1935年3月末 北海道、札幌市内にて
うーん。今回の話は、普段の読者さんと層が違う気もします……。
でもまあ、こういった話がメインになることは多分ないんで許して下さい。
こう言った閑話は半分以上、自分が読みたいというのが一番の理由なのです。
国内において、共和商事による包括的な産業改造計画の恩恵を最も受けた地域は、実のところ北方の開拓地、北海道であった。
躍進の契機は昭和の初年にまで遡る。
当時、数年間にわたって続いた全国的な冷夏が、この国の第一次産業に深刻な被害を与えていったことは今も記憶に新しい。
この冷夏による農作物の不作は、つい昨年まで続くほどに深刻なもので、本来ならば大規模な飢饉に発生してもおかしくはないものであった。
だが、今現在に目を向けてみると、不景気に苦しむ国民はいても、食糧難に喘ぐ国民はほぼ存在しない。
日本海側諸地域で使用され始めた水稲農林1号が、冷夏による凶作を救ったためだ。
この偉業を成し遂げた品種改良米に、時の北海道庁長官が目をつけた。
元内務官僚、佐上信一――。
彼は困窮していた開拓民を救うために、1931年より北海道の産業形態を甜菜と酪農を主とした寒冷地に強いものへと作り変えるべく、5カ年計画を進めていたのだが、その途上で内地の鮮烈なモデル・ケース――、つまりは共和商事の改革が成功に終わったことを知る。
品種改良米の威力を目の当たりにした彼は考えた。この優良種苗を我々の地元でも植えられないものか、と。
それから先の動きは迅速そのものであった。
すぐに道内の議会をまとめあげた彼は、1934年の1月に単身で共和商事本部へと乗り込み、北海道でも同様の農政改革ができないものかと協力を呼び掛けたのだ。
「どうか、北海道の苦境を貴方がたの手腕で救ってはもらえないか」
テーブルに頭を擦りつけての懇願であったそうだ。
共和商事の中地要はなりふり構わず道民の困窮を救わんとする姿勢にいたく感激し、全面的な支援を確約。良好な関係を築きあげつつ、今に至る。
こうして佐上は他の府県――、それも共和商事の地元に先んじて官僚主導の農政改革に取り掛かることができたわけだが、この改革を可能にできた背景には、北海道を取り巻く特殊な環境があった。
この地では既に、内地でも実現していない難題に対する超党派の連携が確立しており、党利党略を越えた長期政策の策定と迅速な政策の転換が可能になっていたのだ。
内地が派閥間で骨肉の争いに終始している中、僻地で大同団結した盤石の行政が実現しているという事実には千早も驚きを禁じ得なかったが、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。
現在、我が国は工業化によって急速に膨れ上がった人口を養うための食料増産に努めている。
その一大拠点こそが北海道であり、政府もかの地の食糧増産に大きな期待を寄せていた。
だが、冷涼な気候に大自然という過酷な環境と、政府による過大な要求に晒され続けるこの土地は、その期待とは裏腹に常に薄氷の上を歩むような危険と背中合わせの舵取りを強いられている。
一手誤れば人が死に、増産計画にかげりが生じる状況下において、政府の期待を裏切らないためにはいかに行政を進めていけば良いのか……。
そうして頭を捻らせた結果として、地元の官僚や政治家たちが導き出した答えが"単にいがみ合いを止めること"だったのである。
要するに、人は過酷な環境下でこそその資質を存分に発揮するものなのだろう。
今目の前に、彼らの努力の結晶が置かれていた。
「良い、香りだな」
隣に座るイタリア人技師のマリオがしきりに鼻をひくつかせている。
唐草模様のテーブルクロス上には、香辛料の香り漂うシチュー状の料理が盛りつけられた白磁の器が人数分おかれていた。
南アジア発祥の英国料理、ビーフ・カリーである。
元は明治期に招かれたお雇い外国人のクラーク博士が、この地に建てた農学校で広めたメニューであり、今ではビーフシチューや、ハヤシライスと並んで洋食の定番と言える料理と言えよう。
「ささ、どうぞご賞味ください」
と恰幅のある身体を揺すりながら、現北海道庁長官の佐上がしきりに勧めてくる。
現在、共和商事の技師たちは改革の成果を発表するために開かれた立食の謝恩会に参加するべく、北海道庁舎に招かれていた。
千早が同席しているのは、月寒の陸軍基地に用があった帰りがけに誘われたためだ。
あまり居心地のよろしくない中で周りを見回してみると、ネオバロック様式の赤レンガに囲まれた室内には、道内で作られた農作物が多種多様に集められていた。
ビーフ・カリーもそういった成果物の一つである。
「それじゃ、早速」
佐上に招かれた共和商事の技師たちの中で、真っ先にスプーンを口に運んだのは、予想通りと言うべきか、イタリア人兄妹であった。
彼らは今回指折りの功労者であると言っても差し支えない。
何故なら、彼らは昨年から今年にかけて、仕事の合間を見ては道民に手押し耕耘機や牽引車の整備方法を長らく教授し続けてきたのだそうだ。
未だ機械化の徹底していない我が国において、欧州の最新式エンジンに精通している彼らの知識は、貴重極まりないものであったに違いあるまい。
道庁の学務部や土木部官僚に声をかけられる回数が群を抜いて多いのも、彼らの功績を表していた。
「んむ、中々いけるわね。これ」
言って、パンを小さくちぎってカリーにひたすアニー。
マリオは北海道産の米にカリーをかけた、ライス・カリー式で舌鼓を打っていた。
すさまじい勢いでライスをかきこむマリオを見て、アニーが呆れた顔で言う。
「……兄さん。よくそんなに食べられるわね」
「がっつりとしたものが、食いたかったんだ」
と言いつつも、マリオの手が急に止まる。
器の端に盛りつけられた、福神漬けを奇妙に思ったようであった。
しばらく福神漬けを睨みつけ、まずは一切れを口に放り込む。
「うん? ……うん」
続いて、カリーやライスと合わせて放り込む。
すぐに自分なりの食べ方を編み出したらしく、再びスプーンを持つ手が動き始めた。
「お魚も、オソバも、秋田の料理だっておいしかったじゃない」
「それとこれとは違うんだ。何て言うか、重さが」
そうだろう、とマリオは千早に同意を求めてきた。
今、北海道庁長官直々の接待を受けている円卓の周りには、ロッテとアニー、マリオにユーリ、そして千早が集まっている。
もしやすると、集まっている中で一番感性が合いそうなのが千早であるように思ったのかもしれない。
千早はゆっくりと咀嚼していたカレーをぐっと飲み込んで、マリオに答えた。
「それは、そうかもしれません。特に疲れている時には」
海の上ではあまりがっつりと物を食べる機会に恵まれないため、千早もたまの陸に上がれば質より量を楽しむ傾向にあった。
ただ、今の千早は陸上勤務を主としているためにそこまで量を必要としない。
その上、どちらかと言えばビーフシチュー。欲をかくなら肉じゃがの方が好みであった。
料理の中にあるほのかな甘みをじっくりと賞味する方が好きなのだ。
だから、厳密に言えばマリオの言い分に首を傾げる部分も多いのだが、目の前のカリーは持論を覆しかねないほどには、絶品であるように思えた。
「これ、美味しいですよ」
チハヤの素直な賞賛に、ユーリも全面的な賛意を表明する。
彼は道内における航空機の活用法についてアドバイスをする立場にあったようだ。
結果として、水上機による本土との高速便が考案され、民間旅客機の開発が進められていると聞いている。
「チハヤさんもそう思いますか? ぼくも初めて食べますけど美味しいと思うですよ」
ユーリはライスとパンを半々に選んで食べていた。
少し食べにくそうにライスを食していたものの、頬は美味に緩んでいる。
「ポーランドにライス・カリーはないんですか?」
千早の質問に、少し考え込んでユーリは答える。
「ポーランドでは、カリーと言えばソーセージのソースなんですよ。シチュー状にしては食べません」
「へえ」
舶来料理にもお国柄というものが出るのだな、と千早は目を丸くした。
「食文化、という概念がございますけれども」
ひとしきり口を付けてみたロッテが、口元をハンカチで拭いた後に言う。
「たとえ他国と同じ肉や作物を用意しても、その土地の自然に育まれた作物には、その国独特の味が生まれるように思えますわ。私、イングランドでもカリーを食しましたから分かります。長官殿、この料理に用いられた材料はすべてこの地で作られたものですの?」
ロッテの問いかけに、佐上は恥ずかしげに表情を綻ばせた。
「牛肉も、芋も道内産であることは確かであります。……しかしながら、香辛料まではどうしようもございませんでした」
「ということは、香辛料は南アジアから輸入した物なのですわね」
佐上は頷き、頬を掻いた。
「お恥ずかしながら。いずれは…………、すべてが道内産の、純粋な料理を世界に向けて発信することができればと思っておるんですが。お口に合いませなんだか」
ロッテは佐上の言葉に成る程と頷き、花の咲いたような笑顔を見せた。
「いいえ、とても素晴らしく思いましたわ。全てが同じ土地の材料で作られた料理も趣深いのでしょうけれども、ほんの少しの……、異国情緒が混ざっているというのも素敵なことだと思います。"純度"というものは高ければ良いというものではないでしょう。勿論、長官殿の夢が叶うようお祈り申し上げますけれども」
「それは、何よりの御言葉です」
"純度"という言葉に千早は二つの引っかかりを覚えた。
一つ目は、ロッテ自身のことである。彼女はゲルマン人とスラブ人の混血らしく、たまに"純粋なものを希求するという態度"に対して激しい反応を見せることがあった。
今回は取り繕っているようだが、内心がどうであるかは分からない。
共和商事のためにも、彼女自身のためにもその心の在りかについて気にしておいた方が良さそうだ。
二つ目は、遅々として進まない"テクスト"研究の進捗についてである。
大和とのどかよりもたらされた"テクスト"は多様な科目にわたっていたが、その中でも特に中地要の興味を引いたのは物理学の"テクスト"であった。
特に"半導体"なる物体に関して、並々ならぬ労力を注いでいるのだが、これが少しも上手くいかない。
半導体とは、導体と不導体の合間の性質を持つ、"電流をわずかに流す物体のこと"である。
この物体は、"純度"によって性質が変わるため、不純物の割合を操作して、2種類の半導体を組み合わせれば、電流を整えてやることができるらしい。
今実用化されているものは真空管のみで、要はトランジスタとエルエスアイなるものを実現できないものかと狙っている。
何でも、未来に普及している計算機械のひな形を作りたいのだそうだ。
しかし、この研究開発にはいくつもの高いハードルが存在した。
まずは原材料の問題だ。半導体物質はシリコンの結晶やゲルマニウムの結晶がそれに当たるのだが、どちらも本土で入手できない希少物質であった。
例えばシリコンは炭素に次いで地球上に多く存在するそうなのだが、純度の高いシリコン原石はブラジルかノルウェーにしかない上、どちらも商業的な採掘施設を持っていない。
ゲルマニウムに関しても同様だ。
この物質は、現在知り得る限りではドイツの特殊な銀鉱石にのみ含有が確認されており、入手に大きな労力と費用を必要とした。
そして、何とか入手できたとしても、次のハードルとして「どうやって"純度"を高めれば良いのか」という問題にぶち当たる。
純度を上げるには、恐らく鋳溶かす必要があるのだろうが、不純物の混ざらない鋳溶かし方が良く分からないのだ。
現在、半導体研究で最先端を行っているであろうアメリカのベル研究所が発行する論文に目を通してみても、満足のいく答えを得ることができずにいる。
更に万が一、仮に純度を高めることができたとしても、今度は「2種類の半導体をいかに組み合わせれば良いのか」という問題が待っている。
全くもって、きりがないのだ。
要は、半導体研究にかかる費用と年数をを「10年間、大型船を数隻は楽に建造できるくらいかかるかもしれない」と試算し、絶望していた。
始めは千早も「半導体研究が進めば通信の便が良くなる」と聞いて、是非ともやってくれという思いであったが、今では大分その志も薄れてしまっている。
今の自分たちには、金も基礎技術も何もかもが足りなすぎた。
「……70年後の日本とは本当に我が国が辿る未来なのだろうか」
と最近は少し不安になることがある。
"テクスト"に記された未来の姿が、あまりにも今と隔絶しているのが問題なのだ。
恐らく、先だって今上陛下が発した"玉音放送"も、そうした焦りがもたらしたものなのであろう。
――自分たちは果たして前へ進めているのだろうか。
深く思考の海に沈みこんでいた千早の顔を、アニーがスプーンをくわえながら胡散臭げに見上げていた。
「もう食べないの?」
千早は苦笑いを浮かべて、「まだ七分目だからもう少し頂こうと思っている」と答えた。
◇
「失礼。アレキサンドリーネ様はいらっしゃるか」
と小樽市内の高級ホテルに宿泊していた千早たちを訪ねてきたのは、以前北洋にて干戈を交えた艦隊指揮官、通称"マカロフ"であった。
トレンチコートの襟を立て、ハットを目深にかぶって面相の分からないようにしてはいるものの、彼はスラブ人らしい長躯を誇っており、一見して外国人であることが目立ってしまう。
「マカロフ殿……」
彼の姿を認めた千早は息を呑む。
彼は、名目上は日本政府に匿われている立場なのだ。
焦って彼の入室を急がせようとするも、マカロフはあくまでもドアの前から動こうとしなかった。
まるで宮城の衛兵を思わせる頑なさである。
「……ソビエトに感づかれているとはいえ、貴方は匿われているお立場なのですよ」
周囲の気配を窺いながら、焦れた千早は声を潜めて言った。
「問題ない。もうじきに隠れていた意味も失せてしまうことであろうから」
マカロフが無表情でこともなげに返してくる。
「意味、ですか……?」
「そうだ。貴国の陸軍とも既に折り合いはつけてある。部下たちも小樽港に停泊中の客船に待機中だ」
部下とは彼と共に匿われている149人の水兵たちのことであろう。
千早は、彼らが何らかの行動を起こす予定があるなどと今まで欠片も耳にしたことがなかった。
――もしや、陸軍の独断でまた何がしかの騒動を起こすつもりなのか?
といささか警戒の色をにじませつつ、千早はロッテたちに無用の危害が加わらぬよう、客室のドアを閉めてその前に立ちふさがった。
マカロフは千早よりも上背があるため、自然と相手を見上げて睨みあう形となる。
「何用でありましょうか。物騒なお話でしたら、シャルロッテ嬢に会わせる訳にも参りません。彼女は日本にとっても重要な客人ですから」
毅然と千早が言い放つと、マカロフは困惑した表情を浮かべた。
「連絡が伝わっていないのか」
「残念ながら」
再び膠着状態が訪れる。
マカロフの無表情は崩れ去り、今度は周囲を警戒し始めた。
そして口を開かんとしたその矢先に、
「あら、貴方は……」
ドアを開けてこちらを覗き見るロッテの両眼が驚きに見開かれる。
「お久しゅうございます。アレキサンドリーネ様」
ハットを取り、プロイセン式の室内礼を見事に取って見せるマカロフの所作に、千早は首を傾げざるを得なかった。
「マカロフ殿はソビエトの民兵出身ではないのですか」
「……今はマカロフと呼ばれているの? この方はロシア帝国の"元"海軍士官よ」
「"元"ではございません」
間髪の入れぬ返答に、ロッテはくすりと微笑を洩らした。
「ミスター・チハヤ。この方をお通ししてください。……肌寒いけれども、お会いするのはテラスで良いかしら。私に、何か頼みごとがあるのでしょう?」
「……恐縮です」
言って、三人は防寒具をとって客室のテラスへ共に向かう。
他の技師たちは別室にて休息をとっていた。
千早がロッテと同室していたのは、護衛も兼ねてのことである。
観音開きの出入り戸から外へ出ると、暗闇の中に白雪が舞っていた。
もう3月の末だというのに、突き刺すような寒さを感じる。
ロッテは白い息を吐きながら、備え付けのチェアに座りもせず、マカロフの方へと向き直った。
「……東欧が本格的に動きを見せたの?」
彼女の声は小樽の風に溶け込んでしまいかねない程に小さなものであった。
別段、動揺している様子は見受けられない。
密談に日頃から慣れているのかもしれない。
マカロフは頷き、直立したまま答えた。
「その通りです。東欧ウクライナの独立蜂起が世界情勢を決定付けました。東欧はオーストリア・ハンガリー・ポーランドを中心に反ソ包囲網を目的とした経済協定を結ぼうとする動きがあります。表向きはベルサイユ体制を尊重する姿勢をとっておりますが、有事の際には軍事同盟へと切り替わることは明白かと」
「英仏の動きは?」
「対日制裁を前提としたソビエト支援を表明した直後であったため、面目を潰されたことに難色を示しています。しかしながら、両国とも国内に多くの白ロシア・ユダヤ人を抱えておりますし、何よりソビエトへの経済支援はウクライナ大穀倉地帯の"うまみ"を念頭に置いたものでした。ここで話を拗らせることは得策でなく、恐らくは国連の監督下のもと、虐殺の真相究明をしつつ着地点を探っていくことになるでしょう」
ロッテは口元に指を当て、しばしためらった後に更に問いかけた。
「それで……、旧ロシアの皇族はどう動くの?」
「東欧は非決定主義者の巣窟でありますから、ロシア大公閣下のご親族が正統王朝主義者とともに、極東へと行幸なさいます運びとなっております」
「皇族が、アジアに……っ?」
千早は思わず声を上げてしまってから、慌てて辺りを見回した。
幸いなことに気配の類は感じ取れない。
「その動き、日本帝国は承知のことなのね?」
「無論であります。そも、国連の決議と先だっての日本皇帝の宣言によって、この国は沿海・シベリア両地域へ手を伸ばす大義名分を失いました。ゆえに白ロシア解放軍が現地に自治政府を打ち立てることに反対はしないとの言質をとってあります。この国の財閥の手も借りる必要があったため、"純粋"なスラブ人の国家は作れませんが――」
「――そんなことは良いから」
マカロフの言葉を遮るように、ロッテが強く言い放った。
「結局、いくら入用なのかしら」
「……1000万ルーブルを金貨でご融資頂きたいのです。それで対外工作も含めてぎりぎり事足りると思われます」
ロッテは重いため息をつくと、「分かった」と一言返して黙り込んでしまった。
千早には彼女を取り巻く状況が良く理解できない。
話の流れから、彼女がロシア帝国にゆかりのある人間であるということだけはおぼろげながら見えてきた。だが、それだけだ。
人には人の事情があると、今まで不干渉を貫いてきた結果と言っても良いかもしれない。
マカロフが部屋を出て言った後、彼女にどんな言葉をかけたものか千早は迷った。
結局、雪の夜の沈黙を破ったのはロッテであった。
「私、こうみえてロシア皇室に縁がありますの」
冗談として笑い飛ばそうとするかのような口ぶりであったが、その目は真剣そのものだ。
「と申し上げても、いわゆる不義の娘ですし、正式に公女と認められてもおりません。物ごころついた時には、エリザヴェータ叔母様の修道院でお世話になっておりましたから、父の顔も母の顔を存じ上げておりませんの」
聞いただけで目の飛び出るような大スキャンダルであった。
仰天すると同時に、彼女も自分の"仲間"であったのかという思いを抱く。
千早も物ごころついた時より、父と母のいない生活を営んでいた。
ロッテは空を見上げながら、更に独白にも似た語りを続ける。
「……帝国で革命が起きた直後、私は皇室の秘匿財産と共にオーストリアへ送り出されました。いざ皇室を再び立て直そうという時に先立つものは必要になるでしょう? 私は皇室財産を守る一人としての御役目を与えられたのです。何故、私だったのでしょう。色々と考えても見ましたが、恐らくは公になっていない血縁のモノを利用したかったのだと思いますわ」
一昨年に出会って以来、ようやく彼女の姿をはっきりと視界に収めることができたかのような心地を抱く。
性格のあまり宜しくない、我がままで皮肉を好むところも、思い付きで冒険を犯す向こう見ずなところも、全てが故郷を離れて寄る辺のない生活を続けてきたがために形成されたものだったのだろう。
大旅行家、イザベラ・バードの伝記を愛読書としていることも、結局のところは大切な故郷を失ってしまっていることが原因なのかもしれない。
千早は彼女に問いかけた。
「皇室を恨んでいらっしゃるのですか?」
「んん、どうでしょう。私に優しくしてくださった叔母様のことは好きですし。それに、こうして反攻の時まで皇室の財産を守ってきたのですから、それなりに愛着を持っているのかもしれませんわ」
千早は更に問いかける。
「それでは、故郷に帰りたいのですか?」
ロッテはかすかに笑って答えを返した。
「……それもどうでしょう。私、ロマノフの姓を認められてもおりませんもの。ふとした時に修道院の生活が懐かしくなることもございますけれども、それだけですわね」
千早は更に問う。
「ロシア皇室の再興が成ったとして。貴女はそれからどうなさるのですか」
この問いかけに、ロッテは柳眉を困惑に歪めた。
「それは、どうもしませんわ。叔母様ももういらっしゃいませんし……」
金の切れ目が縁の切れ目というものの、彼女にとっての祖国との縁は皇室財産を返した瞬間に、ぷつりと切れてしまったようであった。
……これではあまりに報われない。
千早は歯噛みして、彼女に言った。
「……自分にも、物ごころついた時より両親がいませんでした」
「そうなのですか?」
ロッテが目を丸くして聞き返してくる。
「ですが、自分には孫のように慈しんでくださる方と、まるで家族のように接してくれる幼馴染がいました。軍にも兄貴分はいましたし、戦友たちのことは家族同様に大切だと思っています。彼らは自分にとっては、見本でもあり、反面教師でもあり、ありがたい存在でもあり――」
「……反面教師って、共和商事の若社長のことかしら」
ロッテの頬が緩んだ。
千早は頭を掻き、続ける。
「とにかく、彼らに助けられたおかげで今の自分があると思っています。それで、自分が言いたいのは……、自分の"居場所"というものは生まれた場所にたった一つだけ、というわけではないということなんです」
「……もしかして、私は慰められているのでしょうか」
後ろ手に組んで皮肉げな物言いをするロッテに対し、そうじゃないと千早は言い張る。
「単なる事実を言っているんです。ドイチュランツベルク・アウグスト商会だって、今やその一つじゃないですか。ロッテ嬢は、これからの人生において貴女の"居場所"をどんどん広げていくのだと思います」
「ミスターの仰ることが良く分からないわ」
ロッテに指摘されるまでも無く、千早も自分で自分の言っていることが良く分からなくなってしまっていた。
ただ、嫌だったのだ。
自分と似た境遇を辿っていた女性が、まるで抜け殻のような素顔を垣間見せたことが――。
「平穏に暮らせる場所がないのなら、自分たちが用意します。それだけの恩は受けているつもりです。修道院にいたことがあるのならば、そう言った施設を作るというのはどうでしょうか。この国にも寄る辺のない立場の子どもはおりますし、自分も常々何とかしてやりたいとは思っておりますから――」
ぷっ、とロッテが急に吹き出した。
困惑する千早をしり目に、ロッテは涙すら浮かべて腹を抱えて笑い始める。
「分かりました。ミスターの"お気持ち"は十分に伝わりましたよ」
言って、ずいっとこちらの目と鼻の先まで近寄って来る。
出入り戸から漏れる部屋の明かりに照らされて、猫を思わせる瞳と焦げ茶髪がふわりと明るく反射して見えた。
そして、唇に柔らかい感触を得る。
「……ただ、殿方としては落第点ですわね。こう言った時には、『私が居場所になってやる』と豪語するものだと劇で良く観ましたもの」
踵を返して、部屋へ戻ろうとする彼女がいたずら小僧の目つきで振り返って笑った。
「支援も別段必要ありませんわ。私、こう見えて十分以上に稼いでおりますもの。むしろ、ミスターが今いる場所を追い出されたのなら、私が"支援"して差し上げますわよ」
言って、彼女は部屋へと戻っていく。
「……修道院、悪くはありませんわね。いえ、学校というのはどうかしら。どうせなら国際的な学校を作ってみたいわ。大陸……、よりは日本の方が良いでしょうね。戦場が近いというのはぞっとしませんもの」
そんなことを呟き続ける彼女の背中を見送りながら、千早は自らの頬を抓った。
千早たちが小樽を発って秋田へと戻った数日後に、沿海州と東シベリアに白ロシア人を中心とする自治政府が誕生することになる。
バイカル・コサックの首魁、グリゴリー・セミョーノフと旧ロシア皇室によって立ちあげられたこの解放勢力は、自らを"ロシア帝国の後継者"であると宣言し、ソビエトに対する対決姿勢を明確にした。
飢饉と対日紛争、そしてウクライナの独立に追われたソビエト政府は、この動きに対して後手に回らざるを得なくなり、結果としてシベリア側も国連の監督下による裁決を待たざるを得ない状況にまで追い込まれてしまう。
この一連の騒動に、日本は米英仏のけん制によって手を出すことができなかった。
結果として、東シベリアという我が国の重要な隣接地域に、独立した外交権を持つ国家が誕生することになるのである。




