1934年9月 占守海峡にて(2)
雲間に半月の覗く夜空は飛行するには暗く、不安がよぎる。
ぼんやりと夜光塗料が光を発するだけの操縦席内で、千早はいつも以上に細心の注意を払って機体の姿勢を制御した。
普段なら感覚で分かる機体の平衡も、天と地の境界が判然としない時分では計器に頼るより他に手がなくなってしまう。
一寸先も計器次第、まるで空で溺れているかのような息苦しさだ。
決して状況は似ていなかったが、何故か蘇州での戦いがひとりでに思い出された。
とりあえずは高度300メートルまで機体を上昇させる。
対潜哨戒は非常に困難な任務で、海面に見えるわずかな違和をも確実に拾い取らなければならない。
しかも今は夜である。
通常ならば500メートル近辺から目を凝らして索敵をするところだが、今回は視認性の悪さから若干高度を下げることにした。
ひとたび平衡を失えば一瞬で海面に墜落しかねない高度に、千早ははらわたが持ち上がるような不快感を抱く。
四苦八苦しながら、操縦桿とフットペダルをこまめに操作していると、艦隊から独立して航行を始めた海上の"竜宮"より目印の明かりが投射された。
夜間のトロール漁でも重宝した、探照灯の光だ。
敵に自分の位置を知らせてしまうため、従来の艦隊決戦において無闇な探照灯による索敵は御法度であった。
だが、こと相手が潜水艦になると話が変わってくる。
一刻も早く敵艦を発見しなければ、何時味方の輸送船が食われるとも分からない。
そんな状況下で「敵に見つかるから」とわざわざ索敵に手を抜く者がいるだろうか。
加えて、艦隊から離れた位置で光を発することで囮の役割も果たせ、哨戒機の先導までこなせるとあらば、対潜索敵に頭を悩ませる護民艦隊の参謀たちが目をつけないはずがなかった。
千早がフットペダルを踏み込んで進路を光に合わせると、横に生田のマッキが並ぶ。
『上から明かりを照らす。索敵せよ』
光信号を発するが早いか、生田機はそのまま上昇。
千早もこちらに送ってきた信号に従い、高度をそのままに維持する。
風防を開けて眼下をぐるりと辺りを見回すと、生田機の腹から投射された明かりが海面を照らし始めた。
マッキの足下には大きな覗き窓がついている。
そこに普段は光信号に用いる携帯投光器を設置することで、即席の夜間哨戒機に仕立て上げたのだ。
潜水艦対策を講じろと渋谷に命じられ頭を悩ませた、大井参謀の発案であった。
マッキと"海猫"では航行速度の上でどうしても"海猫"が優速になる。
そのため、千早は生田機の下をジグザグに蛇行するようにして飛ばなければならない。
ゆらゆらと揺れる機体の中で、千早は投光器の明かりにチカチカと反射する海面を目を細めて睨みつけた。
潜水艦は海中に深く潜んでいる時以外は、空気の入れ換えや充電、移動のために海上と海面下数メートルを行き来している。
敵の目的が輸送船の破壊である以上、必ず何処かで浮上して艦隊を追跡しなければならない。
潜航追跡は水の抵抗と速力の関係で、技術的な無理がある。
もし敵にこちらを追う腹積もりがあるのなら、海面付近にいるはずだ。
逆に敵がこちらをやり過ごそうとしているのならば、海面下数十メートルの深度まで急速潜航をしていることだろう。
水上機の夜間発進音は敵の聴音機も捉えているであろうから、慎重を期しても不思議ではない。
果たして敵は来るのか、それとも退くのか――。
一寸思案する、がすぐに前者の可能性が高いと判断した。
敵がカムチャッカ方面軍の補給事情を知っているとは流石に思わないが、今夜中に輸送船を沈めなければ、明日の日中には輸送船団がカムチャッカへ辿りついてしまう。
補給が潤えば潤うほど、戦況は日本側へと傾く。
ソビエトとて飢饉の無理を通して日本軍を迎え撃っているのだ。戦況を傾ける要因をみすみす見逃すはずがない。
故に千早は敵が近付いてきていると当たりをつけて、艦隊周辺30キロ圏内を念入りに探索することにした。
『この近辺を見ていきましょう』
主翼を傾け、目を皿にして海上の違和を探す。
漂流物を凝視し、波間に見える黒い影に不安を覚え、鯨の海面を叩く姿に敵を幻視する――、神経を擦り減らす任務であった。
1時間近くかかった索敵の末、ようやく生田機の明かりを浴びて尚、海面に大きな影を残す箇所を発見する。
影はどんどん小さくなり、やがて海中深くへ消えて行った。
間違いない。潜水艦だ。
こちらの警戒をくぐり、ぎりぎりまで味方艦隊を追跡していたのだ。
千早は味方艦隊に情報を伝えるべく、信号拳銃より発光弾を打ち上げた。
『敵艦、見ゆ』
生田機がすかさず軟降下し、覗き窓を開けて小型の浮標 《ブイ》を投下する。
孤立して様子を見ていた"竜宮"が動き始めた。
最大戦速の20ノットで浮標目掛けてやってくる。
その甲板上では水兵たちが慌ただしげな動きを見せていた。
"竜宮"の面々は、他の艦よりも対潜戦闘に関する錬度が高い。トロール漁の傍らで、何度も北洋に出向いて調練を重ねてきたためだ。
当然のように、浮標へ辿りつく前には『対潜戦闘用意』から『第一投射法、投射用意』までを迅速に終わらせてしまう。
余裕を持って指示を待つ船員の顔に不安の色は見られなかった。
彼らの傍らには爆雷投下軌道2列が敷かれており、その上にはドラム缶状の爆雷が並べられている。
舶来物の新型爆雷だ。
第一射目は水兵たちによって浅い深度で爆発するよう、調整が施されている。
"竜宮"が浮標の横に着いた。
そして、闇夜を切り裂く、対潜指揮官のホイッスルが高らかに鳴り響く。
『爆雷投下』の合図である。
まずは、1射目2発が海中へと沈んでいった。
"竜宮"は全速でその場から離脱。程なくして、海面に大きな水柱が立つ。
爆雷は海中で爆発を引き起こし、生み出された気泡と水圧によって艦体を揺さぶり、圧し折ることを目的とした兵器である。
直撃で無くとも良い。
少しでも損傷を与え、浸水でも起こしてくれれば、後は水の牢獄が敵を片付けてくれるだろう。
水柱が収まると同時に、千早は空から生田機とともに水面の浮遊物を探し始めた。
敵艦に損傷を与えたかどうかは、海面に浮かびあがる気泡や浮遊物をもって判断する。
燃料である重油や艦体の一部さえ浮んでくれば致命傷と断じられるのだが、果たして兆しは現れるだろうか――。
結果として、浮遊物は見当たらなかった。
第一射目の結果は、残念ながら有効打に繋がらず終わる。
――位置を測り間違えたか?
不安を抱えたまま、反復攻撃が始まった。
取り舵を取った"竜宮"が再び浮標へと肉薄。第一射目よりも深い深度で爆発するよう調整された爆雷が、ホイッスルとともに海中へと転がり落とされる。
そして2度目の水柱が上がった。
先ほどよりも水柱の背は低い。それだけ深い深度で爆発した証だろう。
当たらなければ他の層を探し、また当たらなければ他の層を探す……、この繰り返しが続けられる。
果たして有効打に繋がっているのか。爆雷戦時は機器や鼓膜がやられないよう聴音機を下ろすことができないため、その仔細を窺い知ることができない。
とは言え、爆雷の衝撃が収まってから聴音しても既に相手は気配を殺すことに専念しているはずで、やはり仔細が分からないのだ。
不安が膨らむ。
だがこちらが抱いている不安は敵も同じものを抱いているはずであった。
何せ敵は息を殺して隠れている以外に為す術がないのだ。
万が一"外れ"を引いてしまえば、その瞬間に自らの死が確定する。
向き合う死の恐怖に耐えかねて、発狂したっておかしくはないだろう。
かたや味方を守るため、こなた自らが生き残るため。
こうした真綿で首を絞められているかのような我慢比べこそが、潜水艦との戦いであった。
焦れに焦れる淡々とした繰り返しが続き、4往復目にしてようやく"竜宮"は"当たり"を引くことに成功する。
水柱が治まった後に、ぷかりと海面へ黒い液体が浮かび上がってきたのだ。
潜水艦の燃料である。
『敵艦に命中』
光信号にて手ごたえがあったことを"竜宮"に伝えると、甲板の水兵たちが湧き上がるのが見えた。
艦体が損害を受けた以上、浮上して降伏するか、それとも永遠の潜航に入るかの2択しかない。
しばし、様子を見て浮上の兆しが見えないことを確認後、5往復目の切り返しで駄目押しの爆雷を投下する。
水柱によって宙へ吹き飛ばされたものの中に、搭乗員が着ていたであろう水兵服が混じっていた。
最後まで降伏しなかったことを、天晴れな敢闘精神と捉えるべきか、それとも既に這い上がる余力も無かったのか。
その答えを最早知ることはできない。
答えを知る者たちは、たった今オホーツクの海で永遠の眠りについてしまった。
顔の見えぬ殺しあいに、言い知れぬ無情感が沸き起こってくる。
せめて祈りでも捧げてやろうと内心考えたところで――、
「……何だ?」
ふと鉄の軋む、嫌な音が聞こえてきて千早は護民艦隊が逃げていった方へと目を向けた。
いくつもの明かりが見える。ありえない。
囮でも無しにこの闇夜に探照灯を灯す理由などないはずだ。
よくよく見れば、その明かりの一つは探照灯のそれではなかった。
輸送船の艦尾が、炎上していたのだ。
全身から血の気が引いていくかのような心地を覚えた。
急いで信号弾を打ち上げて、友軍へ光信号を送る。
『本隊、敵と交戦中』
『航空機部隊、至急先行して掩護に回れ』
"竜宮"からの指示を受け、千早と生田は炎上する本隊へ向かうべく、スロットルレバーをいっぱいに開いた。
◇
「……相変わらず"竜宮"の錬度は見事なものですな」
"海彦"の艦橋にて新見は"竜宮"を見送りながら、誰へともなしに呟いた。
"竜宮"の艦長である渋谷とは護民総隊に出向してから1年半の付き合いでしかない。
それでも今までの付き合いで、人となりだけではなく、ここぞという時に命を預けられる信頼ができる男であるということが分かっていた。
「エトロフにて、我々と撃ち合った小型戦闘艇ですね」
共に"竜宮"の背中を見ていたマカロフが、目を細めながら言う。
そう言えば彼は国後島と択捉島を隔てる水道において、"竜宮"と正面きって戦った経験があったのであった。
「敵として相対してみて、どうでしたか。彼は」
興味が湧いて問うてみると、マカロフは難しい顔をして目を瞑った。
「……恐ろしいほど細やかな操船をする割に、その戦いぶりはまるで狂人のそれと似ているように見受けられました。火力で勝った相手に正面から相対するなど……、何故そこまで無謀な戦いぶりができるのかと不思議に思ったほどです。もし、彼が同格の駆逐艦に乗っていたならばと想像すると、今でも身の毛がよだちますよ」
その評価はおおよその所で新見の抱いていたものと似通っていた。
繊細にして大胆、無謀。
渋谷を評するならば、この一言で足りるであろう。
恐らく、現場の部隊指揮官としての能力は、新見や佐藤と比べても遙かに優れているはずだ。
若干嫉妬を覚えなくもなかったが、麒麟児の集まる海軍において、こうした劣等感は馴染み深いものであった。
「まさしく彼は傑物ですよ」
苦笑いを噛み殺しながらマカロフに返すと、佐藤が真顔で口を挟んできた。
「確かに渋谷君は本当に良い拾い物だと、わしも思う。だが、それは新見君も変わらんぞ」
そんなに分かりやすい顔をしていたのだろうか。
急な慰めにこそばゆさを抱くよりも先に、まず面食らってしまった。
目を丸くする新見を見ながら、佐藤はさらに続ける。
「新見君も田村君も、大井も生田も宮本も、吉野君たちもそうだ。護民艦隊の者どもは皆粒が揃っておる。これも陛下が示しあそばれた天運に違いあるまい。渋谷君だけじゃあないぞ。わしは、晩節にこの艦隊を率いることができて、とても嬉しいのだ」
胸に暖かい物を感じ、使命感に灯がともった。
新見は軍帽をかぶり直すと、対潜指揮へと戻ることにする。
「……"竜宮"が爆雷戦に移行するまでにはまだ猶予があります。全速で戦域より離脱しながら、水中聴音に努めましょう。ノイズが混じって使い物になるとは思えませんが、沿海州での戦訓があります。警戒はし過ぎるくらいでちょうどいいはずです」
「うむ、それが妥当であると小官も思う。どうやら複数隻で敵を狩るのが敵の常套戦術らしいからな」
1隻が輸送船を見つけたなら、複数隻で包囲しつつ敵が隙を見せるまで連係攻撃を仕掛け続ける。
こういった潜水艦特有の戦術を、西洋では群狼戦術と呼ぶらしい。
マカロフが言うには、ドイツにてUボート乗りが編み出した戦術のようだ。
彼からもたらされたソビエト軍の使用戦術は当然沿海州で戦う海軍へも護民総隊を通じてもたらされていた……、がそれでも海軍は"鳳翔"を失う大損害を被っている。
戦場とは、知識だけがあっても現場で完璧に活用できる環境ではないと言うことなのだろう。
気を引き締めて、水測室からの知らせを待つ。
「聴音士は精神を集中して、水中の違和を読み取るべし」
航行速度は13ノット。
これは30ノット近く出すことのできる旧オルフェイ級の"海彦"や"山彦"にとって物足りぬ速度であったが、輸送船を身内に抱えている以上は超えることのできない最大速度でもあった。
"海彦"と"山彦"が複縦にて先頭を走り、水上機母艦の"富山"、"対馬"が両側面の盾となる。
本来ならば水上機母艦は護民総隊にとって貴重な戦力であり、敵の攻撃に対する盾役としては不釣り合いであった。
しかし、いくら貴重だからと言って護衛対象を守らないようでは、本末転倒に陥ってしまう。
全ては戦力不足が招いた苦渋の配置であった。
後方は陸軍より貸借された"秋津"が固め、その中に輸送船が3隻走っている。
立場上、"秋津"も輪形の内部にいて良かったのだが、海軍が外を守り、陸が内側にいては格好がつかないとの通信から、このような配置に収まった。
いずれにせよ聴音士はノイズと、近くで轟々と聞こえる味方艦隊のスクリュー音を頭から除外して、遠方の小さなスクリュー音、魚雷注水音を聞き取らなければならない。
重責ののしかかる任務だ。
命じる方も気安く見守ることはできなかった。
「どうだ、聴音士は何かを聞き取ったか」
「いえ、今のところは異常ありません」
「そんなはずはない。吉野君も直接聴音し、どんな様子か探ってみてくれ」
伝令代わりの吉野副官は、やきもきする新見、佐藤の指示を受けて艦橋と水測室を行き来している。
無駄に走らせて申し訳ない気持ちはあったが、伝声管で伝えられる情報以上の、生の情報を新見たちは欲しているのだ。窮地を抜けるまでは我慢してもらうより他にない。
「南東より爆音」
水測室にいる聴音士が艦隊より離れた"竜宮"のいる方角より大きな爆音を聞き取った。
対潜戦闘が始まったようだ。
距離が離れていたため、機器や聴音士の鼓膜に大事はなかったが、こうなると水中聴音は更に困難になってしまう。
四方八方から雑音の入り混じる中、最初に違和を感じ取ったのは"山彦"の聴音士であった。
「艦長、"山彦"よりかなり遠方のスクリュー音を捉えたとの報告がありました」
待ちに待った発見の報であった。
「本艦の聴音士にも確認を急がせろ。三角測量であぶり出すぞ」
やがて"海彦"の聴音士も雑音の中に潜んでいた2軸スクリュー音を聞き分けることに成功する。
左前方、約10000メートルの海上。
三角測量によって割り出された位置へ向かって、護民艦隊は対潜掃討を仕掛けなければならない。
佐藤が苦々しい表情で口を開いた。
「……流石にオルフェイ級2隻を送ることはできん。かと言って1隻では敵の詳細位置を割り出すことも出来んだろう。水上機は、熟練しておらずとも夜間に飛ばすことはできんのか?」
「夜間の離着水は相当な飛行経験が必要で、素人が試みても機体を沈めるだけだと生田中尉が語っておりました。流石に水上機による夜間哨戒は厳しいかと」
新見の答えを聞き、佐藤は口惜しげに歯噛みした。
「戦力が足りんのだ。軍縮も、海軍上層部も……。政治の全てがわしらの邪魔ばかりしよる」
佐藤の放った怨嗟の呟きは、現場を経験すればするほど共感のできる類の不満であった。
しかし、今それをぼやいても仕様がない。
「"富山"か"対馬"を向かわせましょう。あれらにも聴音機は付いております」
「……致し方あるまい。"山彦"と"富山"を先行させることとする。各艦長に指示を下すように」
佐藤の指示に従い、新見は早速両艦へ指示を送る。
すると、"山彦"艦長である田村久三少佐と、村上という"富山"艦長を務める元民間人士官より「了解」の返信が返ってきた。
田村は本来艦政本部の本部長であったが、急増した艦の指揮をできる者が総隊内に見当たらなかったため、急きょ現場に立ってもらうことになったのだ。
本人も"足柄"の分隊長をやっていた経験があり、舶来の対潜兵装を実地試験できる環境を欲していた経緯から、"山彦"は対潜兵装の実験艦として改装が施されていた。
搭載兵装は一般的なオルフェイ級の兵装に加え、深度調整の可能な新型爆雷と投下軌道2条、それにイギリス・ヴィッカース社製の爆雷投射砲が2基で構成されている。
爆雷投射砲とは爆雷を火薬の力で航路から離れた地点まで投射することのできる兵装だ。恐らくはこと対潜戦闘に限って言えば、日本国内に"山彦"より対潜性能の勝る艦はいないだろう。
水上機を積載している関係上、"富山"に対潜爆雷は搭載されていないため、単艦で爆雷戦を仕掛けるのに"山彦"以上の適役は存在しなかった。
「艦隊、陣形を整えた後に之字運動を再開せよ」
両艦の先行を見届けて、護民艦隊は再び之字運動へと戻る。
魚雷は高度な見越し射撃を要求される兵装だ。
之字運動を繰り返すことで見越しのタイミングを悟らせないようにし、直撃率の軽減に努める。
潜水艦が周辺より駆逐されるまでの、辛抱であった。
先行艦が探照灯で周囲を照らしながら、急速に艦隊から離れていく。
南東からは先ほどの爆音に加え、都合3度の爆音が聞こえて、止んだ。
決着がついたのであろうか。
南東へと目を向けていると、更に"山彦"の方でも爆雷戦が開始されたようであった。
「水中聴音機を引き上げよ。これより先は見張り員の心眼に頼るより他に手はあるまい」
聴音を続けるには、先行艦の爆雷戦闘があまりに近くで起こり過ぎていた。
クジラが海面を跳ねた時のような轟音が艦橋にまで聞こえてくる。
前方の先行艦近辺に立ち上る水柱を睨みつけながら、新見をはじめとする"海彦"の面々は固唾を呑んで、事態の趨勢を見守った。
そうして、前方に二つ目の水柱が上がった矢先のことだ。
見張り員より願うことならば聞きたくのなかった報告がもたらされた。
「左舷より雷跡、4つ!」
伏兵による"めくら撃ち"であった。
「全艦、回避運動をとれッ」
新見の指示により、艦隊は之字運動を止めて個別の回避運動をとりはじめる。
艦体が軋み、急に転じた慣性に新見の身体が傾いた。
回避運動のような細やかな操船は、艦の性能と日々の鍛錬が物を言う。
幸いなことに護民艦隊の各艦は扇形に発射された魚雷の合間へと逃げ込むことに成功した……、が船内に大量の補給物資を抱え込んだ補給船は別であったようだ。
3隻の内の1隻が逃げ遅れ、艦尾に触雷する事態に陥った。
「……やられたのか」
目眩を感じながら新見は艦尾の炎上する輸送船を凝視し、苦悶の声をあげる。
「触雷した輸送船の行き足止まっています! ス、スクリューがやられたんですッ」
色を失った吉野の悲鳴を背景に、新見は次なる指揮を下せずにいた。
――以前とは違い、万全の警戒態勢を取っていたはずだ。
事前の研究通り、敵艦の発見時にも適切な戦力配置をとることができていた。
いざ、魚雷が発射された後も決して間違った指揮を執ったわけではなかった。
それでも、それでも被害は出てしまう。
不運が生み出すたった1隻の被害が、敗北と同義であるのが船団護衛だ。
勝ち戦など存在しない。
常に負けるか、それとも負けないかの世界に自分は身を投じてしまったのだ。
痛感する。
欧州大戦における護衛戦の歴史を海軍時代から個人的に研究していた新見であったが、その苛酷さを今までこの身で感じたことはなかった。
新見をはじめ、各員が無力感に苛まれている最中、
「"海彦"と"対馬"の探照灯を照らせ! 取り舵だ! 2隻で伏兵を狩らねばならんッ」
たった一人、気炎を吐く老将の姿が傍らにあった。
「佐藤、司令官」
「聴音機を下ろせッ。雷跡だけでは位置が分からん!」
「しょ、承知致しました!」
尻に火のついた吉野が伝声管で指示を飛ばす。
「爆雷と炎上した輸送船の音が水中をかき乱しており、正確な位置が特定できないとのことです!」
「戯け者ッ! 友軍の敢闘は雑音ではない! 何としてでも聞き分けろッ」
「……水測室に行って参ります。自分で聞かなきゃ分かりません!」
「良し、行って来い!」
怒号同然のやりとりを経て、吉野が艦橋より飛び出していく。
新見はこの火急の時に正気を失ってしまったことを深く恥じた。
「取り舵いっぱい。これ以上敵艦を図に乗らせるなッ」
上ずった声ながらも指示を出し、艦橋の窓に齧りつくようにして周囲に目を配る。
「新見君。不利な戦こそ、軍人の真価が問われるものだ。気張らにゃならんぞ」
「……お恥ずかしいところをお見せいたしました」
"海彦"と"対馬"が魚雷の放たれた方向へと艦首を翻す。
最大速力の関係上、全速を出せばどうしても"海彦"が先行する形になってしまう。
奇しくも梯形陣の体を為した2艦は闇夜を探照灯で照らしながら、群狼の一頭を探し求めた。
原則として、潜水艦は姿が見えぬからこそ脅威を発揮するものだ。
そのため、通常ならば対潜に動いた敵艦を目にした瞬間、逃げの一手を打ってもおかしくはない。
――だが、今護民艦隊と相対している群狼は貪欲であり、凶暴であった。
「――再び、魚雷注水ッ。敵艦の位置、捕捉しました!」
「狙いは!」
「い、行き足の止まった輸送船ですッ」
「とどめを刺しに来たか!!」
新見は憤りのあまり、壁に拳を叩きつける。
一度発射された魚雷を防ぐ手段はない。
そして行き足の止まった輸送船に魚雷を当てるなど、訓練を重ねた水雷士には造作もないことである。
今この瞬間、輸送船の命脈は絶たれたも同然であった。
「船員を何とか脱出させろ! 被害を最小限にとどめねばならんッ」
泡を飛ばしながらも新見は指示を下すが、輸送船が従うことはなかった。
陸軍の輸送指揮官から、"待った"がかかってしまったからだ。
輸送船の周囲には大発動艇が横付けされており、悠長に荷運びできる物資の運び出しが独断で行われていた。
頭の中が真っ白になる。
何時沈むともしれない船でそれは、優先順位が違うだろう、と。
「おい、何だあれは……っ。俺はあんな指示を出した覚えはないぞッ」
わなわなと震えながら、新見は輸送船を睨みつける。
「あ、"秋津"より通信ありました。『補給物資は本作戦の根幹なり。貴艦隊には輸送船の断固たる死守を望む』と……」
「状況を見て物を言えと、陸の指揮官に伝えてやれッ!」
伝令に毒づいても状況は変わらない。
もたもたしている間にも潜水艦の放った魚雷は、輸送船へと向かっているのだ。
新見は前方に見え始めた雷跡へと目をやり、破れかぶれの命令を発した。
「機銃! 魚雷を狙い撃てッ」
「機銃、ですかっ?」
「上手く誤爆でもしてくれれば儲けものだ! 弾丸が尽きても構わん。撃って、撃って、撃ちまくれッ」
伝令より射撃指揮官に命が下される。
雷跡は2本。
やがて、甲板から赤く発光した曳航弾が雷跡の先端に向けて飛び出し始めた。
火線が強かに海面を叩くが、魚雷が爆発する兆候は見えない。
火線をすりぬけた魚雷は、まるで凱旋でもするかのように"海彦"の側面を通り過ぎ、輸送船へと向かっていく。
「……くそっ!」
本来ならば、ここで万事休す、のはずであった。
だが、上空より飛来する二つの影が輸送船の運命を覆すことになる。
白と赤に彩られた水上機、生田機と宮本機であった。
「天の助けか――ッ」
2機は上空を蛇行しながら、雷跡に7.7mm機銃を浴びせ始める。
だが、それでも魚雷は反応しない。
既に2機の高度は50メートルを切っており、何時墜落してもおかしくない位置を飛んでいる。
そんな中で、生田機が更に高度を下に取った。
高度10メートル以下。
低速域でも粘り強い飛行を見せる、マッキにのみ許された芸当であった。
生田機はゆらゆらと機体を揺らしながら、駄目押しとばかりに雷跡に向けて銃弾を放つ。
7.7mmの弾丸が水中へと突き刺さり、やがて大きな二本の水柱が上がった。
「神業だ……」
ため息の出るほど凄まじい働き振りであった。
しかし、その働きの代償は大き過ぎるほどに大きい。
生田機は――、水柱の一つに主翼を取られて海面へと叩きつけられてしまうのであった。




