1935年4月初 北陸、国有鉄道の車中にて
駅員が線路の故障を伝えてから、一時間が経過した。行き掛けの駅に停車したまま、列車は未だにぴくりとも進まない。
二等車両の窓枠に腕をもたれかけていた大和は、空に浮かんだうろこ雲の数を数えては手持ち無沙汰を慰めている。
「……あ、傘持ってきてねえや」
春先のうろこ雲は雨が降る予兆だ。
現代と違って、戦前にコンビニエンスストアなどあろうはずもない。
金沢駅に辿り着いたあたりで傘を調達しなければならないだろう。
「大和君、どうしよう? 違う列車に乗り換える?」
隣ののどかが大和の顔を覗きこむようにして言った。
彼女の問いに大和はしばし考えて、
「あー、いや。待とう。何だっけ、現国でやったぞ。このシチュエーション」
余計なことをしてもろくなことにならないと、頭を振った。
「もしかして、『頭ならびに腹』です?」
向かいの美冬が細い顎に指を添えながら、こてんと首を傾けた。
「ん、高校の内容なのに良く知ってたな」
「はい、この前塾で習いました」
『頭ならびに腹』は昭和期に書かれた横光利一の短編小説で、列車の故障というアクシデントと対面した一般大衆が見せる反応を諧謔的に描いた作品である。
作中では肥大な紳士なる人物の後を追って、群衆はさっさと戻り列車へ乗り換えてしまう。
そうして皆が乗り換えたところで、線路の故障が復旧し、空虚な列車が動き出すといったオチがつくのだ。
大和は肥大な紳士のインパクトから、「デブのハーメルン」としてこの作品を記憶していた。
沈黙が訪れる。
のどかと美冬はどうやら、こちらの様子を窺っているようだ。気を使わせてしまったかなと内心舌を打つと、大和は努めてふざけた口ぶりで言った。
「こつちの方が人気があるわいって感じで誰かが紳士のセリフを言いだしてくれたら、フラグ立つんだけどな」
反応はしばらく返ってこない。再び静かな時間が訪れる。
「あの作品は、多分三等車両が舞台ですよね」
眉根を寄せた美冬の言葉によって、先日の出来事が思い起こされる。
共和商事を訪ねるべく広島を発った大和たちであったが、旅費を浮かすために三等車両に乗り込んでひどい目にあったのだ。
まず乗車した瞬間、車内の床に食べかすや紙くずが雑然とまき散らされていたことに驚かされた。
その後、窓に張られた『ごみは椅子の下に置きましょう』という掲示を二度見して、恐る恐る人でごった返した車内の片隅へと三人で逃げ込んだのだ。
車内に漂う臭いも現代人の鼻に耐えられるものではなく、さらには酒や煙草を平気で楽しむ者もいて、ぜんそく持ちののどかと健康状態に不安のある美冬が早々に音を上げた。
大和にとっても車内の空気は苦痛そのものであったが、やはり一番堪えたのは乗員たちの質である。
人情味が行き過ぎているとでも言うべきか、コミュニケーションが一々過剰なのだ。
中には酔いに任せてセクハラまがいの行為をする輩もいて、三人は乗車後たったの一駅で二等車両へと乗り換える羽目になった。
ただ、流石にセクハラについては大和たちの手落ちであったとも理解している。
大和は二人の格好を順繰りに見た。
のどかはベージュのコートにネル生地のシャツと膝丈スカートを合わせており、美冬は現代で購入した白のオーバーにリーフグリーンの長スカートを着こなしている。
高校生の財力で手が届く、この時代にあってもおかしくないコーディネートをしたつもりではあったのだが、それでも周囲から浮いてしまっていた。
そもそも現代ファッションの数々が、作りからして繊細すぎたためだ。
現代では手頃な値段の衣服でも、この時代においては最高級品に近い代物だということをすっかり失念していたのであった。
何十回も時間移動を経験して、過去の空気にある程度慣れたとはいっても、結局のところ自分たちの考えることは所詮子供の浅知恵なのだ。
そんなことを改めて思い知らされた出来事であった。
「肥大な紳士の、不可思議な魅力を持つた腹ってどんなお腹なんだろうね」
「どうなんでしょう……。カエルのお腹、みたいな?」
「イラスト的にはあれだろ、日本史のアレ」
のどかと美冬の会話に、大和も乗っかっていく。
大和の挙げた例に、「ん」とのどかが疑問符を浮かべ、すぐに合点したように手を打った。
「どうだ明るくなったろう、の人?」
「そう」
"日本史B"には大正期の成金を描いた挿絵が掲載されているのだが、これが中々インパクトのあるイラストで、聖徳太子と並んで悪戯描きの対象に選ばれる程、高校生に親しまれていた。
「そう言えば、時代的にも合っているね」
のどかがそう答えたきり、会話が止んでしまう。
気まずい沈黙が流れ、しばらくしてからのどかが再び口を開いた。
「教科書、返してもらわなきゃね」
「そうだな」
返してもらい、何とか歴史を"元通り"にする――。
それこそが、今の大和たちの願いであった。
2015年、広島市内にて
現代で美冬の結核を治療するにあたって、超えなければならないハードルは数多くあった。
まず、第一に治療費の問題。
美冬は戦前の人間であるから、健康保険に加入していない。そのため入院費用も10割を負担することになり、莫大な額に膨れ上がってしまうのだ。
一応は中地家から換金できそうな宝石や紙幣を持って来はしたが、果たして未成年が簡単に換金できるものなのかどうか疑わしい。
そして、一つ目の問題をクリアしても、第二に彼女が"現代の戸籍を持っていない"という問題が待っている。
健康保険に加入しているかいないかという以前に、そもそも美冬は未成年である。
受診者が未成年であるならば、保護者が治療費を負担するべきであり、良心的な医者であるほど金の出処や身元に関して疑問を抱く。
「何故、結核などという重大な病気にかかったまま、彼女は一人で治療を受けに来たのだろう」と、恐らくは育児放棄を疑われるはずだ。
小学校に入学すれば必ず受けるであろう、BCGワクチンの予防接種を受けていないという点も、ネグレクトの疑いを強める要因であった。
「あなたは何処に住んでいる何者なのか」と問われてしまえば、美冬は納得のいく説明をすることができない。
何とか大事にしないよう、穏便に治療を受けるためにはどうしたらいいものか――。
のどかの家で、そんなことを相談していたのだが、諸々の悩みは全てが杞憂に終わってしまうことになった。
美冬を見たのどかの祖父と母親がいきなり号泣し始めたためである。
何と中地美冬は、佐治のどかの曾祖母に当たる人物であったのだ。
そもそも佐治家は、結核を患っていた美冬の治療をとある流れの医者が受け持ったことから始まったらしい。
当時にしては異常なほどに先進的な治療を施した医者は、言葉巧みに美冬を口説き、中地家の財産を持ち出して美冬と共に駆け落ちをした。
その逃避行の中で美冬は医者とはぐれてしまうのだが、財産を持ち出した手前、本家へ戻ることもできずに焼け野原と化した広島市内にあばら屋を建てて戦後の動乱を生き抜いたのだそうだ。
佐治家が祖父の代から医者を家業としているのも、"妻を捨てたろくでなしを探しだして殴り倒すため"などという動機から始まったのだと聞かされた時には、大和たちも開いた口が塞がらなかった。
それはさておき、のどかの祖父と母は美冬に対していくつかの家族にだけ分かるような会話をし、夫が残したらしき当時のカルテも参照し、確かに彼女を美冬本人であると信じ込んだ。
結核治療の目処が立ったのである。
「戸籍獲得のため、蒸発した親戚の子どもとして、佐治家で養おう」とのどかの家族たちが真面目に言い出した時には大和も驚いたが、治療が済んだら直に過去へ帰ることを正直に告げると渋々ながらも納得してくれた。「ただ治療だけをして過ごさせるなんてむごいことはできない」として、学習塾や各種習い事への入会手続きなど諸々の手厚いサポートがつくことにはなってしまったが……。
そうして、治療が始まり半年ほどが経過した時のことだ。
佐治家の食事会に大和が呼ばれた際に、のどかの祖父――、源三が意外なことを口に漏らした。
「もしかしたら、"奴"は時間移動のできる人間だったのかも知れない」
"奴"とは過去において美冬の治療を受け持った医者のことである。
源三は、流れの医者が未来人であったのではないかという推論が以下の事実によって導き出せると語り始めた。
一つめ、美冬のカルテには明らかに現代医学の見地から来る記述があること。
二つめ、美冬との逃避行中、医者は中地家から持ち出した資金を元手にして、奇抜な発明をいくつも世に出したこと。
三つめ、発明を財閥や軍部に売り込んで財を為したものの、何故か数年の内に忽然と姿を消してしまったこと。
源三の語る仮説は、時間移動を経験した大和たちにとっては成程と思わせるものであった。
「……何で、美冬ちゃんを置いて消えちゃったのかな。その、お医者さんは」
親の手前、曾祖父を素直に曾祖父と呼ぶことができず、口ごもりながらのどかがそう言うと、源三はしばらく考え込んで、深刻な表情で大和たちを見た。
「元の時代に帰らなければならない理由があったと考えるのが論理的だろう。例えば……、時間の改変によって帰れなくなってしまうことを恐れた、とかな」
「帰れなくなってしまうって?」
のどかの問いに、源三は食事を進めながらぽつぽつと答えていく。
「今、お前たちの体験している時間軸において、美冬さんは"奴"の治療を受けておらん。当然、"奴"に口説かれて人生を棒に振ることもないだろう。だったら、佐治家はどうなるんだ。跡形もなく消え去ってしまうのか? だが、わしらは現に今存在している。SF的な考え方ではあるが、恐らくは世界線の分岐――、タイムパラドックスが起きてしまったのではないだろうか」
言って、源三はグラスに入った水をちびりと舐める。
のどかはといえば源三の推論に頷きながら、こまめにメモをとっていた。
「そう考えると、時間移動というもので移動できる"範囲"が問題になってくる。時間の改変が行われたとして、改変された後は果たして"改変前の未来"に戻ることができるのか。ひょっとしたら、時空の迷子になってしまうのではないだろうか。これははっきりと言っておくがな、わしはお前たちが今後時間移動することに反対するぞ。美冬さんだって、ちゃんと元の時代に戻れる保証なぞありはしないんだ。大事な家族にそんな博打をさせられるか」
源三からそう強く睨まれたのどかたちは、ばつが悪そうにして縮こまってしまった。
どうする? と横目で見られた大和も、源三に真っ向からは向かうわけにもいかず、沈黙に徹することになる。
とは言え、時間移動を止めるつもりもなかった。
大和は自分の祖父と戦死したとされる曾祖父を再会させたいのだ。
時折寂しそうな顔を見せる祖父を笑顔にするためにも、少なくともあと何回かは時間移動をこなす必要がある。
心の内で堅く誓った大和は2カ月後、のどかたちには連絡せずに単身時間移動に挑戦し、"それ"を目の当たりにした。
廃墟と化した中地家の別荘と、見渡す限りの焦土と化した広島市である。
崩れ落ちた別荘の壁には人型の焦げ跡がこびりついており、高台から見える町並みは軒並み消し飛んでしまっていた。
生き物のまるで存在しない、死の町だ。
大和は半狂乱になって、氷室へと引き返した。
結局、千早たちは戦争を回避することができなかったのだろうか――?
歴史を知っていても、この町に原子爆弾は落ちてしまう運命だったのか――?
大和は逃げ帰った氷室の中に置かれた木箱を蹴飛ばし、その場に倒れてしまった。
それと同時に、木箱に載せられていた紙束も周囲へ散乱する。
戦争開始から原子爆弾が落とされた日に至るまでを記しているであろう新聞の束であった。
大和は懐中電灯を照らして、泣きながら新聞を読みこんでいく。
大東亜連邦の分離独立。良く分からない単語であった。そんな国家を大和は知らない。
ロシア継承戦争、第二次欧州大戦、後清と国民党政府によるシナ内戦。どれもこれもが分からないことだらけだ。
分からないことだらけの中でただ一つだけ分かったことは、"何か世界的な大戦争が起きて、それが原子爆弾の飛び交う核戦争にまで発展した"ということであった。
あってはならないパラレルワールドだ。
これが――、自分たちがもたらした教科書による結果なのだと思い至った瞬間、大和は胃の中のものを辺りにぶちまけた。
憔悴する大和とは関係なしに、氷室の中に充満した虹色の発光体が形作る門は徐々に輝きを失っていく。
そのことに気がついた大和は、慌てて光が消える寸前に門の中へと身を躍らせる。
光の門をくぐり抜ける際、門の向こう側が果たして自分の知っている時代なのか……、無性に怖く感じた。
視界がぐにゃぐにゃと歪む。
幸運なことに、門を向こう側に映った景色は元の時代のものであった。
『この洞窟は、戦時中には防空壕として利用されました』という解説板を見た瞬間、大和はその場にへたり込んでしまう。
少なくとも、時空の迷子にはならなかった。そのことに、ただ、ただ安心する。
けれど、これでお仕舞いに。あんな未来を放置していいのか……?
大和の知る史実にだって、原子爆弾は撃ち込まれた。だが、それはたったの"三発"だったのだ。
自分たちの浅慮が破滅を導いたというのならば、何とか元に戻す必要があるのではないだろうか。
しかし、どうやって――?
大和は答えに行き詰った時、祖父に相談する習慣があった。
自宅に帰った大和から、あまりに荒唐無稽な話を聞かされた祖父――、宮本龍太郎は当初胡散臭げな様子で大和の話を聞いていたが、スマートホンで撮影された当時の景色を見せられ、顔色を変える。
「話は分かった」
しばし考え込んだ龍太郎は青い目を細め、答えた。
「……未来で見たことを世話になった人らに話すしかないじゃろ」
その言葉に大和はたじろぐ。
「でも未来知識が歴史をぐちゃぐちゃにしたんなら、そういう情報を渡すのも良くないんじゃ……」
「んなもん、今更ちゅう話でな。お前が未来を変えちまった以上は、その人らに結末を知らせて謝る必要がある。ただ、伝えるんはそれだけで十分じゃ。お前が後のことに責任を負う必要はない」
要するにこれ以上、歴史をひっかきまわすなということらしい。
大和は力なく俯き、龍太郎の言わんとすることを胸に深く刻みつけた。
「心苦しいかも知れんが……、美冬おばさんを元の時代に返して、結末を伝えて、それで時間移動は仕舞いにしろ。後のことはあちらの人間に任せた方がええ」
「……分かった。爺ちゃん、ごめんな。ほんとは曾爺ちゃんと会わせてやりたかったんだけど」
大和が俯きながら、ちらりと龍太郎に目をやると、
「別にええって」
龍太郎は、大和のスマートホンで撮影された過去の風景、とりわけ車内で握り飯を食らう千早たちの姿を見ては、嬉しそうに口元を緩めていた。




