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某年某月 比婆山にて

えらい長くなったので分割です。

 まるで頭にもやがかかったかのように、思考が上手く働かない。

 千早は自らの意思に反して動く足に急かされるようにして、何故か細い山道を歩いていた。

 やけに視線が低く感じられる。歩幅も小さい。疑問を抱きながら辺りを見回してみると、周囲の景色が"てん"であべこべなことに驚かされる。

 落葉に山桜、枯れ倒木に深緑の色合いなど、春夏秋冬まるで全ての装いがごちゃまぜになったかのような景観だ。

 恐らく、これは限りなく明晰夢に近い夢なのだろう。

 それと言うのも、どうにも先頃カムチャッカにおける空戦を終えて以降の記憶がおぼつかないのだ。

 あの後、ソビエト軍の航空士イワンと対峙して、取り逃がして、それで――。

 中々引き出すことのできない記憶の欠片にやきもきしていると、しばらくして前方に苔むした古い鳥居が見えてきた。

 比婆山の山上に鎮座する、熊野神社の鳥居である。

 祭神はこの山に眠るとされるイザナミで、千早は幼いころから人生の節目と思われる時期になると、谷口に手を引かれてここへお参りにやってきていた。

 千早の足が進む向きを勝手に変える。

 こちらには確か――。

 球状の痕が無数に空いた岩の群集地が姿を見せ、おぼろげな記憶と景色が一致した。


 地元の人間に玉抱石たまがかえいしと呼ばれ、親しまれている安産祈願の霊石だ。

 千早は谷口と共にここへ来ると、いつも近辺の滝から水を汲んでは飲まされていた。

 最後にここを訪れたのは、もう兵学校を卒業した頃になるだろうか。

 ふと懐かしさを覚えて、岩をしげしげ眺めていると、


「うん、見ん顔じゃね。お参りのお客さんか?」

 平たくなった岩場に腰をかけた、千早と同年代と思わしき散切り頭の男が声をかけてきた。

 あちこちを飛びまわっている身の上からすると、長州訛りがひどく懐かしい。

 その服装は和装の下地に洋風のシャツと、明治にかぶれた古めかしいなりをしていて、何処か時代錯誤に見受けられる。

 こちらの素性をいぶかしんでいるのか、ひそめた眉は弓なりに反り上がっていた。

 への字の口元に、武張ぶばった目元。

 粗野さと生真面目さが同居した野良犬じみた面相をしている。


 千早は名乗ろうとしたが、上手く声が出なかった。

 しばらく答えを返そうと苦心していると、呆れた様子で男が口を開く。


「何じゃ、おしか。それとも、喉が渇いちょって声が出せんのか。ちと待っておれ」

 そう言って、肩掛け鞄よりアルミ製の水筒を取り出してはこちらに放り投げてきた。

「ほれ」

 慌てて投げられた水筒を受け取る。

 尻ごみする千早であったが、男が早くと顎で急かすので頭を下げて喉に流しこんだ。

 まだ冷たい。この近辺で汲んできたもののようだ。

 一息ついたところで水筒を返す。

 男は手に戻った水筒をぐびぐびと飲みほしては、再びこちらへ目を向けた。


「安産祈願の比婆山を一人で山登りとは変わっちょるな。いや、まあ。わしもそうじゃけど」

 男は都合のいい話相手が現れたとでも思ったのか、空を見上げて身の上話を始める。


「わしもなあ、本当は息子が5歳になってから来たかったんじゃがなあ。これから独逸との戦があるけぇ、そうもいかん」

 ドイツとの戦、というと欧州大戦の話であろうか。

 当時の日本はイギリスとの同盟を理由にかの大戦に参戦していた。

 そう考えると、千早は夢の内でタイムスリップをしたことになるのだが……。

 ――えらい中途半端な過去だなあ、と呆れ顔になってしまう。

 これが大和やのどかのように70年未来から迷い込んでしまったというのなら話は分かる。

 だが、欧州大戦などたかだか20年前の話なのだ。

 ひょっとしたら、中地要のように荒唐無稽になりきれない自分の偏屈さがこのような中途半端な過去を見せているのかもしれない。

 千早が一人肩を落としていると、


「ああ、7歳までは神の内というじゃろ。妻に先立たれて友人ところに預けっぱなしなんじゃが、節目の年くらいは一緒にと思ってな。3歳の時には連れて来たのよ」

 自分の話が良く分からなかったらしいと誤解した男が、更なる説明を加えてくる。

 千早は「節目の年」という言葉に妙な引っかかりを覚えた。

 自分も節目の時期には熊野神社ここへお参りに来ていたのだ。

 この奇妙な一致は果たして偶然か、それとも地元民ゆえの一致なのか。


「爺様は西南戦争で、親父は日露で死んじまったけぇなあ。全く、うちの家系が何をしたっちゅうんじゃ。わしもせめて息子が物ごころつくまでは生きていたかったが、そういうわけにもいかんのかも知れん」

 男はため息をつき、気を取り直そうとしたのか自らの頬をパンと叩いた。

 その仕草に、またしても千早は引っかかりを覚えて顔を歪める。


「わしの分も、息子には元気に生きてもらいたいもんじゃな。ちゅうわけで、願かけよ」

 何故このような夢を見たのだろうか。

 千早は目の前の男の正体に、おぼろげながら見当がつきはじめていた。

 

「何で――」

「ん?」

 この機を逃せば、今後この男と語らうことは叶わないかもしれない。

 震える声で、千早は言葉を続ける。


「何で願いごとを自分のために使わんの」

 千早の長州訛りが強い言葉遣いに、おやっと思った男が目を丸くした。

「何じゃあ、喋れたのか。じゃが自分のためにか、うーん」

 腕組みをしてひとしきり悩んだ後、男は大真面目な顔で答えた。


「妻とこさえた一人息子じゃけぇ。やっぱり自分より大事じゃもの」

「アンタが軍人ならさ、アンタの息子だって何年かすれば、軍人になっちょるかもしれん。そんで討ち死ちゅうことになったらどうすんの」

「息子が討ち死にかあ」

 その発想は無かったとばかりに、眉根を寄せて男が悩む。


「困る」

「えっ」

「……困るけぇ、待っちょってもらうわけにはいかんかな。いやこれでも藩士の出じゃし、いざという時の散り際は家長として褒めにゃならん。けど、やっぱりそれは困る。"谷口"さんの将棋みたいに――、ああわしの友人の親父なんじゃがな。負けそうになると、いつも『待った』と止めてくるのよ。そんな風にならんもんかと。虫の良い話かのう」

 イザナミ様お頼みします、と男は拍手をもって願をかける。

 その瞬間、男も含めた景色の全てが写真に写し取られたかのように凍りついてしまった。

 千早が声をかけても、男は何の反応も示さない。

 まだ話したいことは山ほどあった。

 男の生きていた時代のこと。

 息子の話。

 妻の話。

 居ても立ってもいられなくなり、千早が「親父ッ」と叫んだ瞬間、その意識は現代へと引き寄せられていった。



1934年11月 秋田県陸軍病院にて


 まず最初に千早の目に飛び込んできたのは、両目に隈をこしらえたアニーの姿であった。

 手で隠しきれない大欠伸をしている。ともすれば、今すぐにでも舟を漕ぎかねないほど眠たげな目をしていた。


 はしたないぞ、と声をかけようとしたが、口が上手く動かない。全身にもまるで皮が引っ張られているような不快感がまとわりついていた。

 ……一体自分はいかなる状態になっているのか?

 腕を動かそうと試みるも、やはり満足に動かせない。

 大量のガラス片を浴びたことによる怪我の痛みは和らいでいたが、代わりに左腕がずきずきと痛みを訴えていた。


 どういうことかと周囲を見回してみると、掃除の行き届いた清潔感あふれる白壁と、部屋を仕切っている桃色のカーテンが見える。

 どうやら自分はベッドに寝かされているらしい。

 サイドボードの上には果物かごが置かれており、その横にはカレンダーが立てかけられていた。 


 カレンダーの日付は1934年11月。月初めより20日までが斜線で消されており、週ごとに千早の知人の名がアルファベットで書き込まれている。

「11月……っ?」

 信じがたい日付に千早の意識は覚醒し、自分でも驚くくらいにかすれた声をあげた。

 

「チハヤッ?」

 舟を漕ぎ始めていたアニーがベッドに飛びついてくる。彼女が掛け布団を握った瞬間、左腕の痛みが強くなった。

 たまらず顔をしかめながら、「ここは?」と問いかけようとするも、代わりに咳が飛び出した。

 喉が痛いほどに乾いている。


「起きたのね? チハヤっ。どうしたの? 何処か痛いの?」

 ゆさゆさと布団を揺らすアニーは、ようやく訪れた春の気配に喜ぶ子供のように明るい顔をしていた。

 布団が動くたび腕に痛みが走るのだが、この顔を見てしまったら何も言えない。


「水」

「水ね、すぐに用意してあげるからっ」

 言ってアニーは水差しからガラス製のコップに3分ほど注ぎ、千早の口元に寄せてきた。

 いささか量が物足りない上、人に飲ませてもらうというのも落ち着かない。

 眉を顰めつつ、千早はそれを受け入れる。


「……もっと量が欲しいのだが」

「駄目よ、脱水症状の時に水分をたくさん取ると身体に悪いってお医者様が言ってたわ!」

 アニーの言う通り、千早の喉は雨期を待つ砂漠のようになってしまっていた。

 何度かに分けて水分を取る。


「ありがとう」

 ようやく身体に生気が戻ってきたかというところで、千早はアニーに頼んで、身体を起こしてもらった。

 と、ここでようやく左腕に走る痛みの正体が判明する。腕に中空の柔らかい管が繋がれていたのだ。


「……何じゃ、これ」

「んっ、点滴? 用のカテーテル? というらしいわ。貴方の意識が無かったから、生命の維持に英国由来の新技術を試したんですって」

 成程、この管から水分や栄養分を皮下に注射することで最低限度の生命維持に役立てていたようである。

 まるで赤子の"へその緒"だ。

 もしかすると、親の夢を見たことと何か関係があるのかもしれない。

 千早がしげしげと"腕の緒"をためつすがめつしていると、アニーが盛大なため息をついた。


「……全く、心配させてくれちゃって。2ヶ月も目を覚まさないんだもの。本当に、目が覚めてくれて良かったわ」

「そんなに危ない状態だったのか?」

「うーん。お医者様の話じゃ、身体に異常は見られないってことだったんだけれど、とにかく原因が分からなかったみたい。失血と、極度の疲労による衰弱かもしれない、とは仰っていたわ」

 アニーと話している内に、徐々に記憶が戻ってきた。

 イワンとの戦いの後、千早は現地に展開した陸軍部隊に救出されて衛生兵の手当てを受けたのだ。

 そこで疲労から「少し眠る」と言って――、気がつけば今に至るというわけだが、


「俺はそんなに疲れていたのか?」

「もう、そんなの私が知るわけないじゃないっ。私は貴方じゃないんだもの」

 アニーは大げさに肩を落として続けた。


「ほんと。生きた心地がしなかったのよ。私もユーリも。だって、私たちが選んだ航空機でチハヤは墜落してしまったんだもの。戦いの話は聞かせてもらったわ。ユーリなんて、型落ちの航空機で戦わせてしまったって、すごく落ち込んでいたの」

「そんなことはない」

 むしろ"海猫"やマッキでなければ、勝負になったのかすらも危ういところであった。

 総隊を支える技術者の面々には感謝こそすれども、怨むなどありえないことだ。

 生田や他の仲間たちだって同じことを考えるに違いない。

 仲間たちの顔が思い浮かび上がったところで、千早は気がかりになっていたことを尋ねた。


「戦況は、どうなったんだ?」

「ええと……、詳しくは分からないけど、イクタも日本が勝っているって話していたわ」

「生田さんはもう快復したのか」

 生田は墜落時の衝撃で鼻と腕を骨折していた上に、低体温症を患っていたはずだ。


「もう元気よ。今もお庭で時間を潰しているんじゃないかしら」

「案内してくれないか?」

 ベッドから抜けだそうとして、バランスを崩したところを慌てたアニーに支えられる。

 寝たきりだった期間があまりにも長かったため、すっかり足が萎えてしまったようだ。


「待って! ええと、ちょっと待ってね。看護婦さんっ。ヘルプ! ええと、日本語だと。お願い? 助けて? とにかく、ヘルプ!」

 駆け付けた看護婦に千早が事情を説明すると、看護婦は長期間外出をしないという条件付きで、車輪のついた椅子を貸与してくれた。


「へえ、車椅子って日本にもあるのね。舶来ものかしら? でも、材質からして日本のものかなあ。銘は、キタジマ……?」

「良いから早く案内してくれ」

「はいはい」

 アニーに押されて、千早は病院の中庭へと向かう。

 中庭には西洋風に刈り込まれた生垣とハナミズキが所々に植えられていた。

 ベンチにはまばらに人が座っており、思い思いに歓談を続けている。

 生田はそんな中でも中庭の中心部にいた。

 鼻を覆った当て布や三角巾が痛々しいが、一見して元気そうに見える。

 彼は、恐らく入院患者であろう少年と、球の投げ合い――、つまりキャッチボールをしていた。


「おっ、宮本ついに蘇ったのか!」

 千早の存在に気がついた生田が、こちらにむけて陽だまりのようなからっとした笑顔を向けてくる。

 その頭にごつんとボールが当たった。

「兄やん、勝負の最中によそ見はあかんやろ」

「……いや、今のは無しだろ。明らかに待ってくれて良い場面だったと、俺は思うんだが」

「知らんもん。これで7対2や」

 得意げに鼻を鳴らす少年を恨みがましげに睨みつけて、


「くそ、おい宮本。感動の再会はまた後だ。男には逃げちゃ駄目な戦いがあるんだよ」

 言うが早いか、真剣勝負の舞台へと再びその身を投じてしまった。

 千早はアニーと呆れ顔を見合わせる。


「生田さんは、何でまだ入院しているんだ?」

 あの元気さならば、尻を蹴飛ばして総隊へ連れ戻しても問題はないよう思える。


「あれも治療の一環だ」

 千早の疑問に答える声が背中よりかけられる。

 振り返ってみると、いつもよりも柔和な面持ちでベンチに座り込んだ護民総隊参謀長――、井上成美の姿があった。

 手には火のついていない煙草を持ち、痩せこけた女性と仲睦まじげに隣り合っている。


「井上さん」

 どうしてここにと問うてみると、

「妻の定期診断に付き添っていたんだ。これがあるから、週1は休ませてもらっている」

 井上の言葉を受けて、隣の女性が立ち上がってこちらへぺこりと頭を下げた。


「喜久代と申します。井上の妻です」

「あ、ああ。自分は護民総隊航空士の宮本です。井上さんにはいつもお世話になっておりまして――」

 立ち上がれない分、車椅子から身を乗り出して慌てて頭を下げ返す。

 喜久代は少し頭を傾け、菩薩のように微笑んだ。

 第一印象からして、普段傲岸な井上とは正反対な人となりをしていそうに見える。

 挨拶が済んだところで、井上がごほんと咳払いをした。


「喜久代さん、すまないのだけれどね。宮本君と少し話がしたいんです」

「はい、はい」

 喜久代は微笑みを絶やさぬままに、こちらへと再び頭を下げる。

「それではあちらで生田さんの応援をしておりますね」

「本当にすまない。この埋め合わせは必ずしますからね。帰りには一緒にケエキを買って帰りましょう」

「美味しい茶葉も必要ね」

 くすりと頬をゆるめて、喜久代は井上の座るベンチの向かい側へと向かっていく。

 アニーも空気を察してか、「奥さんと話してくるわ。英語、何処まで通じるかしら」と小走りに駆けていった。


「さて」

 喜久代が離れていくにつれて、井上の表情が鋭利で酷薄なものへと変貌していく。

「まずは生田の奴が何故未だ病院に残っているかだが、ああ見えて後遺症がひどいんだ」

「……後遺症、ですか?」

 千早が見る分には、一見して元気そうに見える。

 復帰を危ぶまれるほどの後遺症とは一体何なのだろうか。


「精神的な疾患という奴らしい。一度死にかけたせいか、目の前に高速で何かが飛んでくると身体が硬直してしまうのだ。これでは軍人として役に立たない」

「それじゃあ、あのキャッチボールは」

 井上が重く頷いた。

「少しずつ、身体を慣らしていっているのだそうだ。ああ見えて、奴は必死だよ」

 千早は生田の横顔を見た。

 相変わらず少年と軽口を叩き合っているが、よくよく見てみると投げ合っている瞬間はひどく切羽詰まった表情をしている。

 大した運動ではないというのに、汗ばみ方も尋常ではない。

 生田のような歴戦の軍人でも戦場で患うことがある――。その事実に千早は少なくない衝撃を受けていた。

 言葉を失った千早に対し、井上は何処か探りを入れるような声色で問うてくる。


「貴様は大丈夫だろうな。一応、ひとしきりの検査を受けてもらうことになるぞ」

「それは、大丈夫だとは思います」

 精神的な疾患という奴は自分ではとかく分からないものだ。

 そのことは先だってのイタリア行を経て、千早も身にしみている。

 だから断定はできないが、恐らくは大丈夫であろうと思われた。

 墜落に関しては既に経験済みなのだ。今のところ、他に心的外傷になり得るものには心当たりがない。

 千早の答えに井上はため息をつき、ベンチに背をもたれさせた。


「まあ、無理はせんで良い。貴様も生田も今後しばらくは戦場に出す予定が無いからな」

「どういうことですか? 戦況が落ち着いたのでしょうか」

「少々、話が長くなるが……、丁度良い機会だろう。貴様も暫くは病院から出られんのだし、公になっている部分までは話してやる」

 そう言うと、井上はこちらへ身体の向きを寄せて、戦況について語り始めた。


挿絵(By みてみん)


「まず、日ソの紛争は既に陸上戦闘が主体になった。兵站の伸びきった北方海域は、流氷のせいで潜水艦も輸送船も満足に活動できる環境ではなくなったからな。我々の仕事はひと段落といったところだ。一応、砕氷船を用いて輸送を続行しようという案もあるようだが、恐らく頓挫するだろう。距離があまりにも長すぎる」

「陸上の戦況はどのように推移しているのですか?」

「沿海州では関東軍と白ロシア義勇軍が暴れに暴れている。今回の作戦を立てた奴は、心眼でも持っているのやもしれんな。ソビエト側は飢饉のせいか、とにかく動きが悪すぎる。本来は量・質ともにあちらが圧倒していたというのに……、あちらの将軍はさぞかし苦労していることだろう」

 それに、と井上は言葉を続ける。


「陸軍の編み出した新戦術にも目を見張るものがある。参謀の石原、だったかな。航空機による戦略的偵察、弾着観測射撃を採り入れたのだそうだ。これにより火砲の質で劣っていた日本側の火力精度が向上し、陸軍大国のソビエトを相手にしながら終始有利に立ち回ることができた。ウラジオストクは既に落とし、ハバロフスクまでは我が国の勢力下におさめたとのことだ。ここに海軍の支援が加わる」

「海軍、ですか?」

 海軍といえば、第1遣外艦隊のことだろう。

 第1航空戦隊は触雷により"鳳翔"が爆沈、"加賀"が大破してしまったために現在動ける状況ではないはずだ。

 1航戦といえば――、"鳳翔"の仲間たちの安否はどうなっているのだろうか。

 状況は至極絶望的で、希望的観測を挟む余地もないのだが、それでも報告を聞くまでは……、とどうしても彼らの無事を諦められずにいる。

 今は袂を分かってはいるが、彼らのやはり戦友、家族に等しい存在なのだ。

 千早が表情を暗くしていたところに、井上が求める答えを提示してくれた。


「第1遣外艦隊と第1航空戦隊の生き残りだ。貴様は"鳳翔"の乗組員だったそうだな。あそこの乗員は7割が戦死。残る3割が負傷したらしい。無事で済んだ者はいなかった、ということだ。まあ、艦が爆沈して生存者がいただけマシ、といったところか」

「そうですか」

 千早の心が更に沈んでいく。

 身体が本調子に戻ったら、戦友たちの墓参りに向かおうと心に決めた。


「それで海軍大国の担い手たる帝国海軍としてはいたくプライドを傷つけられたらしくてな、新たに1個艦隊を投入して近海の掃海に乗り出した。沿海州の港町、ワニノ、ニコラエフスク、オホーツク、マガダンを攻撃し、潜水艦の帰り道を塞いだところでの山狩りだ。さしもの敵も、これにはどうしようもなくなり、今回の戦いで確認されていた潜水艦は全てが撃沈、拿捕されることになった」

「攻撃を加えた港町は占領したのですか?」

「海軍陸戦隊を総動員した。マガダンの方は陸軍第7師団や現地住民等で構成された解放義勇軍と連携して攻め立てた関係上、あちらが管理しているようだ」

「我々が輸送した師団ですね」

 千早は"秋津"で出会った陸軍の顔ぶれを思い出した。

 命の恩人、永見俊徳陸軍大佐率いる歩兵第25連隊の面々や、蛸を彷彿させる牟田口輸送指揮官。

 それに桃山殿下をはじめとする朝鮮人日本兵、加藤たち陸軍の航空従事者。

 彼らは今もカムチャッカで激戦を繰り広げているのだろうか。


「そうだ。輸送作戦自体は途中問題も発生したが、臨機応変に行った"ネズミ輸送作戦"とやらのおかげかぎりぎり目標の補給量を届けることができた。問題はその後だな」

「何かあったのですか?」

「解放を望む現地住人の数が予想以上に多すぎたのだ。チュクチ族、エヴェン族、ヤクート族、ニブヒ族、ユカギール族……、現地指揮官はこれらを当初の目標通り、"全て"解放しようと手を広げた。その結果、東シベリア一帯に小規模な防衛拠点が乱立することになってな。ソビエトの手痛い反撃を各個に食らう羽目になった」

 驚きのあまり、千早は思わず声をあげた。

 軍隊の運用において戦力の集中は守らなければならない大前提の原則である。

 ソビエトと戦闘経験のある陸軍の重鎮たちが各個撃破の危険性を知らないはずがなく、どういうことかと千早は頭を傾げた。


「分からんか?」

 井上の何処か試すような口調に千早は黙って頷く。

「戦場で行け、行け、の空気になったことも確かだろうがな。やはり、大事なのは今回の戦いが"現地先住民の救済"を目的としていたことに問題があったのだ。戦略的に問題があっても、大義名分に反する行動はとれん。これを無視すると、他国に付け入れられる隙を作る羽目になる」

「政治、の話ですか?」

 千早が安易にそう返すと、井上は途端に不機嫌な顔になる。


「軍人は政治に口を出すべきじゃないが、政治を忌避することもいかん。政治が軍事力に指針を与えてくれるんだ。断じて考え違いを起こすんじゃないぞ」

 井上に咎められ、千早は「すいません」と俯き謝罪した。

 井上は鼻を鳴らし、更に続ける。

「彼らは連隊規模で小規模な防衛拠点に詰めていたそうだが、各地で飢えたソビエト兵に包囲殲滅されることになった。詳報を読む限りでは死者は2万近くにも上るらしい。ただ、最も死者を多く出したのは先住民の救出行で、だな」

「救出行とは?」

「現地参謀の試算では3カ月を各個に守り切れば、援軍によって1大攻勢に転ずることが可能と予測したらしい。当初は全軍がそれに従い動いていたのだが、不安に駆られた先住民たちと、彼らにほだされた朝鮮人日本兵の現場判断によってカムチャッカへの避難護送が開始された。決死の突撃で敵の包囲網に穴を開け、各地に詰めた連隊と合流する形で最終的には3万の先住民をマガダンまで護送したのだ。この殿しんがりに立った部隊の被害が甚大だった。兵2万の内、1万3000がここで戦死している。中でも朝鮮人日本兵の戦死者がとてつもないことになっており、元大韓帝国の皇族である桃山殿下も率先して殿に努めた結果、片足を失う大怪我を負われたそうだ」

「それは……」

 何とも言葉の返しづらい話であった。

 言うまでも無く軍隊において独断の行動は重罪である。だが、先ほどの井上の言葉を踏まえれば、あながち間違った判断であるとも言い切れない。

 第一に優先すべきは、あくまでも現地住民の安全なのだから。

 井上は「今度はちゃんと考えているようだな」と冷笑を浮かべた後、続けた。


「はっきり言って軍事的には褒められたものじゃないが、政治的には悪くない判断だと俺も思う。現地住民の信頼を勝ち取り、国内では桃山殿下を讃える記事が連日のように新聞で出されている。逆に現地参謀は株を下げたな。日本人の癖に薄情だ。先住民を軽く見ていると、まるで吉良上野介のような扱いを受けている。確か牟田口と言ったか。降って沸いた災難には流石に同情するよ」

 他人に手厳しい井上にしてみれば、えらく同情に満ち溢れた口調であった。

 千早が解せない心地でいると、井上が胡乱げな眼差しを向けてくる。


「何だ。俺が他人に同情するのが、そんなに珍しいことか」

「あ、いえ……」

 ぴたりと心の内を当てられたように感じられて、千早は動揺を隠せない。

 そんな様子を見て、井上の表情が見る間に歪んでいった。


「そもそも、その牟田口とやらは参謀としては今回何ら失敗を犯していないんだ。参謀というのはな、物事を数量的に見ることが大事なんだよ。補給物資は規定値を無事に届けることができた。防衛拠点の放置は非情で拙い話ではあるが、拠点一つが潰されるのに幾ばくかの時間が稼げることも事実だ。先住民も当然犠牲になるだろうが、日本兵が最後まで心中したとあらば面目も保てる。本来の案ならば、日本軍はマガダンまで戦線を下げる必要も無かったろうよ」

「友軍を見捨てるのは流石に……」

 千早が眉根を寄せると、井上はその態度を鼻で笑う。


「情にほだされるというのは、希望的観測と並んで参謀が最もやってはいかんことの一つだ。源平合戦の時代じゃないんだから、高度に組織化された近代軍制において、参謀という職務は行政官僚と同じ組織の歯車としてのみ動けばそれで良い。現場指揮官とは違い、友軍の叱咤激励、信頼の獲得といった人情云々を必要とする職務ではないんだ」

 井上の見解は、現場で生きてきた千早にとって別世界の言葉といっても良いほど、かけ離れた考え方に則ったものであった。

 自ずと海軍から出向してきた総隊批判派の柴田や福永が思い出される。彼らの論も情というものを廃していた。


 両者に違いがあるとすれぱ、それは恐らく大元に根ざす目的にある。

 柴田たちの論は海軍の存続を第一の目的していた。対する井上のそれは政治的な、国家的な視点に立っている。

 思うに、組織の歯車――、後方業務というものはその根ざすところによって良くも腐りもするものなのかも知れない。

 千早がそんなことを考えていると、井上の語りは段々愚痴へと変わっていく。


「だが、官僚気質というのは現場気質ととにかく馬が合わない。恐らく件の牟田口とやらも現場からは蛇蠍の如く嫌われているのだろうと思う。うちにもそうした視野狭窄がおったな。新見のことだ。あいつにはいささかがっかりさせられた」

「新見艦長がどうなさったのですか?」

「牟田口をとてつもない愚か者だと罵っておった。あいつは軍政が分かる男だと思っていたんだが、現場に居る内に染まりきってしまったらしい」

「あの人なら言いそうですね」

 最近の新見はとにかく護民艦隊として人命を救うことに、自らに課せられた使命に誇りを持っているよう見受けられる。

 となれば、人命を数量的に扱う参謀的な考え方は相容れないだろう。


「結局のところ、軍政的に拾い物だったのは佐藤の爺さんと大井の奴くらいだったな。現場の面々にはやたら粒揃いがいることも腹立たしい話ではある……。次世代のことを考えるとなあ、5年。いや、10年はかけないとまともな組織ができあがらんぞ」

 井上の物言いに千早は少なからぬ違和を感じていた。

 この男は海軍からの出向組を追い出そうとしていたはずである。だと言うのに、出向組に対してあまり刺を見せていない。

 当然、この千早の疑問も井上は敏感に察知し、毒づいた。


「……また、珍妙な顔をしているな。今言った連中は既に海軍から完全に籍を移したよ。もっと海軍に愛着があるものかと思っていたんだが、佐藤の爺さんなんかは完全に敵視してしまっている。大井は、多分腰が軽いだけだな」

 千早は井上の話を聞き、内心で少し安堵していた。

 身内争いというのはやはり性に合わないのだ。


「今後、補充士官の中から軍政に明るい者が出てくれば良いですね」

「まるで他人事のような顔をしている。言っておくが、貴様も他人事ではないからな」

 半眼で呻く井上の言葉に、千早はぎょっとする。


「どうしてですか?」

「今一番足りていないのは航空参謀だからだ。丁度良かった。貴様に渡しておくべきものがある」

 言って、井上はベンチに置いていた革製の鞄より分厚い書類の束を取り出す。

 束には『護民艦隊、第一次航空母艦ノ建造計画ニ就ヒテ。及ビ航空戦隊ノ編制ニ就ヒテ』と記されていた。


「これは……」

「見ての通り、航空戦隊の編制計画書だ」

 ぺらぺらと書類をめくってみる。

 その内容は"鳳翔"型の正規空母を建造する計画から、艦載機の選定について、さらには航空士官の育成と多岐に及んでおり、随分と大がかりな計画書のようであった。


「附録として付けた戦力損耗率の計算方程式などはかなり面白いものだぞ。酒田生まれの補充士官が戦闘詳報を弄って完成させたらしい」

「それは確かに、興味深いですが」

 問題は、1項目の正規空母建造計画であった。


「この空母建造計画……。ロンドン海軍軍縮条約があるというのに良いのですか? 我が国は新たな建造艦を作れないはずですが……。よしんば枠を勝ち取るのだとしても、貴重な空母枠を海軍が明け渡すとは到底思えません」

 千早は疑問を投じてみる。

 ロンドン海軍軍縮条約は日本が作り上げた特型駆逐艦と、正式運用の始まった正規空母を狙い撃ちにする軍縮条約であったはずだ。

 条約に縛られた日本に、これ以上軍備を増強する余裕はない。

 これに対して、井上の返事は実にそっけないものであった。


「情勢が変わったんだ。詳しくは自分で調べてみろ」

「情勢、ですか?」

 井上は頷き、更なる爆弾を投下してきた。

 

「貴様にこれを預けてやる」

「――は?」

 何を言っているのか分からなかった。

 混乱する千早に対し、井上は真面目な顔で更に言う。


「一度本腰を入れて軍政に関わってみろ。中々どうして後方業務もやりがいがあるぞ」

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