1934年11月末 護民総隊本部にて
申し訳ありませんが、軍政の前に国内外の情勢説明回です。
「次なる任務は未定につき、まとめて休みを取るように」
ようやく退院の許可が下りた千早が総隊本部に帰還すると、本部に詰めていた谷口から休暇を取るように言い渡された。
「休暇ですか」
「うむ。寝たきりで身体も鈍っておろうし、情報の面でも遅れがあろう。現職に復帰するための、調整期間とでも思っておればええ」
千早が身を預けている松葉杖に目を向けながら、谷口は言った。
確かに退院できたとは言うものの、未だ快復には程遠い。
今の体調で現場へ復帰したとしても、満足に働くことは難しいだろう。
ただ、病院での一件があった矢先にこの命令である。
言っていることは尤もなのだが、それ以上に井上の影がちらついた。
「……井上さんは何か仰っておられましたか?」
この差配に井上の提案してきた"後方業務"が関係しているのかと問うてみると、谷口は当然とばかりに目を丸くした。
「そりゃあ、しきりに言ってきておる。奴は、お前さんにも話を持っていったんだろう?」
聞くところによると、事務方の人手不足は相当まずい状態にまで陥っているという。
選り好みをしなければ、いくらでも働き手を見つけることができるだろうに、上層部は何故か意識して門戸を絞っているようであった。
千早がその点を指摘すると、谷口は忌々しげな表情でため息をつく。
「ソビエトとの戦いでどうにも敵に情報が漏れていたようじゃからな。何処で漏れたのかは分からんが、警戒するに越したことはないだろう。それに――」
「それに?」
「切り崩し工作も防がねば」
ため息とともに吐き出された紫煙が、ゆらゆらと天井へ立ち昇っていった。
仕事机に目を落としてみれば、灰皿に吸い殻が溜まっている。
相当不満も溜め込んでいるようだ。
「参謀の柴田と福永がな。暇を見つけては"勉強会"と称して、めぼしい人材に海軍派閥への転向を促そうとしておるのだ」
「何でそんなことを」
思わず、間抜けな声で問い返す。
いくら対立派閥からの出向とはいえ、まるでスパイのごとき所業であった。
「あ奴らにとっては、あくまでも帰るべき場所へ忠義を尽くしておるつもりなんじゃろうなあ」
千早にもその気持ちは概ね理解できるが、それにしたって時期が悪すぎる。
自分たちが命をかけて戦っている時に、内地ではそのようなくだらない足の引っ張り合いをしていたのかと思うと、何だか情けなくなってしまう。
「引き込まれた者はいるのですか?」
「今のところはついぞ聞かんな。だがそれは、現状総隊が連戦連勝しているせいもあろう。こうした引き抜き工作というものは、勢いに影が差した時に初めて意味を為してくるものだ」
まるで遅効性の毒のような、陰険なやり口であった。
全くもって、"からっ"としていない。
一体、何処の誰が目の前に敵がいる状態で、味方の裏切りを警戒しながら満足に戦えるというのだろうか。
千早は鬱積するやりきれなさに、思わず机に乗り出した。
「訓告や懲戒を与えても良いのでは」
谷口は共感と葛藤が入り混じった複雑な表情を浮かべ、どさりと椅子に背中をもたれる。
「……至極正論なのだがなあ。佐藤中将なども『そんな不逞の輩は追い出してしまえ。参謀が足りんのなら、小官が兼ねる』と過激なことを仰っていたが、海軍の政治的影響力を考えれば、こちらとしても全面対決をなるべく避けたいのだ」
「鋼材供給の話、ですか?」
谷口は頷く。
国内に出回る鋼材の供給は、三井財閥がその管理を一手に引き受けていた。
対ソ紛争の関係で三井と利害が一致した結果、総隊にも鋼材が回ってくるようになったのだが、それでも三井にとっては海軍こそが最上のお得意様であることに変わりはない。
予算さえ議会で通れば、国費で大型艦艇を発注できるからだ。
その海軍から強い圧力を受ければ、さしもの三井とて損得を勘定して今後の対応を改めざるを得ないだろう。
確かに、無駄な波風は百害あって一利もなさそうだ。
少なくともこちらから弱みを見せるべきではない。
「というわけで今まで通り、まだ何処の色にも染まっておらず、かつ有能な人材を探しておるわけだ。だが、有能な人材というものは大体何処かが唾をつけているものでな。これが盲亀の浮木を探すよりも難しい。1から育て始めた予備士官たちも、使い物になるまでにはあと1年以上はかかるじゃろう」
それに、と谷口が続けた。
「佐藤中将の負担をなるべく減らして差し上げたいとも思う」
良く分からない理由に千早は首を傾げた。
「ええと、それは……」
働かせすぎ、ということだろうか。
確かに護民総隊は海軍出身者が多く勤めており、その仕事内容も海軍に準じているだけあって激務と言って良いものになっている。
だが、それはある意味仕方がないのだ。
勅令により"護民"という名を冠している以上、総隊は帝国臣民の生命と安全に責任を持たねばならない。
人の命はかけがえのないものだ。
わずかな油断が取り返しのつかない失態を招いたとしても不思議ではないのだから、総隊の隊員は強い自覚と責任感を持って任務に励んでいるわけで、艦隊司令官たる佐藤とて激務を覚悟しているはずなのだが……、
「今、この総隊に中将の代わりになるような人材がいると思うか?」
あっ、と千早は声をあげる。
"艦隊派"の大御所であった佐藤は、今や"護民派"とでも呼ぶべき派閥の旗頭となっていた。
階級が高く、実戦経験もあり、現場の人間には好かれ、参謀職にも理解がある人材となると、確かに彼に替わる人材は見当たらない。
谷口は持ち手近くまで灰に変わった煙草を灰皿へ擦りつけると、目元を指で揉みあげた。
「……困ったことに代わりがおらん。だが、佐藤中将はもうお歳を召されておる。とにかく無理をされて、身体を壊されてしまうのが一番怖い」
だからこそ、揺るぎない次世代を築き上げるため、事務方の基盤作りに心を砕いているのだ、と谷口は一息で言った後、再び重いため息をついた。
心なしかがっしりとした肩も落ちているように見える。老将を気遣う本部長がそもそも疲労の色を隠せていないのだ。
千早は眉根を寄せて、苦言を呈することにした。
「それは、谷口本部長も同じことじゃないですか」
佐藤を心配する谷口とて、もう若くはないのだ。
千早にとっては祖父も同然の存在を心配に思うのは、至極当然の帰結であった。
そうしてまっすぐ見据えて自身の体を労わるように言うと、谷口は嬉しそうに目を細める。
「分かっちょる。中将共々、週1度の休みは取るけ、月1の検診も課せられちょうよ。歳は取りとうないもんじゃ」
「休んじょるなら言うことありません。その内、一緒に比婆山へ登りましょ」
谷口のおどけた口調に、同じくおどけた口調で返す。
里心のつく、心休まるひとときだ。
しばし、谷口と昔話に花を咲かせる。
千早はようやく自分の家に帰って来たような心地を覚えた。
「それで、結局事務方はやらんのか? 井上の推薦もあることだし、千早さえやる気なら、復帰後に相応の役職を用意するんだが」
「うーん……」
正直に言えば、かなり迷っていた。
元々事務方の仕事は、総隊発足当初にある程度経験済みである。
携わったのは航空機の生産ライセンスを取得するための選定作業のみであったが、それなりに事務方の仕事について理解を深めることができたように思う。
だから、手伝えと言われればすぐに働くことができる。しかし、
「生田さんの復帰が遅れそうなんで、航空機部隊の連中が心配なんです」
部隊を運用するためには士官教育を受けている必要がある。
現在、護民艦隊航空機部隊に所属している元海軍士官はたったの2名であった。
一人は言うまでも無く千早で、もう一人は生田だ。
双方が病院送りになってしまっていた結果、ここ最近はまともな訓練ができているとは思えなかった。
「あいつらは、今どうしているんですか?」
「石岡君たちが水兵と一緒に面倒を見ておるよ。ただ、確かに飛行訓練はできておらんなあ」
「航空士は飛行時間がとにかく物を言いますから、あまり長らく航空機から遠ざけてしまうのは拙いです」
空は逃げ場のない牢獄のようなものだ。
蒼い牢獄の中で航空士は常に墜落の恐怖と戦い、細心の注意を払って精確な操縦に努めることになる。
だからこそ、練習不足はまずい。
練習不足は弱気を引きこみ、弱気は心の平静を乱してしまう。
心が乱れてしまうと、人為的なミスが多発する。つまり、それだけ死の危険性が高まってしまうのだ。
「ちなみに、お前さんならすぐに奴らの訓練を見ることができるのか?」
「……正直に言えば難しいと言わざるを得ません。座学なんかはいくらでも教えられると思うんですが、流石に今の鈍った体だと……」
千早の言葉に、谷口は何か考え込むようにして黙り込んでしまった。
「わしの方でもこの件は考えておこう。千早はとにかく、復調に努めるように」
「分かりました」
千早は挙手礼をして、本部室を出る。
まだ歩くにはおぼつかなく、杖に頼る自身の身体が恨めしく感じられた。
1934年12月1日 総隊本部士官室にて
休暇をとってからすぐに千早が始めたことは、戦闘詳報の精読と様々な新聞を取り寄せて読み比べることであった。
何せ、2か月も寝込んでいたのだ。
井上が漏らしていたように内外の情勢も目まぐるしい変化を遂げているはずで、まずはこの浦島太郎もかくやという状況を何とかしなければならない。
「宮本さん、新聞ここに置きますね」
士官机のすぐ側にどさりと新聞の束を置いてくれたのは、フリージャーナリストの高橋亀吉であった。
折良く護民総隊へ取材に訪れていた彼に情報収集をする旨を伝えたところ、新聞のまとめ読みを勧められたのだ。
高橋は額に浮かんだ汗を腕で拭うと、外の廊下へ向けて声をかけた。
「ああ、円谷さん。こっちです。残りはここに置いて下さい」
「ほい、ほい」
どうやら今回の取材行には助手がいるらしく、見かけない顔が高橋に続いて入って来る。
撮影機材のはみ出た肩かけを背負いこむ、額が少し寒々とした愛嬌のある顔立ちの男性であった。
「日活で働いていた円谷さんです。カメラマン協会の伝手で付き合いがあったんですが、何やら職場でいざこざを起こしてしまったらしくてですね。生活の足しにとカメラマンをやってもらっているんですよ」
「円谷です。よろしくお願いします……、っと」
ふらふらと千鳥足になりながらも、円谷と呼ばれた男が新聞束の残りを置く。
流石に大手各社を2ヶ月分ともなると、その量も厚みも凄まじい。
「ありがとうございます、高橋さん。円谷さん」
「いえ、代わりに密着取材させていただいてますんで、まあ役得ですよ」
と高橋はくるくると手癖のように回す万年筆の尻で額を掻きながら笑う。円谷はと言うと、
「海軍さんの艦や飛行機を見られるなら、これくらいどってことないですよ。模型作りが趣味なんですわ」
興味深げに室内をきょろきょろと見回し始めた。
「うちは護民総隊ですけどね」
訂正する千早の言葉など、とんと耳に入っていない様子で、
「小奇麗な感じですね。艦内の士官室も、こんな造りになっているんです?」
「艦と、部屋の主によるんじゃないでしょうか」
ほうほう、と生返事をしながら円谷は目を爛々と輝かせる。
千早は苦笑いを浮かべると、
「お茶、入れてありますんで、そちらのソファでゆっくりしていってください。一応機密に関わるものも置いてありますから、棚などは開けないようにお願いします」
言って、すぐさま新聞を古いものから順々に目を通していく。
古いものはオホーツクでの漁船拿捕事件を蒸し返したものなど、国民の反ソ感情を煽りたてるような記事がとにかく目立った。
例えば、海軍の大御所たる東郷平八郎元帥の逝去を知らせる一面記事でも、「護国の英雄逝去す。この難局に新たな英雄は生まれるや否や」と日ソ関係の冷え込みに関するコラムをあけすけに差し込んでおり、ソビエトの国際連盟加盟を知らせる記事に関しては、補足としてニコラエフスクで起きた事件を取り上げ、「果たして国際協調に足る国家なのか」と疑問をおおっぴらに投じている。
どれも国民の不安を駆り立てかねない過激な論調のものばかりだ。
「夏ごろはソビエト打倒の一色、ですね」
千早には、何故こうも対ソ関係が冷え込んでいくのかが良く理解できなかった。
そもそも対ソ関係とは昭和元年に締結された、日ソ基本条約によって雪解けの兆しが現れていたのだ。
日ソ基本条約では、その内容に国交の樹立とポーツマス条約の効力継続が盛り込まれており、この条約が成立してからは互いの漁業権益を妥協し合い、致命的な破綻を避けることができていた。
何故、そうした平和への取り組みが今更になって白紙に戻るのか。
千早が小さくため息をつくと、高橋が千早の歯がゆさを茶化すような調子で口を挟んできた。
「どこもかしこも、何度も何度も同じことを繰り返されますと、流石に新聞が昔話に見えてまいりますわ」
「……昔々、あるところに日本とソビエトがいました、と?」
「勿論、私が記事を書かせていただいている東洋経済新報は新聞のままですので、悪しからず」
茶をすすりながら叩く高橋の冗談を笑って返し、更に新聞を読みこんでいく。
国会では陸軍省新聞班が発行した『国防ノ本義ト其強化ノ提唱』なる白書が問題になっていたようだ。
これは平たく言えば、天皇親政による社会主義国家の樹立を目的としたパンフレットである。
天皇を崇拝する国粋主義と社会主義――、水と油の関係のようにも見える両者だが、実は驚くほどに親和性が高い。
社会主義とはあくまでも経済に関する政治思想であって、その実現手段は革命であろうと、議会による穏健な移行であろうと、天皇による御親政だろうと構わないのだ。
このことは陸軍第25連隊に所属する栗原中尉から、飽きるほどに繰り返し聞かされていた。
「陸軍省には随分と"愛国的"な方々がおられるようですな」
「ええ……、陸軍の知人も言っていました。荒木陸軍大臣は急進的な若手に擁立された御仁なので、周りにもそう言う方々が集まっているとか」
ひょっとすると、共和商事による国家改造が進展している今こそ"御維新"の好機と意気込んでいるのかもしれない。
「はあ、それは。ただ、この白書を世間が受け入れるかというと難しいところですなあ」
今の国会を占めているのは、地主びいきの立憲政友会。そして財閥びいきの民政党。
そもそも社会主義国家なるものの樹立は、こうした資本家や財閥の考えと折り合いが悪い。
社会主義は、下層労働者を含めた国民の経済的な平等を達成するために、市場経済を制限すべきだと考えているのだ。
当然ながら、多くの新聞社が陸軍の浅慮を批判しており、赤旗などわずかばかりの左派系機関紙が「頷くべき所もある」として、その内容を評価するだけに留まっていた。
つまり、彼らの理想は今のところ大多数の民意に沿ったものではないのだ。
これを無理に通すには、"テクスト"にあったような暴力的な手段――、例えば二二六事件のようなクーデターを起こす必要があるのだろうが、今のところはそう言った兆しを感じ取ることはできなかった。
このまま物騒なことにならなければ良いのだが……、と読み進める内に、千早は賛同紙の中に東洋経済新報が混ざっていることに気づく。
「東洋経済新報も賛成なんですか? このパンフレットの内容に」
問うてみると、高橋は苦笑いを浮かべた。
「あそこの顧客は左寄りが多いので、仕様がない部分もあるのですよね。編集長は『統帥権の国家への返上を前提とするならば理解できる』と消極的な賛成といったところでした。赤旗が支持しているのは多分、現政権を攻撃できる材料が欲しいからでしょう。今の犬養政権は拡張経済、強硬外交で日ソ関係が悪化している今の時世に良く馴染んでいますから」
成程、今の世は憲政の常道が続いているのだから、国内政治は世論に強い影響を受けてしまう。
反ソ感情が高まっている以上、世論は自分たちの鬱憤を晴らしてくれる強い政府を望むわけだ。
だとすると、当面の政権交代はないと考えて良いだろう。
千早は、更に新聞をめくる。
ここ最近にもなると、日ソ間で紛争が勃発したためか陸海の戦況に関する記事が目立つようになってきた。
例えば、朝日新聞では沿海州での戦況と朝鮮人日本兵の奮闘についてを主に取り上げている。戦地の美談を面白おかしく脚色しており、まるで映画や小説でも鑑賞しているかのような読後感があった。
基本的に、何処も右へ倣えの状況だ。
千早は猫も杓子も軍の将兵が持ち上げられる風潮に居心地の悪さを感じ、古賀ならば――、あの五一五事件の凶弾で倒れた後輩ならば、今の時勢を果たしてどう思うのだろうか、と益体も無いことを思った。
ようやく後ろ指さされない世の中になったと喜ぶだろうか。
それとも調子のいい奴らだと国民に反感を持つのだろうか。
聞きたい相手はもうこの世にいない。
「どうなさいましたか?」
「いえ、知人を思い出していただけです」
気を取り直して、紛争以外の記事は無いものかと目を走らせる。
日ソ関係以外だと、珍しいところでは愛国論に乗じて「職業野球不要論」などというコラムが載っており、舶来スポーツへの傾倒が日本経済に対していかなる害をもたらすのかについて有識者がつらつらと書き連ねていた。
こちらについては朝日新聞の商売敵である読売新聞が名指しで批判のコラムを載せており、「朝日の頑迷。野球はかくも素晴らしきものである」と"そもそも論"を力説しているようだ。
こうしてまとめて読んでみると、今読んだ2社についてはいつも喧嘩をしているように思える。
「他の新聞社も、こんな風に喧嘩をしているんですか?」
千早が呆れ顔で言うと、我が意を得たりとばかりに高橋が笑った。
「言論というのは意見をぶつけ合うところから始まりますからね。だから、情報を取捨選択するのなら、こうして何社も読み比べなければならないんです。軍隊だって錯綜した情報の中から、正しい情報を見つけ出すノウハウは身につけているはずでしょう。国内のことも、それと同じですよ」
「それは、確かにそうですね」
虚言流言に惑わされるようでは、軍人としては三流だ。
高橋は千早が賛同の意を示したことを認めた後、万年筆をひらひらとさせながら続けた。
「完璧な言論というものが無いからこそ、言論は公共の中で磨かれ、正当性が生まれるんです。唯一無二の正しい言葉なんてものがあったら、それはもう宗教ですよ」
高橋の持論がすとんと千早の胸に落ちる。
確かに唯一絶対の考え方など無いからこそ、人は他者とコミュニケーションを取り、理解し合わねばならないのだ。
そう考えると、新聞各社が喧嘩をしている内は言論が正常に機能しているということになる。
「それなら、新聞が何処もで同じことを言っている時には……」
「警戒しなければならないでしょうな。言論が正常に機能していないということになります。日ソ戦関連の記事は、明らかに世論が誘導されている……。そう考えるのが妥当です」
要するにソビエトとの紛争によって利益を受ける勢力がこの情勢を――、戦争を煽っているということだ。
千早は新聞記事の文字列に潜む、金満のきな臭さに思わず眉をひそめてしまう。
「戦地に赴く身としては、あまり面白い話ではないですね」
少なくとも自分と、自分の仲間たちは特定個人の金儲けのために戦っているわけではないのだ。
まるで、自分たちの誇りにケチがついたように感じてしまう。
高橋は飲みほした湯呑をテーブルに置き、真面目な表情で更に読み進めるよう促してきた。
「……直近の記事に、もっと面白くの無い記事が載っていますよ」
言われたとおりに日を進める。
そして、つい先日の記事まで辿りついた瞬間、千早は目を剥き凍りついた。
――敵国ソビエト、皇軍の快進撃に対していよいよ本格的に戦時体制へと移行する方針を固める。
◇
ソビエトとの本格的な全面戦争が始まると報道されてより、世の中はまるで駆け足気味になったかのようにして慌ただしくなっていった。
12月3日。国際連盟は、かねてよりの懸案だった日ソ間の対立を「明確な戦争状態に突入した」と認定。
日ソ紛争に関する特別総会が、今月の24日にスイスのジュネーブにて開催されるとの旨が発表される。
これについて、高橋は次のような見解を述べていた。
「そもそも、今回の紛争は"列強国同士のこん棒外交"がぶつかりあった結果と考えるのが自然です。日ソ基本条約によって生み出された両国間の小康状態が、何らかの変化によって暴発した。実力で相手を黙らせて、北洋の権益を改めて自国有利に引き込むための、いわば"じゃれ合い"が再開されたわけです。それならばヨーロッパ情勢が最優先の国際連盟だって、本腰で動くことはありません。自国のアジア利権が侵されたのならば、話は別ですが――」
あの満州事変の時のように、と高橋は言い足し、ところがと続ける。
「日本はあまりにも勝ちすぎた。現在、東シベリアの中枢都市はすべてが日本の実効支配下にあります。大規模な領土の取り合いにまで及んだら、もうどちらも後に引けませんよ。ソビエトだって今まで続けてきた計画的な経済成長を止めてでも、日本への反攻に心血を注ぐことでしょう。恥も外聞もかなぐり捨てて、しゃにむに勝利を目指すはずです。そうなれば、世界経済や各国の安全保障体制にも影響が出ましょう。だから、国連は動きました」
では、何故日本は"じゃれ合い"で終わりにしようとせずに、わざわざ虎の尾を踏むような真似をしたのか。
「勝算があるのでしょうか」
「どうなんでしょうね……。私はむしろ、国内からの圧力が一因になっているんではないかと思っているのですが」
言って、高橋はとある政治理念と、ある政治集団が国内で勢力を拡大しつつある現状について口の端に上らせた。
「昨今やたらと持て囃される理念にですね、"民族自決"というものがあるのですよ。圧政に虐げられている沿海州および東シベリア地域に先住民族の独立国家を建設しよう。アジア民族の西洋支配からの解放を目指す、と。そんなことを息巻いています」
「"民族自決"、ですか」
おかしな理念が持て囃されるものだと千早は首を傾げた。
高橋の言う"民族自決"とは一つの民族が一つの政治集団を作るべきという理念のことである。
元々この理念は欧州大戦の後に、アメリカの大統領であるウィルソンによって提唱されたものなのだが、広大な植民地を持つ英仏が反対したために敗戦国である旧オーストリア=ハンガリー帝国領を分割するための方便として歪められてしまった経緯を持つ。
つまり、あくまでもヨーロッパ地域に限定された政治理念であり、たとえ東シベリアのアジア系先住民が独立を望んだとしても、列強諸国がそれを受け入れる可能性は極めて低いのだ。
「大体、いくらソビエト国民が虐げられていたとしても、それはあくまでも国内問題です。これに介入するというのは重大な内政干渉ですし、事実ソビエトもその点を批判しています。だというのに、"民族自決"をアジア世界にも当てはめて政府と軍に派兵を強く促した集団が――」
大亜細亜協会。
貴族院議長の近衛文麿が会長を務める政治集団であった。
千早はこの名を聞いた瞬間、まるで雷で撃たれたかのような錯覚に陥った。
何故なら、高橋のあげた名は、未来からもたらされた"テクスト"において、日本をアメリカとの戦争に導いた張本人の一人とされていたものであったからだ。
方程式の如く、太平洋戦争の一幕が脳裏に浮かびあがる。
ミッドウェーの敗戦、沖縄戦、そして――。
「彼らの主張に、対ソ感情と新聞報道で過熱した世論が乗っかってしまったようで……。どうしましたか? 宮本さん、凄い顔をしていますよ」
高橋の問いに、千早は答えることができなかった。
12月24日。
俗に"クリスマス会議"と名付けられたジュネーブ「東アジアにおける安全保障問題」会議が開催された。
これは主に「日本の出兵は"侵略"行為に当たるか否か」について協議するもので、もし"侵略"と認定された場合はパリ不戦条約の効力により、速やかなる撤兵と原状復帰、ソ連側への謝罪の義務を負う。
無論、この決議に従わないという選択肢はあり得ない。
各国に経済制裁の大義名分を与えることになってしまう上、下手をすれば連盟からの除名すら考えられるからだ。
そんなことは国際社会からの孤立を憎む、今上陛下が絶対に認めないはずであった。
12月25日。
日本国民が緊迫した面持ちで事の成り行きを見守る中、"クリスマス会議"は当事国の立場表明によってその火蓋が切られる。
ソビエト側は終始、今回の武装蜂起が国内問題であることと、日本による不当な侵略が行われていることを一貫して主張し続けた。
対する日本は、外交官の松岡洋右によって1時間にも及ぶ大演説が壇場に置いて披露される。
日本側の要求は、武装蜂起の起きた地域に先住民族の手による独立国家を建設すべきだというものであった。
12月26日。
常任理事国である5カ国の内イギリス・フランス・イタリアの3カ国と、その他当事国以外の加盟国による決議の結果、「今回の紛争は日本側に"侵略"の意図がある疑いが強い」との判断が下される。
この決議に置いて、日本を非難する側に回ったのは主に英仏の2カ国であった。
曰く、国民の武装蜂起は重々遺憾に思うが、国内問題の解決はソビエト政府に委ねられなければならない。我々は日ソ問題を日本による重大な内政干渉であると理解している。我々は両国の、速やかなる紛争前への原状復帰を求む。
彼らの主張は、まとめると以上のようになっていた。
「当たり前の主張だ。英仏はアジア・アフリカ地域に広大な植民地を保有している。アジアでの民族解放を許してしまえば、自国の植民地経営にその余波がやってくることは自明の理であると言って良い。それに元は仮想敵国であったドイツを封じ込めるための抑止力として、ソビエトに期待しているのだから、かの国の影響力が落ちることは許容できないだろう。何よりもアジアにおける日本の影響力が高まることを受け入れられるはずがない」
再三の事務方への勧誘をしにやってきた井上は、世間話の一環でそう毒づいた。
「"民族自決"、"アジア民族の解放"。もっともなお題目ではあるがな。それを口に出すのならば、自らが石を投げられぬほどに清い身である必要がある。少なくとも、占領地や併合地を保有している現状で我が国が言っても説得力がない」
いくら弁の立つ者が大演説をかましたとしても、臭いものを覆い隠そうとするごまかしでは意味がないのだと、井上は続ける。
「ただ、日本側への賛意を示した国もいましたよね」
「イタリアとポーランドか。イタリアは随分前からファッシによる一党独裁体制が続いているからな。ファッシのスローガンはヴェルサイユ体制の打破だろう。賛意を示されたところで、こちらの立場が悪くなるだけだ。ポーランドも、恐らくは同じようなものだとは思うが良く分からん……。後のオーストリア、ハンガリー、フィンランド、リトアニア、ブルガリア、シャムなどの棄権票も演説にほだされたわけではないと思うが。もしやすると、ソビエトの弱体化を狙ったものなのかも知れん」
やはり政治は良く分からん、と井上は首を振った。
12月27日。
英仏が国連の決議に則り、日本の完全な撤兵が確認されるまでの間、日本に対する経済制裁とソビエトへの人道支援を行う旨を発表した。
「支援、と申しましても、あまりに下心のあけすけな経済政策なのですけれどもね」
お見舞いに参りましたわ、とジャパニーズ・オレンジ――、いわゆる蜜柑を差し入れにやってきたロッテが、差し入れを自らの口に運びながら、馬鹿にするような口ぶりで言った。
「目的の一つは恐らく、"対ドイツ賠償請求権の一本化"ですわ。世界恐慌からこの方、ドイツの賠償金返済未納が続いておりますの。英仏はソビエトから賠償請求権を買い取る形で、何とかドイツの返済可能な額に賠償金を収めることで、賠償金の確実な回収と不況からの脱却へ弾みをつけたいのだと思います」
あら、美味しいわ、とロッテが次々に蜜柑のかけらを摘んでいく。
「後は、"旧ロシア帝国圏の市場復活"かしら。帝国時代は茶葉や綿花の一大消費地でしたから。ミスターは御存じ? 中国やインド方面で採れた茶や綿花って、クロンシュタットまでイギリスの船が運んでいったのですよ。考えなしの革命家に商売の種を強請るなんて、とても意地汚いことだと私は思いますけれども」
どうやら彼女は共産主義という政治理念を蛇蠍の如く嫌っているようであった。
嫌悪どころか言いようのない憎しみすら感じ取れる。まるで親の仇でも語るかのような口ぶりだ。
もしかすると、本当に誰か親しい人間を革命で失っているのかも知れない。
この件については触れないでおこうと千早が内心思っていると、
「オレンジ、召し上がりませんの?」
とひとかけらだけ残った蜜柑の残骸をこちらに、すっと寄せてきた。
そして、12月30日。
国連の採択への対応で日本国内が紛糾している最中、東ヨーロッパで大事件が勃発した。
ソビエト連邦の重要な構成国であるウクライナ社会主義共和国が、「ソビエトによるウクライナ人の大量虐殺」を問題として取り上げ、連邦からの独立を表明したのだ。
これに対し、北欧及び東欧諸国からまるで示し合わせたかのようなウクライナの独立を承認する声が上がっていき、混沌の火種がヨーロッパ全土へと燃え広がっていった。




