1934年大晦日 秋田県、共和商事保有のホテルにて
日本酒とワインの香りが漂う中、今回の立食パーティーの司会者――、中地要が赤絨毯の敷かれた壇上で口を開いた。
「……一昨年の5月に起業して以来、我々共和商事は二度目の年越しを迎えようとしております。皆々様の奮闘があればこそ、共和商事は今まで立ち止まることなく、その業績を伸ばし続けることができたのです」
元は嫌味を言うだけが取り柄の親友であったが、何時の間にやらいっぱしの人心掌握術を身につけていたらしい。
平生の人を小馬鹿にする態度はすっかり形を潜めており、徳に満ちた君主の仮面が要の顔に張り付いていた。
「フウン、お人形のような表情ですわね。まだ慣れていらっしゃらないのかしら」
ひしめく人波の外側で感嘆の息をつく千早とは打って変わって辛辣の言葉を投げかけるのは、ドイチュランツベルク・アウグスト商会の会長であるシャルロッテであった。
彼女は、国家改造活動を支える欧州産の工作機械や技術者の供与に多大なる功績があるとして、護民総隊の隊員とともにこの場へ招待されていたのだ。
本来ならば、彼女も壇上に立つべきなのであろうが、「表舞台に立つのはお断りいたしますわ」との頑なな謝絶によって、外様の席に甘んじていた。
結果として、人の輪の内側を占めているのは共和商事の社員が多数で、残りが新聞記者。
高橋や円谷などはその一部に属しており、今もカメラのフラッシュを焚き続けている。
表舞台に立ちたくないとの言葉通り、彼女は落ち着いたベージュのコート・ドレスを身に纏っており、上手く周囲に溶け込んでいた。
外国人技術者の参加者が多いことも、目立たぬ理由の一因として考えられるかもしれない。
「あいつは本来的には天文学者ですから、揉み手を生業とするのは向いていないのだと思います」
「あら、学者様だったの。天文の、へえ」
千早の擁護に、ロッテは合点のいったように息を漏らし、その直後に首を傾げる。
「それにしては如才のない、随分と先の見えた投機をなさるのね。ブレーンが優秀のなのかしら? ……それとも、この国の教育はゼネラリストを作ることに長けているのかしら」
その口振りを聞く限りは、彼女の中で要の評価はかなり高いようだ。
「先が見えている、ですか」
「ええ。魚肉缶詰の件は少々浅はかだと思いましたけれど、その他の部分では欧州人にも負けぬほどに先の見えた考え方をしているように思いますわよ。例えば……」
北陸に数多くある製薬会社の橋渡しを行い、総合的な研究所を設立したこと。
化粧品業界へ参入したこと。
旧鈴木商店系の人工繊維事業者に投資を行い、米沢の地に繊維工場を再び誘致したこと。
どれも、この先に繋がるような未来のある投資である、と彼女は評価する。
だが、それらにも増して彼女が絶賛したものが、社員の福利厚生にも活かされている"株式積み立て保険"業であった。
これは"テクスト"にあった社会保険制度を参考に考案されたもので、共和商事に長年勤めれば勤めるほど、老後に支給される給付金が増えるという仕組みになっている。
共和商事は保険の名目に、社員全体の実質的な賃金の改善を先送りにすることで、浮いた資金を各所への投資に当てているのだ。
「要するに欧州の社会保険制度を企業運営に応用しているのでしょう? 耳の早いものだと感心いたしましたわ」
「欧州では既に導入されているのですか」
千早が問うと、ロッテは少し不愉快そうに柳眉をひそめた。
「社会民主党が議席を多くとっている国では、導入が推し進められておりますわね。ただ――、本格的に国民皆保険を始めたのは、ドイツのナチ党です」
「え、ヒトラーのですか?」
「ええ。……ミスターもあの男をご存じなのね」
そう言って、目を丸くするロッテ以上に千早は驚いていた。
ナチ党――、つまりナチスドイツのヒトラーは、千早にとって第二次世界大戦を引き起こすことになる張本人であり、ユダヤ人の大量虐殺を指示した大犯罪者であったからだ。
そんな男が国民の生活を支える政策を打ち出していることが、千早には意外でたまらなかった。
「あの男は、ゲルマン民族に対してのみは慈悲深いのよ。それに、彼の政治手腕が非凡なものであることは認めざるを得ません。現にドイツは彼の手によって深刻な不況を乗り越えつつありますもの」
と、彼女は悔しげに口元を結ぶ。
千早は彼女の持っている豊富な欧州の知識に新鮮な驚きを覚えた。
何せ、自分がドイツについて知っていることといえば、"テクスト"に載っていたことと、昨年に国際連盟を脱退したことくらいであったからだ。
日本が苦境を乗り越えんと改革に邁進するように、他国も日進月歩の勢いで変化を続けている。
そのことに今更ながら思い至ると同時に、彼女の顔を見て一つの疑問が浮かんだ。
「ロッテ嬢、貴女はヒトラーがお嫌いなのですか?」
彼女は確か、ドイツかオーストリアの令嬢であったはずだ。
そんな彼女にとって大ドイツの復権は望むべきことなのではないだろうか。
千早が問うと、ロッテは何を当たり前なことを、とばかりに半眼になった。
「私、人種主義者が嫌いですの。汎ゲルマンも汎スラブも。私自身、純粋なゲルマン民族じゃありませんから」
「えっ」
ぎょっとする千早を睨みながら、ロッテは続ける。
「母はオーストリア貴族の生まれでしたが、父はロシアの人間ですわ」
オーストリア貴族ならばゲルマン人。ロシア貴族ならばスラブ人。
成程、先の欧州大戦はゲルマン人とスラブ人の民族紛争がきっかけであるわけだから、混血の彼女には思うこともあるのだろう。
そもそも、と彼女は手に持ったワイングラスを指で弾く。
「政略結婚を重ね、混血の進んだ欧州貴族に民族の差などあるわけがないのに、そんなものを持ち出すから……、紛争が起きて平民たちに政治の実権を奪われてしまったのですわ。共産革命に、国民国家、民族自決……。私、人種主義も革命も、皆嫌いです」
ふてくされたように彼女は言うと、グラスに注がれた特級の日本酒を物憂げに見つめた。
「ですが……、国民国家の隆盛を見るに、もう貴族は歴史の遺物でしかないのかもしれませんわね」
独りごちた後、彼女は思い出したかのように顔を持ち上げ、千早に問うた。
「そういえば……、ミスターの生まれはどうなのかしら? 今まで伺いませんでしたわね」
「あー、英語でどう言うのだったか……。サムライ、で通じますか? 馬に乗り、戦を行う身分です」
「まあ、騎士! 日本にも騎士がおりましたのね」
言って、彼女は手をぽんと叩いて親しげに笑う。
「日本に随分長く滞在いたしましたけれど、良かったと思っていますわ。元々、日本のことはオペラの『ミカド』でしか存じ上げなかったのですよ」
「『ミカド』、ですか?」
「ティティプーの都を舞台にした、旅芸人をしていた皇太子ナンキ・プーの横恋慕を描いた物語ですの。何処の国にも身分違いの恋はあるのだと感動いたしましたわ」
千早の頭に疑問符が次々と浮かび上がる。
旅芸人の皇太子? ティティプー……?
距離の隔たりが生み出す現実と物語の祖語に理解が追いつかないでいる千早を置いてけぼりにして、ロッテは豊かな焦げ茶髪を揺らして歌うようにして続けた。
「ナンブ鉄器やチェス駒の彫物、木製の人形の売れ行きも順調ですし、いずれは旅行記でも書いてみようかしら」
いずれにせよ、彼女が幸せそうでいるのは結構なことだ。
貴重な海外への伝手でもあり、見舞いに来てくれるほどには個人的な友誼もある。
だから千早も苦笑いを浮かべ、「完成した暁には読ませて下さい」と返すことで、彼女を大いに喜ばせた。
◇
宴もたけなわになり、後1時間で年も明けようという時分に、大型のラジオが会場へ運び込まれた。
「あら、ラジオ放送? 一体、何を放送するのかしらねえ」
千早と合流したアニーが誰へともなしに問う。
彼女は、先ほどまで兄のマリオと共に洋の東西を問わぬ美食を片っ端から楽しんでいた。
頬についたソースは愛嬌の内に入るだろう。
一応、指摘をすると彼女は顔を赤くして、慌ててハンカチで頬を拭った。
今、千早の周りには個人的に関係の深い友人たちが集まっている。
要に生田、高橋や海外勢。そして、護民総隊の航空士たち。
特に2か月もご無沙汰であった部下たちの歓待ぶりは度を越したもので、藤田などは帰還時に顔を見せたというのに「ミヤ隊長、ミヤ隊長」と連呼してははしゃいで酒を飲んでいた。
航空士以外の総隊員は佐藤の元へ集まっており、共和商事の面々も仲の良い者同士で集まっている。
千早は参加者の中に、参謀の柴田と福永がいないことに、今更ながら気がついた。
やはり、一致団結という風にはいかないのだろうか。
複雑な面持ちで黙り込んでいると、アニーの疑問に要が答えた。
「我が国の陛下が新年のごあいさつを玉音にてなさるのですよ」
「皇帝が? この国では普通のことなの?」
「いえ、初めての試みです。何でも、日ソ関係の悪化や不況にあえぐ臣民を労うために行われるのだとか……。国民も今までお声を拝聴したことがなかったので、今頃は全国民がラジオの前に集まっているのではないでしょうか」
事実、先ごろから共和商事の面々は静かに耳を澄ませており、護民総隊の面々は直立してその時を待っていた。
本来ならば整列をして拝聴すべきなのだろうが、「祝いの席に軍隊の作法を持ちこむのはいかがなものか」という共和商事側からの物言いにより個別に清聴する形に落ち着いたわけだ。
「肉声ねえ、私がヴィットーリオ陛下のお声を聞くようなものかしら。でも、日本語なのよね……。ううん、私の語学力で大丈夫かなあ」
「小声で宜しければ、私が通訳いたしますよ」
「ほんと? 助かるわ」
そんなやりとりを交わしている内に、機材の準備が全て終わる。
柱に掛けられた時計を見ると、もう後数分で年明けであった。
後、3分。
2分。
1分。
ノイズの混じったラジオから誰かの息遣いが聞こえてくる。
しばしして、千早にとっては2年ぶりになる国家元首の肉声が、全国へ向けて発信された。
「新しき年。大日本帝国天皇である朕は、国難にあえぐ忠実で善良な国民の諸君に初めてお話しをしようと思う」
千早は国家元首の肉声に何故か違和感を抱いた。
何か覚悟を決めたような――、そんな強い意志が感じられるのだ。
谷口の方へ目を向けると、彼も同じように考えたようで見るからに困惑した表情を浮かべていた。
玉音による放送が行われると聞いた当初、千早は平和主義者の陛下が昨今の対ソ感情で過熱した世論を諌めるべく、一手を投じられる気になったのだろうと安堵を覚えたのだが……、どうやらそれだけで終わりそうにない予感がする。
固唾を呑んで見守る中、放送は続けられた。
「このまま本格的な戦争に突入することになれば、国民諸君の受ける苦難は並みたいていのものでは収まらぬであろう。我が国の謳う東亜の解放に殉じ、戦場や職場で非命に死んだ者、またその遺族のことを思うと体が裂けるような思いである。また解放を目指して戦うアジアの同胞をどう助けていくかということも、朕は深く案じている。そして、国際連盟の指摘通り――、我が国の、"これまでの在り方"が同胞たちの解放をかえって妨げていたという事実に、朕は深く恥じている」
パーティーの参加者がざわめき始めた。
陛下の言葉は、先だっての国連決議によって日本の行ったシベリア出兵に"侵略"の意図があると判断されたことを指しているのだろう。
国内では国連の決議に不満を抱いた新聞社が、号外によって「国連脱退も致し方なし」と過激な論調で主張している。
そんな過熱化した情勢下に、このような冷や水の如き忠告をかけられたのだ。参加者の動揺も良く分かる。
千早の中にも引っかかるものがあった。
国際協調を望む陛下は当然、国連脱退などは認めない。それは分かる。
だからこそ、自制を促す言葉を投げかけられるのだと思っていたのだが、"これまでの在り方"とは一体何のことなのか。
「これは、おかしなことになってきたぞ」
要も目を見開いて、参加者と驚きを共有していた。
陛下の言葉は紛うことなき現政権の、ないしは国体の批判である。
国家元首が自国の政治を批判するような発言をするなど、現政府が認めるはずがない。
恐らく、陛下とその周辺による独断で内容が差し替えられたのだ。
「朕が思うに、進化論より生まれた適者生存の覇権主義と、弱者を尊重する解放主義は相容れないものなのであろう。我が国は他国との争いによって、覇権主義的勝利を重ねてきた。その結果こそが、今の自己矛盾なのである。朕は世界の恒久なる平和を実現するために、解放主義こそが適していると信じたい。解放主義を貫くためには、まず我が身を振り返らねばならぬ」
どういうことだ、と参加者の困惑が更に深まった。
事情を知らない海外勢も、会場の異様な雰囲気に目を丸くしている。
その中で、ユーリとロッテだけが食い入るようにラジオへ目を向けていた。
「朕は、解放主義が正しいものだと信じるがゆえに、我が帝国の在り方を改めて問い直さねばならぬと考える。世界情勢の切迫した中、我が国に残された時間は多くない。今年は西洋の年紀で1935年になる。10年後の――、1945年までに我が国は新しき国家へ生まれ変わろう。国難に対しては国をあげて人道と正義と平等を重んじ、強固な精神で世界と向き合う必要があろう。その過程で必要があれば、朕は国家元首の座を退き、必要があれば……、断頭台の露に消えても構わぬと、そう思う」
参加者から悲鳴があがった。
「陛下にこのようなお言葉を……、宮内省は、政府は何をやっておるッ!」
顔を真っ赤にして佐藤が激怒する。
気色ばんだ総隊員たちは、どうやらこの玉音が政府による卑劣な国家転覆策であると解釈したようだ。
恐らく、各地の陸海軍も同様の反応をしていることだろう。
血気に逸った面々は既に大逆人の断罪のため、出動している可能性すらある。
だが、千早たち"テクスト"を知る者たちはこの玉音を諦観の面持ちで受け入れていた。
1945年とは"テクスト"において太平洋戦争終戦の年に当たる。
未来の歴史家はこの年より以前を「戦前」、以後を「戦後」と記していた。
戦前の人間にとって、戦後の世界はあまりに煌びやかな別天地だ。
恐らくは陛下も憧憬の念を抱かれたに違いあるまい。
そして、陛下は終戦に至るまでの悲劇の積み重ねに心の底から悲しまれていた。
どうすれば、来たるべく悲劇に備えて少しでも民間人の犠牲者を減らせるのか。
どうすれば、戦争自体を回避できるのか――。
ラジオから聞こえてくるこの玉音が、陛下なりの答えであることが千早には痛いほど良く分かった。
「朕は国民諸君を深く愛し、信頼する。その信頼は、単なる神話と伝説に基づいた絶対君主として発するものではなく、現人神として発するのではなく、"一人の人間"として発するものである。朕は国民諸君を、他の民族に優越した存在ではなく、数ある諸民族の一として誇れるものになろうことを信頼する。新たな日本の建設に向けて、国民諸君には、どうかこの私の願いを実現してもらいたいと思う」
放送が終わり、パーティー会場は驚天動地の大騒ぎに陥った。
「何だあ、こりゃあ……」
生田は上手く事態が呑みこめていないようであった。
他の航空士も同様だ。
「ニ、サモヴィテ……」
要の通訳によって事の重大さを理解したのか、ユーリもポーランド語で何事かを呟いた。
ロッテは俯き、沈黙を保っている。
アニーとマリオは目を丸くして、どうなってしまうのかと周囲を見回していた。
「……こ、国体がひっくり返るぞ」
万年筆をぽろりと落とした高橋が震え声を漏らす。
「陛下の玉音による"人間宣言"……! 植民地の拡大方針への明確な否定ッ! 御自身による、立憲君主制の否定ッッ! これは歴史的な大事件だぞっ!」
高橋の声が段々と大きくなり、仕舞いには口から泡を飛ばし始める。
周囲の人間の反応は、怒りに震える者、感動に打ちひしがれる者、呆然と佇む者と多種多様に分かれていた。
「生田航空士、宮本航空士」
あまりにも急な出来事に戸惑いを隠せない千早の傍まで、先ほどまで佐藤の隣に並んでいた谷口が駆け寄って来る。
「本部長」
「間抜け面を晒すな。総隊員として恥じぬ姿を常に保て。……それよりも、部下をとりまとめろ。本部へ急ぎ戻るぞ。下手をすれば、全国で暴動が起きかねん。治安出動に備えねば……」
「わ、分かりました!」
慌てて部下へ整列を促し、本部への移動を開始する。
――谷口のこの予想は、数時間後には日本各地で現実のものとなってしまう。
玉音放送を聞いた左右の活動家、そして一部の急進的な士官たちが各地で暴動を起こしたのだ。
後に"玉音事件"と名付けられた大騒動に対処するため、護民総隊は警察や陸軍とともに正月を治安の維持に努めることとなった。
この事件は当然、国政を担う各界にも多大な影響を残し、現犬養政権の総辞職にまで発展。
1月の下旬には、新たな国体を生み出すための挙国一致内閣を樹立すべく、総選挙が行われた。
結果、民政党主導の連立内閣が樹立され、ここに第三次若槻礼次郎内閣が誕生したのである。
そして、1935年2月。
護民総隊に新たな補充士官が加わり、千早は正式に後方業務へと異動することになった。
航空機部隊が迎え入れた新たな仲間たちと対面した千早はその顔触れに仰天する。
彼らは、かつての仲間たち――、"鳳翔"所属の傷痍軍人であったのだ。




