1934年9月 占守海峡にて(3)
60馬力のディーゼルエンジンが断続的な駆動音をかき鳴らすたびに、大発動艇の幅広な舳先が波間を押し退けるようにして進んでいく。
上陸用舟艇母船"秋津"より護民艦隊へと渡る、陸軍からの送り船である。
整備の手間や燃料の要という難はあるだろうが、万全の環境で稼働できるならば海軍の端艇よりも便利そうだ。
装備と速力、耐波性さえ確保できれば、戦力としてすら数えても良いかもしれない。
これは使えるか……? と、護民設計艦"竜宮"の航海参謀である大井は、きょろきょろと船内を興味深げに眺めながら、自艦隊で活用できそうな部分を脳内の覚書に書き記していく。
「……一端の士官が間の抜けた振る舞いを見せるんじゃない」
ましてや陸に、と釘を刺してきたのは駆逐艦"海彦"艦長の新見であった。
大井と共に送られる新見の顔は、まるで苦虫を噛み潰したかのようになってしまっている。
「ああ、申し訳ありません」
気持ちのこもっていない返事は海軍ならば即座に"修正"される不調法であったが、上下関係がそこまで固まっていない護民艦隊においては、余程のことがない限りはお目こぼしがされていた。
住むに心地の良い、好環境である。
元々理屈っぽく、他人と折り合いをつけるのが苦手な大井であったから、このまま海軍から完全に籍を移してしまおうかと思うくらいには、今の環境が気に入っていた。
新見の機嫌が悪いのは、先ほど"秋津"で行われた今後の方針を定める緊急会議が影響しているのだろう。
これは内心、忸怩たるものが渦巻いているに違いあるまい。
君子危うきに近づかずとばかりに新見を遠巻きに観察しながら、
「戦術と戦略、か」
大井は新見と先ほどまで激しい舌戦を繰り広げていた、輸送指揮官の顔を脳裏に思い浮かべる。
陸の人間だというのに、まるで茹で蛸のような男であった。
損得勘定に執着し、それでいて発言の一々が希望的観測と大言壮語、杓子定規にまみれている。
頑迷で官僚気質な小者、とでも言い表せば良いだろうか。
間違っても上司になどしたくはないなと、大井は思う。
――しかし、彼の意見に聞くところがないのかと言えば、そうでもなかったのだ。
◇
"秋津"船長室で開始された陸海緊急航海会議は、まず円卓を挟んで輸送指揮官と向かい合う新見の舌鋒によって口火が切られた。
「何故、あの非常事態にて悠長に荷降ろしなど始めたのですか!」
と語気を荒くして詰問する。
占守海峡の中程でソビエトの潜水艦隊に襲われた護民艦隊は、味方輸送船1隻と生田の乗る水上機1機を大破させながらも、辛うじて敵を退けることに成功した。
夜間のおぼつかない戦果確認ではあったが、恐らく敵は潜水艦2隻を失っているはずだ。
撃沈を成し遂げたのは"竜宮"と"山彦"の2隻であった。
口惜しいことに"めくら撃ち"をしたであろう伏兵は暗中へと取り逃がしてしまっている。
"海彦"と"対馬"の三角測量によってその位置をある程度特定できたものの、有効打を与えるには至らなかったのだ。
測量に狂いがないのだとすれば、爆雷投下の合間を縫って、一か八かの脱出でも図ったのであろうか。
もしそうだとすれば、大した度胸であると感服するより他にない。
夜は潜水艦の世界であることを改めて痛感する。
聴音機と見張り員の心眼だけでは、どうしようもないのが対潜戦闘なのだ。
「万が一の損失を減らすために決まっておろうが」
「何故、あのタイミングであったのかと伺っているんです!」
不幸中の幸いと言うべきか、護衛対象も味方の人員も損害は軽微に収まっている。
触雷した輸送船が食料専門の輸送船であったことも僥倖だったのだろう。船尾の出火は類焼せずに、辛うじて船尾を失っただけで済ませることができた。
これが弾薬や燃料の運搬船であったならば、そうはならなかったはずだ。
誘爆に次ぐ誘爆で、今頃沿海州で轟沈した"鳳翔"と同じ運命を辿っていたに違いあるまい。
ただ、被害は浅かった、良かったなどという考えは戦闘の終わった今だからこそ口に出せることで、何時沈むとも分からない緊急時に船から人員を避難させるでもなく、ただ積み荷を降ろそうとするなど、とても正気の沙汰とは思えなかった。
恐らく、あんな状況下では乗員もまともに働けない。
乗員を全滅の危機に晒して、1トンか2トンの物資を回収できれば御の字、といったところであろうか。
費用対効果を持ち出すまでもなく、現場判断としては極めて愚かな選択だ。
せめて人員だけでも救出すべく、速やかに船から脱出させるのが指揮官の為すべき仕事であった。
それを新見に詰られた輸送指揮官は、蛸顔を不快そうに歪めて言い返す。
「何故も何も、本作戦の主目的はカムチャッカへ物資を輸送することだろう。オホーツクの海が氷で閉ざされるまでに、後6万トンは物資を輸送しておきたい。無駄にできる物資などあるものかよ。むしろ、貴官はあそこで荷を諦めろとでも言うつもりなのか?」
「あの状況下で荷降ろしなどしても、乗員はまともに働けません」
新見の抗論を、指揮官は鼻を鳴らして小馬鹿にした。
「それは気力が足らんからだ」
「気力、ですと?」
「輸送物資に手足はない。海に沈めば、沈んだきりである。だが、人間様には気力と手足があるではないか」
「……アンタは、沈む船から自力で泳いで脱出しろと乗員に強いるつもりだったのか!」
激高する新見に一瞬気圧された輸送指揮官であったが、平静を務めて一喝を返そうとする。
「畏れ多くも!」
今上陛下を言い表す枕詞を持ち出されては、新見も直立せざるを得ない。
大井も居住まいを正しながら指揮官の続く言葉に耳を傾けた。
「カムチャッカ土人の救出は、大亜細亜の民草をソビエトの支配から解放せんとする帝国の、陛下の御心に沿ったものであろう! これは"アジア人のためのアジア"を築き上げる聖戦である。海に沈んだから何だっ。溺れ死ぬ方が悪かろう。ふぬけている証拠である! 輸送物資がカムチャッカに辿り着かねば、何万という兵士と土人が飢えて苦しむのだぞっ」
指揮官のその言葉は、海の怖さを知らない陸住まいにありがちな暴論であった。
オホーツクの海は荒く、冷たい。
先だっての作戦中、墜落したマッキに乗っていた生田は、鼻と腕を骨折していた他に、長時間海上を漂っていたことによる低体温症を患っていた。
命に大事は無かったが、今後の復帰が危ぶまれるほどの大怪我である。
長らく海軍に在籍していた生田ですらこうなっているというのに、大質量の船が沈んでいく流れに逆らって、海面にまで浮き上がって来られる程の水泳巧者が果たしてどれだけいるものだろうか。
絵に描いた餅ほどに現実味の無い発言だと思う。しかし、
「アンタはオホーツクの海を知らないから、そんなことが言えるんだ! 船と共に沈んで、浮き上がれる者がいるわけなかろうッ」
「貴様とてシベリアの厳しさを知らんから、そんな甘っちょろいことが言えるんだ。わしはカムチャッカを単身偵察したこともあるのだぞ!」
かと言って、輸送指揮官の暴論に正鵠を射ている部分が無いわけでもない。
上官二人の水掛け論を聞き流しながら、大井は一人思考を続ける。
シベリアの冬が厳しいことは、大正期に大出兵を経験した陸軍こそ良く理解している話だ。
「友軍と先住民が飢えて苦しむ」という輸送指揮官の言葉に嘘や誇張があるわけではないだろう。
冬越しのためには大量の物資が必要であり、尚且つその輸送回数は限られていた。
ほんのわずかでも補給をないがしろにできない状況で、当座の人命を尊重するような現場意見が出されたなら、どう思うか。
人命の尊重は陛下より勅令護民総隊に出された、最も優先されるべき目標だ。新見がそれにこだわるのはそう不思議なことではない。
それでも、新見のとった態度は「大事をとった。飢えに耐えろ」と言っているようなもので、見捨てられる側からすれば、いかにも軟弱で薄情に映ることだろう。
当座の人命を優先するか、戦略目標を優先するか。
長い目で人の命を数量的に勘定した場合、輸送指揮官の意見に分があるように思える。
勅令と、感情を排した参謀の眼で物事を見るのならば、という但し書きはつくが。
「とりあえず、意見を具申致したく思いますが、宜しいですか?」
大井の横やりに、新見からは苛立たしげな、輸送指揮官からは胡乱げな眼差しが向けられた。
「……何だ?」
輸送指揮官のそれはまるで敵の味方を見るようであったが、生憎大井としてはどちらの味方をするつもりもない。
大井は水かけ論のような、まるで意味の無い行為がすこぶる嫌いであったからだ。
「当座の問題についてです。護民艦隊としては、足の止まった輸送船を曳きながらペトロパブロフスク・カムチャツキーへ向かうことに不安が残ります。まだ港まで200kmはありますから、5~8ノットで進んだとして最速で13時間弱。間違いなく夜が明けますから、潜水艦以上に航空攻撃が恐ろしい」
いたずらに会議に時間を割いている余裕などなかった。
相手を言い負かすよりも、さっさと何らかの行動に移ってしまいたい。
今回は、拙速こそが採るべき選択だと大井は判断した。
「加藤の飛行部隊や、そちらの下駄ばき飛行機がいるだろう」
「先ほどの魚雷狙い撃ちで、うちの部隊長がやられてしまったんですよ。指揮官が足りません。例え陸が奮戦しても、うちが満身創痍では防衛も厳しい。敵の残存戦力を考えると、船団の全滅もあり得ます」
「む……、全滅はイカンぞ。作戦が失敗する」
会話の中から、輸送指揮官が何を重要視しているかを読み取っていく。
殊更にこちらを下げるような物言いをしても、彼の態度に多くの軍人が持つ陸海の隔意は見られない。
ただ少なくとも今までの発言から、"本作戦の成功"にのみこだわっていることだけは理解できた。
そのこだわりが使命感からか、はたまた出世欲から来るものなのかまでは分からないが、要点さえ理解できればいくらでもやりようはある。
大井はちらりと新見を見た。
彼は口をへの字に曲げて、沈黙を保ったままである。
大方、護民艦隊の力不足を持ち出したことが不満なのだろう。
単なる居心地の良い寄る辺として護民艦隊を捉えている大井と違って、彼はかなりの愛着と誇りをこの艦隊に持ち始めているよう見受けられる。
故に中途で口を挟まれては面倒だとひやひやしていたのだが、新見も現状の拙さは理解しているようだ。
やり易くて助かるとばかりに、大井は更にまくし立てた。
「輸送作戦は成功させなければなりません。ひとまず、輸送物資を手近な陸に揚げてしまいませんか? 船が沈めば物資は一発で駄目になりますよ。それならば、危険を払った後に輸送を再開するか、陸路でもって運んでしまうかした方が宜しい」
「あのな……、先程から何だ。ずけずけとずけずけと。輸送指揮官はわしだぞ」
ここで大井は下手を打ったと内心舌打ちする。
どうやら、目の前の蛸顔は面目にこだわる手合いであるようだ。
普段ならば、「一軍の将がつまらんことにこだわるな」とでも、憎まれ口を叩いていたところであったが、残念なことに時間が惜しい。
大井は切り口を変えることにした。
「あー、これは失言でしたな。ここは一つ、輸送指揮官殿の臨機応変な指揮をご教授願いたいものであります」
「フン……」
分かれば良いと鼻を鳴らし、蛸顔は口元に手を当てる。
「そうだな……。陸揚げ自体は悪くない。いずれにせよ各地に物資を運んで行くのだから、輸送の始点は何処だって良いのだ。ただ、カムチャッカの草原は馬鹿にできんぞ。わしが単独偵察を成し遂げた時にはな、野蛮な土人とヒグマに悩まされたものだ」
「ほうほう」
無心で相槌を打つ。
「飛行機の攻撃は物資を隠ぺいすればやり過ごすことはできような。ただ、カムチャッカは本土ほど木が生えているわけではないので、ものが目立つ。目隠しの一つにも現場の工夫が必要となろう」
「成程、各人の奮闘が期待されますな」
無心で相槌を打つ。
「問題は、今後の作戦進行だ。まだ次便があるというのに輸送船の1隻が役に立たなくなったのは痛い。これ以上の輸送船徴発は厳しいからなあ」
「無制限の徴発は、完全な戦時体制に移行するようなものですからね」
「財閥の意向もある。そんな余裕は今の我が国に無いのだよ」
井戸端で語るような政治談議を織り込みながら、ここが狙い目だと判断する。
大井は思い出したかのように、口を挟んだ。
「そう言えば、ペトロパブロフスク・カムチャツキーは港だったのですよね。今は戦場になってしまっておりますが」
「何を当たり前のことを……」
呆れ顔になった蛸顔であったが、すぐに「あっ」と声をあげる。
「そうか、カムチャツキーには操業のできない漁船が余っておるな! それを現場の権限で徴発してしまえば良いのか」
「これは指揮官殿の名案ですな。輸送船に比べれば小ぶりでしょうし、それなりに手間も時間もかかるでしょうが、2000kmをはるばる往復する我々が輸送を最初から最後まで請け負うよりは安全でしょう。小型船の移動範囲内まで物資を輸送したら、後はそちらに任せてしまえば良いのです。上手くいけば、我々の往復距離が短縮され、より多くの物資を運ぶことができます」
あくまでも蛸顔の太鼓持ちに徹すると、彼は存外の食いつきを見せ始めた。
「昼の輸送は飛行機が……、夜は潜水艦が問題になるか。おい、貴様ならどうする」
おや、と思いつつ、しばし思案した後に答える。
「それならば、夜間輸送の方が危険がないよう思われます。潜水艦の放つ魚雷というものは、小型船を撃破するには向いていないのです」
そもそも魚雷は、大物食いを念頭に開発された兵器なのだ。
小型漁船のような喫水の浅い船相手ではその威力を存分に発揮することができず、例え命中したとしても1隻が担う輸送量はたかが知れている。
それに比べると、航空機による攻撃は厄介であった。
搭載する7.7mm機銃でも致命傷になりかねず、下手をすれば完封もあり得よう。
そう蛸顔に説明していく内に、自分でもこの案は拙速にしてもあながち悪くないように思えてきた。
……もしやすると潜水艦に対抗するためには、小型艦の方が適しているのではないだろうか?
小型艦を多数運用することこそが、行き詰っていた対潜戦術のブレイクスルーになるのではないだろうか。
ここではない、この先の戦場へと大井の思考が向き始める。
そんな大井など、お構いなしに蛸顔は上機嫌で笑い声をあげた。
「夜間にちょろちょろ物資を輸送か……。まるでネズミではないか。良しっ! "ネズミ輸送作戦"とわしが名づけよう。当座の物資は陸に揚げて隠ぺいを施し、ネズミ輸送で物資を戦地へ送るのだ。これは上手くいきそうだぞ。それで良いな? 護民艦隊の方々?」
現実に引き戻された大井が新見へ目をやると、新見はため息をついて重く頷いた。
了承、ということらしい。
「艦長殿にも異論はないか。これで決まりだな。おい、ひょろっこい参謀。不躾だが、悪くない具申であったぞ」
「光栄です」
生返事をしながら、大井は懐から懐中時計を取り出して現在時刻を確認した。
会議が始まって2時間と少し。紛糾が予想された会議にしては、中々早く終わった方だろう。
これから夜を徹して物資を陸揚げしたとして、最低でも6時間はかかるものと考えれば、
「ぎりぎり夜明けには間に合いそうですな。心配なのは敵航空機の朝駆けくらいか……」
可能な限り、敵機に陸揚げ地点を発見されないよう努めなければならない。
囮か、先制攻撃か――。
いずれにせよ、艦隊の航空機部隊には辛い戦いを強いることになるだろう。
頼みの綱であった生田が空に上がれないという事実が重く大井に圧し掛かってくる。
柱石の一つがいない部隊で、一体何処までやれるものか。
大井は参謀としての力不足に歯がゆさを覚えつつも、もう一人の柱石たる宮本千早に後の望みを託すことにした。
◇
かくして、夜を徹した陸揚げ作業が丁度完了しようという頃合いに、千早をはじめとする護民艦隊航空機部隊と陸軍出向飛行部隊、計29機がカムチャッカの対岸都市、マガダン方面へと飛び立つことになる。
戦術的目標は敵航空機の迎撃、または味方船団が撤退するまでの時間を稼ぐこと。
水平線に鎮座する暁の光を背に受けながら、千早は赤白に染め上げられた大編隊の後ろ上方を飛んでいた。
性能で劣るこちらの部隊が、敵に対して唯一採り得る戦術――、囮戦術を成功させるために、である。




