。

 つまりは通商破壊。

 そこまで考えて、谷口は「ああ」と納得の息を漏らした。


「……オマーン湾の被害とアデン湾の被害は同一勢力によるものかもしれん」

「その心は? アンタを呼んだのは、この事件に関する分析と対策を講じるためだ。どうか忌憚のねぇ意見を出してくれ」

 前のめりになった小泉に対して、谷口は自らの推測を述べ始める。


「イタリアの船舶が襲われているというのは、恐らく通商破壊によるものだ。英仏の支援を受けたエチオピア帝国の非正規戦力が、海賊に扮して商船を襲っているのだろう。偶然か、意図してかまでは分からんが、我が国の油槽船が狙われたのはあくまでも"ついで"であると思われる」

「ついで、だぁ?」

 小泉の顔が怒りで赤く染まった。


「他人様の船を襲って、ついでたぁどういう了見だ!」

 息巻く小泉を制しながらも、谷口は続けていく。

「あくまでもイタリアの補給を絶って、攻勢を弱めることが主目的ということだ。被害を見るに無差別というわけでもなさそうであるから、もしかすると非正規戦力が重油を欲して、手近にいた我が国の油槽船を狙ったのかもしれん」

「んなもん、黒幕が英仏って言うならよ、あいつらは日本うちと戦争したいって言うのかよ。今のところ、別段きなくせぇわけでもねぇんだろ?」

 小泉の疑問はもっともなものであった。

 未だ国際協調の残り香が漂う昨今において、自分から戦争の火種を振り撒くなど、馬鹿のすることだ。

 そして外交巧者として知られる英仏両国は馬鹿ではない。

 恐らくは最低限、我が国との関係が悪化しない目処が立っているのだろう。

 あるいはたとえ対立しても、それ以上に利益が期待できる勝算があるはずだ。

 谷口が事件の裏に思いを馳せていると、官房長官が「そう言えば」と口を挟んできた。


「石油利権に関わる軋轢は、関係有りませんか?」

「どういうことだ?」

 官房長官は地図を指差し、語り始める。


「中東における石油開発は"赤線協定"と呼ばれる国際石油カルテルの傘下か、それ以外の投機的企業によって行われております。サウジアラビア王国ではスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニアと共和商事が協調して開発を進めており、昨年にダーラムという都市で油田を掘り当てることができました。結果として、中東の油田は"赤線協定"の影響下にある北部メソポタミア地域と、米国や我が国が開発する南部アラビア半島沿岸部に分かれたわけです」

 言って、官房長官はアラビア半島の付け根を指でなぞった。


「"赤線協定"は英仏蘭の企業を中心に結ばれています。そこに我々は楔を打ち込んでしまったわけですから……」

「不満に思った英仏によるけん制が行われた……、ということか」

 黒幕の意図が透けて見えてきた。

「厄介な……」

 谷口は眉間を指で揉みながら息を吐く。

 北洋の一件がようやく沈静化したと思ったら、これである。

 我が国に必要なことだと納得もしているが、共和商事が事業を拡大するたびに総隊の仕事が増えているようでは、憎まれ口の一つでも叩きたくなるというものだ。


「これは外交官を通じて関係国の態度を見定める必要があるだろうな」

 谷口が疲れたようにそう言うと、

「それだけじゃ足りねえ。護民さんにゃ、すぐにでも海賊退治に行ってもらわねぇと」

 小泉がぎろりとこちらを睨んできた。


油槽船タンカーは安い買い物じゃねえ。それが1隻オジャンになっちまったんだ。小倉さんだって航海の安全が保障されるまでは中東での商売はしたくねぇだろうがよ。だったら、早く商売が再開できるよう取り計らってやるのが、公の仕事ってやつじゃあねえのか?」

 有無を言わさぬ態度である。

 彼は我が国の通商に関わる責任を一手に担っているわけであるから、たとえ遠洋の話といえども捨て置くつもりなどないのだろう。

 逓信省は"船舶改善助成施設"という政策を推進しており、造船の助成という形で予算も名目も確保できるため、恐らくは既に小倉石油に対する被害の部分的な補填に関しても準備しているはずだ。

 

 それでは、翻って護民総隊はどうか。

 総隊の大目的は、帝国臣民の安全を脅かす万難を排することにある。

 ゆえに、通商の護衛に関しては今すぐに取り組んでも支障はない。

 だが、問題はその活動内容にあった。


「中東へ行き来する商船の護衛は我が隊で可能だ。しかし、海賊退治となると領海内での捜査や、航行する船舶をあらためる必要があるため、他国との兼ね合いも出てくるぞ」

 海賊の取り締まりには、外交上の波風を立てないためにも沿岸国の同意を得る必要があるだろう。

 イタリアは被害国であるから歩調を合わせやすいとして、メソポタミア地域やアラビア半島に影響力を持つ英国の反応が気になるところだ。

 谷口が懸念を列挙すると、小泉は歯がゆそうに口元を歪め、頬杖をついた。


「……その点については外務省のケツを叩いてくる。とにかく護民さんは中東へ向かう準備をしておいてくれ」

「承知した」

 その後、谷口は小泉とこまごまとした打ち合わせを行い、逓信省を後にする。

 ホテルへ帰る道中、脳裏にあったのは英国のことであった。

 英国はかつて世界の四分の一をもその手中におさめ、今も世界各地に影響力を持つ大帝国である。

 そんな国と経済的に対立してしまったかもしれないという事実が、谷口の心に陰を落としていた。

 事と次第によっては、ソビエトとの対立など比べ物にならない苦難が待ち受けているかもしれない。

 どうか穏便に済んでくれ、と谷口は願わずにはいられなかった。


 結論から言えば、逓信省の要請は外務省より各国に伝えられ、総隊による海賊対策の認可が下りることになる。

 我が国と利害を共にしているサウジアラビアは、当然のごとく賛成に回った。

 被害国であるイタリアは全面的な賛成と、共同で海上戦力を用意する旨を表明した。

 そして、イギリスは意外なことに消極的な賛成にまわり、支援こそ表明しないものの、総隊の中東周辺での活動を認めた。

 他のアラブ小国については反対にまわる国もあったが、列強が全て賛成にまわった時点でおおむね活動のお墨付きが与えられたものと考えて良い。

 こうして諸々の折衝が終わり、総隊の遣アラブ艦隊第一陣が日本を発つまでにおよそ二か月を要した。

 その内訳は、佐藤司令官率いる"海彦"1隻と、特設水上機母艦"富山"と"対馬"の2隻。そして、改修を受けた"秋津"に、補助艦艇4隻を加えた中艦隊である。

 宮本千早は航空参謀として新型航空機の最終調整と、正規空母の完成を見届ける必要があるため、彼ら遣アラブ艦隊を見送る側に回った。


 1935年9月。

 護民総隊初の正規空母が進水するまで、あと半年というところにまで迫っていた。


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