1935年4月4日 奥羽本線、夜間急行401列車中にて
余程の大荷物を抱え込んでいない限り、秋田から帝都に向かうには寝台急行を利用するのが一番早い。
現在、秋田から上野間を走る急行列車は二両あり、その内の一両――、奥羽本線401列車が昨年から大型二等寝台形の車両を牽いていた。
「良く、列車に揺られながら字を読めるわよね」
千早が寝台列車の揺れに身を委ねながら、和綴じの書類に目を通していると、呆れた声が隣から投げかけられた。
アップに縛った赤毛を揺らし、窓際で手持無沙汰にしていたアニーである。
好奇心からこちらの手元をのぞき込んでくるも、すぐに表情を歪めて目をそらしてしまう。
「うぇっ」
どうやら乗り物に酔いやすい性質のようだ。
千早は小さく息を吐いた。
「慣れだからな、こればかりは」
書類から目を離さずに答えると、
「慣れも何も……、チハヤは船乗りなんだから、初めっから乗り物酔いとは無縁じゃない」
アニーの声がふてくされたものに変わった。
船乗りは乗り物酔いをしない。ありがちな誤解である。
「いや、船乗りも乗り物には酔う。むしろ、酔える奴は貴重なのだ」
アニーの愚痴に答えたのは、真向かいに座っていた井上であった。その隣にはユーリがいる。
元来、我が国の寝台車両は通路を挟んで両側面に折り畳み式のベッドを設置するという開放的な形状をしていたのだが、ここ数年にかけての外国人技術者急増を受けて、客室を区分けしたプライベートスペースも設けられるようになったのだ。
とはいえ、突貫工事で改装を施されたせいもあってか、各スペースを隔てる間仕切りはパリを走るオリエント急行のような密閉個室ではなく、厚手のカーテンのみに留まっていた。
当然、音や匂いは防げるものではなく、今も背中向かいのスペースでマリオが掻き込んでいるであろう"上等御弁当"の香りがこちらにまで漂ってきている。
……鱒の塩焼きに煮物だろうか。当然、握り飯も付いているはずであろうから、結構な量になるはずだ。
「どういうこと? 船乗りが乗り物に酔っていたら話にならないじゃない」
アニーの問いに、井上は少し言葉を選びつつ返す。
「乗り物に酔うということは、そもそも違和に敏感ということなのだ」
アニーはその言葉の意味するところが分からずに「ふむむ?」と唸っていたが、しばしして喉に詰まったものが取れたかのような晴れやかさで声をあげた。
「あっ、機関の調子が分かりやすいってことか」
アニーの推論に、井上が「その通りだ」と頷いた。
発動機を積んだ機械は燃焼によって動力を得ている関係上、気温や湿度、気圧などの外的環境によってその調子を大きく崩してしまう。
艦にせよ航空機にせよ、今の大型兵器はその全てが動力機関を搭載しているわけであるから、その日の好不調を理解できるものならば、理解できるに越したことはない。
ゆえに、乗り物に酔いやすい者は機関の調子を知る上の指標として、重宝される一面が存在するのだ。
「もっとも、嘔吐は御法度だがな。上が見ていれば、『たるんどる。その場で飲み込め』と鉄拳をおまけにどやされる」
「うひゃあ」
アニーの悲鳴が上がったところで、通路側のカーテンがめくられた。
顔を出したのは、まるでジャガイモのような顔立ちの少年である。
年の頃は16、7であろうか。
伸びに任せた身長が、後少しで青年へと生まれ変わりそうな気配を感じさせてくれる。
名前までは分からなかったが、千早も何度か共和商事の航空機工場にて面識があった。
「あー、その。姐さん、ユーリさん。食堂車でサンドウィッチ買ってきました。皆さんの分の。サンドウィッチ」
「んっ、アリガト!」
少年が朴訥とした日本語でそう言うと、アニーが片言の日本語で元気良く礼を返した。
少年は少しはにかみ、千早たちの方に目を向けると、「ども、ども」とかしこまった様子で頭を下げる。
特に身に覚えのない隔意を感じ取った千早は、少年に胡乱げな目を向けた。
すると、少年はぎょっとしたように飛び上がり、
「あー、ええと。それじゃあ、食べ終えた頃に空箱取りに来ますんで、ごゆっくりどうぞ」
言うが早いか、足早に隣の車両へと戻っていってしまう。
何か思うことでもあったのだろうか。一旦、資料を脇に寄せて疑問に思っていると、
「はい、チハヤ!」
アニーがサンドウィッチを手渡してくる。
「なあ、さっきの彼なんだが……」
「カクエイ君のこと? 航空機作っているステマツさんの孫よ。自分のドモりが恥ずかしくて、よくあんな風に逃げちゃうの。緊張するとドモり癖が出るみたいだから、軍人さんを見て逃げちゃったんじゃない?」
へえ、成程と流そうとしたところで、聞き捨てならない言葉が引っかかった。
「角栄、だって?」
「ん? ええ」
「……苗字は?」
「タナカ? だったかしら」
目を見開いて、思わずカーテンの向こう側へ目をやってしまった。
よもや、未来の総理大臣とこんなところで出くわすとは思ってもみなかったのだ。
内心、心穏やかでない千早に対して、ユーリが満面の笑みを浮かべて言葉を足した。
「とてもよく働いてくれる少年です。細かいところにもよく気がつくから、ぼくも設計関係の仕事をいろいろと教えたりしています。あまりにも筋がいいから、トーキョーの学校へ進学したらって勧めてるんですよ」
「学校……。もしかして、あの少年に、航空技師の勉強をしろと?」
「はい!」
頭を抱えたい気分であった。
"テクスト"にはあの少年が未来の総理大臣になることまでは記されていたが、その細かい経歴までは載っていない。
しかし、少なくとも設計技師の道へと進んだということはないだろう。
設計技師から政治家へ転向するケースなど、千早の知る限りでは聞いたことがない。
自然と口元がひきつっていった。
ユーリとアニーはそんな千早の態度を奇妙に思ったのか、きょとんとした顔で首を傾げる。
「どうしたの?」
「……末は大臣にでもなりそうなくらい優秀に見えたから、少々もったいないと思っただけだ。気にしないでくれ」
「ふうん」
それ以上の追求を交わすべく、千早は目をそらしてサンドウィッチを頬張る。
駅前でよく売られている、厚手のハムを挟み込んだ代物であった。
「そういえば」
三枚ほどをぺろりと平らげたあたりで、千早は思い出したかのようにユーリに問いかけた。
「資料にあった、現有航空戦力の改良案。新型機の試乗ができるようになるまでに、どのくらいかかりそうなんだ?」
護民総隊による航空母艦の新造に先駆け、千早たちは海護一型を素体とした大規模な改装を施す計画を立てていた。
ユーリは少し考え込み、人差し指を立ててこれに答える。
「胴体部はほとんどそのまま流用できますから……、イタリアよりエンジンが届きさえすれば、3か月ほどでモノになるとは思います」
「楽しみよねぇ、"デルタ"エンジン!」
アニーが楽しげに細い指を組んで、ううんと背伸びをした。
"デルタ"エンジンとは、イタリアのイソッタ・フラスキーニ社が開発した大型の最新鋭航空エンジンのことである。
その形状は、遠目に見れば足ひれのついた魚雷――。
空冷星形エンジンが主流の航空エンジン界にあって、異色の空冷倒立V型をとっていた。
「新型エンジン、なあ」
千早は天井を見上げて、ため息をつく。
先月、アニーが息巻いてこのエンジンを図面とともに紹介してきた時には、さしもの千早も目を丸くして詰問したものだった。
『一体、このエンジンの何処が良いのか』
いつぞやのやり取りで彼女が星型エンジンをあまり好いてはいないことは分かっていたのだが、それにしたってゲテモノを持ってこいとは一度も頼んでなどいない。
『こまめに見てあげる必要はあるけれど、星型より整備がしやすいわ!』
『空冷である理由は?』
『液冷より頑丈よっ』
エンジニアである彼女らしいと言うべきか、その選定基準は整備性と突発的な事故に対する復元性を重点的に評価しているようだ。
確かに整備性は重要である。片手間に整備のできないエンジンは連戦に次ぐ連戦ですぐに調子が悪くなってしまうし、液冷エンジンは放出熱を冷却液によって冷やす以上、銃弾や衝撃によって故障しやすい。
『……と言ってもなあ』
カタログデータを見る限り、一応は過給機と呼ばれる高高度飛行時の出力低下を防ぐ機能を備えているようだが、いかんせんエンジン出力が770馬力とひ弱過ぎる。
エドワードとのやりとりや、各方面から伝わってくる情報によると、最近の主流は800馬力強の星形エンジンだ。
例えば、ソビエトのイシャクなどがこの好例であり、わざわざ慣れぬ形状のエンジンに換えて、イシャクよりも力のない機体を作る必要性が感じられない。
『……これで速力は出せるのか?』
『基本的にレース用だから速力自体は間違いなく出せるわ。ただ、重量物を持ち上げるのには向いていないかな。木製の軽い機体が良いと思う』
『また、木製か』
これならば一般的な星型で良いんじゃないかと反論しようとしたところで、案の定というべきか、ユーリの援護射撃がやってきた。
このポーランド人は、骨の髄まで木製航空機の虜になってしまっているのだ。
『木製……! この形状なら……、桐のセミ・モノコック形状ですね。それに倒立エンジンならばプロペラ軸が下がって前方の視界が良くなります。ただ、主脚を長く取らなければなりませんから……』
むむむと考え込み、程なくしてユーリの顔色がぱあっと明るくなった。
『逆ガルです! 逆ガル翼が使えるですよっ』
『逆ガルというと、今の"海猫"とは逆向きの翼をつけるということだろう……? 一体何が良いというんだ』
プロペラ軸が低くなる利点についてはよく分かる。
通常の航空機は機首とプロペラが視界を遮り、立体的な状況把握能力を要求される空戦時には、見えない部分を勘で補う必要があるのだ。
この問題は、頭の上を翼で覆われた複葉機から単葉機になったことでかなり軽減されたのだが、未だに下方の敵については視界を確保できないため、想像で見越し射撃をする必要があった。
そして、未熟者が空戦においてエースに勝てない理由もここにあると千早は考えている。
エースは経験的に、見越し射撃の難しい角度というものを弁えており、空戦時には原則として敵機の腹へと潜り込もうとしてくるのだ。
例えば、いつぞやに相まみえたソビエト機エースのように……。
一度死角に潜り込んでしまえば、未熟者の状況把握能力など恐るるに足らない。
相手がこちらを再び捉える前に、さっさと撃ち落としてしまえばいいわけだ。
こうして考えてみると、未熟者の生存確率を上げるという意味では倒立V型の採用も悪くはないのかもしれない……。
と、ここで千早は自分がほだされかけていることに気が付き、頭を振って冷静さを取り戻した。
技士の意見は貴重だが、こちとら戦友の命を預かっているのだ。
目新しさだけで機体を選ぶわけにはいかない。
二の足を踏む千早に対し、やり手のセールスマンと化したユーリは更に利点を語り続けた。
『倒立V型のデメリットは、ペロペラ軸が低くなることで、離着陸時に地面とプロペラが接触する危険性が増すことです』
『不時着はまずい。離着陸の難易度は搭乗員の生死に関わる』
実際、軍や護民総隊の飛行学校において、離着陸の失敗で事故死する練習生は後を絶たない。
特にこれから訓練しなければならなくなる甲板上への着艦は、"制御された墜落"とも評されるほど難しい行いなのだ。
難色を示す千早に対し、ユーリは自信満々の笑みを浮かべてプレゼンテーションを続ける。
『そこで逆ガル翼が出てくるです。折れ曲がった翼底部に主脚をつければ、主脚を短くすることができるはずですよ。これなら倒立V型のデメリットを上手く解消することができます。空力特性まではまだ良く分かりませんが、垂直尾翼が増えるようなものなので、安定性は増すはずです!』
成程と唸らされる。
"海猫"は安定性に難があった。それが改善される上に、視界性の向上まで見込めるとなれば、確かに選択肢としては十分に有り得よう。
『……ちなみに強度は?』
『"海猫"のノウハウがあります! 少なくとも急な切り返しで空中分解するなんてことは有り得ませんっ』
『量産性は?』
その問いかけに、今までイケイケであったユーリが言葉を詰まらせた。
どうやら、量産性には相当難があるらしい。
千早はため息を付き、ユーリの提案を受諾することにした。
『……良いのですか?』
『……元々、新造する航空母艦はあまり艦載機を積めなさそうでな。それならば、一機ごとのコストを上げても良いと思う』
千早の色好い答えを聞いて、ユーリは嬉しげに飛び上がった。
『世界初の、全木製高速次世代戦闘機を作って見せますよっ!』
こうして興奮しきりのユーリをリーダーとして、海護一型"海猫"は新たに一二型軽戦闘機として生まれ変わるべく、準備が開始されたのである。
……先月のくだりを思い出したせいか、ついつい不安からため息を重ねてしまう。
世界初、といえば確かに聞こえは良いのだが、前人未踏の上り坂には必ず困難が待ち受けているものだ。
本当に上手くいくのだろうか……?
総隊結成当時はあくまでも自分が乗る航空機を選ぶ気分でいたものだったが、今度は戦友たちの命を預かっているのだ。
海軍にて兵装の選定に携わっていた陸上勤務組の石頭ぶりが、今なら少し理解できる気がした。
そうして三度目のため息をついたところで、アニーに鼻先をつつかれる。
「イオ、ロ、マネッジョ」
「……何だって?」
「"何とかなるさ"って言ったのよ!」
彼女の、こうした底抜けに明るい笑顔を見ていると、自らの抱く懸念の何もかもがまるで取るに足らないもののように思えてくるから不思議である。
これが人徳というものなのだろうと、千早は苦笑いを浮かべて彼女の指をぺちんと弾いた。
◇
夜も更けて、列車での長旅も残すところあと四、五時間という時分に、井上が気分転換とばかりに備え付けのラジオのスイッチを入れた。
正月の"玉音放送"以降、国内ではラジオの普及率が急速に高まっているのだ。
良きにせよ悪しにせよ、あの放送はこの国の空気を一変させた。
この国の民は、一度「何かをしなければならない」という空気にあてられると、一斉に同じ方向へ進みだす気質をしている。
その気質が、今はラジオの普及率増加という形になって表れているのだろう。
井上がチューニングを合わせた番組は、NHK第一放送であった。
以前のNHK第一放送は株式市場の最新ニュースでほとんど全てが占められていたが、最近になって政治にかかわるニュース速報も増加傾向にあるようだ。
しかし……、以前と一番変わったところと言えば、やはり"政府放送"の拡充であった。
『余は国民諸君の抱く幻想を断固として打ち砕かねばならぬという使命を負っている。世間では"やれ、松岡は弱腰だ。売国奴だ"との声が高まっているが、諸君はまず国際協調とは何かについて改めて認識する必要があるだろう』
どうやら、今は"宣伝庁"の長官松岡洋介による演説が行われている真っ最中であるらしい。
現若槻礼次郎政権は、国民世論の過激化をマスメディアの影響によるものと判断し、世論沈静化のために新たな行政庁を置くことにしたのだ。
啓蒙活動、とでも呼ぶべきなのだろうか。
一昔前の民権運動を、今度は政府が主導となってやっていると考えてみれば分かりやすいと思われる。
『……日本は列強であり、世界有数の軍事力を持つ。この認識は正しく、さすれば力による恫喝で大抵の無理が通ることもまた正しい認識と言えるであろう。しかしながらっ! 力による支配を通すということは、より強い力による隷従を受け入れるということでもある。そのような理不尽を防ぐための組織が国際連盟であり、我が国は――』
高らかに、謳いあげるような口ぶりで白熱する松岡の演説を耳にするや否や、井上の表情が不快げに歪んだ。
「番組、変えるんですか?」
「こいつの演説は、内容はさておいても自分が馬鹿になったかのような心地になるから好かん」
千早は苦笑して井上を見る。
第二放送に切り替えたところ、こちらもやはり演説を番組として流していた。
第二放送は学問講座やクラシックの演奏、人気講談師による小説の朗読といった娯楽番組で構成されており、一般大衆の受けがいい。
今は『寵児』と題された新作小説の朗読が放送されていた。
『砲弾の衝撃で吹き飛んだ片足の激痛に耐えかねて、私は喉を掻き毟った。サーベルを持てば真田幸村を理想とし、御真影に拝謁したなら楠公を思い起こす私であったが、この時ばかりはただ、ただ"母上! 母上!"と泣き叫ぶより他になかったのだ。私は、この時に悟った。大東亜の独立を、アジア諸民族の独立を願う心の根底には、朝鮮人としての私が故郷へ帰るという願いも含まれていたのだということを』
勘州事変における桃山殿下を主人公にした戦記小説のようだ。
戦記小説をまるで私小説のように叙述する趣向が物珍しく、しばし耳を傾けていると、
「碌な番組がやっておらん」
落胆した井上がラジオのスイッチを切ってしまった。
「今のも駄目ですか」
「プロパガンダなんぞ聞いていても、頭が腐るだけだ。少なくとも参謀職をやるなら、特定の思想にかぶれることだけは避けねばならん」
言って、井上は仕事で使う資料を取り出して静かに読み出す。
通路の向かい側のスペースから、アニーのあくびが漏れ出した。明かりが消えたところから察するに、そろそろ仮眠を取るのだろう。
千早もいい加減、睡眠をとることにした。
彼女らが帝大において各地の技術者と勉強会を行うように、千早も昨年より内定されていた陸軍出向者との顔合わせがあるのだ。
目に隈をこさえたままでは、先方に悪印象を与えかねない。
1935年4月5日 永田町、陸軍省にて
東京駅の正面口を出て、行幸通りを進むと和田倉門に突き当たる。
皇居を取り囲んだ御濠の近辺は、元は江戸期の大名屋敷が林立していた屋敷地であった。
御濠を右手に道なりに進み、桜田門のさらに先、三宅坂上の界隈にまでたどり着くと、ガス灯の雅な正門を持つ歴史主義の趣深い建築物がそびえ立っている。
陸軍省の官舎である。
明治の御維新以前には彦根藩の井伊家が住まい、今年の正月までは先の陸軍大臣荒木貞夫が根拠地としていた場所であった。
門前に直立する守衛に用向きを伝え、官舎へと足を踏み入れる。
この官舎の、今の主は陸軍大将宇垣一成。
前内閣総理大臣、犬養毅の推薦によって荒木貞夫を追い落とす形で陸軍大臣に就任した彼であったが、今は旧荒木閥――、つまりは陸軍皇道派の粛清人事に精を出していると聞く。
元は荒木が宇垣を代表とする旧長州閥を閑職へと追いやっていたそうだから、今は逆風が吹き荒れているというわけだ。
護民総隊への出向士官も、そのあおりを受けていた。
「牟田口廉也陸軍大佐、石原莞爾大佐。永見俊徳大佐……。彼らを指揮官とする歩兵大隊560名及び、航空従事者10名が我が隊への出向士官ということで相違ないか」
「相違ない。彼らは我が軍の虎の子である。御国のため、効果的に運用してくれることを望みたい」
護民総隊の井上と、人事局長の今井清なる軍人のやりとりを耳にしながら、千早は懐かしい面々と初対面の人物を交互に眺めていた。
言うまでもなく、永見俊徳は上海事変の恩人であり、北洋における戦友でもある。
あの新知沖での海戦において野戦砲を甲板に持ち出し、護民艦隊へ火力支援を送った者こそが彼であり、総隊内では「信頼のおける陸士」としてかなり高い評価を得ていた。
どうやら、歩兵第25連隊などの対ソ戦力が、大陸戦線の鎮静化を受けて整理対象となっているようだ。
友人である栗原中尉の便りによれば、以前から皇道派の薫陶を受けた辺境の各隊員にロシア人やユダヤ人たちの作った新たな自治国家の国籍を取るよう仄めかされていたそうだから、この再編成もそうした首切り人事の一環なのだろう。
当人たちの顔色を見るにあまり堪えてなさそうなのが、救いであった。
いくら首切りと言っても、外地に進出した企業連の要請を受けての移籍であるから、実質的には天下りと同義であることが要因であろうか。
対する牟田口の顔色は悪い。
勘州の戦いでは桃山殿下の奮戦が原因で、完全に面目を潰される結果となってしまい、巷では"無能"の代名詞としてまかり通っていることが大きなストレスになってしまっているのだろう。
今回の出向を明らかに左遷に類するものと受け止めているらしく、心なしか蛸顔も少し萎れて見えた。
「あぁー……」
残る一人はと言うと……、千早にはよく理解できなかった。
石原莞爾は、今も人前で大あくびをしては退屈そうに姿勢を崩している。
千早の記憶によれば、この男は沿海州の戦いにおいて、兵器の質で勝るソ連軍を完膚なきまでに叩きのめした鬼才のはずだ。
だが、どう見ても有能そうには見えず、むしろ周囲の和を乱す手合いにしか見えない。
「おい」
井上と話していた今井が忌わしげに石原を睨みつける。
「陸の面目を潰すつもりか。耳障りだから、その大口を閉じていろ」
今井の態度を見るに、この石原という男は本当に厄介払いをされただけなのかも知れない。
千早が呆れ顔でみていると、石原はこれ見よがしに再び大あくびをした。
「厄介払いを虎の子と、閣下の大口には小官も負けを認めざるを得ませんな」
「貴様ァッ」
激怒した今井がずかずかと石原へ歩み寄り、胸ぐらをつかんで殴り倒す。
「わしに恥をかかせる気かっ!」
さらにうずくまった石原を蹴り飛ばそうとしたところを、
「閣下。総隊で預かる前に、不具にされても困ります」
笑いを噛み殺した井上がこれを引き留めようとする。
千早は彼の表情を見て、「ああ、あいつは気に入られたな」と今までの付き合いから直感的に理解した。
航海参謀の大井といい、井上はこうした上司に反抗的な態度を見せる聞かん坊を無暗に好むところがあるのだ。
怒りの発散しどころを塞がれた今井は不快げに口元をへの字に曲げると、
「……それでは、後の処遇はお任せいたす。小官も暇ではない身の上ゆえ」
憎々しげに毒づいたきり、さっさと人事局へと戻ってしまった。
その後ろ姿を面白そうに眺めていた井上であったが、しばらくしてから鋭利な顔つきで出向組に値踏みするかのようなまなざしを向ける。
「護民総隊参謀本部の井上だ。貴官らには、おって総司令部から通達があると思うが、外地における重要港湾の警備任務に携わってもらうことになる」
言うなれば、外征能力を取り除いた関東軍のような立ち位置であった。
白ロシア、ユダヤ人たちが独立した自治権を確保する以上、今後我が国の安全保障上の負担は格段に軽減されることになる。
外地へ進出していた財閥たちにとっても、ある程度の安全保障が確保できた以上は、火の粉になりかねない存在を排除したい、ということなのだろう。
井上はまず、永見に目を向けて、
「勘州での戦いぶりは聞き及んでいる。その錬度を港湾の警備においても存分に発揮してもらいたい」
「承知」
さらに牟田口に目を向けて、
「勘州での戦闘詳報は俺も拝見した」
「……うむ」
井上の切り出しに、牟田口の表情がさらに暗くなる。
「貴官の判断は、参謀としては間違っておらんと俺は思う」
「……はっ?」
そして続けられた井上の言葉に、牟田口の目が点になった。
「参謀は人の命と物資を数学的に算段する役職だ。言うなれば、組織の歯車である。少なくとも、あの時点で貴官の機械的な判断に問題は見受けられなかった。まあ……、結果は単に運が悪かったのだろう」
護民総隊に出向した初日に、佐藤司令官を「老害」と嘲った井上の姿を知る立場からすると、有り得ぬほどに温情的な態度であった。
実際、鈍器で殴られたかのように牟田口は一歩後ずさり、一寸遅れて泣きそうな顔で俯いてしまう。
いい歳した中年の見せる顔ではなかったが、それだけに世間の風当たりのつらさが傍目にもよく理解できた。
「我が隊はとにかく後方の人間が足りん。激務になると思うが、よろしく頼むぞ」
「お、おう。任された!」
さらに井上は石原に目を向けて、
「ああ、井上参謀。小官にそういう"儀式"はよろしい」
何か言おうと口を開いたところで、頬を赤く腫らした石原に手で制された。
「人心掌握術の一環であろう。そんなもんをせずとも、仕事はちゃんとこなす。それに働きが足りずとも、もう小官の"望み"は叶っておるのだから、何時軍を辞めたっていいのだ」
「ほう」
井上の目がすっと細められた。
剃刀を思わせる、人の無能を許さないまなざしだ。
「おい、貴様!」
石原に言わせれば、早速人心を掌握された牟田口が井上への無礼をなじる。
そんな牟田口の態度に、石原はにやりと口の端を持ち上げて、
「"これ"と一緒にされると、まるで馬鹿にされたように感じてしまうのでな」
さらに火の粉を振り撒いていった。
「馬鹿と無能。天才と有能は同義か?」
井上はくつくつと笑い、石原に問う。
「そりゃあ、あんたの運用次第だ。馬鹿とハサミは使いようと昔から言うだろうが」
二人の人を食ったようなやり取りに、蚊帳の外にいた永見は頭を掻いて肩をすくめた。
千早も心情的には永見寄りだ。こうした捻くれ者の取り扱いは中地要だけで十分荷が勝ち過ぎている。
「して、貴官の叶えた望みとは一体何か」
続いて井上の放った問いに対し、石原は目を爛々と輝かせてこう返した。
「五族協和」
指を立てて、石原は高々と手を挙げて言う。
「先の事変によって、このアジア州には和人、韓人、満州人、蒙古人、ロシア人が協調して暮らす王道楽土が築かれつつある。このまま地域の緩やかな統合が進んでいけば、この地に単なる列強を超えた強大な国家連合が成立することは必然であろう」
さらに大きな球体でも抱え込むような所作を見せ、石原は続けた。
「これからは西欧連合、東欧連合、北米連合、そして大東亜連合が首班となって、この世界を分割して統治する世の中が到来する。そうして、最後の覇権争い、最終戦争が完了した暁には――、真に平和な、統一世界政府が誕生するのだ」
そうして石原はにっこりと笑い、
「な? この動きは既定路線に乗ったのだから、もう小官が軍人をやる意味はほぼなくなってしまった。満州事変も、白露自治政府も、悪だくみはもうこりごりだ。あとは本屋の主人でもやって余生を過ごしたいところなんだがな」
明るい口ぶりに言った。
この男は、果たして正常な思考を保っているのだろうか――。千早は石原の演説に表情を歪めてしまう。
"大東亜連合"と彼は言った。
その概念が、先だって大和から聞き及んでいた"大東亜連邦"と無関係であるとはどうしても思えなかったのだ。
「世界の分割支配が行われるとして」
千早の横やりに、石原がおやっと目を丸くする。
「強大な国家連合の持つ次世代技術のぶつかりあいは、単なる国家間戦争では済まないはずです。町を消し飛ばすほどの爆弾が飛び交う……、貴官は世界戦争によって王道楽土が築かれるどころか、この世界が破滅するとは思われないのか」
「うん?」
石原は腕組みをして片眉を持ち上げた。
「軍事史を鑑みるに、確かに先の欧州大戦が持久戦争であったのだから、未来の戦は高威力の兵器を用いた決戦戦争になることは間違いない。けれど、世界が滅ぶとはどういうことだ? 誰だって共倒れは馬鹿らしいと思うはずだろ」
この男は、最後の最後で人類の理性を、善性を信じているのであった。
だから、このように無責任なことが言える。千早は腹立たしげに石原を睨んだ。
「戦争による憎しみの連鎖は、時間や利権によって容易く解消されるものじゃない。憎くて憎くてたまらない相手を消し去るには、民族の虐殺だって選択肢に入り得るんだ。その方が後腐れがないのだから。貴官は、大国同士がそのような選択肢を取らないと、本気で言い切れるのか」
千早の脳裏に、"テクスト"に記載された悲劇の数々が浮かび上がってくる。
ヨーロッパにおけるユダヤ人の迫害、東欧におけるスラブ人とセルビア人のいがみ合い。アジアにおける諸地域の対立。そのどれもが、未来にまで禍根を残す事例ばかりなのだ。
少なくとも千早は、石原ほど楽観的に未来を展望することはできなかった。
「民族浄化、か」
石原は呆けた表情でしばらく深く考え込み、
「……確かに、言われてみればその可能性もあるやもしれない」
と素直に降参の意を示した。
「それで、これからどうすれば良い」
間髪入れずに放たれた問いかけに、意表を突かれた千早は言葉を失ってしまう。
「それで、とは」
「いや、貴官の慧眼。称賛に値する。確かに世界戦争になるとしても、最低限の"タガ"がなければこの世の破滅だ。それで"タガ"はどう作る。主戦主義者の暗殺か。決戦兵器の抑止力化か。それとも――」
「ちょっと、ちょっと!」
口から唾を飛ばす勢いで食いつく石原を押しのけながら、千早は悲鳴を上げた。
「それはこれからこの時代に生きる者全員で考えることでしょう。一人の知恵なんてたかが知れている!」
「成程、確かに!」
やはり驚くほど素直にこの男は引き下がる。
まるで意味が分からない……、千早はこの男の精神構造に戦慄を覚えた。
「とりあえずは現職に励むとしよう。悲劇を回避するためには、その最前線に身を置くべきだからな」
「はあ……」
まるで危機感のないその口ぶりに、千早は心底呆れてしまう。
こうして陸軍出向組との顔合わせは、いがみ合いこそなかったものの、千早にとっては散々な結果に終わってしまった。
この顔合わせの後、永見俊徳はすぐに護民総隊本部へと向かい、陸軍出向兵約600人の整備を始めることになる。
牟田口廉也は井上の部下として、陸軍出向兵の後方支援に携わることになった。
そして、石原莞爾は……、その能力を買われて護民総隊参謀次官に就任し、千早が望まずとも飽き飽きするほどに顔を突き合わせることになるのである。




