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1932年3月 比婆山にて(1)

 中地家の所有する別荘は比婆山ひばやまの麓にあった。

 比婆は元の字を「火場」としており、古来にはたたら製鉄に携わった職人たちがこの近辺で生活していたようだ。

 日本神話においてはイザナミの眠る聖地ともされている関係上、不思議な巨石や遺構を多く見つけることができる。

 広島の中学校を卒業するまで、千早と要は時間を見つけてこの地で天体観測に興じる毎日を過ごしていた。


「空気の綺麗なところだからな。妹が手伝いと一緒に住んでいるんだ」

 若干息を切らせながら、要は坂道を登っていく。

「美冬ちゃんか。本当に久しぶりだな。身体があまり強くなかったのは記憶しているが、調子はどうなんだ」

 歩く速さを要に合わせながら、千早の記憶に年端もいかないおかっぱ頭をした少女の姿が思い浮かんだ。

 もう7年は会っていないから、今は14歳になっているはずだ。

 要は、ぴくりと身体を震わせてその問いに答えようとしなかった。


 坂道を登り始めて30分後、華美な装飾のない物静かな洋館が見えてきた。

 要は玄関の呼び鈴を鳴らして、誰何する。

「はあい」

 戸を開けたのは妙齢の女性であった。

「お、おぼっちゃま」

 目を見開く女性の態度から察するに、今回の来訪は抜き打ちであったようだ。

「今夜は旧友とこちらに泊ることとする。良いね、せつ子さん」

「は、はい。それではお嬢様にお知らせいたします」

「気遣いは不要だよ。妹を驚かせたいんだ」

「い、いえ。そうではなく……」

 あくまでも渋る手伝いの女性に、要の機嫌が急速に悪化していった。


「妹と気兼ねなく会うのがそんなに憚られることなのか。これは僕の自由意思であって、君は一体どんな権利をもってそれを阻もうとするんだ」

 すっかり恐縮してしまった女性を押し除けるようにして、要はずかずかと屋敷へ入っていく。

「千早。君も来いよ!」

 妙なやり取りに出くわしたものだが、ここまで来ておいて踵を返す気もない。

 千早は女性に無礼にならぬ程度の会釈をして、「御免下さい」と家へ上がった。


 懐かしい、ベランダに面したリビングだ。

 昔はここで舶来物の望遠鏡をのぞきながら、天体観測を楽しんだものであった。

 今はというと、絹のカーテンと白地に花柄のワンピースが窓から吹き入る風に揺れている。

 当たり前のことであるのだが、久々に会った要の妹は、幼い頃に出会った少女をそのまま成長させた姿をしていた。

 ……いや、少々肌が青白く、そして痩せているか。

「ただいま、美冬」

 要の妹――美冬は突然の目を白黒させた後、「きゃあっ」と可愛らしい声をあげて自室へと逃げていった。


「何故逃げるんだ。折角兄は、いたずら小僧を手土産に帰ってきたというのに」

「誰が小僧だ」

 いたずらは確かに子どもだった時分の娯楽であった。否定はしない。


「お、お離れになって下さいまし」

 震える声が奥の部屋から伝わってくる。

「そうはいかない。今日はここに泊ることにしているからね。美冬もおいでなさい。いくら千早と言っても、挨拶をしないのは失礼にあたるよ」

「労咳が……お兄様方に伝染ってしまいますっ。せつ子さんっ、お兄様方を別室に案内して差し上げてっ」

 リビングの空気が凍りついた。

 手伝いの女性は兄と妹の板挟みにあい、ただただ身を縮こませている。

 要は能面のような表情をしていた。


「……美冬。君の労咳が再発したのは母からの手紙で知っていたよ。でもね、人間には免疫能力というものがあるんだ。幼い頃、一緒に遊んだ僕と千早に伝染るわけがないだろう。ほら、一緒に食事をして天体観測をしないか? 今も君は望遠鏡を楽しんでいると聞いているよ。病は気から。君だって、気を持ち直せば一度克服した病だ。きっと良くなるはずだから」

 言って援護を求めるように要は千早に目配せする。

 彼の態度を見て、千早は彼の企てをおぼろげながら察することができた。

 なるほど、要は病に苛まれる妹を見舞うために故郷へと戻ってきたのだ。

 労咳――つまり、結核はひとたびかかってしまえば天に慈悲を乞うより他にない不治の病である。元より、彼女は身体が弱く難病の気を疑われていた。

 この機を逃せばいつ再会できるか分からない。いや、今生において会うことが叶わぬ可能性すらも――。

 偶然の出会いから、千早は自分が兄妹の家族愛に巻き込まれたことを悟る。

 酷いエゴイズムだ。

 縁もゆかりもない他人のやった仕打ちならば、怒り狂ったとしてもおかしくない所業であった。

 しかし、千早は彼の言葉に追従する。


「軍人だからな。多少の病魔なんぞ伝染る鍛え方はしていない」

 嘘である。

 軍人だろうと労咳にはかかる。

 だからこそ、軍人になる前には結核菌の保菌者であるかどうかを入念に検査され、もし陽性であったならば軍人の道を諦めなければならない。

 だが、よくよく考えてみれば今の千早は予備役であった。

 一言や二言の嘘とリスクで、幼馴染である兄妹の心が救われるのならばそれも悪くない。

 嘘も方便。

 苦手な所業ではあったが、千早はこの日を役者で通すことにした。


「お兄様……。宮本様……」

 しばしして、目元を赤く腫らした美冬がリビングへと入ってきた。

 千早は改めて美冬より挨拶をされ、共に食事と天体観測を楽しむことになる。


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