1932年3月 呉港にて
呉港、川原石桟橋の手前にて千早が海面に釣り糸を垂らす様子を、係船柱にて羽根を休めるアオサギがじっと見つめている。
お前にあげる魚はないんだぞと睨んではみたものの、一向に立ち去る様子がない。このふてぶてしい水鳥は全く人に慣れているようだった。
せっかくの成果を銀バエされてはたまらんと思い、追い払わんと立ち上がったところで、
「失礼。宮本千早予備役少尉でありますか?」
ふと千早に声をかけてきた三人の男たちがいた。
黒い軍帽に詰め襟、いわゆる第一種軍装で身を固めているところを見ると海軍軍人であるのは間違いない。
中央の青年が歩み出る。階級章を見るに千早と同じ少尉であることは明白であったが、生憎その顔には見覚えがなかった。
「確かに小官は宮本に相違ありませんが、貴官は?」
釣りざおを置き敬礼を返しながら問いかけると、青年は思い出したかのように声を上げ、
「兵学校59期卒の石岡であります。少尉のことは古賀中尉より伺っておりました」
「古賀中尉でありますか?」
「古賀清志です。56期の」
「ああ、2号生徒の……」
ようやく合点がいった。
千早は海軍兵学校55期卒であったが、確かに兵学校の一学年後輩に古賀姓の青年がいたなと思い出し、苦笑する。
「もう階級を抜かされたのか」
慣例上、海軍の出世速度は兵学校時代の成績順になっている。いわゆるハンモック・ナンバーというものであった。
千早の兵学校時代の成績は並より少し下といったところだ。
元々、エリート中のエリートのみが通うことを許される兵学校に受かったこと自体が望外の極みであったのだが、こうもぱぱっと抜かされてしまっては複雑極まりない。
「59期ってことは、56期の高橋赫一に鉄拳を食らったクチかい。あの世代は"修正"が流行ったからなあ」
兵学校時代の躾教育は、世代によって個性が出る。
鉄拳制裁なぞ旧時代的だと理を持って説く世代もあれば、失敗を身体に染み込ませてこそ初めて人は物を覚えるのだと力説する世代もある。
"修正"の風潮は当代の恩師や兵学校の最上級生――いわゆる1号生の影響を多分に受けるものだ。
千早の世代は校長や教官が巷に蔓延する自由主義の風潮を受けて、鉄拳制裁に批判的であった。
「高橋1号生徒には厳しくしていただきました。今の我々があるのも彼ら56期卒のおかげであります」
石岡の顔に年齢相応の晴れやかな笑顔が浮かび、
「宮本少尉のことは人品卑しからぬ、古武士のような御仁と伺っておりました」
その邪気のない言いように千早は困ったように笑う。
「石頭って皮肉か、それ」
「いえ、敬愛の念であります」
嘘を感じない声色だった。
どうやら、この石岡なる人物は多分に実直な人柄であるようだ。
それから随伴の下士官も交えた雑談を4人は花開かせた。
「英語の平賀先生は息災なんだろうか」
「そこらの軍人より軍人らしい敬礼を返しますよ。今じゃ艦長扱いです」
こんな風に、と石岡が恩師の敬礼を茶化して真似る。
「芸者小屋遊びは?」
「恩賜組の浅水生徒がMMK(モテてモテて困る)でありました」
そりゃあ、羨ましいとくつくつ笑う。
「芸者遊びじゃありませんが、予備役小尉も随分と娑婆っ気のある格好をしておりますな」
「今日は釣りをするだけだったからなあ。どうだ、潮っ気も抜けているように見えるか?」
「海釣りで潮気は抜けませんよ」
こうして他愛もない雑談に興じていると、同じ兵学校卒にしか分からないネタというのは至極便利だと感じる。
先ほどまで顔も知らなかった相手でも、「こいつは仲間だな」と強く意識させる効果があるのだ。
事実、千早は目の前の青年たちにかなりの好印象を抱いていた。
しばしして、舌の根が十分暖まった頃合いに、
「……上海での空戦の詳細。耳にしました」
石岡は急に苦々しい顔つきで切り出した。
「先月の上海事変かあ」
あまり、思い出したくない戦いだった。
味方に出た犠牲も少なくなかった。だが、それ以上にほんのわずかばかりの仲間意識を共有した西洋人の姿が瞼にちらつくのだ。
彼のことは先日、米国人義勇軍であったことを新聞で知った。
確か名前はロバート・ショートと言ったか。
「件の戦いによって我々は貴重な人材を失いました。航空母艦"加賀"攻撃隊の小谷隊長、そして藤井少佐……。我が海軍航空隊初の戦死者であります」
「うん」
名前の挙がった二人とも知らない間柄ではなかった。
小谷進隊長率いる"加賀"攻撃隊は、上海事変において国民党軍へ爆弾攻撃を行う任務に従事していたが、いざ敵軍目の前といったところで国民党軍のO2Uコルセア、そして米国人義勇兵の駆る最新鋭戦闘機――F4Bボーイングの奇襲攻撃を受けてしまったのだ。
「小谷さんは勇敢で統率力のある軍人だった。藤井さんも理屈屋なところが玉にキズであったが、いざという時には腹の決まる良い男だったな」
「宮本さん。貴方は被弾した彼らを助けようとなさいました。自らの駆る三式艦上戦闘機を敵機にぶつけてまでして……」
大和魂だ、模範ある軍人だのと下士官たちによる賞賛の声が後に続く。
千早は何とも言いようのない居心地の悪さから、顔をしかめて明後日の方向へ向いた。
いくら持ち上げられようと味方を助けられなかったことに変わりはないからだ。
「今、世間では帝国初の航空戦果に沸いていますよ。アジア人がアメリカ人を撃ち落としたってね。けど、戦果を共同で成した航空士の中に貴方の名前はなかった」
「そりゃあ仕方がない」
「仕方がない? 仕方がないって何ですか」
千早は頷いて、自分へと詰め寄ってくる彼らに続けた。
「俺の三式艦戦はエンジンの復旧ができず、敵陣真っ直中に落ちちまったからな。あの時には陸軍にも迷惑かけてしまった。それに……」
理由は思いつく限り無数にあるが、それでも千早はそれ以上口にしようとしなかった。
身内の派閥争いなんぞ賢しげに口外して気持ちのいいものではない。
「結局のところは上の面目じゃあないですか。宮本さん。貴方は犠牲になったんだ。貴方だけじゃあない。政府に政治家。軍上層部、財閥の見栄と欲が我々の努力と愛国心を踏みにじっているんですよ。彼らだってそうです」
石岡は随伴の下士官に目をやった。
「彼らが久々に郷里に帰りましたらね。仲良くしていた幼なじみがいなくなっていたそうですよ。何処に行ったと思います? 置屋ですよ。商売女として身売りですよ。この御時世に! 我々の滅私奉公を無駄にしているのは一体誰なのか!」
熱の籠もった石岡の演説に下士官の沈痛そうな面持ちを見て、千早は低く唸る。
彼の語ったことは、この御時世だからともいえた。
この国は震災に金融危機、世界恐慌などのあおりを受けて、死に体といって良いほどに疲弊している。
どこもかしこも不景気な話題には事欠かないのが現状だ。
軍は天皇の藩屏であると同時に、臣民にとっての楯でもある。彼らの無念は痛いほどに分かった。
「我々はやりますよ。宮本さん。この国は古来より"御維新"によって御国を立て直してきたんです。次もきっと上手くいきます」
「"御維新"……?」
その言葉に千早は言いようのない"きな臭さ"を感じ取った。
古くは中大兄皇子による乙巳の変。壬申の乱。後醍醐天皇、足利尊氏による倒幕運動。そして明治の"御維新"。その全てに共通する点はただ一つだ。
千早は先月世間を震撼させた事件を思い出した。
時の大蔵大臣、井上準之助と三井財閥の実力者、団琢磨が国粋主義者に襲撃され、命を落としたテロ事件である。
「あんたたちは……」
喉が乾くのを自覚する。
もし……。みだりに続く言葉を口にしてしまえば、彼らとの関係は良きにせよ悪しきにせよ決定づけられてしまう――。そんな確信があった。
一瞬の沈黙が訪れる。
向き合うべきか、見て見ぬ振りをすべきか。悩んだ末に出した結論は、新たな闖入者によって一旦据え置きにされることと相成った。
「何だ、帰郷していたのか」
背にかかる懐かしくも小憎たらしい、皮肉げな声色に千早はハッとする。
振り返ってみれば、スリーピースのスーツを纏い、頭には瀟洒な中折れ帽。旅行鞄を手に持った、細面の男が立っていた。
「中地! お前、中地要かっ。中学校以来だな、おい」
旧来の幼馴染に駆け寄って、千早はその肩を思いきりはたいた。
「……君の粗野ぶりは相変わらずのようだ。フレキシブルな紳士を作ると息巻く兵学校も、流石に君の矯正はかなわなかったらしい」
痛そうに顔を歪めながら、要は千早を上から下までじろりと見る。
「その格好、何時から太公望に職を転じたんだ」
「俺が軍師に見えるのか」
「三年寝太郎が精々かな」
「果報は寝て待てと言うだろう。太公望も寝太郎もやってることは変わらん」
打てば響くような応酬に懐かしさを禁じ得ない。
千早は興奮が冷めるまで機関銃の如く級友に捲し立て、我に返った瞬間、石岡たちとの話の腰を折ってしまったことに気がついた。
石岡はばつの悪そうに言葉を失う千早を見て、苦笑いを浮かべる。
「……旧友との縁は大事にせねばなりません。また折を見て伺いましょう」
「すまないな」
「いえ、それでは」
敬礼に敬礼を返すと、石岡たちは呉鎮守府ではなく呉駅のある方へと去って行った。
「……彼らは?」
「兵学校の後輩らしい。どうやら俺に話があるようだが、詳しくは聞いていない」
「そうか。ろくでもないことじゃないことを祈っているよ」
その辛辣な物言いに失笑する。
「相変わらずの軍嫌いだな。なら、支持政党は」
「民政党に決まっている」
「そりゃあ、そうだ」
千早は彼と話が合いそうな知り合いを脳裏に思い浮かべる。
今はどうしているだろうか。先月付けで軍令部長を退いているはずだが、まだ引き継ぎの関係で帝都に残っているかもしれない。
「ボウズかな」
要が腰をかがめて、地面に置いていた魚籠を覗きこむ。
「勝手に覗くな。ボウズじゃない」
中には雑魚が2匹ほど収まっていた。
いくら雑魚だろうが、成果には変わりない。千早は口を尖らせながら、要を睨みつけた。
「んで、お前はどうして広島に帰ってきたんだ。大学はどうした。まだ天文学やっているんだろう?」
要は中学校卒業後に岡山の第六高等学校へ入学し、そのまま京都帝国大学へ進学したはずだ。
いわゆる、エリート中のエリートという奴である。
要は「うん」と一呼吸開けた後、
「今年でようやく卒業できた。4月からは国立天文台の助手になる予定なんだが、その前に実家へ帰っておきたくてね。そう言う君は何故、太公望に転職なんぞを?」
言葉に詰まる質問であった。
身内の恥を晒すのも忍びなく、千早は「ちょっと任務でしくじってしまってなあ。今は予備役だ」とお茶を濁すだけでとどめようとする。
が、要はその反応だけで大概を悟ってしまったようであった。
「本来、軍人の年功序列は筋金入りだろう。相当の怪我や不祥事でもなければ、君の歳で予備役入りなぞありえない。派閥人事だな? それも"閣下"がらみの話だ」
「……参ったな」
こめかみに手を当て、ため息をつく要の答えに千早は舌を巻いた。
「確かに谷口大将の派閥がらみだよ。だが、決して他言しないでくれよ?」
「僕が得にもならないことをするはずがない。しかし、君が予備役に回されるということは負けたんだな」
「"神様"に目をつけられてなあ」
両親のいない千早は親の縁から海軍大将、谷口尚真に物心つく前から可愛がられていた。
実家への下宿を許され、学費の面倒も見てもらい、兵学校の卒業式には保護者席に座ってもらうほどの目のかけられっぷりである。
当然、海軍内では谷口派閥の若造という立ち位置で認識されてしまっている。
これが今回の派閥人事に影響を与えていた。
谷口は国際協調を掲げる"条約派"の筆頭であり、米国を仮想敵国とする"艦隊派"にとって不倶戴天の敵といえる。
近年行われたロンドン海軍軍縮条約の批准についても軍部内で意見調整に奔走し、多くの軍人の反感を買っていた。
ちなみに"艦隊派"の筆頭は日露戦争の英雄、東郷平八郎である。
谷口と東郷。共に日清と日露の二つの戦争を知る古豪であったが、彼らはまさに犬猿の仲、水と油であった。
面と向かえば、左は「老害」右は「弱腰」
どちらの姿勢が正しいかは議論の余地があるとして、人気があるのは当然"軍神"としてもてはやされる東郷である。
軍縮とは軍に関わる予算の削減――。いわゆる首切り人事であるから、当然首を切られる軍人にとって面白いものでは決してない。
名声に劣り、軍政においても不人気の谷口が更迭されるのは自明の理であった。
「……軍縮の絡み。"神様"は打ち出の小づちをお持ちのようだ。秘密の宝部屋を開く合言葉は統帥権か、君側の奸か」
「要、それ以上は勘弁してくれ」
ここは広島。呉である。
海軍の膝元でこれ以上の暴言はいかにもまずい。
要は一応制止を受け入れてくれたが、肩をすくめて皮肉げに笑った。
「折角の再会だが、興が冷めてしまったな。この不景気に料亭で呑むのもちと気まずい」
お前のせいだろうと思わなくもないが、千早は黙って合わせることにした。
今日は趣味である剣術や弓の鍛錬もせず、一心に釣りを楽しむことに決めていたのだ。
下宿先に帰って、雑魚を食べながら月見というのも乙なのもだろう……。
そんなことを考えていると、
「だから今日はうちの別荘で天体観測でもしようじゃないか」
にっこりとそう続けてきた。
「妹も君に会いたがっているはずだし、折角の帰郷に同好の士がいないのもいかにも味気ない。この再会は奇縁だと考えるべきだ。違うかい?」
「うーん」
中地要という男は根は善良で、頭の回転も速いのだが、自論の展開中には人の話を聞かなくなるという致命的な欠陥を持つ。
こいつはこうなると天変地異を持ってしても結論を変えようとしない。
長い付き合いで彼をよく承知している千早は、肩を落としながらも是と答えた。
別荘への道中、千早は先ほど要の言った言葉を反芻する。
「打ち出の、小づちなあ」
そんなものがあれば苦労しない、と千早は笑った。




