1935年4月4日 帝都、霞ヶ関にて
久方ぶりに海軍を訪れた千早に、四方八方より敵意の雨が降り注ぐ。
北洋における海軍と総隊の戦果差や、陸軍との結託が露骨になってきたためであろうか。海軍省のエントランスより艦政本部へ向かう道筋は、まるで針のむしろが満面に敷かれているかのように感じられた。
廊下をすれ違う高官たちの、これ見よがしな舌打ちが耳に障る。
千早は所在なさげに頭を掻いた。さっさと用事を済ませて帰りたい。現場でやるべきことは山ほどに残っているのだ。
「護民総隊の宮本航空参謀であります。本年度中に起工予定の、新造艦の設計資料を持参いたしました。本部長殿にお目通り願えませんか」
目的地に着き、挙手礼とともに名乗り出た千早に対して、艦政本部の高官が見せる対応は、実ににべもないものであった。
「……本部長はお忙しい。貴官と面談している暇なぞない」
道理に合わない話である。
そもそも、総隊が"鳳翔"の設計図を譲り受ける際、代わりに空母新造の進捗報告をするようにと所望したのは海軍の方なのだ。
海軍への反発から難色を示す上層部に対して、「護民総隊が培うノウハウを少しでも海軍に還元しよう」と各人を説得したのは他ならぬ柴田参謀であり、この高官は彼の赤心をも無駄にするつもりなのであろうか。
千早にとって柴田は派閥を分かつ政敵であったが、同時に有能な同僚でもあった。
柴田は余計なこともしでかすが、少なくとも自らの仕事はきちんとこなしている。
だというのに、柴田よりもはるかに格上の人間が個々人の好悪を天下国家の仕事に持ち込む様は、千早に腹立たしさを抱かせるのに十分すぎるものであった。
改めて思い知らされる。
自分たちにとって、ここは既に敵地なのだ。
"坊主憎けりゃ袈裟まで憎い"を地でいくまなざしを受け、千早は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪める。
「そもそも、航空畑の若造が何故艦の設計図を持ってくる。艦政の責任者が顔を見せるというのが筋ではないか?」
「それは、総隊が万年人手不足でありますので……」
「ほう、我が軍から散々ばら人材を奪っておいて、まだ人手が足りないというのか。贅沢なものだな」
本来、千早はこうした陰湿なやりとりをひどく嫌う。
当然、食ってかかろうとも思ったが、事前に井上にされていた忠告を思い出し、喉まで出かかった反論を飲み込んだ。
『水と油を混ぜようとしても時間の無駄だ。艦政の連中に何か難癖をつけられたなら、適当に受け流して話を進めろ』
つまり、海軍高官の意向は総隊の意志決定に何ら影響を与えるものではないから、会話をするだけ無駄ということらしい。
忠告された当初はあんまりな言い草だと呆れもしたが、こうして実際に難癖をつけられてみると井上の言っていたことにも一理あるように思えてしまう。
「……では、設計資料だけでも本部長殿にお渡しくださいませんか。これは艦政本部の本部長名義にて要求されたものですから、受け取っていただかなければ、筋が通りません」
「寄越せ」
高官は資料を乱暴にひったくると、ぺらりぺらりとその内容を流し読みし、あからさまな侮蔑の表情を浮かべた。
「何だ、この"ガラクタ"は」
千早はため息をこらえて機械的に答えた。
「総隊で、運用予定の新型空母です」
そんなことは分かっている、と高官は獣のように唸り、
「散々無理を言って、"鳳翔"型の設計資料を我々から借り受けたというのに、これか?」
資料を手の甲で叩きながら、問題児を叱りつける教師の体で続ける。
「何で排水量が1万トンと変わらぬのに、"鳳翔"よりも搭載機数が少なくなる。話にならん攻撃能力だ」
「……艦の生存性を重視した結果、密閉区画を増設したためであります」
新型空母の艦載機搭載可能数は、"鳳翔"の21機に比べて12機と大分少なくなってしまっている。
艦内に強固な隔壁に守られた航空用ガソリンタンクを設置するため、"鳳翔"型が従来格納庫としていた一角を削らざるを得なかったのだ。
そもそも、"鳳翔"は設計段階において、航空用ガソリンの保管場所が設けられていない。
そのため、実際の運用時にはドラム缶に詰められた航空用ガソリンを艦内に保管する必要があり、常日頃から大爆発の危険に晒されていた。
これはかつて乗組員であった千早もよく知るところであって、上官や年嵩の下士官が神経質なまでに火の元に気を配っていたことが強く印象に残っている。
艦内で全面禁煙が徹底されていたことも、誘爆のリスクを限りなく減らすための一工夫であり、つまるところ"鳳翔"型には安全上の重大な欠陥があったのだ。
航空用ガソリンタンクの設置は、こうした安全上の問題点を解決すべく藤本先任技術士官により提起された一案であった。
昨年の夏、"鳳翔"が魚雷の一撃を受けて爆沈したことを知る身としては、藤本の案は至極妥当であるように思われたが、見る者が見れば臆病者の発想に見えるのかもしれない。
少なくとも目の前の高官は、藤本の発案を妥当なものとは捉えていないようであった。
「格納庫がやけに細かい密閉区画に分けられているのは?」
「燃料を積み込んだ航空機自体が誘爆を引き起こす危険性を考慮したためであります」
高官の顔に冷笑が浮かんだ。
"あまりにも杞憂が過ぎる"という高官の内心が透けて見える。
実際、密閉可能区画を増やせば、運用面での不便が生じるであろうことは艦政の素人目にも明らかだ。
不便にはマンパワーで対抗するより他にない。人手を増やすか、今いる人員を酷使するか、である。
そこまでして安全性を確保する理由が果たしてあるのか――。
高官の表情がそう千早に問いかけていた。
「総隊は、艦の1隻が貴重な戦力でありますから」
護民艦隊は設立の経緯からも分かるとおりに、基本的に戦力を国家予算に頼らず自力で調達しているため、戦力の確保に限界がある。
そのため、1隻1隻を後生大事に使いまわす必要があり、豪気な浪費が許される環境にないのだ。
千早が無表情に徹していると、高官はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「それで……、この奇妙な機関配置は一体何だ」
高官は図面下層の機関部を指差して、呆れ声を漏らした。
通常、機関部の配置はボイラーを先頭として、中央部に動力機関、後部に変速機を備え、これらをスクリューシャフトが繋いでいる。
この機関配置は原則としてスクリューの数が増えるごとに、機関部も比例して増えていく。
スクリューが1軸だけならば、機関部も1列。
スクリューが2軸ならば、右舷と左舷に機関部が2列並ぶというわけだ。
しかしながら、図面上の新型空母は2軸スクリューに対応する機関部がてんでばらばらに配置されていた。
これも藤本の発案である。
「被弾時の生存性を高めるためです」
千早の答えが理解できなかったのか、高官は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに口惜しそうに口元を歪める。
「そうか……。機関の一斉破損を防ぐためか」
「その通りであります」
通常、2基の機関部に1~2軸のスクリューを用いている場合、艦の側面を砲弾や魚雷が貫通した際に動力を失う危険性がある。
藤本の位置をずらした機関配置には、こうした機関の一斉停止リスクを軽減させる効果があった。
たとえ1基が死んだところで、もう1基さえ無事でいたならば、艦は動くことができるのだ。
「……小細工だな。これでは艦の重心が乱れてしまう」
「そのための、外部装甲です」
澄まし顔で発した千早の言葉が気に入らなかったのか、高官は眉間に皺を寄せながら乱暴に資料をめくり始めた。
どうやら、意地でも粗を探してやろうという腹積もりらしい。
やがて、おやっと目を見開いて、口の端を持ち上げる。
「この直線的な艦形の意味は、一体いかなる了見か」
従来の軍用艦は、水の抵抗などを考慮して曲線を多用した艦形を取ることが常であった。
しかしながら、新型空母の艦形は不格好な直線によって構成されている。
千早は眉をぴくりと持ち上げた。
痛いところを突かれたからだ。
「……工数を減らすことで、修理・建造の手間や費用を削減するためであります」
曲線を多用した鉄鋼の加工は、手間と費用がかかりすぎるのだ。
故に、万年金欠の総隊としては曲線を廃した不格好な艦形を採用せざるを得なかった。
……無論、安物買いの選択は必然的に質の低下を招いてしまう。
当然ながら、高官もその点を手厳しく追求してきた。
「フム。これでは速力もかなり落ちような」
"鳳翔"型の速力は25ノット。
新型空母は艦形の変更と安価な機関を用いることが災いして、予想されうる速力が19ノット前後にまで落ちていた。
陸上と違い、空母が搭載する艦載機は飛行甲板という限られた距離を最大限に活用して発艦しなければならない。
発艦するための必要距離は空母の速力に反比例するため、速力の低下は千早たちにとっても手痛い問題であった。
一応、飛行甲板を設計上の限界まで拡張するなどの工夫を施してはみたが、運用予定の航空機がまだ形になっていない以上、まだどうなるか判然としない。
場合によっては航空機の設計を急きょ変更する必要も出てくるだろう。
千早は殊更に能面を装って、「問題が起きれば、解決に向けて善処いたします」と煮え切らない答えを返した。
「使い物にならん。我々の割り当てを奪っておいて、こんな体たらくではなあ」
高官は千早をやりこめたことで一応の満足が得られたらしく、嘲笑を浮かべて和綴じの資料を事務机へと放り投げた。
彼のいう割り当てとは、ロンドン海軍軍縮条約に定められた空母保有上限のことである。
日本の上限は計8万1千トン。
護民総隊が1万トンの空母を有することで、海軍は1割もの戦力を手放すことになってしまうのだ。
この軍縮条約は、昨年より軍拡の気配があったイタリアが今年になって条約の改定を英仏に要求してきたため、そう遠くない内に瓦解する可能性が高い。
それでも腹立たしいものは腹立たしいのだろう。
理屈ではない何かが、彼の悪意を突き動かしていることは疑いようがなかった。
「近頃、兵学校でつまらん冗談が流行っているそうでな。"親のけちに、弟の放蕩。長男たるや我慢の一手"だと。国家の屋台骨は長男こそが担っているのだ。あまりに放蕩が過ぎれば、亡国を招くぞ」
千早は目を閉じ、口元を引き締め、ただ静かに頭を下げる。
「……それでは確かにお渡しいたしました。本部長によろしくお願いします」
一応の目的は果たされたのだから、これ以上の長居は無用である。
足早に艦政本部を立ち去ろうとした千早を、
「待て、これでは資料が足らん」
意地の悪い笑みを浮かべた高官が呼び止めた。
「……新型空母の設計資料はそれですべてでありますが」
「こんなものが貴重な割り当てに代えられるか。貴官らの駆る航空機の設計資料も寄越せ。こちらで有効活用させてもらう」
千早は空いた口が塞がらなかった。
高官の発した言葉は、井上が事前に予想していた言葉と"一言一句違わぬもの"であったからだ。
『どうせ、奴らは我々の航空機についての情報を欲しがるはずだからな。出し惜しみせずに渡してやれ』
何故かと千早が首を傾げて問うと、井上は今目の前で笑っている高官の顔を更に邪悪に染め上げたかのような表情を浮かべて、言った。
『総隊と海軍ではその規模も、兵器の運用思想そのものも全く異なる。何せうちの航空機は、現状量産性が皆無の職人芸だからな。奴らに資料を渡したところで双方の力関係が劇的に変わるものとはとても思えん』
あの底意地の悪い参謀長と比べれば、高官の何と可愛らしいことか。
千早は顔を引きつらせながらも、用意していた航空機の資料を高官に手渡した。
◇
肩を落としながら今日の宿泊地である帝国ホテルへと帰りついた千早を、中庭でくつろいでいた井上が口の端を持ち上げて出迎えた。
植えられた桜が、石燈籠の飾られた庭池へほろほろと花びらを落としている。
備え付けのチェアでは、和装の麗人と実業家が和やかに歓談を続けており、井上はその内の端に深く腰を掛けていた。
「随分手早く済んだのだな」
この剃刀の頭脳を持ってすれば、艦政本部でどんなやりとりが交わされたか予想するなど容易いことであろう。
つまり彼は今、千早をからかっているのだ。
「……井上さんの助言を守り、あくまでも情報の提供に徹しましたから」
恨めしげに千早が睨むと、井上は珍しく声をあげて笑った。
「後方任務に携わる者は、Noと言える頑迷さと、目的のために頭を下げる腰の低さが必要だ。これから存分に慣れていけ」
「井上さんも頭を垂れることがあるのですか」
口走ってから上司に吐く言葉ではないと気づいたが、幸いにして井上は毒舌を好む人となりをしていた。
「俺が頭を下げるのは妻の約束を反故にする時くらいだな。赤の他人になんぞ頭を下げたくはない。だから、こうして出世したんだ」
本当に、良い性格をしている。
半眼で呻く千早と、にやつきながらコーヒーを啜る井上。
そんなやり取りを聞いていたのか、背中向かいに座っていた外国人が紳士淑女との歓談を取りやめ、優雅に拍手をしながら語りかけてきた。
「――愛妻との約束は何物にも勝りますな。けだし、名言です」
驚くほどに流暢な日本語であった。
それも何処か福岡弁を思わせるアクセントの入った、筋金入りの日本語だ。
背の高い、上品な歳の取り方をした壮年の紳士であった。
白髪交じりの軽やかな短髪をオールバックに撫でつけて、つり上がった眉と整えられた口ひげが甘いマスクに良く映える。
人目を奪う爽やかな笑顔に、活力のあふれた自信家の相が眩しい。
千早は彼の物腰に、ジョン・サッチやエドワードといった米国人の面影を感じ取った。
「……失礼ですが、合衆国の御仁でありましょうか」
「おや、分かりますか。ミスター」
男は嬉しげに眼を細めて、千早を見る。
他人に違和を抱かせない笑顔だ。恐らくは、常日頃から浮かべ慣れているに違いあるまい。
「私はジョゼフ。ジョゼフ・グルーと申します。今は合衆国の駐日大使なんぞをやっております」
着崩していたスーツをぴしりと直し、ジョゼフは二人に対してにこやかに握手を求めてきた。
「……申し訳ない。外交官殿でありましたか」
心持ち動揺しながら、こちらからも自己紹介しつつ両手で握手に応じる。
外交官の身分と名誉は国家の名のもとに保障されなければならない。
軍属上がりの千早にとっては、当然ながら敬意を持つべき対象であった。
「いえ、今はご覧のとおりの暇人ですのでお気になさらず。今夜のダンスパーティーに出席しなければならないのですよ」
言いながら、ジョゼフは先ほどまで歓談していた面々へと目を向ける。
そのいずれもが、ただの成金では到底持てぬ瀟洒な風格を漂わせていた。
「成程」
外交官というものは、有り体にいえば顔を売ることが仕事である。
人は対岸の火事にはどこまでも冷たく残酷になれるものだが、知り合いになってしまえば少なからぬ情が湧いてしまうものなのだ。
これは兵学校の受け売りだが、たとえどんなに事務能力が優れていたとしても、国家のスポークスマンになっているだけでは外交官としては三流らしい。
相手国の情を引き出すためには、一に交流、二に交流が大事だというから、結局のところジョゼフのパーティー出席は仕事の一環と言って良いだろう。
「しかし、米国人の知人でもおられるのですかな? いえ、この国の方々は西洋人の見分けるのをあまり得意とされておりませんから」
「文を交わす友人が一人おります」
「ほう」
ジョゼフが口髭をいじりながら、瞳を輝かせた。
「手紙は民間の国際郵便ですか? よろしければ、外交郵便にて私がお届けしても良いのですが」
外交郵便とは、外交官が本国との連絡に用いる専用便のことである。
国家の検閲を受けない上に、郵送にかける時間も迅速なことで有名だ。
千早は急な申し出に慌てて手を振り、丁重に断った。
「流石にそれでは他の者たちに示しがつきません。お気持ちだけありがたく受け取っておきます」
「そうですか。今を時めく護民総隊の方々に恩が売れると思ったのですが、これは残念」
悪戯っぽく含み笑いをしたジョゼフの言葉に、井上と千早は目を丸くした。
「……我々の所属に気づいておられたのですか」
「それはもう。以前からこうしてお会いしたいと思っておりましたのでね」
「何故ですか」
どうやら、単なる雑談では終わらないかもしれない。
幾分か構えてジョゼフを見ると、彼は困ったように頬を掻きつつ、
「ああ、警戒させてしまったようで申し訳ありません。そう深い意味があるわけではなく、単に顔を繋いでおきたかっただけなのです」
日本人特有のジェスチャー――、つまりぺこぺこと頭を下げる所作をこれ見よがしに見せながら、答えた。
「先の外相、ミスター・ウチダで我々は懲りたのですよ。この国はいくつもの派閥が独自の意思決定能力を持っている。彼が陸軍のスポークスマンであったように、国を代表した外交官であっても所属する派閥によって、その主張の有効性が変わってきてしまう。ならば、"今、最も影響力のある派閥"に顔を売った方が効率が良い。つまりは、天皇陛下の直隷組織――、共和商事や護民総隊ですな」
要するに以前から接触の機会を窺っていたということらしい。
確かにジョゼフの考察は、この国の現状を見事に言い当てたものであった。
各派閥の勢力図が現状どうなっているかまでは分からないが、日本という国を動かしているのは権門勢家によって国政の場へ送り込まれた人材たちだ。
そして、正月の"玉音放送"以降、国政を一新するための政権交代が起こっているのだから、いま最も勢いがある派閥を天皇陛下率いる宮中閥と捉えることもまた不思議ではない。
「……何か陛下にお伝えしたいことでもあるのですか?」
腹芸が苦手な千早が単刀直入にそう問いかけると、
「いえ、特に何か文句があるわけでもないのです。いやはや、あの"玉音放送"には私も感服させられました。世界の恒久なる平和……、素晴らしき理想です。合衆国や、我々"ジャパン・ロビー"も陛下の手助けをさせていただければと思います。陛下の仰る人道と正義と平等は、まさしく我々の理想とするところにございます。合衆国と日本は……、手を取り合って歩むことができるのですよ!」
米国人の御友人を持つ貴方ならば分かるでしょう? と、ジョゼフは諸手を広げて興奮気味に語った。
その様子に千早は少なからぬ驚きを覚える。
あまりにも米国の感触が良すぎるためだ。
少なくとも、彼の語り口からは"テクスト"に記されていた太平洋戦争の兆しも、大和の語った世界戦争の片鱗も見受けられない。
また何処が歴史が大きく変わったのだろうか?
それとも、歴史の揺れ幅が大きすぎて全く予想することができないだけなのであろうか。
何と返していいものか思い悩む千早の代わりに、井上が興味深げな口調でジョゼフに問うた。
「貴方は、今のこの国の方向性を歓迎しているということですか」
「イエス。私はこの国を合衆国の次に愛しておりますし、今の外交路線を快く思っております」
ジョゼフはにこやかに答えた。
「貴方の仰る"ジャパン・ロビー"なるものを小官は初めて聞きました。言葉の意味から察するに親日派とでも訳すべきなのでしょうが、合衆国では大勢を握っておられるのですか?」
「ノン。残念ながら、我々がプレイヤーたるには未だ力が足りません。例えば、現ルーズベルト大統領は"チャイナ・ロビー"の筆頭であり、民国と手を結びたがっております。今はナチス・ドイツを仲介した米・独・中の経済連携を模索している最中にございます。シカゴ・トリビューン紙やニューズウィークを取り寄せてみてはいかがでしょうか? 現在の合衆国情勢が手に取るように分かりますよ」
ジョゼフはこれ見よがしに残念そうな面持ちで答えた。
井上はしばし考え込み、さらに踏み込んだ質問をする。
「我が国と貴国が今後戦争状態に突入するきっかけとしては、どのようなものがありましょうか」
その質問にジョゼフは目を丸くし、一拍置いて答えた。
「フム……。まずは絶対条件として中国市場を巡って我が国と敵対しないことこそが肝要です。"チャイナ・ロビー"は"ブリティッシュ・ロビー"と並んで現状強力な勢力ですから。この一点さえ守っていれば、"チャイナ・ロビー"は日本に殊更な敵意を向けることはないでしょう。さらにもう一声追加するならば、我々への"支援"ですかな? 日本との友好にうまみを感じるものが多ければ多いほど、両国を隔てる太平洋も小川の如く狭まっていくでしょう。今も財閥の方々に支えられてはおりますが……、いえ、それもありがたいことではあるのですが、できればもっと巨大なお墨付きがあればと常々思っているのですよ」
金銭的な支援、ということだろうか。
財閥が金銭面で外交に携わっているという事実にはいささか驚かされもしたが、よくよく考えてみれば当然のことであった。
何せ財閥はこの国で最も外地へと目を向けている勢力なのだから。
ジョゼフの一連の返答を聞いて井上は成程と頷き、礼を言った。
これに対してジョゼフはにっこりと微笑んで相槌を打った後、思い出したかのように手を叩く。
「ああ! 大事なことを申し上げなければなりません。そう、"アカ"に染まることだけは絶対にいけませんよ。我々"ジャパン・ロビー"も"チャイナ・ロビー"も反共の一点では意見を同じくしています。"アカ"に染まってしまえば、対立がそれだけ近づくとお考えください」
真顔で言ったジョゼフの言葉が、千早と井上をひどく困惑させた。
「我が国の国体は、根本的に共産主義と相容れないものでしょう。それはロシア帝国の末路を見てもよく分かります。流石に杞憂なのでは……?」
ジョゼフの真意が掴めずに井上が首を傾げてそう言うと、
「ンン? それはおかしな話ですね」
ジョゼフもやはり不可解といった表情を殊更に浮かべ、続く言葉で千早を凍りつかせた。
「陛下の住まう宮中に、トロツキーが……、あの共産主義の申し子が出入りしているとの噂を小耳に挟んだのですが、何かの間違いだったのでしょうかね? フムン」
"テクスト"においてはヨシフ・スターリンと並ぶソビエト建国の英雄にして、世界一斉革命の信奉者、レフ・トロツキーが宮中の陰に潜んでいる――。
それは本当に事実なのか。
一体いかなる了見なのか。
動揺した千早の思考は、最早ジョゼフの言葉をこれ以上受け入れられぬほどに、ぐちゃぐちゃとかき乱されたのであった。




